今日は放課後の勉強会が休みだった。
授業が終わってから少しだけ教室に残った私は昨日教わったところを問題集でやっていた。
途中で手が止まる。昨日はできたのに。
分からないところに印をつけた。
次の勉強会で聞こう。
しばらくするとまた眠くなる。
問題集を鞄にしまって教室を出た。
寮へ戻る途中、道の脇にベンチがあるのが見えた。長いベンチだった。寝たら足まで乗せられそう。
腰を下ろして鞄を隣に置いた。背もたれにもたれる。
周りには誰もいない。話し声も聞こえなかった。
少しだけ眠ってから帰ろう。
目を閉じた。
「そこに目を付けるとは、なかなかやりますね」
足音が止まって声がした。
目を開けると知らない女の子が立っている。
私の座っているところを指していた。
「......ここ?」
「ええ。今の時間はそこが一番暖かいのです」
「よく座るの?」
「私の特等席です」
「じゃあ、どうぞ」
鞄を持って立ち上がる。
「譲ってくださるのですか」
「うん」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えましょう」
女の子は私が座っていた場所に腰を下ろした。
背もたれにもたれて少し顔を上げた。
ほかのベンチを探そうと歩き出した。
「どちらへ?」
振り返ると女の子が私を見ていた。
「ほかのベンチ」
「あなたも眠りたいのでしょう。お隣が空いていますよ」
自分の隣を指す。
「......うん」
戻って隣に座った。
「私は森下藍です。あなたは綾瀬心音ですね」
「うん。知ってるの?」
「体育祭で見ました」
「そっか」
「どこのクラス?」
「Aクラスです」
森下は鞄から少しはみ出した問題集に目を向けた。
「ペーパーシャッフルの勉強ですか」
「うん。今日は勉強会が休みだから、一人でやってみた」
「それで眠くなったと」
「そうかも。最近、よく眠くなる」
「でしたらしばらく眠ればよいでしょう」
森下はそう言って背もたれに寄りかかった。
「森下は勉強しないの?」
「今日の分は済ませました」
「もう?」
「出題範囲の確認と必要なところの復習です。それほど時間はかかりません」
「勉強、得意?」
「ええ。この範囲なら、授業を聞いていれば大体分かりますので」
森下は特に顔を変えずに言った。
私は問題集を取り出す。
「これも?」
さっき印をつけたところを見せると、森下が少しだけ身体を寄せた。
「一人でやったらここで止まった」
「分かります」
空欄を一つ指して答えを言う。
後ろのページをめくって確かめると、同じものが書いてあった。
「......合ってる」
「当然です。適当に答えたわけではありません」
もう一度問題のところへ戻る。
森下が言った答えを書いてから隣を見る。
「森下のペアの人、よかったね」
「ええ。私と組めたのですから」
「二人の点が足りなかったら、退学なんだよね」
「相手の得意な科目と苦手な科目も確認しています。私の点と合わせれば、合格に必要な点数には届く見込みです」
「そっか」
「ですから今ここで眠る時間はあります」
森下が目を閉じた。
私は問題集を鞄に戻す。
「私も点を取らないと」
「では、休んだ後に続きをやればよいでしょう。問題集は逃げません」
「......うん」
膝に手を乗せる。
隣を見ると森下は背もたれに頭をつけていた。
「森下。そこだとよく眠れるの?」
「当然です。私が選んだ特等席ですから」
「私もそっちで寝てみたい」
森下が目を開けた。
私を見てから自分の座っている場所を見る。
「この端に二人では座れませんが」
「私が座って、森下が私の上に座れば?」
「......なるほど。その座り方はまだ試していませんでした」
森下が立ち上がる。
私がベンチの端に座ると、森下は鞄を隣へ置いた。それから私と同じ方向を向いて膝に腰を下ろす。
「重くありませんか」
「ううん」
私は背もたれにもたれた。
森下も私に寄りかかる。
「この座り方も候補に入れておきましょう」
「うん。二人ともここに座れたね」
背もたれにもたれたまま目を閉じる。
これなら二人ともここにいられる。
「綾瀬心音」
「なに?」
