ようこそ理想郷へ   作:ナムさん

79 / 82
第72話 見える範囲

 午後4時を少し回った頃、私たちは図書館へ向かった。

 席を探していると、見覚えのある顔が目に入る。

 一之瀬さんだった。

 周りには、Bクラスの男子と女子が合わせて8人。それに一之瀬さんを加えた9人が教材を広げていた。

 

「あ、堀北さん。みんなで勉強?」

 

 こちらに気づいた一之瀬さんが顔を上げる。

 

「ええ。今日から、試験に向けた勉強会を始めるの」

 

「そっか。私たちもそうだよ。よかったら、一緒にやらない?」

 

 一之瀬さんが隣の席へ目を向けた。

 

「こっちも使って大丈夫だよ。少し詰めれば、まだ座れるから」

 

「ありがとう。では、お邪魔するわ」

 

 空いていた隣のテーブルにも席を取り、私たちは教科書や参考書を広げた。

 一之瀬さんがノートを寄せ、綾瀬さんと櫛田さんの座る場所を空けてくれる。

 私は集まった生徒たちを見渡した。

 

「まずは、中間試験で間違えたところを参考書で確認してちょうだい。解説を読んでも分からないところは、私か櫛田さんに聞いてくれて構わないわ」

 

 何人かが頷き、ペンを持つ。

 近くでは女子たちが勉強会の後の予定を小声で話していた。

 

「ねえ、終わったら、ケヤキモール寄らない?」

 

「あ、それならあたしも行きたい」

 

 話していた女子の1人が、参考書を引き寄せる。

 

「続きは後でね。先にこっちやろ」

 

 隣の女子も教科書を開いた。

 一之瀬さんのいるテーブルでは、すでに問題を見比べる声がしている。

 

「俺、こういう勉強会なら毎日でも来られるわ」

 

 池くんが向かいの女子へ笑いかけた。

 

「俺も。分かんないところ、いっぱいあるしさ」

 

 山内くんも身を乗り出す。

 2人とも、問題より周りの女子を見る時間の方が長かった。

 話し合う池くんと山内くんの声が、ひときわ大きくなる。

 少し離れた席で本を読んでいた生徒がこちらを見た。これだけの人数で騒げば追い出されかねない。

 私が注意しようとした時、綾瀬さんが顔を上げた。

 

「池。静かにしないとダメだよ」

 

 その声を聞いた途端、池くんの肩がビクッと跳ねた。

 笑っていた口元が止まり、反射的に背筋を伸ばす。

 手に持っていたペンを握り直し、まっすぐ彼女の方を向いた。

 

「わ、分かりました......」

 

 返事は急に小さくなった。

 両足まできっちり揃え、綾瀬さんの足元へちらりと目を落とす。

 それから、自分の足を椅子の下へ引き込んだ。

 体育祭の二人三脚で彼女と組んだ時のことでも思い出したのだろうか。

 参考書を押さえる手に、妙に力が入っていた。

 

「うん。ありがとう」

 

 綾瀬さんはノートへ目を戻した。

 山内くんが池くんの顔を覗き込む。

 

「お前、何で急に敬語なんだよ」

 

「いいから問題やれって......!引きずり回されるぞ......!」

 

 今度の声は、隣の席に届く程度の大きさだった。

 私は2人が参考書へ向き直ったのを確かめ、その場を離れた。

 須藤くんは最初からほとんど口を開いていない。

 周りの会話にも加わらず、参考書とノートを交互に見ながらペンを動かしていた。

 

「須藤くん。今日は何時まで参加できるの?」

 

「部活ねえから最後までやるつもりだぜ」

 

「そう。分からないところがあったら声をかけてちょうだい」

 

「ああ。......鈴音、ここだけ見てもらっていいか」

 

 差し出されたノートには、途中まで解いた跡があった。

 今取り組んでいるのは、中学校で習う内容だ。

 高校の授業についていくには、まだ埋めなければならないところが多い。

 

「ここで間違えているわね。前にやったところを見てみて」

 

 須藤くんはノートをめくり、自分で書いた説明を読み返した。

 

「これか」

 

 途中から消し、もう一度解き直す。

 今度は答えを出した後も、すぐに次へ進まず、最初から確かめていた。

 

「これで合ってるか?」

 

「ええ。今度は大丈夫よ」

 

「よし」

 

 小さく呟き、次の問題へ移る。

 褒められたことを周りへ自慢するでもなく、私を引き留めて話を続けるでもなかった。

 少し前なら、分からないというだけで投げ出していたかもしれない。

 今は教わったことを見返し、自分でやり直している。

 中間試験の成績が上がった理由は、その姿を見るだけでも分かった。

 隣のテーブルへ目を向けると、櫛田さんが女子の質問に答えていた。

 綾瀬さんもその隣で、英語の問題に取り組んでいる。

 何かを書き込んだところで、横から声がかかった。

 

「あ、そこ間違えてますよ」

 

 声をかけたのは、綾瀬さんの隣に座っていた王さんだった。

 その向こうには井の頭さんも座っている。

 王さんと井の頭さんは今回の試験のペアで、一緒に勉強会へ来ていた。

 開いた教科書を間に置いて、英語の問題を確認している。

 綾瀬さんのペンが止まる。

 

「ここ?」

 

「はい。さっきのところと似てますけど、同じ答えにはならないんです」

 

「みーちゃん、それ、さっき教えてくれたところ?」

 

 井の頭さんが王さんの手元を覗いた。

 

「はい。井の頭さんが聞いてくれたところと同じです」

 

「私も、もう1回聞いていいかな? 分かったつもりだったんだけど......」

 

「もちろんです。一緒に見ましょうか」

 

 井の頭さんがノートを寄せる。

 綾瀬さんも教科書の別の箇所を指した。

 

「これと同じだと思った」

 

 王さんはそちらを見て頷く。

 

