1984年 作:ジョージ・オーウェル/訳:山形浩生
どこか通路の奥底から、コーヒーをローストする匂い——本物のコーヒーで、勝利コーヒーではない——が街路にが漂い出てきた。ウィンストンは思わず立ち止まった。二秒ほどだろうか、かれは半ば忘れかけた子供時代の世界に戻っていた。そのときドアが叩きつけられ、その香りはまるで音だったかのように、唐突に打ち切られたように感じられた。
彼は舗装の上を数キロ歩いたところで、静脈瘤がズキズキしていた。コミュニティセンターでの晩を欠席したのはこの三週間で二回目だった。軽率な行動だった。センターでの出席回数が慎重にチェックされているのはまちがいなかったからだ。原則として党員には余暇などなく、ベッドで寝るとき以外は決して一人きりではない。働くか、食事か、寝ていないときには、何らかに共同娯楽に参加しているものとされた。孤独を好む様子を示唆するものはすべて、一人で散歩にでかけることさえ、常に少し危険なのだった。ニュースピークにはそれを指す言葉があった。自生(OWNLIFE)と呼ばれ、個人主義と畸人ぶりを意味するものだ。だがこの晩、省を出たとき、四月の空気のかぐわしさに惹かれたのだ。空はその年にそれまで見たものよりも温かい青で、いきなりセンターでの長く騒々しい晩、退屈で疲れるゲーム、講義、ジンを潤滑剤にした痛々しい仲間騒ぎが耐えがたく思えたのだ。思わずかれはバス停から向きを変え、ロンドンの迷路に迷い込み、まずは南、それから東、そしてまた北にさまよい、知らない通りで迷子になりつつ、自分がどの方向に向かっているかもほとんど気にしなかった。
かれは日記にこう書いていた。「希望があるなら、それはプロレにある」。このことばが絶えず甦ってきた。神秘的な真実と露骨なばかばかしさを湛えた発言だ。かれはどこか、かつてセントパンクレアス駅だったものの北と東にある、広大な茶色のスラムにいた。歩いている石畳の通りには二階建ての小さな家が並び、そのボロボロの戸口はすぐに歩道に出るようになっていて、なぜか不思議とネズミの巣穴を思わせるのだった。舗石のあちこちには汚水の水たまりがあった。暗い戸口の中や外、さらに両側に伸びる狭い裏道には、驚くほど大量の人々が群れていた——魅力の絶頂にある女子たちが、粗野に口紅を塗りたくった口をしている。そしてその女子を追いかける若者たち、さらにその女子が十年たてばどうなるかを示す、デブでヨタヨタ歩く女たち、さらにねじれた足でシャカシャカ歩く老いぼれて腰の曲がった生き物たち、ボロをまとった裸足の子供たちがその水たまりで遊んで、母親からの怒りの叫びを受けて逃げ惑う。その通りの窓の四分の一ほどは、割れて板張りになっていた。ほとんどの人はウィンストンのことなどまるで気に留めなかった。数人が、警戒をこめた好奇心をもって眺めていた。レンガのような赤い上腕をエプロン上で腕組みしている化け物じみた女性二人が、戸口の外でしゃべっていた。ウィンストンは近づきつつ、その会話のかけらを耳にした。
「『そうだよ』って言ってやったんだよ。『そりゃあ結構なこって。だけどあんたぁあたしとおんなし立場になったら、あたしとおんなしことやったはずだよ』ってね。『口ではなんとでも言えるけど、でもあんたはあたしみたいな問題かかえてないんだから』」
もう一人は言った。「そうだねー。まったくその通り、ほーんとそーゆーもんだよ」
その騒々しい声が突然止まった。女たちは彼が通り過ぎるのを、敵意をこめた沈黙の中で見守った。だが正確には敵意ではない。ただの警戒のようなもの、一瞬の身構え、何か見慣れぬ動物が通り過ぎるときと同じだ。党の青いオーバーオールは、こんな通りでは見慣れたものであるはずもない。実際、そこで文句なしの業務でもない限り、そんな場所にいるのを見つかるだけでも賢明ではない。パトロール員に出くわしたら呼び止められかねない。「同志、書類を拝見できますか?