「二人とも横になりたい場合は、どうしますか」
目を開ける。
森下が横の座面を見ていた。
「森下も横になりたい?」
「その方が眠りやすそうですので」
私もベンチを見る。
寝転がることはできるけれど、森下も一緒だと少し狭い。
「ほかのところ探す?」
「そうしましょう。一人で使う場合の特等席しか確認していませんでした」
森下が膝から降りる。
鞄を持って二人で立ち上がった。
次のベンチはさっきより少し長かった。
森下が端に座り、私も反対の端に座る。
「横になってみてください」
「うん」
身体を倒す。
森下も同じようにすると伸ばした足が当たった。
「膝を曲げれば収まりそうですね」
膝を曲げると森下の足が少し遠くなる。
「寝返りを打つ場合も確認します」
「今?」
「はい」
横を向こうとすると森下の足が私の膝に当たった。
森下も足を動かす。
「同時に動くとぶつかりますね」
「じゃあ、一人ずつ?」
「寝返りのたびに相手を起こすのは面倒です」
「......そっか」
起き上がって周りを見る。
少し離れた木の周りに芝生が広がっていた。
草は短く刈ってある。誰もいない。
鞄を持ってそっちへ歩く。空いているところを指した。
「綾瀬心音。そこにはベンチがありません」
「ここ、広い」
森下が木のそばまで来た。
しゃがんで草に手をつき、手のひらを見る。
何もついていなかった。
「乾いていますし、これなら汚れなさそうですね」
「足も伸ばせる」
「では、横になってみましょう」
鞄を木のそばに置いた。
二人で芝生に並んで寝転がった。
足を伸ばしてもぶつからない。
横を向くと森下もこちらへ顔を向けた。
「今度は当たらないね」
「ええ。ただ、枕は欲しいところです」
森下が身体を起こして幹を見た。
「幹に寄りかかる場合も確かめましょう」
森下が先に立ち上がった。
私はまだ寝転がったまま、正面から差し出された手を見る。
「手を貸しましょう」
「うん」
私はその手を握った。
森下が私の手を引っ張った。
起こしてくれるんだと思って、そのまま待つ。
背中が少しだけ浮いて、そこで止まった。
「......少々お待ちください」
森下が両手で私の手を握り直した。
立ったまま足を踏ん張っているけれど、私の背中はまだ芝生のすぐ上にあった。
「綾瀬心音。ご自分でも立っていただけますか」
「森下が起こしてくれるんじゃないの?」
「お手伝いするつもりでした。今は全て担当しています」
森下の顔はさっきと変わらない。
私の手を握った両手だけが少し震えていた。
私は膝を曲げた。足に力を入れるとすぐに立てた。
森下がゆっくり腕を下ろす。
「森下、大丈夫?」
「ええ。あなたが立ちましたので」
森下は手を離して指を開いたり閉じたりした。
木のすぐそばへ移って座った。
二人で木にもたれた。
「ここは背もたれが少々硬いですね」
「木だからね」
「あなたに寄りかかっていたときの方が楽でした」
「じゃあ、こっちに座る?」
自分の前を指す。
森下はそこへ移って座った。
それから私を振り返る。
「あなたはそのまま木に寄りかかっていてください」
「うん」
森下が私にもたれてきた。
背中が私の胸にくっつく。
私は木にもたれたまま座っていた。
「こちらの方が安定しています」
「うん。森下、軽いから」
「いずれ私の身体能力があなたを上回れば、先ほどのように手間取ることもなくなるでしょう」
「......上回る?」
「私の前世はアマゾネスですから」
「前世?アマゾネス?」
「生まれる前の私です」
「生まれる前にも、森下がいたの?」
「ええ。アマゾネスという女戦士だったと思われます」
生まれる前のことはよく分からない。
森下の身体を見る。
さっき私を引き起こそうとしていたときの動きも思い出した。
今の森下なら2秒くらいで倒せると思う。
「そのときの力、今も使える?」
「まだ実感はありません。目覚めたらお知らせします」
「じゃあ、今は私が後ろだね」
「ええ。支えていただくお礼に、一つお見せしましょう」
「何を?」
森下が少し前へずれた。
「私は魔法が使えます」
「魔法......」
博士から聞いたことがある。
手から炎や水が出せるらしい。
