差し伸ばされたツルギ先輩の手を前に、冷たくなった僕の右手からハンドガンが離れた。
だって辛かったんだ。いつまた自分が自分でなくなってしまうかに怯えながら生活することになったら、って想像したら。
今日みたいに抑えられなくなって今度こそ誰かを殺してしまったらって思ったら。
そんな想像をすることすら、もう疲れてしまった。
ずきずきと痛む右腕をゆっくりと持ち上げて、先輩の手を取る。
温かかった。ほんのちょっぴり、指先がピリピリすると感じるくらいだからむしろ熱くすらあったかもしれない。
ともかく、手を取った俺を見て先輩は薄く笑った。戦ってた時からはとても想像できない位、優しい笑顔だった。
……この人だったら。この人だったら、頼ってもいいかもしれない。
そんな祈りにも似た感情が湧いてくると同時に、体から力が一気に抜けていく。
まぶたが重い。なにもかんがえられない。
ただ意識を失う直前に、ふわりとした温もりに包まれたことだけが分かった。
剣先ツルギは自分の手を取った渡世フタバを立ち上がらせようとして、彼女が意識を失ったことに気づき慌てて抱き留めた。
呼吸は安定しているから、気を失っているだけのようだ。
とは言え、かなりの無茶をさせただろうからどこかでゆっくりと休ませる必要はある。
とにかく、どこか安全な場所──学校の保健室辺りにでも連れていく必要があるだろうとツルギはフタバをおぶった。勿論、彼女の銃も忘れずに拾う。
「……軽いな」
フタバを背負って歩き出したツルギは、そのあまりの体の軽さに思わずつぶやいてしまった。
全く手入れをされておらず、肩より下ほどまで伸びたボサボサの髪。キヴォトスの生徒にしては珍しくスカートを全く折らない為に膝下まである制服のスカート。そして長袖の制服。
身だしなみを整えているようには見えなかったから、ある程度の想像はしていたつもりだった。
けれども、こうして背負ってみればフタバが最低限の食事すらもしてないのではないか、と思ってしまうくらいには彼女は軽かった。
ツルギの背中にもたれかかった彼女の腕も、背負う為に持った足も、異常なくらいに細かった。それこそ、ほんの少し力を入れれば折れてしまいそうと感じてしまうくらいには。
フタバを背負って学校への道を戻りながら、ツルギは背中の少女のことを考える。
ツルギはフタバのことをあまり知らない。ただ、生徒会の後輩であるイチカとかつて仲が良かったこと。そんな彼女を庇って一年昏睡していたこと。奇跡的に目を覚ましたが、記憶を失っていたこと。そんな表面的な情報しか知らない。
だが、そんなフタバをイチカがずっと気にかけていたことは知っている。
その思いが、並々ならないものであることも。
フタバが不良達に呼び出され向かった先のビルから飛び降りた時のイチカの取り乱しようは尋常ではなかった。
普段は人当たりの良い笑みで先輩、後輩関係なく頼りにされるほどの彼女が、小さな子供みたいに泣き叫びながら助けを求めていた。
飛び降りたフタバの命に別状はないのは奇跡だった。だが、神様はそこで満足はしなかったらしい。
異変に気が付いたのは最近だ。フタバが目を覚ました、そうイチカから聞いた時はハスミと共にホッと息をなでおろした。
けれど、それからすぐにイチカの様子がおかしいことに気が付いた。
どこか遠くを見るような仕草が増えた。その目が
だが聞いてもイチカははぐらかすばかりで、どうすることも出来なかった。何があったのかも教えてくれなかった。
このままではマズい。それだけは分かった。
だから、ハスミと相談した。イチカを助ける為に何が出来るか。
出した結論がフタバを自分達の目の届く場所に置いて、イチカとの時間を増やせるようにすること。そして前のようにフタバに危害が加わらないように守ることだった。
「遅くなって、すまなかった」
自分の謝罪がフタバに聞こえるはずはない。
そう分かっていても、ツルギは呟かずにはいられなかった。