こんなところで何を? 仕事を終えたのは何時ですか?
これはいつもの帰り道ですか?」——そしてそれが延々続く。いつもとちがう道を歩いて帰るのを禁止する規定があるわけではない。だが思考警察が聞きつけたら、注目されるには十分だった。
いきなりその通り全体が沸き立った。あらゆる方向から警告の叫びが聞こえた。みんなウサギのように戸口に飛び込んでいる。ウィンストンのすぐ先で、若い女性が戸口から飛びだして、水たまりで遊んでいる幼児を抱え上げ、エプロンでくるんで、また戸口に飛び込んだ。そのすべてが流れるような一動作だ。その同じ瞬間に、アコーディオンのような黒スーツを着た男が脇の横丁から出てきて、興奮したように空を指さしながらウィンストンに駆け寄った。
「スチーマーだ! 旦那、気をつけて! 頭上から一発くるぞ!
急いで腹ばいに!」とそいつは叫んだ。
「スチーマー」というのは、プロレがどういうわけかロケット爆弾につけたあだ名だった。ウィンストンは即座に腹ばいになった。プロレがこの手の傾向をするときには、ほぼまちがいなく正しいのだ。ロケットがくるときには、数秒前に告げる何やら本能を持っているようなのだった。ロケットは音速よりも速いはずなのに。ウィンストンは頭上でしっかり腕を組んだ。轟音があがり、舗石が波打つようだった。軽い物体が背中に降り注いだ。立ち上がると、最寄りの窓からのガラスのカケラだらけなのがわかった。
かれは歩き続けた。爆弾はその通りの200メートル先で家の集まりを破壊したのだった。黒煙のかたまりが空に垂れ下がり、その下にはしっくいのほこりが立ち上って、すでにその廃墟のまわりに群集がたかっていた。すぐ先の舗石の上に小さなしっくいの山がでいていて。その真ん中にまばゆい明るい筋が見えた。近寄ると、それが手首でちぎれた人間の手なのがわかった。その血まみれの切り口以外は、その手は完全に白くなっていて、まるで石膏の模型のようだった。
その代物をドブに蹴り込み、それから群集を避けるため、右に曲がって横丁に入った。三、四分で爆弾の影響を受けた場所をぬけ、すると街路のむさ苦しい群集生活は、何事もなかったかのように続いていた。二十時近く、プロレが通う飲み屋(「パブ」とかれらは呼んでいた)
は客でいっぱいだった。薄汚いスイングドアは、絶えず開いたり閉じたりしていて、その中から小便、おがくず、酸っぱいビールの匂いが漂ってきた。突き出した家屋の正面が作る片隅で、男三人がきわめて密接して立っており、その真ん中の男が畳んだ新聞を持ち、他の二人はそれを男の肩越しに読んでいた。彼らの表情を見分けられるほど近づく以前から、ウィンストンは彼らの身体のあらゆる動きで、三人が没頭しているのがわかった。明らかに三人が読んでいるのは、何か真面目なニュースなのだった。数歩離れたところまでやってきたとき、いきなりその三人が別れて、二人が激しい口論を始めた。一瞬、彼らはほとんど殴り合いを始めそうな勢いだった。
「クソめが、オレの言ってることがわかんねえのかよ?
七で終わる数字はもう十四ヶ月も当たってねえんだって言ってるだろが!」
「当たったよ、その間にも」
「当たってねえったら!
ウチん戻れば二年分のやつを全部、紙切れに書いといてある。時計仕掛けみたいにちゃーんと書いとくんだ。それで言うんだが、七で終わる数字は一度も——」
「いや、七はホントに当たってるって!
もうその数字全部を思い出せそうなほどだよ。最後は四、ゼロ、七だ。二月だった——二月の二週目」
「二月が聞いて呆れるぜ!