ほかのことはよく分からない。
「森下も炎とか出せるの?」
「今日はこちらをお見せしましょう」
森下が両手を持ち上げる。
身体を起こして森下の手を見る。
「森下、森下。見たい」
「では、私の正面へどうぞ」
すぐに立ち上がって森下の前にしゃがむ。
森下は左手の甲をこちらに向け、親指だけを立てた。
右手でその親指をすっぽり握り込む。
親指が全部隠れた。
「よくご覧ください」
重なった手をじっと見ていた。
親指を包んだ右の拳が、すっと横へ離れた。
左手に、さっきまで立っていた親指がない。
「ゆ、指が取れた......」
森下の顔と、親指のなくなった左手を見比べる。
右の拳は握ったままだった。
「森下、痛くない?」
「問題ありません」
もっと近くで見ようと顔を寄せる。
森下の手が少し遠ざかった。
「その位置でお願いします。正面からご覧ください」
「......ここ?」
「はい」
森下が右の拳をもう一度左手に重ねた。
そこから右手を離すと親指が元どおりに立っている。
「戻った......」
「ええ。戻しました」
「指が取れるのも、魔法?」
「今回はこういうものです」
炎や水の話は聞いたけれど、指が取れる話は聞いていなかった。
森下が親指を曲げたり伸ばしたりしてみせる。
「森下、もう一回」
「仕方ありませんね。もう一度だけですよ」
右手が左の親指を包む。
引き離すと、また親指がなくなった。
戻ったところで拍手した。
森下は口の端を少し上げてもう一度親指を立ててみせた。
「私もできる?」
「あなたが扱うにはまだ難しいでしょう」
「......難しい?」
自分の左の親指を、右手で握ってみる。
森下はこのまま右手を離していた。
「そのまま引っ張るのはおやめください」
森下が私の手に目を向けた。
「正しい手順を知らずに使えば、下手をすると命を落とします」
「危ないの?」
握っていた右手を開く。
左の親指はちゃんとくっついていた。
森下の手を見る。
さっきから何度も指を外している。
「森下は大丈夫? 痛くない?」
「当然です。正しく扱えますので」
「そっか。じゃあ私にも教えて。森下みたいにやりたい」
「そこまで仰るのでしたら。手順をよく見て覚えてください」
森下が少し顎を上げた。口元もさっきより上がっている。
「うん。お願い」
森下が両手を持ち上げた。
「まずは親指を立ててください」
「こう?」
「はい。それを反対の手で包みます」
もう一度親指を握る。
「右手で親指をすっかり覆ってから、内側へ曲げてください。ほかの指の陰に収まったら、右手を離します」
「曲げるの?」
「本当に引き抜く必要はありません」
言われたとおりに左の親指を曲げる。
右手を離した。
親指は掌の中に残っている。
「......取れてない」
「私からは見えなくなりました」
「でも、ここにある」
左手を開いて親指を伸ばす。
「ありますね」
「森下のは、取れたよ」
「外れたように見える位置から、ご覧いただきましたので」
もう一度親指を曲げて、右手を離した。
やっぱり指はくっついている。
森下のは取れたのに。
「森下からは取れてる?」
「今のは手の向きで見えてしまいました。見せる向きも覚えていただく必要があります」
手の甲を森下に向ける。
自分の親指を見ようとするとまた手が横を向いた。
「こちらに向けたままでお願いします」
「......うん」
自分の親指が見えなくなった。
少し手を横に向けると、曲がった親指があった。
手を開いて森下を見る。
「森下の、もう一回見たい」
「練習はよろしいのですか」
「うん。見る方が楽しい」
森下が親指を立てた。
右手で握り込む前に声をかける。
「今度は森下も私に合わせてね」
「合わせる、と言いますと」
「私がせーのって言ったら取って」
「承知しました」
森下が右手で親指を包んだ。
森下は手を重ねたまま動かない。
私も両手を膝に置く。
「せーの」
右の拳が離れる。
左の親指がなくなった。
「取れた......」
拍手すると、森下は右の拳を握ったまま、私を見た。
「戻す方の合図もお願いします」
「私が言う?」
「まだ戻せませんので」
「じゃあ、せーの」
