生徒会長からの誘いを受けてから三日経った。
あれからずっと考えていた。生徒会に入れという誘いを受けるべきかどうか。
条件を考えれば断るという選択肢はほとんどないと思う。
面倒な仕事を任されるかもしれない、というリスクよりも万が一俺がまたバケモノになったと止められる人が傍にいるというのだ。
またあんなことをしそうになっても、誰かに止めてもらえるんだ。
もしかしたら、面倒を見て貰っている内にバケモノにならないようにあの感覚を制御する術を身に着けられるかもしれない。
そしたら、あわよくば俺は”俺”を肯定できるようになるかもしれない。
……そしてもう、何かに怯えて生きなくても良くなるのかもしれない。
一方で、誘いを断ったとしよう。
俺はこれから卒業するまでずっとあの日のことを思い出して、自分の抑えが利かなくなることに怯えて生きていかなくちゃいけなくなる。
しかも、一回でも暴れたら即座に退学だ。そうなれば真っ当な生き方なんてこの世界でも送れなくなるのは確実だ。
……どう考えてもこの誘いを受けるべきだ。
なのに、放課後になっても俺の足は動かなかった。
理屈では行くべきだって分かってる。でも、心が拒否していた。
だって、生徒会にはイチカちゃんがいる。
そして、生徒会長が俺を誘った理由は……十中八九あの子の為だ。
つまり、生徒会に入れば俺は確実にいつかイチカちゃんに会わなくちゃいけない。
俺がこの手で傷つけた、イチカちゃんにだ。
……分かってる。謝れば、きっとイチカちゃんは許してくれる。
謝らなくたって、イチカちゃんの方から謝って来るに違いない。
それに「お互い様だから」と答えればそれで終わりだ。それだけで終わる話なんだ。
そう分かってるのに。
もし。もしも。イチカちゃんから拒絶されてしまったら? いつかまた、あの日のように訳分かんなくなってイチカちゃんを傷つけて、今度こそあの子から見放されちゃったら……?
右手が冷たい。冷たくて、小さく震えて仕方がない。
このまま帰ってしまいたい。何もなかったんだって、甘んじて停学処分を受けて閉じこもっていたい。
でも、心のどこかで早く進路指導室へ行けと叫ぶ自分がいる。
これが正真正銘、最後のチャンスだって叫ぶ自分がいる。
結局どうしたらいいのか……どうしたいのか分からない。分からなくて気分が悪くなってくる。
呼吸がちょっとずつ浅くなって、喉の奥が締め付けられるような感触がする。
行かなくちゃいけない。行きたくなんてない。逃げちゃいけない。今すぐ逃げ出したい。
そんな矛盾だらけの頭の中が辛くて、辛くて。自然と涙がにじんですら来た。
それでも、ずっと教室にいるわけにもいかなかった。行くにしても逃げるにしても、ここから出ていかなければならない。
頭の片隅でそれだけを思って、一番下に銃を押し込めたカバンを持って立ち上がる。
歩く速度は極めて遅い。一歩、一歩となんとか踏み出しているといった感じだ。
頭の中は生徒会長達のところに行くか、何もなかったことにして逃げるかでいっぱいなのに、いつも通り周囲からの視線と声が頭に突き刺さって来る。
その全てを頑張って無視をしながら、俺は歩く。……自然と、足の向いた先は昇降口になっていた。
そう。結局逃げることにしたんだ。
だって怖い。イチカちゃんに会うのが。これからの人生を天秤にかけたって、人生の重みが負けてしまうくらいには怖くてたまらない。
フタバちゃんのせいで。フタバちゃんなんか。
そんな言葉をあの子の口から聞くのが恐ろしくてたまらない。想像するだけで吐きそうになる。
……いや、一番怖いのはそんな俺の過ちを咎める声なんかじゃない。
あなたなんてフタバちゃんじゃない──そう言われるのが、本当に怖いことなんだ。
だって、事実だから。”俺”は、仲正イチカの知っている渡世フタバじゃない。
俺だって望んでこうなったわけじゃない。そう言えたらどれだけ気が楽だろう。
でもきっと、イチカちゃんに否定されてしまったら俺はきっともう生きていけない。
俺だって”俺”を肯定できずにいる中で、真実を知らないとはいえあの子だけが”俺”を肯定してくれていた。
どんなに辛くても、ギリギリ死なないでいられたのはそれがあったから。たとえまやかしだったとしても、あの子の温もりが「ここにいていいんだ」って気持ちにさせてくれたから。
なのに、俺はあんなことをした。イチカちゃんを傷つけた。
望む望まないにかかわらず、最後の命綱を自分で切ったんだ。
そんな俺が、今更どの面下げてあの子の前に行けばいいっていうんだ。
なんて言い訳をつらつらと頭の中で並べ立てながら、俺はのろのろと昇降口に向かって歩く。
邪魔する奴なんていない。海が割れるように、俺の行く道が空けられていく。
何の障害もなく、げた箱から革靴を引っ張り出して上履きと履き替える。
ずり、ずりと靴底を擦る音を立てながら校舎から出る。
その時だった。金切り声が俺の耳に思い切り突き刺さった。
「やめなさいイチカ!!」
生徒会長の声だった。なんで生徒会長の声が。いやそれよりも。
会長は、誰を呼んだ?
