放課後になっても、Cクラスの生徒は一人も教室を出られずにいた。
帰りのホームルームが終わると同時に、龍園翔が全員に残るよう命じたからだ。
帰り支度を済ませた鞄が、机の横に掛かっている。
教卓の前に立つ龍園が、教室を見渡した。
「体育祭の時、俺のところに録音が届いた」
伊吹が、壁際から声を上げた。
「録音? 何よそれ」
「聞けば分かる」
龍園が携帯を操作する。
教室に、彼自身の声が流れた。
堀北を潰すための指示。
ここにいる生徒たちも聞いていた、作戦の説明だった。
再生が終わるまで、話し声は一つも上がらなかった。
龍園が再生を止め、携帯を教卓に置く。
伊吹は、まだその端末を見ていた。
「これ、誰が送ってきたのよ」
「名乗る気はねぇらしい。だが、録った奴はこの中にいる」
教室がざわついた。
誰かが隣の席を見た。それにつられたように、別の生徒も周囲へ目を向ける。
「これが外に出たせいで、鈴音からポイントを巻き上げる話も潰れちまった」
龍園が教室を見渡す。
「クク。随分と舐めた真似してくれるじゃねぇか」
教室のざわめきが収まった。
「全員、携帯を出せ」
机の上に、次々と携帯が置かれた。
携帯の確認は、石崎たちによって進められた。
ただ、私生活のやり取りまで見せることに抵抗し、履歴や写真の一部を伏せる生徒もいた。
中身を見せること自体を拒む者もいたが、石崎がそれ以上の確認を求めると、龍園は「そこまででいい」と止めた。
見せなかった部分を問い詰めることも、無理に携帯を取り上げることもなかった。
伊吹が、教卓のそばで声を落とす。
「全部見てない奴もいるけど」
「だからどうした」
「......それでいいわけ?」
龍園は答えず、教室をゆっくりと見渡した。
やがて、龍園が生徒たちに帰るよう告げる。
椅子が引かれ、鞄を持った生徒が次々と扉へ向かった。
「真鍋。お前は残れ。藪と山下、お前らもだ。金田、お前も残れ」
席を立ちかけていた真鍋志保の動きが止まった。
鞄の持ち手を握り締め、ゆっくりと椅子に座り直す。
藪菜々美も、山下沙希も、その場から動けなかった。
金田は鞄を机に戻し、教卓の脇へ移動した。丸く切り揃えた前髪の下から、眼鏡越しに真鍋たちを見ている。
最後の生徒が出ていくと、アルベルトが扉を閉めた。
真鍋の近くの席へ、藪と山下が座らされる。どちらも真鍋を見ようとしなかった。
「真鍋。さっきから何を気にしてやがる」
名前を呼ばれた瞬間、真鍋の膝が机の裏に当たった。
小さな音がした。真鍋は反射的に龍園を見上げ、すぐに視線を落とす。
「......な、何も......」
「こっちを見ろ」
顔を上げようとした。
けれど、教卓に腰を預けた龍園と目が合うと、また顎が下がってしまった。
「携帯を見せなきゃ、バレねぇとでも思ってたか?」
真鍋の指が止まった。
「そもそも、体育祭の日に鈴音から見せられた映像に、お前が映ってたんだよ」
真鍋の口が、半ば開いたまま止まった。
「映像って......さっきの録音とは違うの?」
伊吹が眉を寄せる。
「こいつが俺の作戦をベラベラ喋ってる映像だ。さっきの録音とは別の場所でな」
伊吹の視線が真鍋へ動く。
真鍋は何も言えず、龍園を見上げていた。
「お前が情報を漏らしたことは、携帯なんざ見る前から分かってんだよ。それに、さっきの録音を聞かせた時から、まともに俺を見られてねぇだろ」
「じゃあ何のために携帯を調べたのよ」
伊吹が問い返す。
龍園は真鍋を見たまま、口元を歪めた。
「自分から名乗り出る機会をくれてやったんだよ。最後まで黙ってやがったがな」
真鍋は口を開きかけ、閉じた。
机の下で、両手を握り合わせた。指先が冷たいのに、手のひらだけが湿っていた。
「録音は誰に頼まれた?」
「......っ」
「答えろ」
「わ、私は......その......」
映像のことは、もう誤魔化せない。
だが、録音まで自分がやったと認めれば、龍園がどうするか分からなかった。
携帯の中身は見せていない。
まだ録音のことは誤魔化せる。そう思おうとしたが、龍園と目が合うたび、言葉が喉で止まった。
