返信できてないですが読んでます。励みになってます。
目が覚めた。
見慣れない、知っている天井だった。
ふと、腕を持ち上げてみる。
重い。ただ腕を持ち上げるだけが、とても辛い。
そして、持ち上がった腕は見慣れない、知っている腕だった。
「そん……な……」
声が漏れた。聞きなれない、知っている声だった。
絶望した。いっそ覚めない悪夢を見ているって誰かに言って欲しい。そしたらそういうもんだって受け入れてやるから。
ああ。もしかして、ちょっと前までやっていた死にゲーみたいに死んでみてもベッドの上で目が覚めるシステムだったりしないだろうか。
腕をベッドの腕に落としてそんなことをぼんやりと考えてみれば、お腹の方から音が鳴った。
それと同時に、強烈な空腹感を感じた。悪夢の癖に、お腹が減るなんて。
覚めない悪夢にそんな文句をつけるが、悪夢の主は俺のクレームを聞く気なんてないらしい。
それどころか、口答えするなと言わんばかりに空腹感が強くなる。
何かを食べないと、死んでしまう。そんな気持ちになって来る。
でもどうすればいいんだろう。誰かに頼めば、食事を持ってきてくれるんだろうか。
そもそも、ここに人はいるんだろうか?
悪夢だったとしたら、俺以外に誰もいなくたって不思議じゃない。
イチカ、という少女がいるのは知っているが、それがいつ来るかいつならいるのかも分からない。
……こういう時はとりあえず探索してみるものだと相場が決まっている。
どうせ悪夢だ。ある程度したら強制的にベッドの上に戻されるに違いない。
体を起こす。ただそれだけの動作のはずが、思った以上に体が重くて……いや、体に力が入らなくて時間がかかった。
ベッド横の小さめの柵に手をついて支えないと体を起こしていられない程に、体に力が入らない。
まあでも悪夢っていうのはそういうもんだ。悪い夢程体の自由は効かないのは、今までの俺の人生で経験済みだからな。
そう言い聞かせながら、少しずつ足をベッドからはみ出させる。
うんこしょ、どっこいしょなんて古めかしい言葉を心の中で唱えながらなんとかベッドの
さあ、後は床に足をつけて辺りを見回るだけだ。楽しい探索タイムだ、テンション上がるなあ。
「へ、へ……」
笑い声にすらなっていない気味の悪い声を口から漏らしながら、ゆっくりと床に足をつける。
病院でよく見かけるテカテカした床が足の裏にひんやりとした感覚を伝えてくる。冷たくて足をつけられない程じゃない。
そのことに安心しながら、少しずつ足に体重を乗せて立ち上がろうと力をこめた。
俺の体はそのままスッと病院の床をしっかりと踏みしめ──ることなくそのまま前に倒れ込む。
予想すら許されない程の早さで転んだ俺は、ロクに受け身も取れずに大きな音を立ててその場に倒れた。
痛い。倒れ込むとき、膝に体重が掛かっていた状態で床にぶつけたせいかじくじくとした鈍い痛みが膝をイジメている。
それだけじゃない。腕はあんなにガリガリなくせに何故かそれなりにあるらしい胸が無理に、そして急に俺自身の体重で圧し潰されたせいでこっちも鈍い痛みが走っていた。
あと腕とか、顔も。とにかく体のあちこちが痛かった。
それでも、倒れたままじゃいられないとゆっくりと顔を上げる。
随分と低くなった視点のまま首を巡らせて、出口を探す。
あった。倒れた方向とは逆の、ベッドの向こう側。多分、引き戸形式の扉だ。
あの先はどうなっているんだろう。血にまみれた廊下とかが広がってたりするんだろうか。ホラーゲームとかならよくある展開だ。
不意に俺の耳が何かを捉えた。
足音だ。パタパタパタという少し急いでいるような足音。音の質的に、シューズか何かだろうか。革靴とかそういう感じではない。
足音は急速にこちらの方へと近づいてきている。
そのことに気が付いた瞬間、俺は体を強張らせた。
だってこれが悪夢、それも怖い夢ならあの扉の向こうから出てくるのは天使だとか妖精だとか、俺に優しい存在なんかじゃない。
十中八九、俺に危害を加える類のナニカだ。
そして俺は、今歩くどころか立ち上がることさえままならない。こんな状況でそんな存在に見つかってしまったらどうなるか。
簡単だ。殺される。あるいは、そこまで行かないにしても骨の一本くらいは折られたっておかしくない。
そこまで考えた瞬間、怖くてたまらなくなった。一気に呼吸が荒く、浅くなる。