オレ全部まちがいなく書いてあるんだ。それで言うんだが七で終わる——」
「まったくいい加減にしろって!」と三人目。
三人は宝くじの話をしていたのだ。ウィンストンは三十メートル離れてから振り返った。相変わらず口論は、活き活きとした情熱をこめた顔で続いていた。宝くじは、毎週すさまじい賞金を支払うので、プロレたちが真面目に注目する唯一の公的イベントなのだった。おそらく、宝くじが死なずにいる大きな、いや唯一の理由であるプロレは、何百万人もいそうだった。それがかれらの歓び、愚行、暇つぶし、知的刺激なのだ。宝くじの話となれば、ほとんど読み書きできない人々ですら、複雑な計算ができるしとんでもない記憶力を発揮するようだった。必勝法や予測、幸運のお守りを売るだけで生計を立てている人々が山ほどいた。ウィンストンは宝くじ運営にはまったく関係なかった。豊富省が管理しているのだ。だがその当選金がおおむね架空だというのは知っていた
(実際、党の人間はみんな知っていた)。本当に支払われるのは少額だけで、大金が当選する人物は実在しないのだ。オセアニアのある部分と他の部分との間にまともな相互通信が存在しないので、これを手配するのは簡単なことだった。
だが希望があるとすれば、それはプロレにあるのだ。それにはしがみつくしかない。言葉にすると、まともに聞こえる。それが信仰と化すのは、その歩道であたりを行き交う人間を見たときだ。曲がって入った通りは下り坂となった。この近隣には前にきたことがあるような気がして、あまり遠からぬところに大通りがあるように思った。どこか先のほうで、叫び声が響いた。その道は急に曲がり、それが階段に続いて、そこを下ると沈み込んだロジがあり、屋台が何戸か並んで、しなびて見える野菜を売っていた。この瞬間に、ウィンストンは自分がどこにいるのかわかった。この路地は大通りに続いているのだ。そして次の角を曲がったところ、五分もかからないところに、いまや日記で使っている白紙の本を買った古物屋があるのだ。そしてさほど遠からぬ小さな文具屋で、彼はペン入れとインキびんを買ったのだった。
階段のてっぺんで、しばし立ち止まった。路地の反対側には、貧相な小さなパブがあり、その窓は曇りガラスに見えるが、実際には単にほこりで覆われているだけなのだった。きわめて高齢の男性が、背は曲がっているが元気で、白い口ひげをエビのように前方に突き出させつつ、スイングドアを押し開けて入っていった。立って見守るうちに、少なくとも八十歳にはなっているこの老人は、革命が起きたときにはすでに中年だったはずだとウィンストンは思い当たった。彼などの数少ない数名こそは、いまや消滅した資本主義の世界との間に存在する最後のつながりなのだった。党そのものの中でも、革命以前に思想を形成された人物はあまり残っていなかった。50年代と60年代の大粛清で、高齢世代はおおむね一掃され、生き残ったわずかな人々もとっくの昔に脅されて、完全な知的降伏を示していた。今世紀初期の状況について正直な説明をしてくれる人物が生き残っているとすれば、プロレだけだ。いきなり、日記に書き写した歴史書の一節が心に甦り、ウィンストンはイカレた衝動に囚われた。パブに入り、あの老人の知己をなんとか得て質問するのだ。こう尋ねよう。「少年の頃の暮らしを話して下さい。その頃はどんな様子でしたか?
いまより物事はよかったでしょうか、それともひどかったのでしょうか?」
自分に怯える暇を与えないよう急いで、かれは階段を下りて狭い通りを横切った。もちろんキチガイ沙汰だった。いつもながら、プロレと話をしたり、かれらのパブに通ったりしてはいけないというはっきりしたルールはなかったが、あまりに珍しい行動なので、絶対に目についた。パトロールが現れたら、急にめまいがしたのだと言い訳してもいいが、たぶん信じてはもらえないだろう。ドアを押し開けると、醜悪なチーズめいた酸っぱいビールの匂いが顔に吹き付けてきた。かれが入ると、声の喧噪の音量が半分ほどに下がった。背後でみんなが自分の青いオーバーオールを見ているのが感じられた。部屋の向こう端で続いていたダーツの試合が、三十秒ほども途切れただろうか。後を追ってきた老人はバーに立ち、何やらバーマンと口論している。そのバーマンは背が高くでっぷりしたかぎ鼻の若者で、すさまじく太い腕をしている。他に数名がグラスを手に立っていて、その光景を眺めていた。
老人は、肩をまっすぐにいからせた。「おう、十分ていねいに頼んだじゃろが。このクソろくでもねえ飲み屋に、パイントのマグが一つもないとは言わせんぜ」
「で、そのパイントとやらってのは、いったいぜんたい何なんですかい?」とバーの男は、カウンターに指先を置いて身を乗り出した。
「こんにゃろを見やがれってんだ!