「......ごめんなさい」
「何を謝ってんだ?」
真鍋は唇を噛んだ。
伊吹が、真鍋から龍園へ視線を戻す。
「......その映像、誰が撮ったの?」
「坂柳だろうな」
「映ってたの?」
「映ってねぇよ。だが、あれだけ首を突っ込んできたうえに、心音ともつるんでる。真鍋に喋らせて、鈴音に送りつける。あの女が関わってると考えりゃ、話が通る」
龍園の口元が吊り上がる。
「クク。俺が気づくところまで、計算に入れてやがるんだろうよ」
龍園は真鍋へ視線を戻した。
「今聞いてるのは、俺の携帯に届いた録音の方だ。誰に頼まれた?」
「......あ......」
「真鍋」
真鍋は顔を上げた。
この場で何を話せばいいのか、分からなくなっていた。
龍園に知られたことが、綾瀬にまで伝わってしまったら。
「......綾瀬さんには、言わないで......」
「何をだ?」
椅子が後ろへ滑った。
真鍋は立ち上がりかけたまま、机から身を引く。背後の椅子に足が引っかかり、藪が咄嗟に手首を掴んだ。
「今のこと......お願いっ、黙ってて......!」
藪自身も腰を浮かせていた。
膝から鞄が落ちたが、拾おうともしない。
山下も何度も首を振っていた。
「私たち、もう何もしてないから......!」
石崎が三人を見回す。
「おい、落ち着けって。何をそんなに────」
「やめるって......ちゃんと、綾瀬さんに約束したの......!!」
真鍋の声が裏返った。
藪の手を握り返し、龍園を見たまま必死に首を振る。
石崎の口が、半ば開いたまま止まった。
壁に寄りかかっていた伊吹も、背中を離していた。
扉の前のアルベルトが、組んでいた腕をほどく。三人を順に見てから、龍園へ目を向けた。
「......綾瀬と、約束?」
問い返しても、真鍋は伊吹を見なかった。
「もうしないから......何も、してないから......お願い......!」
「一人で喋ってんじゃねぇ。こっちを見ろ」
龍園の声に、真鍋の唇が止まった。
視線を上げたが、すぐに顎が下がってしまう。
「俺が聞いてんのは、録音をさせた相手だ。座れ」
真鍋は膝の裏に触れていた椅子を手探りし、腰を落とした。
藪も座り直す。落とした鞄には手を伸ばさず、真鍋の手首だけを握っていた。
山下は俯いたまま、声を殺して泣いている。
「お前、あいつに何をされた?」
真鍋は唇を動かした。
最初は、息しか出なかった。
「......か、肩......」
「肩?」
「掴まれて......でも......」
右肩を押さえる手に力が入る。
折られてはいない。
殴られてもいない。
ただ、肩を掴まれただけだった。
それなのに真鍋は、振り払えなかった。逃げようとも思えなかった。綾瀬が手を離してくれるのを、待つことしかできなかった。
四肢を壊す。心を壊す。新しい部品に取り替える。
怒鳴られたわけではない。憎まれていると告げられたわけでもない。
綾瀬は、真鍋たちのためになるのだという口調で、それを話した。
やめると約束したら、手を離してくれた。
次も同じように済むとは限らない。
「軽井沢には......もう、何もしてない......!」
息を吸いそこね、声が途切れる。
「本当に......あれから、一度も......だから......」
藪が何度も頷いた。
山下も濡れた顔を上げる。何か言おうとしたが、唇が震えるだけだった。
「だから心音には黙ってろ、か」
「お願い......本当なの......信じて......!」
真鍋は右肩を抱え込むように身を縮めた。
石崎が伊吹を見た。
「......綾瀬さん、の話だよな?」
「そう言ってるでしょ」
伊吹も、眉を寄せたままだった。
「いや......分かってるけどよ......」
石崎はもう一度、真鍋を見た。
肩を掴まれたというだけでは、目の前の有様にどうにも説明がつかない。
藪も山下も泣いている。真鍋に至っては錯乱状態だ。宥めようにも、どこから声をかければいいのか分からなかった。