森下が二つの手を重ねた。
右手を離すと、親指が立っている。
今度もちゃんと戻ってきた。
◇ ◇ ◇
最初の勉強会から、一週間ほどが経った。
ケヤキモールで買い物を済ませた帰り、オレたちは五人で公園脇の道を歩いていた。
ペーパーシャッフルに向けた少人数の勉強会は、幸村に三宅と長谷部の苦手なところを見てもらう話から始まった。そこに佐倉も加わり、勉強の合間に話すことも増えてきた。
お互いを下の名前で呼ぼうという決まりもできた。幸村のことは本人の希望で啓誠と呼んでいる。波瑠加や明人、愛里を名前で呼ぶのは、まだ少し慣れない。
グループチャットの名前は『綾小路グループ』。
なぜオレの名前になったのかは今もよく分からない。勉強を教えているのは啓誠で、今日の買い物に誘ったのは波瑠加だ。名前に合わせてオレが何かを仕切っているわけでもない。
それでもこうして用事のない時間を一緒に過ごす相手がいるのは悪くなかった。
「......綾瀬さん?」
隣を歩いていた愛里が足を止めた。
視線を追うと、公園の芝生に綾瀬がいた。木のそばで見覚えのない女子生徒と向かい合い、何かをしている。
綾瀬が顔を上げ、すぐに立ち上がった。
「佐倉。佐倉、こっち」
「あ、うん......」
愛里が歩き出すと綾瀬もこちらへやって来た。
「すごいの、見せてもらってた」
「すごいの?」
「うん。森下の指、取れるんだよ」
穏やかではない説明だった。
綾瀬は返事を待たずに振り返る。
木のそばにいた女子生徒もこちらへ顔を向けていた。
「買い物の帰りなんだけど......綾瀬さん、その子と知り合い?」
波瑠加が尋ねる。
「森下。さっき会った。指の取り方、教えてもらった」
「......取り方?」
波瑠加が聞き返す。
「うん。でも難しかった」
「Aクラスの森下藍です」
「綾小路清隆だ。綾瀬と同じクラスだ」
波瑠加たちも順に名乗った。
綾瀬は森下が一人ずつ頷くのを待ち、愛里の袖を少し引く。
「ここからだとよく見えるよ」
綾瀬がしゃがむと愛里も隣にしゃがんだ。
オレたちはその後ろに立つ。
「森下、森下。佐倉にも見せて」
「では正面からご覧ください」
「佐倉、見てて」
森下が左の親指を立て、右手で包んだ。
綾瀬は愛里の顔を一度確かめてから、自分も森下の手を覗き込む。
「せーの」
右の拳が離れる。
左の親指がなくなったように見えた。
愛里は森下の手を見てから、隣の綾瀬へ目を向けた。
綾瀬は身を乗り出して手元を覗き込んでいる。
愛里がオレを見上げた。
何か言いかけたが、また森下の手へ目を戻す。
「わ......」
声に綾瀬がすぐ振り向く。
「すごいでしょ。ほら、取れた」
「う、うん......すごい、ね」
愛里は少し遅れて頷いた。
視線がもう一度オレたちへ向き、すぐに綾瀬へ戻る。
それから口元に小さな笑みを作った。
「戻るところも見てて」
綾瀬はすぐに森下へ向き直った。
右の拳が左手へ近づくと、また合図を出す。
「せーの」
重なった手が離れ、左の親指が現れた。
綾瀬が拍手をすると、愛里も一拍遅れて小さく拍手をした。
森下はドヤ顔で親指を掲げている。
昔からある親指を抜いたように見せる手品だった。片方の手で覆っている間に指を曲げ、見えなくしているだけだ。
隣の啓誠が何か言いかけた。
愛里がそちらへ顔を向け、そっと首を横に振る。
啓誠は一度綾瀬を見て、口を閉じた。
愛里も仕掛けは分かっているらしい。綾瀬に頷き返しては、オレたちへ戸惑ったような目を向けていた。
「ね、ちゃんと戻ったでしょ」
「うん......ね、すごいよね?」
愛里がこちらを見上げる。
その目はオレたちにも話を合わせてほしいと言っていた。
波瑠加がオレへ顔を向けたが、オレにも適当な返しは思いつかなかった。
「清隆。どういう反応をすればいいんだ、これ」
明人が小声で聞いてくる。
「オレに聞かれてもな」
「森下、何回までできるの?」
「数えたことはありません」
「じゃあ、私が数えるね」
「合図もお願いできますか」
「うん。あと拍手もする」
「三つも担当していただけるとは。助かります」
森下が頭を下げると、綾瀬は早速両手を胸の前へ持ち上げた。
