頑張ってね。
悪夢での目覚め
目が覚めた。
えっと……俺は何をしていたんだっけか。
ああ、そうだ。仕事に行かなくちゃ。
そこまで考えて、ふと目に映る景色が見覚えのないものであることに気が付いた。
知らない天井だ。なんて散々ネタにしていた言葉が自然と頭の中に浮かぶ。
状況が呑み込めない。酒でも飲みすぎて、倒れてしまったんだろうか。
「ぁ…………?」
息を吸い込んで、体を起こそうと少し力んでみた時に声が漏れた。
「……ぇ? え?」
もう一度声が漏れた。やっぱり、聞き馴染みのない声だ。
いや、聞き馴染みがないなんてものじゃない。酒で喉が焼かれたせいだとか、風邪を引いたから声がしわがれているとかそんなレベルじゃないんだ。
俺は男だ。2024年の日本に生きている、どこにでもいるようなオタクやってる男だ。そのはずだ。
なのに、今俺の鼓膜を揺らした声は明らかに女の子の声だった。
意味が分からない。はてなマークで頭の中がいっぱいになる。
俺は、
待てよ。待ってくれ。誰だ渡世フタバって。俺の名前はそんなんじゃない。俺の、俺の名前は──。
……俺の名前は、一体何だったっけ?
呼吸が荒くなる。意味が分からない。記憶喪失? 自分の名前だけ? そんなフィクションの中で起きるご都合主義にまみれたようなイベントが実際に起きるのか?
落ち着け。自分のことをゆっくりでいいから思い出せ。きっとこれは何かの間違いだ。そう言えば昨日は会社の飲み会で上司のくだらない話に付き合うために飲みなれてない日本酒を結構飲んでしまっていたような気がする。
きっとここは病院だ。それなら労災ってことで休みとかお金とか貰えるかな。
ああそうだ。今週は楽しみにしていたレースゲームの新作が出るんだ。この日の為にゲーミングデスクだとかハンコン*1やシフター*2とかを買ったんだ。
いや。違う。そうだ。ボクは街を歩いてる時に不良に出くわして、それでイチカちゃんが車に
違う? 何も違くないだろう。なんだボクって。今の記憶は何なんだ! 俺はこんな記憶
イチカって誰だよ。いや、ボクの幼馴染だよ。綺麗な黒い髪で糸目気味で、すぐカッとなる癖にそんな自分が好きになれないほっとけない大事な幼馴染だ。
「あ……ああ……」
意味が分からない。怖い。俺は、一体──何なんだ?
イチカちゃんは大丈夫だったのかな。なんて
知らないはずなのに知っている記憶が湧いて出てくる。
イチカという幼馴染が暴れたところに駆けつけて、必死で止めたこと。
暴れたことへの自己嫌悪で落ち込んで泣きじゃくるイチカを仕方がない子だなあって笑いながら慰めたこと。
呼吸がどんどん荒くなる。肺の中の空気はどんどん吐き出されるのに、息が上手く吸い込めない。
苦しい。気持ち悪い。これ以上、意味の分からない記憶なんて思い出したくない!
なのに、俺の頭は俺の知らない記憶をどんどんと掘り起こしていく。
泣きじゃくるイチカ目がけて突っ込んでくる車に気が付いて、彼女を守ろうと突き飛ばしたこと。
フタバちゃん、と悲鳴のような声で名前を叫ばれたのと同時に体中をすごい衝撃に襲われたこと。
ああ、ボクはあの車に轢かれたんだ。そんな事実を思い出すと同時に、遂に限界が訪れた。
「お”……おぇっ……ぉ”ぉ”ぇ”っ!!」
胃袋がひっくり返るような強烈な不快感にとっさに仰向けだった体を横に向ける。
直後、胃液が喉を逆流して口から吐き出された。
喉がひりひりと痛んで、すっぱくて不愉快な味が口の中一杯に広がり、真っ白なシーツに黄ばんだシミを作る。
出て来たのは本当に胃液だけだった。そんな目の前の現象に、俺がさっき思い出したはずの昨日の飲み会の記憶が急に現実味を無くしていく。
だっておかしいじゃないか。散々飲んで食べてをしてぶっ倒れたっていうんだったら、どうして今吐き出されるのが胃液だけなんだ。
そんな思考にまた胃袋がひっくり返るあの感覚がした。
けれど、今度は何も吐き出されなかった。胃液すら残っていないのかもしれない。
体から力が抜けていく。息が上手くできなくて、意識が遠くなっていくような感覚がする。
誰か助けてくれ。そんな言葉が頭に浮かんでくるけれど、もうどうしたらいいのか分からない。
体が動かない。口の中は酸っぱいし、枕とシーツからも不快な酸っぱい匂いがする。
けれどそれをまともに見つめる力さえもうなくて、浅い呼吸をただ繰り返すことしか出来ない。
ふと、自分の手が視界に入った。
記憶にあるのとはずいぶん違う、白くて細い女の子の手だ。
そう言えば、ゲロ吐く時の声もやっぱり女の子の声だったような気がする。
でも、そのことに違和感を感じたりとか混乱する力さえもう残ってない。
そうして自分の目が開いているのか閉じているのかも曖昧になるのに合わせて意識が遠くなっていく。
意識が完全に消えるその直前、誰かが部屋に入ってきて俺の傍に駆け寄って来るような音と、慌てたような声で誰かを呼んでいる声が聞こえた気がした。
それは随分と、懐かしい声だったように感じた。