「あ、こっちを見てたんですね。教科書、ちょっと借りてもいいですか?」

 

「うん」

 

 王さんは3人で見られるように教科書を広げた。

 見比べる場所を示しながら、違いを説明している。

 説明は長くない。綾瀬さんが顔を上げると一度言葉を止め、質問を聞いてから続きを話していた。

 

「......じゃあ、こっち?」

 

「そうです。今度は合ってます」

 

 綾瀬さんが答えを消し、書き直した。

 井の頭さんも自分のノートを見返している。

 

「じゃあ、さっきの問題、もう1回やってみるね」

 

「はい。分からなくなったら、また聞いてください」

 

 井の頭さんが頷き、ペンを動かし始めた。

 近くの女子が顔を上げて、その様子を見ていた。

 少し離れた席からも、綾瀬さんへ視線が向いている。

 彼女がペンを動かし始めると、どちらも自分の教材へ目を戻した。

 

「......」

 

 周りを見渡すと、綾瀬さんへ目を向ける生徒が少し多いことに気づいた。

 問題を教わっているのは彼女だけではないし、勉強が苦手なことも、もはや1年生なら誰もが知っていると言っていい。

 パレットで集まった時には、ここまで周囲の視線が気になることはなかった。

 今日はBクラスの生徒もいる。

 その違いなのだろうか。

 綾瀬さん自身は特に気にしていないらしい。

 書き直した答えを確かめてから、王さんへ顔を向けた。

 

「ありがとう」

 

「どういたしまして。また分からなかったら聞いてください」

 

 王さんが笑う。

 王さんは中国から来た留学生で、学力はクラスでも高い方だ。英語は特に得意としている。

 日本語での受け答えも自然で、普段の会話に不自由はない。

 控えめで、自分から大勢の前へ出ることはあまりない。私も、成績がいいという程度の印象しか持っていなかった。

 けれど、綾瀬さんが聞き返しても、彼女は急かさずに説明を続けていた。

 分からないところを尋ねるのが苦手な生徒には、こういう相手の方が話しかけやすいのかもしれない。

 成績を確認するだけでは、こうした教え方までは分からなかった。

 私は彼女たちのそばへ歩み寄る。

 

「王さん。綾瀬さんに教えてくれていたのね」

 

「はい。ちょうど見えたので」

 

「分かりやすい説明だったわ。ほかの人の質問もお願いしていいかしら」

 

 1人のノートを確認している間にも、別の席から質問が来る。

 櫛田さんも教えてくれているが、これだけの人数を2人で見て回るのは難しい。質問に答えているうちに、待たせた生徒のところへ行くのが遅れてしまう。

 声をかけてくれる生徒には対応できても、黙ったまま手を止めている生徒にまでは、目が届いていなかった。

 王さんは周囲の席へ目を向けた。

 

「私が、ですか?」

 

「ええ。あなたはほかの教科もよくできるでしょう。分かる問題だけで構わないわ」

 

「私でよければ......でも、うまく説明できるかは......」

 

 先ほどまで綾瀬さんに教えていた時とは違い、声が小さくなっていた。

 皆に教える役を頼まれると、気負ってしまうのかもしれない。

 

「今みたいに、分からないところを一緒に見てもらえるだけで十分よ。もちろん、井の頭さんとの勉強を優先してちょうだい」

 

 王さんは手元のノートへ目を落としてから、小さく頷いた。

 

「......分かりました。分かるところなら、お手伝いします」

 

「ありがとう」

 

 一之瀬さんが顔を上げた。

 

「ほかの教科も、こっちで分かる人がいたら聞いてね。私も、見られるところは見るから」

 

「ありがとう。よければ、今後も一緒に勉強できないかしら」

 

 今日のように教え合えるなら、私たちも助かる。

 王さんの説明を聞いて、そのことはよく分かった。

 

「もちろん。今回はお互いに攻撃する相手じゃないしね。協力できるところは協力しよう」

 

「ええ。こちらも、力になれるところは手伝うわ。私たちは午後4時から午後6時まで集まる予定なの」

 

「私たちも、大体この時間に来るつもりだよ。じゃあ都合が合う日はここで一緒にやろうか」

 

「そうしましょう。予定が変わる時は連絡するわ」

 

「うん。私からも連絡するね」

 

 一之瀬さんが頷き、綾瀬さんにも顔を向けた。

 

「綾瀬さんは、今回、誰とペアになったの?」

 

「桔梗」

 

「そうなんだ!心強いね」

 

「うん。教えてもらう。でも、桔梗はみんなにも教えるから」

 

 一之瀬さんが櫛田さんの方を見た。

 別の生徒にノートを見せてもらい、質問を聞いているところだった。

 

「色々な席を回ってるもんね。私にも聞いてくれていいからね」

 

「分からないところ、いっぱいあるよ」

 

「じゃあ、今はどこをやってる?」

 

 綾瀬さんがノートの端に手をかけた。

 

「ここ」

 

「うん。まずは一緒に見て、次の問題を自分で解いてみようか」

 

「一人で?」

 

「できたところまでで大丈夫。途中で分からなくなったら、そこからまた一緒に考えよう」

 

「分かった」

 

 綾瀬さんがノートを一之瀬さんの方へ寄せた。

 一之瀬さんは椅子を少し近づけ、途中まで書かれた答えを見ていく。綾瀬さんが指したところで手を止め、教科書を開いた。

 私はその間に、別の席の質問を聞きに行く。

 問題を進める速さも、つまずく場所もそれぞれ違う。

 説明の途中で別の生徒に呼ばれることもあったが、今度は一之瀬さんがそちらへ向かってくれた。

 近くの席では、松下さんが参考書を開いていた。

 入学した頃は成績もそれほど目立たなかったが、最近は点数を伸ばしている。

 

「松下さん。今日は佐藤さんたちとは別なのね」

 