合図を出す。回数を数える。拍手をする。
演じる側より見ている側の方が忙しそうだった。
「もう一回、見たい?」
綾瀬がオレたちを見た。
もう何度も見せてもらっているはずなのに、まだ足りないらしい。森下が手を下ろすと、綾瀬の視線もその手を追っていた。
「その前に綾瀬心音。合図の途中でお休みにならないようお願いします」
「私が寝たらどうなるの?」
「戻す合図をいただけなくなります」
森下が左の親指を立ててみせた。
「取れたまま?」
「そういうことになりますね」
森下は真顔で頷いた。
綾瀬も真剣な顔でその手を見ている。
「じゃあ、終わってから寝る」
「それがよいでしょう」
「......手品と昼寝は、分けてくれないか」
啓誠が口を挟んだ。
合図を待たずに指を戻せば済む話だが、二人ともそこには疑問を持たないらしい。
波瑠加が綾瀬と森下を交互に見る。
「Aクラスにもこんな人いるんだね......」
「Dクラスにもいるようですが」
森下が綾瀬へ目を向けた。
「私も?」
「ほかにどなたが」
「でも私、まだ取れないよ」
波瑠加が口元を押さえて横を向いた。肩が小さく揺れている。
森下に変わり者扱いされたことを綾瀬は分かっていない。指を外せない自分は森下とは違う。そう言いたくて親指を握り直しているらしい。
あんなに真剣に確かめられては、波瑠加が笑ってしまうのも分かる。
しかも森下まで綾瀬の手元を見て頷いていた。
「ええ。その点ではまだ私が上ですね」
綾瀬も納得したように頷き返す。二人とも相手の言葉に引っかかるところはないらしい。
「綾瀬さんも教えてもらってたの?」
愛里が尋ねる。
「うん。でも難しかった。だから私が合図するの」
「そっか......」
「指を取るのが森下で、せーのって言うのが私」
「お戻しする方の合図もお願いしています」
森下が親指を曲げたり伸ばしたりした。
波瑠加は一度息を整え、こちらへ顔を戻す。
「......そっか。役割も決まってるんだね」
「うん」
「それなら私ももう一回見たいな」
愛里が森下へ声をかけた。
綾瀬がすぐに森下へ向き直ると、愛里はその様子を見てまた微笑んだ。
「森下、だって。もう一回」
「合図をどうぞ」
森下が両手を構えると、綾瀬と愛里が揃って手元を覗き込んだ。
「せーの」
親指が見えなくなり、また二人の拍手が始まる。
綾瀬は指が戻るたびに回数を言い、それから愛里を見た。愛里が頷くと、もう森下を呼んでいる。
森下も拍手が起こるたびに背筋を伸ばしている。指を戻した後もすぐには手を下ろさず、二人の顔を順に見ていた。
「拍手はありがたいのですが、この場所でやるには少々賑やかですね」
「拍手、やめる?」
「いえ。音だけなくしましょう」
森下が両手を胸の前へ持ち上げた。
「手のひらが合わさる直前で止めます」
両手を近づけては離す。音は一度も鳴らなかった。
綾瀬がすぐに真似をする。彼女の手は毎回ほとんど同じ隙間を残して止まった。
「森下、できた。音、しない」
「ええ。これなら静かなまま、拍手を続けていただけます」
森下がもう一度両手を動かす。綾瀬もすぐに同じ動きを繰り返した。
二人が向かい合って無音の拍手を交わしている。
「今度から、こうやってすごいってするね」
「ありがとうございます。十分伝わっています」
森下が深々と頭を下げた。
綾瀬も手を止めて頭を下げる。褒めた側まで礼をしていた。
「......何の練習を見てるんだろ、私たち」
波瑠加が小声で呟いた。
「昼寝じゃなかったのか」
明人の言葉に森下が顔を上げる。
「今は拍手です」
そこだけはオレにも分かっていた。
「愛里、そろそろ戻ろっか」
しばらくして波瑠加が声をかけた。
愛里が頷いて立ち上がる。
「綾瀬さんも一緒に戻る?」
「もうちょっと、見てから帰る」
「綾瀬心音。調査の方はどうしますか」
森下が尋ねた。
綾瀬は少し首を傾げる。
「......調査?」
「寝る場所の話です。忘れていませんか」
「あ」
綾瀬が周りのベンチを見た。
それから森下へ顔を戻す。
「もう眠くない」
森下も少し黙った。
自分の手を見て、両手を膝の上に置く。
「私も今から眠る気分ではなくなりました」