目が覚めた。
酷い夢を見ていた気がする。いや、夢だ。そのはずだ。
夢で見たのと同じ天井が見えた気がして、すぐに目を閉じた。
夢じゃなかったなんて信じたくない。それならまだ仕事に遅刻して上司にキレられた方がずっとマシだ。
息が上手くできなくなる。もう何も見たくない、聞きたくない。
体にかけられていた布団を掴んで頭から被ろうとして、腕が何かを引っ張った感触がした。
直後、大きな音を立てて何かが倒れた。それが怖くて、毛布の中で膝を抱え込む。
膝に何かが当たった。いや、何かじゃない。俺の胸だ。当たり前だ。膝を抱え込んだんだから。
問題はその感触だ。膝先で感じたのは俺の知っている、肉なんてほとんどない皮と骨だけの硬くて薄い胸板の感触じゃなかった。
確かな柔らかさのある、膝に押されて形が変わるその感触。
それがなんであるか、考えなくたって分かった。いや、本当はそんなものが自分についていたっておかしくないってことは起きた時から気が付いていた。
ただ気づきたくなかった。夢であってほしかった。だから布団を頭から被って現実を頭から追い出そうとしたのに。
そうだ。胸だ。女の子の。男なら誰もが夢に見るおっぱいだ。
それが俺の胸についている。夢は夢であってくれよ、と思った。
何の冗談だ。俺は男だ。そのはずだ。なんで女の子にしかないはずのおっぱいなんかが俺に付いてるんだ。
真っ暗なのに視界がぐるぐると回っているような感触がする。胃袋がひっくり返りそうな感触がお腹の奥で波打ち始める。
息苦しい。熱い。でも、布団から顔を出したくない。
出してしまえば、きっと光が俺を照らしてこの悪夢を現実に塗り替えてしまう。
でも、今こうしてこの暗闇の中でもう一度眠ってしまえれば。
そうしたら、次起きた時には見知った俺の家の天井が見えて、無断欠勤したことにキレてる上司からの大量の着信がスマホに届いているに違いない。
ああ、それだったら全然いい。だって、こんな悪夢が現実になるくらいならあんなクソ会社辞めてホームレスにでもなった方がずっとマシだ。
俺が俺でなくなっちまうくらいだったら、社会のゴミでもなんにでも成り下がって野垂れ死ぬ方が幸せだ。
俺が何をしたっていうんだ。行きたくもない会社の飲み会に連れていかれて、飲みたくもない酒を付き合いで飲んで。
上司のありがたくも下らない武勇伝に何とか相槌を打ちながら、今週の新作ゲームだけを心の頼りにして生きていただけなのに。
どうしてこんな、いきなり自分であることすら許されなくなってしまうんだ。
目頭が熱くなって、喉の奥が締め付けられる。
こらえきれなくなって、目から涙が溢れ出した。鼻水もだ。
はしたなく音を立てて鼻をすすって、みっとなく涙を流しながらしゃくりあげる。
その間にも耳に響くのは
早く。早く意識よ飛んでくれ。この悪夢から俺を解放してくれ。
気が狂いそうなんだ。自分じゃない自分の声を聞かされて、自分じゃない自分の体の感触を感じなくちゃいけないこの状況が。
なのに、確かにこの身体も声も間違いなく自分のモノだって安心するもう一人の自分がどこかにいるような感触さえあって。
何もかもがおかしいんだ。いっそ完璧に頭がおかしくなっちまえた方がずっと楽なんだ。いや、もうおかしいのか。
いっそ何かのドッキリであってくれないか。国を挙げての一大プロジェクトで、男の体から女の体に意識を移す技術が開発されていて、俺はそれに当たっていたけど守秘義務とかそういうので記憶を一時的に消されてたとか。
「……フタバちゃん?」
不意に、布団越しに
いや、聞こえた気がしただけだ。今のは幻聴だ。俺のじゃない俺の記憶の中にいるイチカとかいう幼馴染がいたっていう妄想の産物の声が頭の中で再生されただけに過ぎない。
「起き……てるの……?」
起きてねぇよ。ほっといてくれよ。その声で話しかけんなよ。
なんでだよ。なんで知らねぇ奴の声を無視するだけでこんなに気分悪くなるんだよ。止まりそうだった涙が止まらなくなるんだよ。
もう助けてくれ。許してくれよ。早く覚めてくれ、こんな悪夢。
「ねえ、フタバちゃん。顔……見せて?」
帰ってくれ。お願いだから放っておいてくれ。
そう心の中で何度も唱える。
それからどれくらい経っただろう。5分か。それとも1時間か。半日くらいかもしれない。
「……ごめんね。また、来るね」
悲しそうにそう呟いて、声の主は俺から離れていった。
ようやく危機は去った。そのはずだ。
だというのに、涙は止まらなかった。でも、この涙は声の主が怖いからとかじゃなかった。
ただただ悲しかった。何が悲しいのかは分からない。分かりたくない。
けれど、どうしようもない位悲しくて。それから泣きつかれて意識がなくなるまで、俺はずっと布団の中で泣き続けた。
俺のだけど、俺のじゃない女の子の体で。
そうして意識がなくなる直前、俺はまた祈った。
どうか、次に目が覚めた時は俺のよく知る男の体に戻れていますように。と。