「うん。今日はこのあと用事があるから。今のうちに少しでも進めておきたくて」

 

 彼女のノートへ目を落とす。

 途中の式は簡潔だが、必要なところは省いていない。答えにも間違いは見当たらなかった。

 これまでの成績から受けていた印象より、ずっと手慣れている。

 

「あなた、以前からこのくらいは出来たんじゃないかしら」

 

 松下さんが顔を上げた。

 

「この辺りは、前に似た問題をやったことがあるから。解き方を覚えてただけだよ」

 

 軽く笑ってから、参考書へ目を戻す。

 その返し方に綾小路くんを思い出した。

 出来た理由は聞けても、本人がどこまで出来るのかは分からない。彼と話す時にも、こうして疑問が残ることがある。

 

「そう。分からないところがあれば、声をかけてちょうだい」

 

「うん。ありがとう」

 

 机の向こうでは井の頭さんがペンを止めたまま、参考書へ目を落としていた。

 

「井の頭さん。分からないところがあるの?」

 

 彼女の肩がわずかに動いた。

 

「あ......その......」

 

 こちらを見たが、すぐに視線をノートへ戻す。ペンを持ち直しても、書き始める様子はなかった。

 王さんと話していた時には、自分から聞き返していた。それが今は、私の顔を見るだけでもためらっている。

 私とはまだほとんど話したことがない。困っていても、声をかけにくかったのかもしれない。

 

「よかったら、見せてもらえるかしら」

 

 井の頭さんは小さく頷き、ノートを私の方へずらした。

 

「どこで分からなくなった?」

 

「......ここ、です」

 

 示されたところまでは、正しく解けていた。

 

「ここまでは合っているわ。この先は、参考書の説明と見比べてみましょう」

 

 井の頭さんが、私の指した箇所へ目を向ける。

 説明を読み、自分の書いた答えを見てから、そっと消しゴムへ手を伸ばした。

 

「......ここが、違ってました」

 

「ええ。そこから直せば大丈夫よ」

 

「......ありがとうございます」

 

 顔を少し上げて礼を言い、またノートへ向き直る。

 答えを書き終えると、井の頭さんは今度は綾瀬さんへ顔を向けた。

 

「綾瀬さん、さっきのところ、できた?」

 

「うん。井の頭は?」

 

「私もできた。やっとだけど」

 

「一緒だね」

 

 綾瀬さんがノートを少し持ち上げると、井の頭さんも自分のページを見せた。

 答えを見比べ、井の頭さんが小さく笑う。綾瀬さんは頷いてノートを机へ戻した。

 綾瀬さんへ向けた表情は、私と話していた時よりずっと柔らかかった。いつの間に綾瀬さんは井の頭さんと打ち解けていたのかしら。

 

「心音ちゃん、どこまでやった?」

 

 櫛田さんの声がした。

 質問に答え終え、綾瀬さんのところへ戻っている。

 

「ここ。教えてもらった」

 

「そっか。じゃあ、そこから一緒に見ようか」

 

「うん」

 

 綾瀬さんがノートを2人の間へ寄せた。

 櫛田さんは書かれた答えを確認してから、教科書を開く。

 

「ここで、こう考えたんだよね?」

 

「そう。さっきは、違うところ見てた」

 

「うん。今度は、どこを見ればいいか分かったね」

 

 綾瀬さんが頷き、ペンを持ち直した。

 その様子を確かめていると、向こうの席から小さな声が聞こえた。

 

「おい、須藤。お前、今日静かじゃね?」

 

 池くんだった。

 須藤くんが顔を上げた。

 

「せっかく教えてもらえるんだから、ちょっとでも進めとこうと思ってな」

 

「......お前、真面目になったな」

 

 池くんがノートを覗き込み、山内くんもそちらへ目を向ける。

 

「......結構やってんな」

 

「簡単なのからやってるからな。お前らもやれよ。分かるところなら見るから」

 

「マジ?じゃあ、後で頼むわ」

 

 池くんが自分の参考書へ向き直る。

 須藤くんも、解きかけの問題へ目を落とした。

 けれど、池くんがペンを動かしたのはほんの少しだけだった。

 向かいの女子が消しゴムを落とすと、すぐに拾って渡し、そのまま何かを話し始めてしまう。

 山内くんも顔を上げ、2人の会話へ加わった。

 山内くんのノートの書き込みは、さっき確認した時からほとんど増えていない。

 

「2人とも、問題の続きは?」

 

「いや、消しゴムが落ちたからさ」

 

「それは見ていたわ。話の続きは、問題を終えてからにしてちょうだい」

 

「わ、分かってるってー」

 

 2人とも一度は参考書へ目を落とす。

 それでも、近くで声がするたびに顔が上がった。集中力が欠如しているわね......。

 

「勉強、しなきゃ駄目だよ」

 

「はい......!勉強頑張ります......!ほら春樹も......!」

 

「お、おう......」

 

 綾瀬さんが注意すると、2人はすぐに会話を中断して勉強に取りかかる。池くんの傍には綾瀬さんを置いておくといいかもしれないわ。

 図書館の時計へ目を向ける。

 まだ始めてからそれほど時間は経っていない。

 

「須藤。これ、分かる?」

 

 綾瀬さんがノートを持って、須藤くんのそばへ来ていた。

 

「どれだ?......ああ、それ、さっき俺もやったやつだ」

 

 須藤くんが自分のノートを開いた。

 綾瀬さんも空いていた椅子に座り、途中まで書いた式を見せる。

 

「ここから、分からない」

 

「ここまでは合ってるぞ。その次、こっちを先にやるんだよ」

 

 自分のノートを隣へ置き、途中の式を指す。

 綾瀬さんは2冊を見比べてから、消しゴムを持った。

 

「ここから、やり直す?」

 

「ああ。そこまではできてるから」

 