眠るための調査は二人とも眠気がなくなったところで終わるらしい。
何かが解決したような顔で綾瀬が頷いている。
「じゃあ、今日はここまでにしましょうか」
「うん。次に会ったら、またあれ見せて」
「まだ見たいのですか」
「うん。森下の、見たい」
森下は鞄へ伸ばしかけた手を止めた。
「では、もう一度だけです」
帰り支度を始めたはずの二人がまた向かい合う。
オレたちは顔を見合わせ、先に戻ることにした。
「綾瀬さん、またあとでね」
「うん。佐倉、また一緒に見ようね」
愛里に手を振ってから、綾瀬は森下へ向き直った。
「今度はせーのも二人で言おう」
「では声を合わせてください」
「「せーの」」
寮へ向かって歩き始めたオレたちの後ろで、二人分の声が重なった。
波瑠加がまた小さく噴き出す。
「......もう息ぴったりじゃん」
振り返ると、綾瀬は森下の手を見て拍手をしていた。
指を外すだけの手品に合図を出す人間が必要なのかは分からない。だが森下は律儀に待っているし、綾瀬も自分の合図で指が外れるところをじっと見ている。
どうやら変わり者同士で上手く噛み合っているらしい。
森下の相手は綾瀬に任せておこう。
今のところ、変人枠は綾瀬や高円寺で手一杯だ。
◇ ◇ ◇
綾瀬が公園を出た後も森下はしばらく木のそばに残っていた。
やがて鞄を手に取り、彼女も寮へ続く道に出る。
その先に寮の方から歩いてくる男子の姿があった。
同じAクラスの橋本正義だった。
橋本も森下に気づいて軽く手を上げる。
森下はAクラスでも変わり者として有名だった。何をしているのか尋ねただけで、どこへ話が進むか分からない。
橋本は挨拶だけで済ませるつもりだった。歩調を緩めず、そのまますれ違おうとする。
「橋本正義。先ほど、綾瀬心音に会いました」
橋本の足が止まる。
振り返ると、森下も立ち止まっていた。
「綾瀬に?知り合いだったのか?」
「いえ。今日初めて話しました」
「どこで?」
「公園のベンチです。私の特等席を見つけていました」
橋本は引き返し、森下のそばまで来た。
「それで何の話をしたんだ?」
「二人で眠る場所についてです」
「......二人で?」
「一人で使う場合と二人で使う場合では選ぶ条件が変わります。特に寝返りです」
橋本がもう一度口を開くより先に、森下が彼の顔を見た。
「橋本正義。だいぶ綾瀬心音にご執心のようですね」
「惚れたみたいに言うなよ」
「夏休みが終わってから、教室でよく彼女のお話をしていたでしょう」
「船上試験で同じグループだったからな。気になってもおかしくないだろ」
「ええ。体育祭の後も、話題がほかへ移っているのに彼女がどの競技で何をしたのかと尋ねていましたね。特に自分からは見えない女子の競技中のことで」
橋本が口を閉じた。
「よく覚えていたな」
「先ほど私が綾瀬心音の名前を出したら、すぐに足を止めたでしょう。その様子を見て思い出したのです」
橋本は彼女とすれ違おうとしていたときのことを思い返した。
名前を聞いただけで足を止め、そのまま引き返して話を尋ねた。あの反応から以前の会話まで思い出されるとは、考えていなかった。
橋本は短く笑って森下へ向き直った。
「あいつの力を見れば気にもなるだろ。体育祭じゃ一人でクラスの差をひっくり返せる力があったからな。これからどんな試験が来るか分からないんだ。知っておいて損はない」
「体育祭は私も見ていましたよ」
「なら分かるだろ?」
「足が速く、力が強いことは分かりました」
森下は淡々と言った。
それで話が終わったように、また歩き出そうとする。
「......お前は気にならないのか?」
「昼寝をする場所の選び方は、なかなかだと思いました」
「評価するのはそこかよ」
「体育祭では分かりませんでしたので」
橋本は小さく息を吐いた。
森下の視線は既に寮へ続く道に向いている。
「それで、寝る場所は見つかったのか?」
「途中で別のことをしていたので、まだです」
「別のこと?」
「私がお見せしたものを気に入ったようで、何度も見たいとお願いされました」
「あいつが?」
「ええ。披露するたびに拍手をして、お友だちにも見せてほしいと頼まれました」