聞きなれない女の子の呼吸音が俺の頭に響いてきて、けれどそんなことに絶望する暇などないととっさに口を手で塞ぐ。
呼吸音を聞かれてはダメだ。気配を悟られたらおしまいなんだ。
幸い、今俺は床に倒れ込んでいて入り口からは見えにくい。
このままじっと息をひそめていれば、あの足音の主は部屋のドアを開けるだけで済ませてくれるかもしれない。
それか、そもそも部屋の前を通り過ぎてくれるかも。
そんな俺の淡い希望は、一瞬で打ち砕かれる。
こんこん、と部屋のドアが小さくノックされた。
「
俺──のではないけれど俺の名前を呼ばれて肩が跳ねる。
声は普通の女性の声っぽかった。だが、その姿が人のそれであると決まったわけではない。
「渡世さん? ……入りますね」
ああ、何で来るんだチクショウ。そのまま引き返してくれよ。
そんな俺の心の声をあざ笑う様に病室の扉がゆっくりと開いていく。
清潔そうな看護服であろうズボンと白いシューズがベッドの下から見えた。
それはゆっくりとした足取りでこちらへ向かってくる。心臓の鼓動が一層激しくなって、どくどくとうるさい。
どうしよう。どうしたらいいだろう。
そんな言葉で頭がいっぱいになって、俺はその足が自分の方までやって来るのをただ床に伏せながら見ることしか出来なかった。
そして、その足がベッドの前までやってくる。
「……渡世さん?」
「……ひっ」
喉からもれた、情けない音。
だってそこに居たのは、ヒトの形をしたヒトじゃないナニカだった。
それは二足歩行の人間によく似ていて、人間のように看護服を身にまとっていた。
だけど、顔は猫だった。俺のよく知る、四本足で歩き回るニャーと鳴くあの生き物。
その動物の顔が頭についている。それが、心配そうな、そして変なものを見るような目で俺を見下ろしている。
看護服の袖から出た手も人間のソレではない。形そのものは人間とほとんど変わらないけれど、猫らしい毛に覆われている。
化物だ。化けるのが下手くそな妖怪が人に化けていると言われたって信じられるような光景が、存在が俺の目の前にいる。
「大丈夫!?」
化物が、ガバっと音を立てて俺に覆いかぶさろうとした。あるいは、看護師らしく俺を助け起こそうとしたのかもしれない。
だが、どっちにしたって俺にはそれが死の宣告のようにしか思えなかった。
どうやら、俺の見ている悪夢は俺が俺でなくなるだけじゃ済まなかったらしい。
そんなことをぼんやりと考えながら、これから起きる恐ろしいことへの想像で限界を迎えたらしい俺の意識はプツンと途切れた。
目が覚めた。
そろそろ見慣れてきた、知っている天井だった。
これが夢なのか、現実なのか。もう俺にはよく分からない。
一応、膝とか胸がズキズキ痛むような気がするから、さっきの猫妖怪を見たのは──。
そこでふと、あることを思い出した。
それは俺ではない”渡世フタバ”の記憶だ。
ここはキヴォトスという学園都市で、ああいう感じの獣人が普通にあちこちにいる。そういう獣人たちと話した記憶なんかもある。確か、あれは近所のラーメン屋のおじちゃんだったっけ。ときどきボクやイチカちゃんにラーメンご馳走してくれたなあ。
待て、だから”ボク”じゃなくて”俺”だ。俺は”俺”なんだ。渡世フタバなんて女じゃ──。
じゃあ、俺は一体なんだ? そんな疑問が頭に浮かぶ。
名前は思い出せない。2024年の日本で社会人として働いていた、ゲームが好きなオタクで、覚えている最近の記憶は会社の飲み会でハゲかけたクソ上司のありがたい武勇伝を聞きながら飲みなれない日本酒を飲んでいたこと。
そんなクソみたいな状況で愛想笑いで相槌を打ちながら、数日後に出る新作のレースゲームのことだけを心の支えにしていた。
それが、そんな記憶が一体”俺”という存在の何を保証してくれるんだ。
ただただ男だった、大人だったという記憶のような何かが頭の奥にこびりついている、精神のおかしくなった女の子。
それが渡世フタバという俺なんじゃないか。
もう、何を信じればいいか分からない。俺が生きているのか、死んでいるのか。これが夢なのか、現実なのか。
俺の知っている”俺”は本当に実在していたのか、それともこの渡世フタバという女の子の記憶の最後で車に轢かれてから生まれた人格なのか。
もしそうなら、”俺”は存在してちゃいけないんじゃないか。でも、俺が消える為にはどうしたらいい?