 須藤くんに教えられたところから、もう一度書き始める。

 途中で手が止まると、彼も急かさずに待っていた。

 

「次は、さっきと同じやり方でいけるぞ」

 

「......これ?」

 

「そう。それで合ってる」

 

 綾瀬さんが続きを書く。

 私は近くの生徒の解答を確認しながら、2人の手元へ目を向けていた。

 説明は少し大ざっぱなところもあったが、間違ったことは教えていない。

 須藤くん自身も、教わった内容を確かめながら話しているようだった。

 

「できた」

 

「お、ちゃんと合ってるじゃねえか」

 

「うん。ありがとう」

 

 綾瀬さんがノートを引き寄せる。

 須藤くんも別の参考書を開いたが、今度はすぐにペンを動かせなかった。

 用語や人名を覚える問題だ。

 

「......こういうの、なかなか頭に入んねえんだよな」

 

 そのページを見た綾瀬さんが、顔を上げた。

 

「それ、覚えたよ」

 

「これか?」

 

「うん」

 

 綾瀬さんが答えを口にする。

 須藤くんは教科書を開き、該当する箇所を探した。

 

「......あ、合ってる。よく覚えてんな。どうやって覚えてんだ?」

 

「一度、脳みそを空っぽにするの」

 

「......空っぽ?」

 

「うん。真っ白にして、そこに覚えたいものを埋め込む」

 

 綾瀬さんが、自分の頭を指した。

 須藤くんはその指を見てから、彼女の顔へ目を戻す。

 

「埋め込むって、どうやって?」

 

「見たものを、そのまま入れるの」

 

「......なんじゃそりゃ」

 

 須藤くんが首を傾げた。

 私にも、頭の中で何をすればいいのかはよく分からなかった。

 綾瀬さんは、彼が始めるのを待つように教科書へ目を向けている。

 

「......まあ、ちょっとやってみるか」

 

 須藤くんは教科書を閉じ、深く息を吐いた。

 目を閉じてしばらくじっとしていたが、次第に眉間へ皺が寄る。

 

「空っぽにしろって考えちまうんだけど」

 

「それも、なくす」

 

「簡単に言ってくれるぜ......」

 

 それでも、すぐに目を開けることはしなかった。

 もう一度息を吐き、少し待ってから教科書へ顔を向ける。

 

「......で、ここを見るんだな?」

 

「うん。そこに、埋める」

 

「埋める......」

 

 須藤くんは覚える箇所を指で追い、黙って読んでいた。

 綾瀬さんも急かさず、その手元を見ている。

 やがて、彼が教科書を閉じた。

 

「......よし。入れた。多分」

 

「じゃあ、私が聞く?」

 

「ああ。まずは1つずつ頼むわ」

 

 綾瀬さんが参考書を自分の方へ向ける。

 須藤くんは彼女が読む問題を聞き、しばらく考えてから答えた。

 

「それは、こっちの答えだよ」

 

 綾瀬さんが別の問題を指す。

 須藤くんは2つを見比べ、口の中で答えを繰り返していた。

 

「......もう一度、同じの聞いてくれ」

 

「うん」

 

 今度は、答えが出るまでそれほど時間はかからなかった。

 綾瀬さんが頷く。

 

「合ってる」

 

「よし。助かったわ。次も頼んでいいか?」

 

「うん。私も、数学聞いていい?」

 

「いいぜ。俺に分かるやつならな」

 

 綾瀬さんが頷き、開いたままのノートを脇へ寄せる。

 そういえば、退学がかかった最初の試験でも、2人はこうして教え合っていたわね。

 綾瀬さんが暗記科目を、須藤くんが数学を教える。他人に教える経験を積むのにピッタリの2人だわ。

 その後も、席を回って質問に答えたり、解き直したノートを確認したりしているうちに時間が過ぎていった。時計へ目を向けると、午後6時まであと10分ほどになっていた。

 

「そろそろ区切りをつけてちょうだい。分からないまま残った問題には、印をつけておいてね」

 

 何人かが時計を見上げ、それから自分のノートへ目を戻す。櫛田さんも残りの時間を確かめ、まだ質問のある生徒のそばへ向かった。

 

「じゃあ、これが終わったら片付けるか」

 

 須藤くんが参考書を指すと、綾瀬さんが頷いた。

 

「うん」

 

 2人はもう一度、同じページへ目を落とした。私はその様子を確かめてから、机の上に広げられた教材へ視線を移す。

 勉強会と並行して、Cクラスに出題する問題の作成も進めなければならない。

 教科ごとに得意な生徒から案を集め、問題文と解答を確認する。難しい問題を考えても、聞き方が曖昧だったり、解答に間違いがあったりすれば使えない。

 それから、作った問題が外へ流出しないよう、扱いも決めておく必要がある。

 出題用の原稿は、勉強会で使う教材と分けて管理した方がいい。参考書に挟んだまま貸し借りしたり、机に置き忘れたりすれば、意図しない相手の目に触れてしまう。

 問題がCクラスへ伝われば、せっかくの準備も無駄になる。

 問題が完成してから、慌てて決めることのないように先手を打つ。

 

◇ ◇ ◇

 

 

「松下さん、また明日ね」

 

 堀北さんが第1部の勉強会の終了を告げると、席を立ったクラスメイトが声を掛けてきた。

 

「うん。また明日」

 

 私はノートを閉じて鞄へしまった。

 少し離れた席では綾瀬さんがまだ櫛田さんと話していた。解き終えた問題を見せながら、どこで間違えたのか聞いている。

 体育祭ではあれだけのことが出来たのに、勉強になると誰かに教わる側になる。

 櫛田さんが説明するたびに頷く姿を見ていると、同じ子だと分かっていても不思議に思えた。

 私は2人より先に図書館を出た。

 皆と同じ勉強会に出ていれば、余計なことを聞かれずに済む。

 ただ、そこで見えることも少なくない。

 そのまま校舎の裏手へ向かった。勉強会の後で橋本くんと会う約束をしていた。

 

