初夏の夜。書類の積まれたローテーブルの前でソファーに腰を深く下ろして座した自分は、卓上に置いていたシガレットケースへ手を伸ばした。
「……愛煙家にまた一歩近付くなこりゃ」
ケース内からシガレットを一本取り出してから咥え、近場にあったマッチ箱からこれまた一本取り出すと、それを擦って炎を灯し、軽く息を吸うようにしながら口元のシガレットへ点火していく。少しルームライトの光度を落としたせいか、橙の光が普段よりも眩く映る。
「禁煙しようと思った矢先なんだがな」
己の愚かさに苦笑しながら、シガレットを口元から離すと、肺へ送り込んだ煙を吐き出す。吸ってこそいるが、美味いものだとは未だに思えていない。
じゃあなんで吸ってるのかと問われれば、日課だからとしか答えられないな。アホらし、なんて思うけど、本当のことでもあるから困ってる。
自問自答しながら、シガレットの先から立ち昇る薄い白煙をぼんやり眺めていると、不意に玄関の鍵と扉が開く音が聞こえて来た。
「……連絡あったかな」
懐にしまっていた携帯を取り出してみるが、特に連絡の類は来ていない。唐突な来訪者ってところか。と言っても、この部屋の合鍵を渡している人物は一人しかいないため、来た人物は確定しているようなものだが。
シガレットを咥え直し、一呼吸した自分は再びそれを口元から離す。その直後、部屋を仕切っている扉が開かれ、来訪者が姿を現した。
「近江さん」
やって来た人物の名を呼びながら、反射的に手にしていたシガレットを灰皿の方へと持っていく。この人の前だと、何故だかあまり吸いたくない、という気持ちに駆られるため。
「あ、そのままで良いよ」
彼女からの制止を貰い、灰皿に伸ばしていた手を止め、自身の方へと引き戻し再びシガレットを咥え蒸す。
ニコチンが脳に達した様な感覚になりつつ、近江さんへと言葉を投げる。
「珍しいですね。連絡もなしに」
「安否確認だよ〜。玲君、気付いたらポックリと逝っちゃってそうだから」
冗談混じりに告げ笑った彼女は、自分の隣に腰を下ろす。ポックリ逝ってそう、ねぇ。なんか、的を得てる気がして反論できないな。末期ではなかろうか?
「はは、否定できませんね」
「そこは否定できるようにしてよ」
「善処します」
否定できない旨を正直に伝えたら、否定できる様に頑張ってくれと返されました。努力はしますけど、現状のままだと激務による精神の摩耗とニコチンによる生命加速で早死にしそうだよねって。はぁ……昔なら『震えるぞハート、燃え尽きるほどヒート、刻むぞニコチンのビート』とかふざけてる余裕あったんだろうけどなぁ。それが咄嗟に出てこなくなったのは、大人になった故なのか、社会に揉まれた故なのか。
「ねぇ、一本頂戴?」
自身の現状を鑑みて内心ため息を吐いていると、近江さんからタバコが欲しいと言われました。あれ、近江さんって喫煙者だっけ?