「......あいつら、綾瀬に何したのよ」
伊吹が小さく呟いた。
石崎は答えられず、教卓の前へ視線を戻す。
「余計な口を挟むな。話が進まねぇ」
龍園だけが、変わらず口元に笑いを残していた。
龍園が机の端に手をつく。
真鍋は、その手が自分の方へ伸びてこないことを確かめてから、ようやく顔を上げた。
「心音には、軽井沢から手を引けと言われたんだな」
「......言われました......」
「俺は今、お前に軽井沢へ何かしろと命じてるか?」
真鍋は首を横に振った。
「だったら、聞かれたことだけ答えろ。誰に録音をさせられた?」
「......分からないんです......」
龍園の目が細くなる。
真鍋は慌てて首を振った。
「本当に......名前も、知らなくて......写真を......」
「写真?」
「私たちが、軽井沢を虐めてた時の写真......言う通りに、しないと......広めるって......」
「何で軽井沢を狙った」
「リカが......軽井沢に、酷い扱いを受けてたから......仕返しを、しようと思って......」
「それで俺たちの作戦会議を録音した」
「ごめんなさい......」
「録音したんだな?」
「はい......」
認めてしまった。
真鍋は龍園の顔を見たまま、次の言葉を待った。机の下へ引き込んだ足に力が入る。立ち上がれと言われるのか。石崎に引っ張り出されるのか。
だが、龍園が聞いたのは別のことだった。
「他には何を教えた」
「クラスのことを聞かれた......」
真鍋は俯いた。
従うしかなかった。そう言いたかったが、それが龍園に通じるとは思えない。
「消してくれるって......」
「何をだ」
「言う通りにしたら......写真を......」
「消したかどうか、お前に分かるのか?」
真鍋は首を横に振った。
分からない。
確かめようがないことくらい、分かっていた。
それでも従えば、少なくとも今は広められない。そう思うしかなかった。
写真が広まれば、軽井沢はまた傷つく。
それを知った綾瀬が、もう嫌がらせをやめたという真鍋の言葉を信じてくれるだろうか。
あの時、綾瀬は真鍋たちをまだ味方だと言った。
もし、そうではなくなったら。
「もう、嫌......」
言葉が漏れた。
真鍋は慌てて口を閉じたが、龍園は聞き逃さなかった。
「何が嫌なんだ。俺か?写真を持ってる奴か?」
答えられないまま、肩を押さえ直す。
龍園はその動きを見下ろした。
「心音、か」
真鍋が、また大きく首を振った。
「もうしない......何もしないからっ......!」
何もしないと、すでに約束した。
守っている。それなのに、同じ言葉を繰り返さずにはいられなかった。
綾瀬には伝えないと、一言だけでいいから言ってほしかった。
龍園は、その一言を与えない。
「相手が誰だか分からねぇのはいい。だが、分かってることまで隠すな」
真鍋は唇を引き結び、頷いた。
「次に連絡が来たら、すぐ俺に知らせろ」
「すぐ、知らせます......」
龍園は藪と山下にも視線を向けた。
二人とも、何も言わずに頷いた。
「その写真が撮られた時、周りに誰かいなかったか」
真鍋は唇を開いた。
誰がいたのか。どこから撮られたのか。
問いの意味は分かる。けれど、あの時の光景を思い返そうとしても、龍園と目が合うたびに頭の中が真っ白になった。
視線を落とせば、今度は自分の肩を掴んだ綾瀬の顔が浮かんでくる。
「わ、分からない......」
「考えろ。何か見てねぇのか」
真鍋の肩が縮こまった。
「ごめんなさい......ごめんなさい......」
あの日、周囲に誰がいたのか。そんなことを考える余裕など、今の真鍋にはなかった。
次に何を言われるのか。綾瀬に何が伝わるのか。そのことばかりが頭の中を行き来していた。
龍園は返事を待っていたが、真鍋は俯いたまま唇を震わせるだけだった。
「ちっ......これじゃ話にならねぇな」
龍園はしばらく三人を眺めたあと、机から手を離した。
「お前らは帰っていい。余計なことは喋るなよ」