「......何を見せたんだ?」
「あなたもご覧になりますか」
「ああ。気になるな」
森下は鞄を足元に置き、橋本へ向き直った。
「あなたがそれほど気にする綾瀬心音も、御するのは容易かったですよ」
「......御する?」
「こちらへ来るように言えば来て、手を動かすように言えば動かしました」
橋本の目が少し細くなった。
「どうやったんだ?」
「正面からご覧ください」
森下が左手の親指を立て、右手で握り込んだ。
親指が右手にすっかり覆われたところで、掌へ折り畳む。
折り畳んだ親指を左手のほかの指の裏に隠したまま、右の拳を横へ引いた。
手の甲を向けられた橋本からは、親指が引き抜かれたように見えた。
「はぁ?」
橋本は眉間を指で押さえた。
子供の頃に、彼も見たことのある手品だった。
握った手で隠れている間に、親指をほかの指の裏へ曲げているだけだ。
「これであいつが何度も見たいって言ったのか?」
「先ほどからそうお伝えしています」
「いや、そうなんだが......。御したと言うのは大げさだろ」
「ではこちらへ来ていただき、指を動かしてもらった事実はどう扱いますか」
「......手品を教えた、でいいんじゃないか?」
「それでは随分小さなことに聞こえます」
森下は右手を左手に重ね、親指を立て直した。
「ただ動きだけならすぐに覚えましたよ。一度説明すれば、同じように手を動かせました」
「じゃあ、できたんだろ?」
「本人は取れていないと言いました」
「そりゃ、本当に取れたわけじゃないからな」
「ええ。ですが綾瀬心音は、私が本当に指を外したと思っていたようです」
橋本が森下の顔へ視線を戻す。
「そこまで信じたのか?」
「正しい手順を知らずに使えば命を落とすと伝えたときも、私の話を疑いませんでした。すぐに親指から手を離しましたよ」
「お前、そんなことまで言ったのかよ」
「そのまま引き抜こうとされては困りますので。その後は私の手を見て、痛くないのかと心配していました」
「......世間知らずなんだな」
「その一言で済ませるなら、あまりお役には立たないでしょうね」
橋本は返しかけた言葉を止めた。
森下は親指を戻したまま、彼を見ている。
「何が言いたい?」
「問題集でも私が答えを言うと正解か確かめて書き込みました。どうしてその答えになるのかは尋ねませんでした」
「分かってたんじゃないのか?」
「一人で解けずに印をつけた問題です。その可能性もありますが」
森下が両手を下ろした。
「動きを覚えた後も、私に『取れてる?』と尋ねました。私からは見えないと伝えても、ご自分の指が残っていることを気にしていたようです」
「......素直なんだろ」
「ええ。ですが言われたとおりに動けることと、言った側と同じ意味で理解していることは別でしょう」
橋本は森下の左手を見た。
この手品の仕掛けなら彼にも説明できる。綾瀬に同じ説明をしたらどう受け取られるのかは、考えたことがなかった。
「それと橋本正義。私が彼女を御したと申し上げたときは、随分と熱心にお聞きになりましたね」
「そりゃ、気になるだろ」
「ええ。すぐに方法をお尋ねになりましたね。その後も『世間知らず』に『素直』。それで彼女が分かったことになっていませんか」
橋本が森下へ視線を戻す。
森下はもう親指を動かしていなかった。両手を下ろして彼を見ている。
「話が通じやすい相手なら、あの力も借りやすくなる。そうお考えではありませんか」
「......そこまで言った覚えはないが」
「ええ。ですから、もしそのおつもりでしたら」
森下は声を低めることもなく続けた。
「彼女が頷いたところで確認を終えないことです。何をするつもりなのかまで、ご本人に言っていただいてください」
「説明するのは俺の方じゃないのか?」
「あなたが何を言ったかは、あなたには分かるでしょう。確かめたいのは彼女がどう受け取ったかです」
橋本は返事をしなかった。
「指一本でも、私と彼女では見えているものが違いました。動き始めてから意味の違いに気づいても、あなたが止められるとは限りませんよ」
口元に残っていた橋本の笑みが消えた。