「近江さんって吸われるんですか?」
「うん。そんな頻繁に吸わないけどね〜」
「そうだったんですね。どうぞ」
シガレットケースから再び一本を取り出し、近江さんの方へと差し出す。
対する彼女は、受け取ったシガレットと卓上にあるマッチを交互に見た後にこちらへと向き直る。
「火、貰うね」
そう言ってシガレットを咥え、こちらのシガレットに近づけてくる近江さん。彼女のやりたいことを悟った自分もまた、己の持つそれを咥えると、彼女の咥えているものと交差させ少し吸い込む。
互いのシガレットが触れ合って数秒程経った頃、近江さんの咥えている方に火が灯る。
「シガーキス、って言うんだよね今の?」
悪戯な笑みを携えて投げかけてくる近江さん。無意識だったのか、狙ってやったのかは知らないけど、何故か嬉しそうに見えるのは何故だろうか。
「確かそうでしたね」
口内に含んでいた白煙を吐き出しながら彼女の問いに頷く。シガーキス、知見こそあったが実践したのは初めてだったりする。やってみた感想は、簡単そうに見えて全然そうではなかった、かな。
「やってみると、案外難しいですね」
「確かに。もっとスムーズに火が着くのかなって思ってたけど、意外と時間が掛かったね」
彼女の返しに無言で頷き同調の意を示す。点火するまで数秒程だったけど、体感はもっと長かった気がしてる。不思議だね。
そこで思考を切り上げた自分は、シガレットを咥え直し吸い込む。
「……それで、本当はどうされたんです?」
「どう、って?」
煙遊びの最中、徐ろに近江さんへと投げかけてみると、どこかぎこちない反応を返してくれる。これは多分、図星のようだ。
「安否確認って用件以外にも、何かあるんじゃないかと思いまして」
視線を近江さんの方に向けながらさらに言葉を紡ぐ。この辺に関しては正直なところ直勘だよりで訊いてるところはある。
「どうして、そう思ったの?」
「普段吸ってない人間が煙草くれなんて言う時は何があった時じゃないかな、と。あとは何の連絡もなしに来たことなんかもそれの裏付けじゃないかなって」
理由付けしながら詰めていく。別に詰問とか尋問してる訳じゃないんだけど、なんかそんな感じになってるね今。これ人によっては不快感を与えるからやっちゃあかんことだと思われ。
「鋭いね、玲君は」
そう言って困ったように笑う近江さん。心なしかその笑みには、どこか影が落ちているように見えた。ああ、無理をしているんだろうなって
。
「初歩的なことですよ、
「それって、シャーロック・ホームズだっけ?」
悪戯混じりな自分の言葉に反応してくれる近江さん。学生時代に彼女へ本を貸したな、なんて思いながら新たに言葉を紡いでいく。
「一応それを意識した言い回しですね。最も、原典においてホームズ本人はこのセリフを述べてはいないんですけど」
そこまで言って、視線のみを彼女の方へ向ける。すると、その意を汲んでくれた近江さんがぽつりぽつりと話し始めた。
「今日、ね。振られちゃったんだ」
「なるほど。じゃあ、今日はその勢いのまま来たって事ですね」
いつの間にか燃え尽きていたシガレットを灰皿に強く押し付けながら納得したように呟く。近江さんがお付き合いしてる方が居るってのは知っていたけど、まさか振られてしまうとは思ってなかったし、傷心した状態で自分のところにやって来るっていうのも予想外だよ。
「来た理由は分かったけど、自分の所に来て何を——」
問い掛けつつ次のシガレットを出そうとケースに手を伸ばしかけたところ、不意にシガレットを灰皿に置いたことにより空いた近江さんの両手が、こちらの両頬に添えられ、そっと彼女の方へと視線を誘導される。
抗う間も無く、それに従って彼女と正体した途端、口腔内に広がる吸い慣れた煙草の味と鼻腔内に広がる近江さんのお日様のような優しい香り。そして、最後に混ざってくる煤けた副流煙の薫り。
どれくらい経った頃か、その感覚する狂うほどの衝撃に襲われていると、互いの唇が離れ彼女が言の葉を紡ぐ。
「全部、玲君で上書きしてよ」
——どうやって、問いを投げようとした瞬間、世界が大きく揺ぐ。自身がソファーの上に倒されたと気付いたのはそれから十秒ほど経った後の事だった。
「このえ、さん……」
「悲しいこと全部、忘れさせて」
両の手をゆっくりと絡ませながら告げてくる彼女をただただ見上げる。
この後に何が起こるかは想像に難くない。
「ワガママで……ごめんね」
瞳の端に涙を浮かべながら、消え入りそうな声で呟いた彼女が、自分の右耳を甘噛みして来た——
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