医者と初めて話した日から数日後。俺は体に大きな後遺症が残っているわけではないと診断された。
ただ、記憶の方には問題があるとも言われた。当然だ。”渡世フタバ”の記憶は”俺”の記憶ではないからそれをハッキリと”憶えている”という気にはなれなかったから、覚えていることを聞かれても全部曖昧な反応で返したからだ。
かといって、日本で生きていた”俺”の記憶を話すつもりもなかった。というか、これはもう墓まで持っていくつもりだ。
だって誰が信じるんだ。こことは違う世界で、自分は男として過ごしていました、だなんて。
渡世フタバに懐いているらしい仲正イチカだってこんなこと言われたら頭がおかしいんじゃないか、って言うに違いない。
そうなったらどうなる? 簡単だ。精神異常者として一生病院という檻の中で飼い殺しにされるだけだ。
生きたい、という意志が自分にあるだなんて言えない。それでも、これから何十年も同じ景色だけを見なきゃいけない人生も嫌だった。
生きるにしても、自殺するにしても。その選択権くらいは自分の手元に持っておきたかったんだ。
そもそも、転生させられたこと自体が俺の意志によるものじゃない。だったら、これからのことくらいは自分で選べるように動いたっていいじゃないか。
そんなわけで、俺は”長期の昏睡から目覚めた結果記憶に障害が残ったかわいそうな子”という扱いをされるようになった。
おかげで、このキヴォトスという異世界での常識を知らない俺がトンチキな行動をしても多少はお目こぼしされる下地が出来たと言えるだろう。
キヴォトス。俺の知らない世界。渡世フタバの記憶によれば、すごい数の学園が集まった学園都市らしい。
そこで暮らす女の子たちは、皆頭にヘイローという現代日本の人間にはない何かをつけている。
勿論、それは俺にもついていた。
病院でトイレに行った時、鏡で自分を見た時はもう、なんて言ったらいいか分からなかった。
紺色の髪が腰くらいまで伸びた、まだ幼さを感じる顔つき。
瞳の色はアニメのキャラみたいな少し桜っぽい色をしたグレーで、けれどそんな神秘的な色を全て台無しにするような死んだ目が鏡越しに俺を睨んでいた。
そして、その後頭部に浮かぶ文字通り天使の輪のような物。
若葉を思わせる緑の輪っかの中に、この身体の元の持ち主のことを示すように双葉の形をした図形が浮いている。
ただ、双葉のうち片方の葉っぱは澄んだ空のような色をしていて、もう片方は綺麗な桜色という不思議な配色になっていた。
多分”俺”という異物が混じってしまったせいでそうなったんだと思う。少なくとも、渡世フタバの記憶の中にある自分のヘイローの双葉は桜色だった。
こんな俺が混じった影響でヘイローの色が一部変わるのは分かる。けれど、それが澄みきった空の色に似ているというのは悪夢の主はとことん悪趣味らしい。
”俺”という異物を、元の渡世フタバを殺してしまったような存在である俺の存在の証明になる色が、澄みきった色だなんて。イヤミったらしいにもほどがある。
それはともかく。自分で言うのもおかしな話かもしれないが、渡世フタバという少女はそれなりに美少女であると言って良いだろう。
中学1年の時に轢かれて、1年昏睡してたということは今は14歳。現代日本だったらアイドルにならないか、だなんてオファーが来てもおかしくなさそうな見た目をしている。
最も、それも死んだ魚のような目で全て台無しだけれど。
ああ、そうだ。もう一つ、現代日本ではありえない常識がキヴォトスにはある。
それは道行く誰もが銃を所持していることだ。
正直、今でも呑み込めていない。けれど、渡世フタバの記憶は銃を持っていない人間の方が圧倒的に少数であると告げている。
さっき、医者から小さなガンケースを手渡された。どうやら、俺が使っていた銃が入っているらしい。大きさからして、多分拳銃だ。
実は、まだ開けていない。怖いからだ。
いくら渡世フタバの記憶があって、キヴォトスの常識として銃を持ち歩くのが普通で、銃撃戦だって別に珍しいことじゃないとしても。
そして、銃撃戦で怪我人は出ても死者が出ることなんて滅多に無い、と知っていても。
”俺”にとって
そんなに大げさに構えることじゃない。頭ではそう分かっていても、感情がそれを許さない。
別に前世は銃が嫌いだったわけじゃない。むしろ、モデルガンの類は好きな方だった。
でも、モデルガンと実銃は違う。引き金を引いたら誰かが怪我をする。そんな危ないものを、今の俺が持って正しく扱える自信がない。
仮にこれで誰かを怪我させたら。……万が一、殺してしまったら。
そう思ったら、怖くてガンケースのロックに指をかけられなかった。
「あ、フタバちゃん。銃、返してもらえたんだ」
病院の中庭のベンチに腰掛けながらガンケースを膝に乗せて、ウジウジと考えていた俺の頭の上から最近よく聞く声が降って来る。
ゆっくりと顔を上げる前に、スッと隣に誰かが座った。
いや、誰かじゃない。見るまでもなくわかる。イチカちゃんだ。
ほんの少しだけイチカちゃんの方へ顔を向けて、横目で彼女を見る。
肩より少ししたくらいまで伸びたサラサラな黒い髪が風に吹かれてなびいて、優し気に微笑むイチカちゃんは実に絵になる。
俺だってそれなりに顔がいい部類なんだろうけれど、イチカちゃんはそれ以上なのは明らかだ。
「イチカ……ちゃん」
「うん。今日も来たよ」
「…………」
そう。俺が抱き着いてきたイチカちゃんをなだめたあの日以降、この子は毎日のようにお見舞いに来た。