すぐには動けなかった。
「聞こえなかったか?」
龍園の声に、真鍋は慌てて携帯を取った。
湿った指が滑り、端末の角が机に当たる。落とす前に両手で抱え、椅子から立ち上がった。
藪が足元の鞄を拾い、山下と一緒に半歩遅れてついてくる。
アルベルトが扉の前から脇へ退く。
扉に手をかけた真鍋は、まず廊下を覗いた。誰もいない。
「真鍋」
背後から呼ばれ、三人とも足を止めた。
「次はねぇぞ」
真鍋は振り返り、何度も頷いた。
龍園がそれ以上何も言わないことを確かめてからようやく教室を出る。
教室では、石崎が閉じた扉を見ていた。
「......何だったんすか、今の」
龍園は答えず、真鍋が座っていた席を眺めている。
「綾瀬さんに知られるのが、そんなに怖いのかよ......」
石崎は頭を掻き、伊吹を見た。
「お前、何か聞いてんのか?」
「知らない。知ってたらあんな反応してないでしょ」
「......だよな」
石崎はまた扉を見た。
「綾瀬さんが、理由もなくあんなふうに怖がらせるとは思えないんすけど......」
「軽井沢を虐めてたから、綾瀬に止められたんでしょ」
「だからって、あそこまでなるか?」
伊吹は答えなかった。
腕を組み直し、真鍋が座っていた椅子に目を向ける。
綾瀬の強さなら、二人とも知っている。
けれど、いつもあれほど無防備な顔をしている少女の名前を、泣きながら口にする相手を見るのは初めてだった。
「アルベルト。お前なら、何か分かるか?」
アルベルトはすぐには答えなかった。
真鍋たちが出ていった扉を見てから、ゆっくりと首を横に振る。
その眉間にも、わずかに皺が寄っていた。
「......お前もかよ」
石崎が息を吐く。
「龍園さんは、何か知ってるんすか?」
「クク。あいつらが心音にビビってる理由か?今ので全部分かったとは言えねぇな」
龍園は口元に笑いを残したまま、教卓の脇を見た。
「金田。今の話、どう見る?」
「綾瀬氏が、全てを裏で動かしているとは考えにくいですね」
それまで黙っていた金田が口を開いた。
眼鏡を押し上げ、教卓に腰を預けた龍園を見る。
「なぜだ?」
「真鍋氏の話では、綾瀬氏は軽井沢氏への嫌がらせをやめさせたようです。一方、写真を持っている相手はそれを広めると脅して、こちらの情報を取っている」
金田は一度言葉を切った。
「軽井沢氏を庇った人物が、今度はその写真を脅迫に使う。少々不自然ではありませんか」
「実際には広めるつもりがなかったのかもしれないじゃない」
伊吹が口を挟む。
金田は頷いた。
「その可能性はあります。ただ、映像の件では綾瀬氏の関与が分かっているうえに、龍園氏は坂柳氏の関与にも見当をつけている。録音の送り主は、真鍋氏にすら正体を明かさず、写真を使って情報を引き出しています。やり方も随分違うように思えますね」
「じゃあ、別の奴だってことか?」
石崎が尋ねる。
「断定はできません。ですが、真鍋氏たちが綾瀬氏を恐れているからといって、録音も彼女が仕組んだとは限らないでしょう」
金田の視線が、空いた3つの席へ動く。
「怯え方は尋常ではありませんでした。だからこそ、彼女の名前が出るだけで何もかも彼女の仕業に見えてしまうのではないかと」
石崎は口を閉じた。
伊吹も、腕を組んだまま金田を見ていた。
「クク。まあ、心音が写真でこそこそ脅すってのは、似合わねぇな」
龍園が携帯を取る。
「だが、心音が全部を考えたんじゃなくても誰かに話を吹き込まれて動いた可能性はある」
金田が、わずかに顎を引いた。
「誰が彼女に話を通したのか、ということですか」
「そこまで調べてからだ。心音を外すのはな」
アルベルトが低く息を吐いた。
石崎はその顔を見たが、何も聞かなかった。
「石崎。軽井沢の周りを調べろ。普段、誰とつるんでるかだ」
「軽井沢ですか?」
「ああ。写真を持ってる奴との繋がりがあるかもしれねぇ」
「ですが大丈夫ですかね......さっきの、綾瀬さんのこともありますし......」
「心音のことなら任せておけ。何とかしておいてやるからよ」