そこまで考えて、俺は頭を横に振った。
そんな馬鹿な話があってたまるか。なんで好きでもない、むしろ嫌な仕事を頑張っていただけの俺が存在しちゃいけないなんて言われなきゃならないんだ。
なんて、誰に向ければいいかも分からない怒りに駆られた瞬間、お腹から間抜けな音が鳴った。
ああ、そうだ。この悪夢はお腹が減るんだったっけ。なんて、考えた瞬間に病室の扉が開けられた音がした。
やはりさっき見た猫妖怪……ではなく猫獣人の看護師さんがおぼんを持って病室に入ってきていた。
「目が覚めたんですね。ご飯、食べられますか?」
「……はい」
持ってこられた病院食はまあ、ご飯に味噌汁、それと焼き魚とありきたりな食事だった。
相変わらずずっしりと重い体を何とか起こして、用意された食事にありつく。
さっきまでの自分を顧みて、茶碗なんかまともに持てるとは思えなかったからはしたないが自分の口を茶碗に近づけて少しずつ箸でご飯を口にする。
味は……多分、それなりのモノなんだろう。
病院食はマズい、なんて話を聞いていたけれどここのご飯はそんなでもないんだと思う。
いや、もしかしたらマズいのかもしれない。
でも、そんなこと、どっちだっていい。
「…………っ」
ご飯をいくら口にしても、心が動かない。
味は感じているはずなのに、それに対して美味しいとかマズいとかいう感情が全く動かない。
最早食事という行為すら面倒に感じる。あんなにお腹が空いていたはずなのに、今はもう食べるのを止めたい。
ただただ面倒くさい。でも、ご飯を食べないとまたお腹が空いて仕方なくなる。
でも、それを避けるだけならわざわざ完食をする必要はないんじゃないか。
半分くらい食べるだけでも、しばらくは持つんじゃないか。
そんな思考が箸を置こうとさせて、それから不意に聞こえた物音が俺の体を硬直させた。
隣の病室からだろうか。食器を落とすような音だった。
そしてそこで思い直す。この食器はいずれあの看護士が回収しにくる。
その時、あんまりにも残していたらきっとまた何か声をかけられるに違いない。
とにかく放っておいてほしい。だったら、ここは何とか完食しておいた方が丸いだろう。
そう考えなおして、俺はまたみっともない格好のまま無心でご飯を食べ続けた。不思議なことに、食べたご飯を吐き戻しそうになるとかそういうことはなかった。
そうして何とかご飯を完食した俺は、布団を頭から被った。
ちょっと暑かったけれど、それでもとにかくこの悪夢を少しでも見たり聞いたりしないようにしていたかった。
やがて、俺の意識は再び闇へと落ちていった。
今度こそ、目が覚めたらこの悪夢から覚めますようにと祈りながら。
そんな願い、もう叶うことなんて無いって自分でも分かっていたけれど。