もっと自分がしっかりしていれば。もっとよく見ていれば。何かもっとできただろうに。
少なくとも、フタバが目覚めてから常に何かに怯えているのは何度か見ていたはずだった。
イチカと登校中に不良に絡まれた時。学校の廊下ですれ違った時。廊下の隅で他の生徒に囲まれ、一人でうずくまっているのを見た時。
いつだってフタバは体を小さくしていた。そうすることでしか身を守れないかのように。
今にして思えば、キヴォトスの学生にしては余りにも弱弱しすぎる自己防衛だ。その違和感に、もっと早く気付くべきだった。
多少筋が通らなかったとしても、フタバを目の届く場所に置くべきだった。
そんな意味のない後悔がツルギの中に少しだけ沸き上がる。その時だ。
「ツルギ!」
正面から走って来るハスミが現れた。息を切らしているあたり、本当にずっと走り続けていたらしい。
駆け寄ってきたハスミは、自分の背中に背負われたフタバを見て表情を
「ツルギ、彼女は──」
「落ち着け、気を失っているだけだ」
ツルギの返答にハスミは強張った体から力を抜くようにゆっくり、長く息を吐いた。
そんな彼女の反応に、今度はツルギが問いかける。
「……イチカの方は?」
ツルギの問いに、今度はハスミが笑みを浮かべる番だった。笑みというには、疲れがにじみ出過ぎていたけれど。
「先程までずっとうわごとのように渡世さんの名前を呼んでいましたが、今は疲れたのか眠っています。念のため、他の生徒会役員には傍についてもらっていますが」
「そうか……」
どうやら、向こうも落ち着いたらしい。最悪の事態だけは、避けられたようだ。
しかし、あくまで避けたのは最悪の事態だけだというのはツルギには分かっていた。ハスミの眉間に小さくシワが寄っているのを見るに、彼女も言わずとも分かっているのだろう。
「……渡世さんは、生徒会に入ってくれないのでしょうか」
「いや、脈はありそうだった。……最も、返事を聞く前に眠ったが」
「そうですか……一歩前進、ですね」
ハスミの言葉にツルギは小さく頷く。本当に小さな一歩だろう。
フタバを、イチカを助けるには今の自分達は余りにも渡世フタバという少女を知らなさすぎる。
それでも、なんとか小さな希望をつなぐことはできた。そう信じたい。
「……生徒会長として、失格ですかね。私は」
不意に、隣からそんな不安そうな響きを含んだハスミの呟きが聞こえた。
きっと、さっきツルギが感じていたのと似たようなものがハスミの中でも沸き上がっているんだろうということは簡単に想像できた。
「……お前も私も、神じゃない。失敗したなら、悔い改めて明日に繋げるしかない」
それはツルギにとっても自分を慰めるための方便だった。
自分のせいで人が死にかけたなんて、そんなこと真正面から受け止めることなんて出来っこない。
これから自分達がやろうとしていることが、そんなどうしようもない現実から自分を守る為の偽善でしかないことはツルギは分かっているつもりだった。
だからこそ言うのだ。私達は全知全能の神じゃないんだから、失敗したって仕方がないと。
失敗したって仕方がないか弱い存在なんだから、明日頑張ることで赦してもらいたいと。
「……そうですね」
そんなツルギの言葉の裏側まで察してくれたのだろう、ハスミが小さく頷いた。
「帰りましょう、ツルギ。あなたも、お疲れ様でした」
「お互いにな。後で美味しいものでも食べに行こう。これからまた忙しくなる。腹が減っては、とも言うだろう」
「……では、スイパラにでも付き合って貰いましょうか」
何処か覇気のないハスミの声に、ツルギもまたいつもより力のない声で……それでもからかうように笑った。
「なら、今日は体重計をしまわないとな」
そんなツルギの意地悪な軽口に、ハスミも珍しく怒ることなく笑って返した。
「いいえ。今日測っておけば、きっと明日からは毎日見る楽しみが増えますよ」