「あの……そろそろこのバイトを辞めていいでしょうか」
トリニティ総合学園自治区のとある雑居ビルで、一人の少女が気まずそうに辞退の意思を示す。
薄暗いその部屋の奥には、整った黒いスーツに身を包んだ”大人”が椅子に体を預けて座っていた。
「ふむ。理由をお伺いしても? あなたからの報告では、仕事の内容も状況もそれほど悪くないように聞こえましたが」
けれど、その大人の頭部は少女の常識からは外れたものだった。人の頭の形はしている。けれど、闇を人の頭の形にして塗り固めた様な黒い頭に眼球に相当する部分が妖しい光を発しているその姿は到底普通の人間だとは思えない。
故に、少女はその声に恐怖をにじませ、震える唇で問いに答えた。
「た、確かに……あなたの言う通り私達は渡世フタバを……その、とても
「はい。確かにそのようですね? ではなぜ?」
”黒服”に身を包んだ男の問いに、少女は自分の肩を抱きしめながらぶるりと体を震わせた。
「最近、なんか変なんです。なんていうか……私達の
その時のことを思い出したのか、少女は再び体を震わせた。
「表情も声も嬉しそうにしているし、いつも一緒にいる仲正イチカが見ている時なんかこれ以上ないくらい楽しそうな顔をするのに……目が……」
「……目、ですか?」
黒服の問いかけに少女は僅かに呼吸を乱れさせながら両手で反対の二の腕をぎゅうっと掴んで叫んだ。
「おかしいんです! 顔も声も嬉しそうにしているのに、目が……目だけが死んでるの!! なんて言ったらいいか分からないけど、あんなの……あんなの人間がする目じゃない!!」
「落ち着いて、落ち着いてくださいお嬢さん。紅茶でもいかがですか? あなた方にはお世話になっていますから、良い茶葉を手に入れてありますよ」
「そんなものいらない! もう嫌! 私だけじゃないの! 皆、皆同じこと言ってる!! 渡世フタバはイカレてるって!! アレに関わってたら、こっちまでおかしくなるんだって!! だから、辞めようって皆言い出してるの!」
部屋中に響く大声で自らを苛む恐怖をさらけ出した少女は、肩で息をしながらその場にかがみ込む。
空調の音だけがかすかに聞こえてくる静かな室内に、助けて、もう嫌とぶつぶつと少女が呟いている声を黒服は確かに聞き取っていた。
「ふむ……これは少々計画を前倒しにする必要がありそうですが……まあ問題ないでしょう。分かりました」
「え……」
黒服の言葉に、少女がゆっくりと顔を上げる。そんな彼女を、黒服の目が真っすぐと捉えていた。
「これまでのご協力誠にありがとうございました。あなた方の気持ちは分かりましたので、契約満了としましょう」
黒服の言葉に、少女が僅かに安堵の表情を見せたその瞬間だった。
「ただし、最後に一つだけお願いがございまして。ああ、安心してください。これまでのような”派手な”お仕事ではありませんよ。至って平和的で、穏やかなお仕事です」
「さて、上手くいくといいのですが」
少女がビルから逃げるように走っていくのを、窓から見下ろしながら黒服は呟いた。
「神秘の裏側、つまり恐怖。それを、生きている生徒に適用することが出来るかどうかの実験。……暁のホルスで試そうと思っていましたが、なかなかどうして。神というものがいるのならばかの存在も随分と酔狂なもので」
くつくつ、と喉を鳴らすように笑いながら黒服は再び椅子に腰を下ろす。
彼の前には机に置かれたラップトップが開かれており、そのディスプレイには渡世フタバを盗撮したのであろう写真が何枚か表示されていた。
「ヘイローの変異は、存在の根幹に関わる部分に何かしらの変化が起きたものと考えられます。ましてや双葉の片方の葉の色が変わったとなれば──それも、暖色系と寒色系に別れたのであれば。一つの体に二つの精神が宿った、あるいは分離したと考えるのが一番自然でしょう」
机に両肘をついて手を組みながら、黒服は再び肩を小さく震わせて笑う。
「限りなく死に近い体験の後一年の昏睡期間を経て目覚めた存在。非常に不安定な精神。神秘の強さは暁のホルスほどではないにしても……ある意味”反転”の土台は彼女以上と言っていい。……楽しみですねえ。あなたは、一体どんな存在に成ってくれるのでしょうか」
そうして、静かで殺風景な部屋に低く、それでいて愉悦を隠し切れない笑い声がしばらくの間響いていた。
すみません、投稿遅れました。
8月から復職して、仕事を再開していたのですが執筆に回せる体力が中々確保できず……
ちょっとしばらくペース落ちます。