「珍しいな。お前から呼び出すなんて」

 

 校舎の裏手にあるベンチまで来た橋本くんは、私を見るなりそう言った。

 近くに人影はない。部活を終えた生徒たちの声だけが遠くから聞こえていた。

 

「お互いに情報を交換する同盟でしょ。そっちが聞きたい時だけ会うのもおかしいじゃない」

 

「そりゃそうだ。で、何が知りたい?」

 

「今回は戦う相手が違うし、少しは話しやすいかなって。そっちの準備はどう?坂柳さんと葛城くん、それぞれの派閥で別々に進めてるの?」

 

「案はどっちからも出てるぜ。集めて整理するのは葛城だ。科目ごとに得意な連中にも声をかけてる。ただ最後に何を使うか決めるのは姫さんだな」

 

「体育祭の時は葛城くんが指揮を執るって言ってたよね」

 

「ああ。けどあの後は葛城派も前ほど強く出られなくなった。今は姫さん側の意見の方が通りやすい」

 

「それでも問題作りには葛城くんを頼るんだ」

 

「あいつの学力まで下がったわけじゃないからな。問題の確認なんかは丁寧だし、使える案があれば受け取るさ」

 

「じゃあそこで活躍すれば、葛城派も少しは持ち直せるんじゃない?」

 

「どうだろうな。いい問題を作ったからって、次の試験で指揮まで任せようって話にはそう簡単にならないだろ」

 

 葛城くんが働いていることと、葛城くんの意見が通ることは別らしい。

 体育祭の前なら、同じ仕事をしても周りの受け取り方は違ったのかもしれない。

 橋本くんの話だけでAクラス全体を判断するつもりはない。けれど誰が手を動かして、誰が最後に決めるのか。その違いは知っておきたかった。

 

「橋本くんは坂柳さんの側だよね。なら前よりやりやすくなったんじゃない?」

 

「どうだかな。葛城派が弱まったところで、俺が姫さんの考えまで分かるようになるわけじゃない」

 

「その辺の話は葛城くんから聞くの?それとも坂柳さん?」

 

「準備の話なら葛城から聞くことも多いな。姫さんは自分で必要だと思った時に話す」

 

「同じ派閥の橋本くんにも?」

 

「同じ側にいれば全部聞けるわけじゃないさ」

 

「ふうん」

 

 前に綾瀬さんと坂柳さんのことを聞いた時も似たような返事だった。

 側にいるからといって何でも聞けるわけではないみたい。

 

「......お前、問題作りの話をしながら俺の立場を調べてないか?」

 

「同盟相手のことを知っておくのは大事でしょ」

 

「隠す気もないのな」

 

「橋本くんに隠してもどうせ疑うじゃない」

 

「違いない」

 

 橋本くんはおかしそうに笑った。

 

「......しかし綾瀬は随分やってくれたな」

 

 橋本くんがふと笑みを薄くした。

 

「体育祭のこと?」

 

「ああ。あいつの力が桁違いなのは分かってたが、あの活躍を見せられるとさすがに凄ぇな」

 

「綾瀬さんがどれだけ強いかは、前から知ってたじゃない」

 

「知ってたさ。あいつとまともに競って勝てるやつがいるとは思ってなかった。だが体育祭なら、種目や人数、組む相手まで考える必要があるだろ?その中でどれだけ勝ちを持っていけるかは、個人の強さだけ知ってても測れない」

 

 私はすぐには返事をしなかった。

 綾瀬さんの力が人並みでないことは、私も前から分かっていた。

 それでも本番では、強いと知って見ているはずなのに何度も驚かされた。

 綾瀬さんがいるだけで勝敗が動く。

 身体能力を活かせる勝負なら冗談抜きでそれが通じる。

 

「Dクラスは全体の能力が低い。それ自体は外れてないんだろ。だが、それだけで勝てないとまでは言えなくなった」

 

「綾瀬さんがいるから?」

 

「ああ。あいつ1人でクラスの差をひっくり返せる場面がある」

 

 出来る人が少ない。

 出来ない人が多い。

 Aクラスまで上がるにはまだ足りないものばかりだと思っていた。

 その見積もりを綾瀬さん1人のために考え直さなければならない。

 橋本くんの話をただの大げさな褒め言葉とは思えなかった。

 

「それなら綾瀬さんがいるDクラスを選べばいいんじゃない?」

 

「そう簡単に決められりゃ苦労しないさ。どんな勝負でも1人で勝てるとは言ってない。それにあいつが誰と組んで、どこで力を使うかも分からないだろ」

 

「橋本くんの思った通りに動いてくれるかも分からないしね」

 

「......それはお前も同じだろ」

 

「うん。私も同じ」

 

 そこは否定する気にならなかった。

 あれだけの能力があるなら、こうしてくれればいい。そうすればもっと勝てるはず。

 こちらの考えた通りに動いてくれるなら、苦労はしない。

 

「もし綾瀬さんが坂柳さんと組んだら、どうなると思う?」

 

「姫さんが手を考えて綾瀬が動く。頭脳と身体能力が噛み合ったら恐ろしいぜ」

 

「坂柳さんの考えた通りに動くならね」

 

「ああ。そこまで分かってたら、お前に聞く必要もない」

 

「一之瀬さんだったら?」

 

「周りも一緒に動かそうとするんじゃないか。あいつ1人に任せて終わりにはしないだろ」

 

「綾瀬さんも、皆の役に立てるって言われたら頑張りそうだよね」

 

「......お前も随分考えてるじゃないか」

 

「橋本くんが気にしてるから聞いてみただけ」

 