石崎が頷く。
龍園は続けて伊吹を見た。
「伊吹。お前は心音を探れ」
「......何を聞いてこいって?」
「誰とつるんで、誰の話を聞いて動くのか。あいつらとのことも、聞けるなら聞いてこい」
「本人に聞けばいいでしょ。あんた、仲いいんだから」
「俺からも聞いてやる。その前に、お前の方から見えるもんも知っておきたい。普段通りに会ってこい」
龍園は、三人が出ていった扉へ視線を向けた。
「心音が何をしたのか。あいつらが何を見て、あそこまでビビったのか。確かめてこい」
伊吹は携帯を取り出した。
綾瀬の連絡先は、すでに登録されている。
「......分かった。でも、あんたの欲しがる話が出てくるとは限らないからね」
「拾えたもんだけでいい」
伊吹は鞄を掴んだ。
画面に並ぶ連絡先から綾瀬の名前を探し、指を止める。
顔を上げ、真鍋が座っていた方へ目をやる。
机の下から椅子が引かれたままになっていた。
伊吹は眉を寄せ、画面を閉じた。
教室を出てからも、私は真鍋たちの様子が気になっていた。
名前が出ただけで、あそこまで怯える。
真鍋は肩を掴まれたと言っていたけど、それ以外にも何をされたのかは結局よく分からないままだった。
普段通りに会ってこい、か。
簡単に言ってくれる。
こっちは綾瀬に会うたび、何かしら驚かされてるっていうのに。
携帯を取り出し、綾瀬とのチャットを開いた。
『今日、部屋行っていい?』
昇降口まで歩く間に、返事が来た。
『いいよ。修行する?』
『する』
短く返して、携帯をしまう。
龍園のために探りを入れるなんて面倒だけど、私だって気になっていた。
あの三人を泣かせた綾瀬から、私には「修行する?」なんて返事が来る。
どうにも、それがうまく繋がらない。
寮に戻り、自分の部屋へ鞄を置いた。
制服から動きやすい服に着替え、もう一度廊下へ出る。
エレベーターで綾瀬のいる階へ向かう間、さっきの返事を見直した。
修行。
そっちも、当然やるつもりだった。
わざわざ部屋まで来て、龍園の用事だけ済ませて帰るなんて馬鹿らしい。
目当ての扉の前で、チャイムを押す。
少し待つと、内側から鍵の開く音がした。
「伊吹、来たんだ」
「連絡したでしょ」
「うん。どうぞ」
綾瀬が扉を開け、身体を横へずらした。
薄手の部屋着から出た腕は、いつ見ても凄まじい力を出す腕とは思えない。
真鍋の肩を掴んだのも、この腕なんだろう。
部屋に入り、靴を脱いだ。
低いテーブルにはお菓子の袋が置かれ、その横にはノートと問題用紙が広げられている。
「勉強してたの?」
「うん。ちょっとだけ」
「邪魔だった?」
「大丈夫。もう分からなくなっちゃったから」
綾瀬は問題用紙をノートに挟み、テーブルの端へ寄せた。
「今日も、音を聞くやつ?」
「それ。あんたの言う気配って、まだ全然分かんないし」
「うん。でも伊吹、試験では敵になるかもしれないよね。こうやって会っても、大丈夫?」
「今回の試験、私は蚊帳の外だから大丈夫よ」
綾瀬が少し首を傾げた。
「問題を作ったり、相手のクラスに何するか考えたり。そういうのは龍園たちがやるの。私は試験を受ける方だけで手一杯」
探りを入れろとは言われたけど、試験の作戦まで聞かされているわけじゃない。
そっちは、聞かれたところで何も答えられない。
「そっか。じゃあ、修行はしてもいいんだね」
「私が強くなりたいから来てるの。あいつにいちいち許可なんて取らないわよ」
「うん。じゃあ、少しテーブル動かそう」
綾瀬がテーブルの片側を持つ。
私も反対側を持って、壁際へ寄せた。
これで、部屋の真ん中に少し場所ができる。
最初に教えてくれと言ったのは、音の聞き方じゃなかった。
綾瀬は、相手を見ていなくても近づかれたことに気づく。こっちが不意を突こうとしても、あっさり見抜かれる。
どうやって分かるのか聞いた時、綾瀬は当然みたいな顔で答えた。
『気配で分かるよ』
『だから、その気配をどうやって探るのよ』
『近くにいる感じがするの。何かしてこようとしてる時も、分かる』