バーマンを名乗るくせにパイントが何かもご存じねえ!
だからよ、パイントってのはクォートの半分で、ガロンは四クォートになるんだろが。お次はABCでも教えろってか?」
「聞いたことないですなあ」とバーマンは手短に言った。「リットルか半リットル——うちはそれしか出さない。目の前の棚にグラスがあるでしょう」
老人は言い張った。「おいら、パイントがいいんだ。パイントを出してくれるなんざ簡単なおことだろうが。おいらの若い頃には、ろくでもねえリットルなんざぁなかったぜ」
「あんたが若い頃といえば、みんな木の上に住んでたでしょうよ」とバーマンは言って、他の客たちをちらりと見た。大笑いが起きて、ウィンストンが入ってきたことで生じた気まずさは消えたようだった。老人の蒼白だった顔がいまや紅潮した。かれは向きを変え、何かつぶやいて立ち去りつつ、ウィンストンにぶつかった。ウィンストンはその腕をつかんだ。
「一杯おごらせてください」とかれは言った。
「これはご立派な紳士で」と相手は、再び肩をまっすぐいからせた。ウィンストンの青いオーバーオールには気がつかなかったようだ。「パイント!」とかれは声高にバーマンに言い放った。「ワロップ一パイント」
バーマンは、半リットルの濃い茶色のビールを、カウンター下のバケツですすいだだけの分厚いグラス二つに注いだ。プロレのパブで買えるドリンクはビールだけだ。プロレはジンを飲んではいけないことになっていた。とはいえ、実際には手に入れるのは容易ではあった。ダーツの試合はまた全開となり、バーにかたまった男たちは宝くじの話を始めた。ウィンストンの存在は一瞬忘れられた。窓の下に木製のテーブルがあり、そこでなら老人と、盗み聞きされる心配なしに話ができた。恐ろしく危険なことだったが、とにかくこの部屋にはテレスクリーンはない。ここに入った瞬間にウィンストンが確かめたことだった。
グラスを前に腰を据えつつ、老人はグチった。「あんにゃろ、パイント入れてくれたっていいのによ。半リットルじゃ足りねえんだ。満足いかん。丸一リットルだと多すぎだ。膀胱がうずいちまう。まして値段がな」
「お若い頃以来、いろいろ大きな変化をごらんになってきたでしょうね」とウィンストンは用心深く言った。
老人の淡い青い目が、ダーツ盤からバーに動き、バーから男子用トイレのドアへと移った。まるでその変化が起こると思ったのが、このバーの部屋だとでも言うようだった。
やっとかれは口を開いた。「ビールはマシだったな。それに安かった!
おいらが若い頃は、うすいビール——ワロップって呼んだもんだ——は一パイント四ペンスだ。戦争前だがな、もちろん」
「どの戦争ですか?」とウィンストン
「どれも戦争だろ」と老人は漠然と言った。グラスを掲げ、また肩をのばした。「んじゃ、あんたに最高の健康を祈って!」
そのやせたのどで、鋭くとがったのど仏が、驚くほど急速に上下動をして、ビールは消えた。ウィンストンはバーにでかけ、半リットルをさらに二杯持ってきた。老人は、丸一リットル飲むことに対する彼の偏見を忘れたらしかった。
「あなたは私よりずっと高齢ですね。私が生まれる前に成人していたはずです。昔の日々、革命前がどんなだったか思い出せるでしょう。私の年齢のみんなは、そういう時代のことを実は何も知らないんです。本で読んだだけで、本に書かれていることが本当とは限らない。それについてご意見をうかがいたい。歴史の本では、革命前の生活はいまとはまったくちがうと言うんです。最悪の抑圧、不正、想像を絶するほどの貧困があったと。ここロンドンでは、大半の人々は生まれてから死ぬまで、一度も十分に食べたことがなかったと。半分は足に履くブーツもなかった。一日十二時間労働で、九歳で学校を出て、一部屋に住人が寝ていたと言います。そして同時にごくわずかな人々、ほんの数千人ほどがいました——資本家たち、と呼ばれている人です——金持ちで権力を持っていたんです。所有できる者ほとんどすべてを所有していたんです。巨大で豪華な家に召し使い三十人を使って暮らし、自動車や馬四頭立ての馬車を乗り回し、シャンパンを飲んで、トップハットをかぶり——」
老人はいきなり活気づいた。
「トップアットだと!