 そう答えたけれど、私も気にはなっていた。

 同じ力を持った子でも、隣にいる人が変われば頼まれることも変わる。

 どの組み合わせなら何が出来るのか。体育祭を見る前なら、ここまで考えなかったと思う。

 

「体育祭の後でますます気になってきたってこと?」

 

「ああ。前から綾瀬の力はDクラスの枠で測れるもんじゃないと思ってた。体育祭を見て、あいつと誰を組ませればどこまで出来るのか、余計に気になるようになった」

 

 橋本くんは少しだけ身を乗り出した。

 

「お前は?同じクラスであれを見て、前と同じように考えられるか?」

 

「......前より気になってるよ」

 

 これは本当だった。

 力の大きさを見せられた分だけ、あの子自身のことも知りたくなっていた。

 あの子は何を基準に動いているのか。

 どうして自分が勝つことより誰かの役に立つことを気にするのか。

 同じクラスにいるのに、まだ分からないことばかりだった。

 

「なら今回の試験はどうだ。綾瀬はどうするつもりなんだ?」

 

「今回は筆記試験だよ。あの身体能力をそのまま点数には出来ないでしょ」

 

 知らない英単語が足の速さで答案に浮かんでくるわけではない。

 体育祭で得た加点を使っても、綾瀬さんの中間試験の成績は下の方だった。

 この試験では、誰かが勉強を見なければならない。

 

「そうなると今回はあいつを誰が支えるかって話になるな」

 

「今回は櫛田さんと組むことになったよ。今日の勉強会でも一緒にやってた」

 

「なら勉強の方は櫛田が見てくれるわけか」

 

「うん。でも綾瀬さんは自分も役に立たないとって考えてるみたい。教えてもらうだけでいいとは思ってないんじゃないかな」

 

「教わって点を取るだけでも十分役に立つんだがな」

 

 私もそう思う。

 けれど綾瀬さんがそれだけで納得するかどうかはまた別の話だった。

 

「じゃあお前は?」

 

「......私?」

 

「お前はどこまでやるつもりなんだ」

 

「私も勉強はするよ。退学したくないもん」

 

「さっきまであれだけ人の立場を探ってたやつが、自分の話になった途端に普通の生徒になるなよ」

 

「元々普通の生徒だけど?」

 

「俺は前からお前がDクラスの参謀みたいなもんだと思ってた。今は違うってのも分かってる。だがそう思わせるだけのものはあるんだよ」

 

 否定しても、それを隠している証拠みたいに扱われそうだった。

 

「人と話すのが得意だからって、難しい問題まで解けるとは限らないでしょ」

 

「そりゃそうだ。だから聞いてるんだよ。今の成績がお前の限界なのかって」

 

 ......そこまで聞くんだ。

 私は橋本くんから視線を外した。

 相手の意図を察するのが得意だからといって、学力まで高いとは限らない。彼もそれぐらい分かっているはず。

 反応を見るための問いだ。

 ただ答えにくいところを突かれたのは確かだった。

 

「それを知ってどうするの?」

 

「俺が見てるDクラスと本当のDクラスがどれだけ違うか知りたい。綾瀬1人に注目して、他を見落とすのは困るからな」

 

「私が頑張ったら、橋本くんにとっては困るんじゃない?」

 

「今のクラス同士で考えればそうだな。けど俺たちは最後にどこにいるか考えるために組んだんだろ」

 

 『今の』というところだけ、少し強く聞こえた。

 

「お前が使えるやつだと分かるなら、俺にとっても無駄じゃない」

 

「ずいぶん買ってくれるんだね」

 

「期待だけで終わるなら、俺も考え直すさ」

 

 私の成績を答えるより、別の判断材料を渡す方がいい。

 堀北さんと平田くんが皆の前に立っていることは隠せる話でもない。

 2人の役割を話すくらいなら、問題の内容に踏み込まずに済む。

 

「それなら綾瀬さん以外にも見ておいた方がいいと思うよ」

 

「誰を?」

 

「堀北さんと平田くん。2人で準備を進めるようになったでしょ。前よりクラスの人たちも話を聞いてる」

 

「堀北が方針を決めて、平田が周りをまとめるのか」

 

「うん。堀北さんだけだと話しにくかった人も、平田くんには相談できる。平田くんも全部を自分で答えようとしないで、堀北さんに任せるところは任せてる」

 

 教室の前に並んでいた2人を思い出す。

 前の堀北さんなら、クラスに協力を頼む前に自分で進めていたかもしれない。

 平田くんも1人で全員の話を聞いていたら、決められないことが増えていたと思う。

 

「外から見てるだけじゃ、そこまでは分からねぇな」

 

 橋本くんの視線が私に戻った。

 

「けど、お前の話を聞いてたはずなんだがな」

 

「Dクラスのことを知りたいんでしょ。綾瀬さんだけ見て、他を見落とすのは困るって」

 

「俺の言ったことを使うなよ」

 

「そっちは葛城くんと坂柳さんが何をしてるか教えてくれたでしょ。私も準備の話くらい返しておこうと思っただけだよ」

 

 誰が準備を進めていて、どんな役割を受け持っているのか。

 橋本くんから聞いたのもそこまでだった。

 同盟だからといって、私の成績の話まで付け足す必要はない。

 

「......自分の話から上手く逃げたつもりか?」

 

「話を変えたのは分かってるんでしょ。でも、聞く価値はなかった?」

 

 橋本くんは少し黙ってから笑った。

 

「あるから面倒なんだよ」

 

「綾瀬さんがいるからDクラスを気にするのは分かるよ。でも、あの子が勉強を教えたり、全員の予定をまとめたり出来るわけじゃないでしょ」

 

「ああ。堀北と平田が組んで、その辺も回るようになってきたわけか」

 

「少なくとも前よりはね」

 

「なら、その2人も見ておく。お前のこともな」

 

「私の話はしてないのに?」

 

「そういう話を選んで俺に教えるやつも、見落とせないだろ」

 