『その感じが分かんないから聞いてんでしょ』
私も目を閉じてみたけど、綾瀬がどこにいるかなんて分からなかった。
しばらく待ってから目を開けたら、すぐ隣に座っていて、こっちが驚かされたぐらいだ。
『じゃあ、まずは音を聞いてみよう』
『音?』
『足が動く音とか、服が擦れる音。私の気配が分からなくても、音なら聞こえる時があるから』
『それなら、目を開けてればいいじゃない』
『うん。後で目も使おう。今は、音だけで何が分かるか試してみて』
後で椎名と話した時、なんとなくその説明をしてみた。
目を閉じて、綾瀬が歩いたり服を動かしたりする音を聞く。聞こえた方を向いたら、もう別の場所にいることもある。そんな話をしたら、椎名は頷いた。
『音を手がかりに、相手の位置や動きを判断する練習なんですね』
『足音がした方を見るだけじゃ駄目らしいんだけど』
『どこで鳴ったかだけでなく、その後にどう動いたかも考える、ということでしょうか。見えていると、つい目で確かめてしまいますから、最初は音に集中するんですね』
綾瀬の説明よりは分かった気がした。
ただ、分かったことと、できるようになることは別だ。
「伊吹、そこに立って」
部屋の真ん中に立つ。
綾瀬は私から二歩ほど離れた。
「目、閉じて。分かったら、そっちを向いてみて」
「分かってる」
瞼を下ろした。
綾瀬は何も言わない。
足の裏が床を擦る、小さな音がした。
左だ。
そちらへ顔を向ける。
「ここ?」
答えを待つ間に、また服の擦れる音がした。
「......あ、後ろ?」
「うん。目、開けていいよ」
振り返ると、綾瀬は少し斜め後ろに立っていた。
「最初、左にいたでしょ」
「うん。でも、伊吹がこっちを向く時には動いてた」
「あんたが速すぎるのよ」
綾瀬は少し首を傾げた。
まだゆっくりやっているつもりなんだろう。そういうところが、いちいち腹立たしい。
「もう一回」
「うん」
目を閉じる。
さっきの場所を思い浮かべかけて、やめた。
今聞こえる音だけを追う。
廊下から、誰かの話し声がした。
それに気を取られた間に、近くで衣擦れの音がする。
顔を向けると、別の方から床を踏む音がした。
「......ちょっと待って。分かんなくなった」
「うん。目、開けて」
綾瀬は右前にいた。
思っていたより近い。
「途中、足音がしない時があったんだけど」
「足を動かしてない時もあるよ」
綾瀬が片足を前に置いたまま、上体を少し傾ける。
部屋着が擦れる音がした。
「ああ......さっきの、それか」
「うん。今度は、見ながら聞いてみて」
同じ動きをもう一度見せてもらう。
聞こうとしていなければ、気にもしなかったような音だった。
「音がした時にはもう動いてるってことね」
「うん。何が聞こえたか、少しずつ覚えていこう」
簡単に言ってくれる。
でも、何も分からないまま気配を感じろと言われるよりは、まだやることが分かる。
それから何度か続けた。
向きを間違えることもあったけど、綾瀬が近づいたことには少し気づけるようになった。
もちろん、その後に何をしてくるかまで分かるわけじゃない。
「少し休もう。水、飲む?」
「飲む」
コップを受け取り、壁際に寄せたテーブルの前へ座った。
綾瀬も隣に座り、お菓子の袋を引き寄せる。
「伊吹も食べる?」
「後でいい」
「そっか」
綾瀬は自分の分を一つ取り出した。
こっちを見ている顔は、いつもと変わらない。
普通に部屋へ入れてくれるし、頼めば修行にも付き合ってくれる。
あの三人が泣きながら口にしていたのは、本当にこいつのことなのか。
コップを置いた。
「真鍋たちのことなんだけど」
「真鍋?」
「うちのクラスの。藪と山下も一緒にいたでしょ」
「何の話?」
「軽井沢への嫌がらせをやめろって、三人に言った時のことよ。真鍋の肩を掴んだって聞いたんだけど」
綾瀬の手が、お菓子の袋の上で止まった。
私の顔を見たまま、少し考えている。
それから、自分の右手へ目を落とした。
「あの時のことだね」
「そう。その時、他に何かしたの?」