勿論、彼女にも学校があるから来るのは決まって夕方だ。
けれど、午後4時とか5時に来ることが多いのは学校終わってすぐにここへ飛んできているんだろうってことくらい容易に想像がつく。
正直、あの日イチカちゃんをなだめたのは失敗だったか。とすら思う瞬間は少なくない。
「……ケース、開けないの?」
「……う……ん。なんか、怖くて」
イチカちゃんの問いかけに対し、スッと視線を膝の上に落としながらそう答える。正直、イチカちゃんの反応が怖くて彼女の方が見れなかった。
だって、キヴォトスの常識に適応できてないことを白状したようなものだったから。相手がどんなリアクションをするのか、想像も出来なかった。
けれど、イチカちゃんは俺の想像できなかったリアクションをした。
ふわりといい匂いがしたと思ったら、優しく抱きよせられていたのだ。ほっぺたに柔らかい感触が伝わる。それがイチカちゃんの胸であることは、抱き寄せられたことで傾いた世界と視界の端に見えるイチカちゃんの制服で何となく分かった。
「……大丈夫。フタバちゃんが銃を握れなくたって、私がフタバちゃんのこと守るから」
その温かさと柔らかな感触に、いつの間にか強張っていたらしい体からゆっくりと力が抜けていく。
そうして、改めて自覚する。
イチカちゃんに付きまとわれるのは”俺”が、今の渡世フタバがイチカちゃんの知っている渡世フタバじゃないって気づかれるリスクを格段に跳ね上げる。
それがバレてしまった時のことを考えたら、本当は一人でいた方がいいに決まっている。
けれど、この温かさを……心地良さを手放すなんて。……いや、
それにだ。イチカちゃんを利用するようで後ろめたいけれど、キヴォトスの常識に適応できないことが多いであろう今のボクを無条件にフォローしてくれるのはきっとこの子しかいない。
「……うん。ごめんね」
だから、ボクは後ろめたさを感じながらもイチカちゃんにすがり付いた。
これから実りある人生を、だなんて相変わらず思えない。
それでも、理不尽に死にたくはない。これ以上、理不尽に晒されるのはごめんだ。
その為だったら、ちょっとくらいズルをしたっていいだろう。
そう自分に言い聞かせて、ボクはしばらくの間イチカちゃんの胸に顔をうずめていた。
その日の夜。
眠っていたところで不意に目が覚めた。
なんとなく、トイレに行きたくなってベッドから降りる。
薄暗く、ほとんど物音もしなくなった病院というのは不気味なものだ。
その薄気味悪さが嫌で、足早にトイレに駆け込んで用を足す。
ああ、ちなみにちゃんと
異世界転生モノなら、こういう時性欲だとか気恥しさが湧いてくるものなんだろうけど。
正直、そんな気力はこれっぽっちも沸いてこなかった。今も正直そんなに湧いてこない。
とにかくさっさと用を足してベッドに戻りたい。それだけだった。
用を足し終わって、トイレを流す。
それから手洗い場で手を洗っている時、何故か顔を上げた。
……鏡には、相変わらず死んだ目をした少女が映っている。
酷い顔だ。年頃の女の子がするような目じゃない。
不意に、どうしてイチカちゃんはこんな俺にあんなに尽くしてくれるんだろうと思った。
そんなの、考えなくたって分かる。
俺が……いや、”渡世フタバ”が命の恩人だからだ。
渡世フタバが自分の命と引き換えに彼女を守った。自分が助かって、渡世フタバが昏睡状態から目覚めなかった間のイチカちゃんの心はきっと穏やかじゃなかっただろう。
このまま目が覚めなかったら。本当に死んでしまったら。
そんな不安と緊張が1年間ずっと続いてたに違いない。
だからあの日。ちゃんと目を覚ました渡世フタバに成りすました”俺”に名前を呼ばれた時、大粒の涙を流したんだろう。
……そんな彼女を、俺は利用しようとしている。いや、現にしている。
ただ理不尽に死にたくない、なんてワガママの為に。ようやく目が覚めた大切な友達に成りすましてまで。
本当はとっくに死んで終わったはずの、死に損なった悪霊の俺が。未来ある少女のこれからを横からかすめ取って。
ただただ理不尽に死にたくない、なんて後ろ向きな目的の為だけに遺された少女の心を弄ぶような真似をしている。
喉が締め付けられるような感覚。そのすぐ後に胃がひっくり返るような感覚。
「う”……ぉ”お”ぇ”ッ!」
たまらず、洗面台に手をついてこみあげてきた熱いものを吐いた。
苦しい。立っているのも辛い。けれど、胃袋を突き上げるような感触は収まらない。
そして、また吐いた。体からものすごい勢いで力が抜けていくような感覚がする。
「ゲホッ……ゲホ……」
こんなところで座り込むわけにはいかない。そう思っているのに、体は動かない。
そして、俺はそのままその場に座り込んだ。
蛇口から流れる水の音と俺の荒い吐息だけがトイレに響く。
涙と鼻水が出て来たけれど、それを拭く余裕なんてない。
ただただ、”俺”という存在のおぞましさに吐き気が止まらない。
そして何より、自分がこれほどまでにおぞましい存在だと分かったはずなのになお”死にたくない”という気持ちが消えないことにおぞましさと浅ましさを感じずにはいられなかった。
「許してくれ……助けてくれ……」
誰に対してかも分からないまま、俺は許しを乞いながらうずくまるように体を丸めて、病院着をきつく握りしめる。
体がガタガタ震えて、涙と鼻水でトイレの床が汚れるけれど何も出来ない。
そうして、蛇口の水が出っぱなしになった音に気が付いた見回りの看護師さんが俺を介抱するまで俺はずっとその場にうずくまっていた。