綾瀬に何ができるかを知れば、何を頼めるかも分かる。少なくとも彼はそのつもりでいた。
頼んだことがどう伝わるかまでは考えていなかった。
「今日会ったばかりにしちゃ、随分よく見てるじゃないか」
「目の前にいましたので。次に会えば、違うことが分かるかもしれません」
「それと橋本正義。あなたが彼女の力を借りるとして、得をするのはAクラスなのでしょうか」
「......当たり前だろ?」
「ええ。ですが彼女にどう勝つかより、ご自分が彼女の力を借りる方に関心があるようでしたので」
「相手を味方につけるのも、クラスのためだろ」
「そのためなら結構です。ではAクラスに協力するより、彼女に協力する方が有利だと思ったときはどうされますか」
橋本は口元に笑みを戻した。
「おいおい。俺がAクラスを裏切るとでも?」
「そうでなければ、私の考えすぎで済みます」
森下は彼の返事を待っていた。
冗談だったと笑うつもりはないらしい。
橋本は笑みを保ったまま森下を見た。
綾瀬について尋ねていただけのはずが、情報を得た自分がどう動くかまで疑われている。
教室で妙なことを言っている間も、周囲の受け答えをよく聞いていたのだろう。思っていたよりずっと目が利く。
「勘繰りすぎだ。俺は今のクラスを勝たせたいと思ってるさ」
「ええ。私もAクラスですので、そうしていただけると助かります」
森下はそれ以上尋ねなかった。
どこまで納得したのかは分からない。
彼女はもう一度親指を立て、話を綾瀬へ戻した。
「彼女も、ずっと私の言うとおりにしていたわけではありません」
「何だ?」
「練習より私がするのを見たいと言いました。合図に合わせて指を外すよう、お願いもされました」
「それで、付き合ってやったのか」
「はい。戻す合図を待つのは私も初めてでした」
「結局、お前の方が言うことを聞いてるじゃないか」
「お互いにお願いしただけです。橋本正義、あなたは何度も見たいと言われているところで、もう終わりですと断れますか」
「......さあな。そんなことを言われたことはないから」
森下が両手を下ろした。
「また会うのか?」
「どうでしょう。またお会いしたら、調査の続きをするつもりです」
「会ったら、俺にも教えてくれよ。少し話してみたい」
「あなたは眠いのですか」
「今は眠くないが」
「では、調査への参加は見送ってください。眠りたい人が使う場所を探していますので」
「そっちの話じゃないんだが......」
「お話があるなら、ご本人に話しかければよいでしょう。私を通す必要はありません」
森下は足元の鞄を手に取って歩き出した。
「それでは、橋本正義。ごきげんよう」
橋本は足を止めたまま、寮へ向かう森下を見送っていた。
森下は綾瀬の反応から理解の仕方を見抜くだけでなく、話を聞いていた橋本にまで探りを入れてきた。教室で交わされた会話と先ほどの受け答えだけで、クラスへの協力がどこまで続くのかを疑っている。
彼女の観察眼は橋本が考えていた以上のものだった。変わり者という印象だけで片付けていた認識は、改める必要があった。
他クラスの生徒と接したときも、同じように周囲を見ているのかもしれない。彼女が話の中で拾ったものには、聞く価値がありそうだった。
橋本はもう一度声をかけようとして口を開きかけた。
そこで、眠いのかと尋ねられたときの顔が浮かぶ。
少なくとも彼には、眠気を確かめる問いが冗談だったようには見えなかった。綾瀬と話す機会を探していただけのはずが、昼寝をする資格を確かめられていた。
橋本は口を閉じ、苦笑した。
情報交換を持ちかけるだけでも、どこへ話が転がるか分からない相手だった。彼はその洞察力を認めた分、話の噛み合わなさを惜しく思った。
橋本は自分の親指を立てた。
右手で包み、引き抜くふりをする。
仕掛けも手順も彼には説明できる。だが綾瀬がそれをどう受け取るのかは、本人に聞かなければ分からなかった。
曲げていた親指を伸ばし、橋本は手を下ろした。
次に綾瀬と話す機会があれば、こちらの説明をどう理解するのかも確かめてみようと彼は考えていた。
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