 関心を逸らし切れたわけではないらしい。

 それでも、今の成績が私の限界なのかは答えずに済んだ。

 今日はそれでいい。

 

「そっちも同じじゃない?葛城派が弱くなったからって、葛城くんの学力まで使えなくなったわけじゃないんでしょ」

 

「俺の話もちゃんと聞いてたか」

 

「同盟相手の話だもん」

 

「それと、船で綾瀬さんが龍園くんと組んだ時のこと。橋本くんは何か聞いてない?」

 

「龍園と組んだ時の話か?」

 

「うん。あの時Cクラス全員を動かすって言ってたでしょ」

 

 綾瀬さんの携帯から聞こえた声を思い出す。

 Cクラスには裏切らないように命令してある。誰かが裏切れば、その人間を見つけるためにクラス全員を動かす。

 同じ部屋にいない人の一言で、あの場にいた皆の顔が変わった。

 

「綾瀬が自分から頼んだって話だったな」

 

「龍園くんもそう言ってたよ。試験の後に綾瀬さんをそそのかしたのかって聞いたら、協力を持ちかけたのはあの子の方だって」

 

「お前、本人に聞いてたのか」

 

「そりゃ気になるよ。綾瀬さんにお願いされたからってだけで、あそこまでしてくれる相手には見えないし」

 

 橋本くんはすぐには否定しなかった。

 

「互いのメリットのためとは言ってたろ。何か見返りがあったんじゃないか。金か、情報か、次に何か頼める約束か」

 

「その中身は聞いてない?」

 

「そこまでは知らない。お前こそ綾瀬に聞いてないのか?」

 

「詳しくはね。でも綾瀬さんがどういうつもりで頼んだか聞けても、龍園くんが何を考えて引き受けたのかまでは分からないでしょ」

 

「......なるほどな。だから俺の方にも聞くわけか」

 

「Cクラスの知り合いがいるなら何か聞いてるかなって」

 

「今のところは何も。俺もあれが船の中だけの話だったのかは気になるがな」

 

「今も2人で何かしてるかもしれない?」

 

「かもしれないってだけだ。一度組んだからって、次も同じように動くとは限らない。俺たちだって相手の頼みを何でも聞くわけじゃないだろ」

 

「うん。それはそうだね」

 

 船で協力した。それは私たちも見ていた。

 けれどその関係がいつまで続くのかも、別の試験で何を頼めるのかも聞いていない。

 綾瀬さんと龍園くんが繋がっているというだけで、その先まで分かったつもりにはなれなかった。

 体育祭を見た後では、龍園くんがあの力をどう見ているのかも前より気になっていた。

 そして綾瀬さんはその相手へ自分から頼みを持ちかけた。

 同じクラスにいる私より、龍園くんの方があの子のことを知っている。そんなことだってあるのかもしれない。

 

「そういえば、お前らBクラスと勉強会をやってるんだろ?」

 

 橋本くんが話を変えた。

 

「どうして知ってるの?橋本くんは来てなかったでしょ」

 

「うちのクラスのやつが図書館で見かけたんだよ。BとDが一緒に勉強してたってな」

 

「ふうん。今日は一緒にやったよ。それが?」

 

「だったら、Bの連中の様子を見てきてくれないか。どこで手が止まるか、何を教わってるか。勉強してれば見えるだろ」

 

 私はすぐには返事をしなかった。

 鞄の持ち手を握り、橋本くんを見る。

 

「......それって、私にBクラスを探れってこと?」

 

「わざわざ探りを入れろって話じゃない。勉強してる間に気づいたことを教えてくれればいい」

 

「それを橋本くんに教えるなら同じでしょ」

 

 笑って返す気にはならなかった。

 同じ机を囲む私の様子は、一之瀬さんから直接見える。

 どこへ目を向け、何を聞いたか。気づかれた時に困るのは私の方だ。

 

「随分リスクの高いお願いだね」

 

「一之瀬に気づかれるのが心配か?」

 

「一之瀬さんに知られたら、次からBの人たちに何を聞いても警戒されるでしょ。勉強会の中だけで済むとは限らないし。そこまでして橋本くんに教えるのは割に合わないよ」

 

 今日の勉強会でも、一之瀬さんは誰かに教えながら周りの様子に目を配っていた。

 Bクラスの生徒の解き方を見ているところへ声を掛けられても、おかしくない。

 

「橋本くんは聞いてるだけでいいもんね」

 

 橋本くんはすぐには答えなかった。

 少しして、鞄に置いていた手を膝へ戻す。

 

「お前だけにやらせるつもりはない。俺はCの方を見る。それでどうだ?」

 

「Cクラス?」

 

「ああ。俺がBの準備を聞けば、Aが探ってると警戒される。お前がCに聞くのも同じだろ。だったら、お互い逆の方を見ればいい」

 

「橋本くんがCのことを私に教えて、私はBのことを橋本くんに教えるってこと?」

 

「そうだ。今回はお互いの相手を攻略するために協力しようって話だよ」

 

 私は橋本くんから視線を外した。

 Cクラスへ出す問題を考えるなら、どんな準備をしているのかは知りたい。

 ただ教科書の中から難しい問題を探すだけでは、相手がどこまで出来るか分からないままだ。

 

「Cクラスの方は聞けるの?」

 

「話せる知り合いはいる。それに、今回Cの問題作りで中心になるのは金田だろうな」

 

「金田くん?」

 

「ああ。マッシュ頭で眼鏡かけたやつだよ。妙に丁寧な喋り方をするんだが、こっちをどう見てるのか掴みにくい。どうも気味が悪い」

 

「でも、問題を任せられるくらい頭はいいんだ?」

 

「ああ。学力はCでも高い。龍園が狙いを決めても、実際の問題を組み立てるのは金田に任せるんじゃないか」

 

「もう決まってるの?」

 