油の切れたブリキ人形のようにぎこちない動きで、声のした方へ首を回す。
「…………!」
校舎の屋上に焦った顔の生徒会長がいる。
そして、そんな生徒会長の視線の先。校舎を繋ぐ渡り廊下の上、その真ん中。その縁に一人の生徒が立っていた。きっと屋上の手すりを越えてそこに行ったんだろう。
そこにいたのは艶やかできれいな黒い髪をセミロングにして、濡れ羽色の翼を生やした女の子。
見間違えるわけがない。イチカちゃんだった。
でも、その顔は酷いものだった。
ここからでも分かるくらいに酷い隈に、光の無い目。そして何もかもを諦めた様な、生気のない笑み。
ああ、よく知っている。俺はその顔を誰よりもよく知っている。鏡越しに、ずっと見てきた顔だ。
そして、あの子にそうさせてしまったのが一体誰なのかを、とてもよく知っている。
頭が痛い。目の裏が熱い。
喉が締め付けられて、息が出来ない。この後に起こるであろう光景を誰に説明される必要もないくらいにくっきりと思い描くことが出来る。
「ぐ……ぅ……!」
目の前が赤くなっていく。今すぐここから離れなきゃいけないと、そう直感した。
だってこの感覚は”あの時”とおんなじだから。
このままここにいれば、きっとあの時よりもずっと酷いことになる。今度は過剰防衛にすらならない。
罪を罪で上塗りするなんて言葉じゃ生易しいことを、俺は起こしてしまう。そんな感覚が確信に変わっていく。
なのに、動けない。杭でも打ち込まれたみたいに、足が言う事を聞かない。
その間にも、俺の耳には頭上からの声が突き刺さる。
「もう少し、もう少しだけ時間をくれませんか!? そうすればきっと──」
「ハスミ先輩……もういいっすよ。もう、十分です……」
普通ならきっと聞こえないような、イチカちゃんのやつれた声すらはっきり聞こえる。
お腹の奥で、マグマが煮えた様な不愉快な感覚が広がっていく。
なんでこんなことになってんだ。そんな答えがハッキリしてる意味のない問いが俺の中を埋め尽くしていく。
誰のせいでこんなことになったんだ。答える価値もない下らない問いがハッキリと怒りに変わっていくのが分かる。
どうして俺がこんな気持ちになんなきゃいけないんだ。これ以上ないくらい自分勝手な怒りが、俺の中で暴れまわって俺を内側から食い尽くしていくのが分かる。
世界がぐるぐると回ってるような感覚がする。
もう抑えられない。そう感じた瞬間だった。
「イチカッ!!!!!!」
生徒会長の悲鳴のような声と共にハッとなって顔をあげる。
視線の先で、イチカちゃんの体が渡り廊下から投げ出されたのが見えた。
身を投げたイチカちゃんと、目が合う。
うっすらと笑いながら、イチカちゃんの唇がわずかに動く。
──ごめんね。
世界が止まる。体の中で何かが壊れた様な音が聞こえた。
「ぅぅうううわあああああああああああああああああああああああああっっっ!!!!!!!!!!!」
自分の喉から出たとは思えないような声で叫ぶと同時に、ずっと動かなかった足がようやく地面を蹴飛ばした。
それだけで、
ありえない位のスピードが出ているはずなのに、オレの目はちゃんとイチカのことが見えていた。
そうして落ちるイチカを抱きとめながら、足を前に投げだして着地の態勢を取る。
革靴の底を削りながらなんとか止まろうと踏ん張った。
けれど、結局靴底が何かかがぶつかって左足首に鈍い痛みを感じながらオレはイチカを抱きかかえたまま前へと投げ出された。
腕の中のイチカを傷つけないように。それだけを考えて体をひねりながら背中から着地しようと試みて、結局右腕から勢いよく地面に叩き付けられる。
ぐき、と嫌な音が聞こえたのを無視しながらゴロゴロと地面を転がった。
ようやく世界が回るのを止めた頃、オレは腕から力を抜いて胸の中のイチカを解放する。
流石のイチカも目を回しているのか、茫然とした表情で虚空を見ていた。その瞳にオレの姿は映っていない。
それがめちゃくちゃムカついた。呼応するように左足首と右腕の痛みがジンジンと存在を主張しだす。
残った左手で拳を作る。今なら避ける間もなくこの拳をその面に叩きこめる。
誰が今この場でお前の命を握ってるのか、分からせてやれる。
けれど、作った拳を振り上げることは出来なかった。内臓をぐつぐつと煮込まれてそうな不快感を抱えたまま、オレはその場から離れる。
なんでもいいから、この拳の振り下ろす先が欲しかった。そこにいるイチカ以外で。
足と腕の痛みは、不思議ともう感じなかった。それを良いことに、オレは走ってその場を後にする。
後ろから待って、と言われた気がしたが無視をした。
後ろの方から聞こえてくる一切合切に耳を塞いで、ただがむしゃらに走った。
もう、何もかもどうでも良かった。ただこの
ただその一心で、オレは誰もいない道路をひた走った。