「三人に、軽井沢にはもう同じことしちゃ駄目って話したよ。藪と山下には触ってない。肩を掴んだのは、真鍋だけ」
今度はすぐに答えが返ってきた。
私は綾瀬の右手から、その顔へ視線を戻す。
何か言いかけて、口を閉じた。
こっちはどこまで聞いていいものか身構えていたのに。
何の話か分かった途端、返事がすらすら出てくる。
真鍋たちがあれだけ言い淀んでいたことを、こいつは何のためらいもなく話している。
「あいつら、あんたのこと凄い怖がってたんだけど」
「......怖がってたの?」
綾瀬はお菓子の袋から手を離し、私の顔を見た。
「真鍋なんて、あんたには言わないでくれって泣いてたわよ」
綾瀬は、すぐには返事をしなかった。
私を見たまま黙っている。
「何を言ったの? 普通に注意しただけで、あんなふうになるとは思えないんだけど」
「痛みを教えることはできる、って」
コップを取りかけた手が止まった。
「......あんたが?」
「うん」
それは、洒落にならない。
綾瀬にそんなことを言われて肩まで掴まれたら、真鍋が怖がるのも分かる。
藪と山下は、その様子を目の前で見ていたわけか。
でも、殴られてもいないのに、あそこまで取り乱すものなんだろうか。
「分からないまま、また同じことをしちゃうかもしれないから」
「あんたの力でやったら、注意どころじゃ済まないでしょ」
「しなかったよ。やめるって言ってくれたから」
綾瀬は自分の右手を見た。
「軽井沢も、三人を傷つけるのは嫌がってたし」
「......怪我はさせてないのね」
「うん。してない」
そこは真鍋の話と同じだった。
こいつも、別に隠そうとしている様子はない。
「もう軽井沢には何もしてないって、三人とも言ってたわよ」
「うん。よかった」
綾瀬は頷いた。
「ちゃんと分かってくれたんだね」
「......分かったって、何が?」
「軽井沢に、ああいうことしちゃ駄目ってこと。最後は、もうしないって返事してくれたから」
私は綾瀬の顔を見た。
脅されて頷いたことを、こいつは話が通じたと思ってるのか。
「あんたが怖くて、そう言うしかなかったんじゃないの」
「そうなの?」
綾瀬は少し考え、膝の上で両手を重ねた。
「じゃあ、まだちゃんと伝わってないのかな」
「何でそうなるのよ」
「もう一回、話した方がいい?」
「今はやめときなさいよ。約束は守ってるんでしょ」
思ったより早く、言葉が出た。
綾瀬は私を見たまま、頷く。
「うん。じゃあ、大丈夫だね」
そう言って、お菓子の袋へ手を戻した。
また三人に会おうとするのを止めたんだけど、こいつはそれで話がまとまったと思っているらしい。
私はコップを取り、水を一口飲んだ。
「それ、誰かに頼まれたの?」
「何を?」
「三人に、軽井沢から手を引かせること」
「ううん。私が話したかったから」
「ふうん......」
あんまり考え込むな。
聞けることを聞いてくればいいと、龍園も言っていた。
「じゃあ、体育祭の方は?」
「体育祭?」
「真鍋が作戦を喋った映像。龍園が堀北に見せられたって言ってたわよ。あんたも、その場にいたんでしょ」
綾瀬は少し考えてから、頷いた。
「......ああ。真鍋のお話を、撮ってもらった時だね」
「それ。その時、坂柳も一緒だった?」
「うん。坂柳が撮ってくれたよ」
続きを聞こうとして、言葉が止まった。
一緒にいたかと聞いただけなのに、撮影したことまで教えてくれた。
「撮ったの、坂柳?」
「うん。私が真鍋とお話してるところを」
龍園が睨んでいた通りだった。
そこは分かったけど、こんなに簡単に確かめられるとは思っていなかった。
「......私、Cクラスなんだけど」
「うん。知ってるよ」
「それ、私に話していいの?」
綾瀬は私を見た。
「伊吹も、そのお話を聞きたかったんだよね?」
「そうだけど」
返事に詰まり、コップを持ち直した。
聞きたかったから聞いた。それはそうだけど、龍園の邪魔をした時の話を、どうしてCクラスの私にまで教えてるのよ。そんなことまで、一つずつ説明しなきゃならないわけ?