「そこまでは聞いてない。今のは俺の見立てだ。確かめてみるが、Cの連中が簡単に話してくれるとは思ってない」

 

 さっき聞いた葛城くんの話が頭に浮かぶ。

 Cクラスでも、龍園くんの方針を実際の問題にする人がいるのかもしれない。

 その役が金田くんなら、どういう問題を考える人なのかは気になった。

 

「じゃあ、金田くんがどう関わってるかも知りたいかな。こっちが受ける問題を考える相手なら、気にしておきたいし」

 

「ああ。ただ、向こうが話してくれたからって、そのまま信用していいとも限らないぞ」

 

「わざと違うことを教えるかもしれない?」

 

「それもあるだろうな。本当の話でも、都合のいい部分だけかもしれない。俺が何を聞きたがってるか確かめるために喋ることだってある」

 

「話してくれた理由も考えた方がいいってことね」

 

「そうだ。何か聞けても、裏がないとは言い切れない」

 

 Cクラスの準備を知れる。

 そう聞けば使い道を考えたくなるけれど、教えてくれた相手にも何か狙いがあるのかもしれない。

 

「じゃあ、誰からどんな流れで聞いたのかも教えてね。橋本くんが自分で見たことがあれば、それも」

 

「分かった。聞いた話と俺の見立ては分けて伝える」

 

「うん。使えそうかどうかは、私も考えるから」

 

 橋本くんが持っている繋がりは、私にはない。

 今から自分でCクラスへ近づけば、何を知りたがっているのか警戒されるかもしれない。

 それでも、Bクラスの中に座っている私の方は、一之瀬さんからずっと見える。

 

「それでも、私の方が怪しまれやすいと思うんだけど」

 

「なら、聞き回らなくていい。わざと問題を出して試す必要もない。普段通り参加して、自然に気づいたことだけでいい」

 

「何も分からなかったら?」

 

「分からなかったって言ってくれればいいさ」

 

「一之瀬さんが気にしてると思ったら、そこでやめるよ」

 

「ああ。それでいい」

 

 私は持ち手を握っていた指を少し緩めた。

 何か見つけると約束するつもりはない。

 普通に勉強している間に、気づくことがあるかもしれない。それを覚えておくところまでなら。

 

「......あと、そっちで分かったことを先に教えてね」

 

「先に?」

 

「私だけ情報を渡して、Cの方は何も分からなかった、で終わるのは嫌だから。橋本くんのお願いなんだし」

 

 橋本くんは私を見てから、小さく笑った。

 

「分かった。Cの方で何か拾えたら、俺から連絡する」

 

「それなら、気にしておくくらいはするよ」

 

「十分だ」

 

 すぐに頷いてくれるあたり、最初からその程度でもよかったのかもしれない。

 私がどこまで引き受けるか、見られていた気もした。

 

「そのBクラスの話は坂柳さんに持っていくの?」

 

「問題の案を出す時の材料にする。どこを狙うか説明出来た方がいいだろ」

 

「橋本くんの仕事になるわけだ」

 

「ああ。姫さんの側にいるだけで、俺の仕事まで済んだことにはならないからな」

 

 葛城派が弱まったからといって、この人まで安心しているわけではないらしい。

 だからこそ、教えてほしいと頼んできたのだろう。

 

「例えば、どんなところを見たいの?」

 

「説明を聞いた後、自分でも解けるかどうかだな。その場で頷いてても、隣のやつがいないと手が止まることはあるだろ」

 

「ペアの相手にどのくらい頼ってるかってこと?」

 

「ああ。試験中は、一之瀬が代わりに説明して回るわけにもいかないからな」

 

 同じ机を囲んでいる間は、分からなければ誰かに聞ける。

 試験では自分の答案を埋めなければならない。

 その違いが、誰にどれだけ出るのか。

 

「同じ問題を解き直せても、条件が変わると分からなくなることもあるよね」

 

「そういうところが分かれば、問題を考える材料にはなる」

 

「でも、1人が間違えたからってBクラス全体が苦手だとは思わないでね。今日一緒だった人たちが、Bの全員でもないんだから」

 

「分かってる。何を見て、どこまで分かったのか。そこを分けて教えてくれ」

 

 出来なかったところだけ覚えて帰れば、分かったつもりにはなれる。

 教えてもらった後に出来るようになっていたなら、最初の間違いだけ伝えても役に立たない。

 

「Cクラスの方も、練習してる問題が分かっただけじゃ、苦手なところまで分かったことにはならないからね」

 

「そっちも、どこまで出来てるか見るわけだな」

 

「うん。聞けなかったことは聞けなかったって教えてくれればいいよ」

 

 綾瀬さんと龍園くんが一度組んだ。

 それでも今回は、Cクラスを相手に問題を作る。

 あの時の協力があるからといって、私たちまで頼れるわけではなかった。

 

「じゃあ、Cの方で何か分かったら連絡する」

 

「うん。その時に、こっちで気づいたことがあれば話すよ」

 

 私は立ち上がった。

 次に一之瀬さんと机を囲んだ時も、自分の勉強をする。

 橋本くんのために何か見つけなければ、と考え始めたら、今日と同じようには振る舞えなくなる気がした。

 

「無理に調べる約束はしてないからね」

 

「分かってるよ」

 

 念を押してからベンチを離れた。

 勉強会へ行く予定は変わらない。

 その後で橋本くんに何を話せるか、今はまだ分からない。

 寮へ向かって歩きながら、私は勉強会の最後に見た2人を思い返した。

 櫛田さんにノートを見せていた綾瀬さん。

 今のあの子の隣にいるのは、櫛田さんだった。

 

学年別最優秀選手の報酬は何ポイントだと思いますか?

  • それ以下
  • 5万ポイント
  • 10万ポイント
  • 50万ポイント
  • 100万ポイント
  • それ以上
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。