私は自分で聞いておきながら困惑していた。
「あいつと相談してやったの?」
「うん」
「何で?」
「────龍園が取り返しのつかないことをしていないか、それを確かめたかった」
私はコップを持ったまま、綾瀬を見た。
声は、さっきまでと変わらなかった。
聞かれたことを答えただけ、という顔をしている。
「......取り返しのつかないこと?」
「うん」
もし龍園がそれをしていたら、どうするつもりだったのか。
聞こうとして、口を閉じた。
こいつは多分、それも同じ調子で答える。
何が返ってくるのか、少しだけ聞きたくなかった。
綾瀬はお菓子の袋へ手を伸ばした。
私はコップに残っていた水を一口飲んだ。
「あんた、堀北と仲が良いんだよね。他にはいないの?」
「うん。ほか......綾小路とか、桔梗と、平田とか......」
「ほかには? 椎名とも会ってるんでしょ」
「うん。ひよりとも会うよ。坂柳ともお話する。一之瀬や龍園とも」
聞けば聞くほど名前が増える。
誰と会っているかだけなら分かるけど、そのうちの誰の言うことを聞くのかなんてこれじゃさっぱりだった。
「堀北とか坂柳に頼まれたら、相手を殴ったりもするの?」
綾瀬が首を傾げた。
「どうして?」
「だから、そう頼まれたらって話」
「その人、何をしたの?」
「例え話よ。誰のことでもないって」
「そっか。じゃあ、分からない」
何よ、その返事。
でも、適当に頷いているわけでもないらしい。綾瀬は私が誰の話をしているのか、本当に分からない顔をしていた。
コップに残っていた水を飲み干す。
真鍋に何を言ったのかも、撮影したのが誰かも聞けた。
でも、誰に何を言われたら動くのかは、やっぱりよく分からない。
まあ、こっちは聞いた通りに話すだけだ。後はあいつが考えればいい。
「伊吹」
「何」
「もう休憩、終わりにする?」
綾瀬が空けた床の方を見た。
私はコップを置いて立ち上がる。
「する。今度は私が動くから、どんな音がしてるか教えてよ」
「うん。いいよ」
綾瀬が床に座り、目を閉じた。
私はその横を通り、後ろへ回る。
「今、右足が擦れた」
「......うん」
「次は左。そっちに体重かけた?」
足元を見る。
確かにそのつもりで動いていた。
「そんな小さいの、どうやって聞いてるわけ」
「今は伊吹が出してる音を聞こうとしてるから」
「私だって聞こうとしてたわよ」
「うん。もう少しやってみよう」
綾瀬が目を閉じたまま、顔をわずかに傾ける。
私はその隣へしゃがみ込んだ。
「ねえ、結局どこを気にして聞けばいいの?」
「どこ、っていうより......小さい音も、聞き逃さないように」
「だから、それが分かんないってば!」
つい、声が大きくなった。
「────っ」
綾瀬の肩が小さく跳ねた。
私から顔を離し、ぱっと目を開ける。片手が耳に触れていた。
「声、大きい」
「そんな驚かなくてもいいでしょ」
「小さい音を聞こうとしてたの」
綾瀬は耳から手を離した。
私も少し身を引く。思ったより顔が近かったらしい。
「......あんたでも、びっくりすることあるんだ」
「うん。今、びっくりした」
あんまり素直に言われて返す言葉がなくなった。
何をしても平気そうな顔をしているくせに、変なところで普通なんだから。
「分かったわよ。もう怒鳴らないから」
「うん」
綾瀬は、また私の方へ顔を向けた。
「伊吹。さっき私が動いた時、音が二つ聞こえたよね」
「服の音と、足の音?」
「うん。近づいた時と、向きを変えた時。もう一回、見てから聞いてみよう」
綾瀬が立ち上がる。
私も立って、少し距離を取った。
こいつもびっくりすることはある。
そう分かったからといってさっきの動きが分かるようになったわけじゃないけど。
「一回だけじゃ分かんないからね」
「うん。何回かやろう」
綾瀬が一歩、前へ出た。
服が擦れ、足が床を踏む。
今度はその身体を見ながら、二つの音を聞いた。
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