それが出てくるなんて不思議なもんだ。ちょうどそいつが、ほんの昨日、頭に浮かんだばっかりでよ。なぜかはわからん。ただ考えてたんよ、もう何年もトップアットなんざ見てないってな。あっさり消えちまった、んなもんは。おいらが最後にかぶったのは、義理の妹の葬式だったなあ、そしてそれは——日付まではわからんが、もう五十年も前だったか。もちろん、んのときだけ借りたんだがな、わかるだろ」
ウィンストンは辛抱強く言った。「トップハット自体はどうでもよいのです。重要なのは、そういう資本家——それと少数の弁護士や聖職者とか、資本家にたかっていた連中——はこの世の支配者だったってことです。すべては彼らの便益のために存在していた。あなた——一般人、労働者——はそいつらの奴隷だった。こちらに何でも好き勝手なことができた。家畜のようにカナダに出荷することもできた。やりたければこちらの娘たちとも寝られた。キャットオーナインテイルズとかいうもので鞭打たれるよう命じることもできた。横を通るときには帽子を脱がねばならない。あらゆる資本家は従僕どもの群れを従えて——」
老人は再び活気づいた。
「従僕! いやあ、その言葉をきくのは、えらく久しぶりだな。従僕ときたか!
ンとに懐かしいぜ、いやホント。思い出すなあ。ロバ年も前だったか——ときどき、日曜午後にアイドパークにときどき出かけて、野郎どもが演説するのを聞いたもんだ。救世軍とかローマカトリック教会、ユダヤ人、インド人——いろんな連中がいたなあ。
んでもって、一人いた野郎が——名前は出てこねえが、すげえ力のこもった話屋だったなあ。半端な罵倒ぶりじゃなかったぜ。「従僕ども! ブルジョワジーの従僕ども!
支配階級の走狗ども!」
寄生虫——そんな言い方もしたな。それとアイエナ——まちがいなくアイエナ呼ばわりはしてた。もちろんそいつが言ってたのは労働党のことだがな、わかるだろ」
ウィンストンは、話がかみ合っていないという印象を得た。
「私が本当に知りたかったのはこういうことなんです。昔と比べていまのほうが自由だとお感じになりますか?
もっと人間として扱われていますか?
昔の時代には、金持ちたち、てっぺんの連中——」
「キソク院」と老人は懐かしそうに述べた。
「貴族院、とおっしゃりたいなら。お尋ねしたいのは、そうした連中は金持ちであなたが貧乏だと言うだけで、劣った存在として扱えたのでしょうか?
たとえば、そいつらを『サー』と呼んで、通り過ぎるときには帽子をぬがねばならなかったというのは事実ですか?」
老人は深く考え込むようだった。答える前に、ビールの四分の一ほどを飲み干した。
「そうだな、帽子をそいつらに向けて触れてやると喜んだよな。敬意を示すことになる、みたいな。おいらは別にそういう感じはしなかったんだが、それでもよくやったもんよ。やんなきゃいけなかった、と言おうか」
「そしてそいつらが——歴史の本で読んだ話を引用しているだけなんですが——そいつらやその召使いどもは、あなたを歩道からつきとばしてドブに落とすというのがよくあったんですか?」
老人は言った。「いつだたか、んな連中の一人がおいらを押しやがったな。まるで昨日のことみてえに思い出すぜ。競艇の夜だ——競艇の夜にはみんな、えらく荒っぽくなりやがんだよ——んでシャフツベリー通りで若い野郎にぶつかっちまってよ。大した紳士だったぜ、そいつ——ドレスシャツ、トップアット、黒いオーバーコート。そいつぁ何やら歩道をジグザグに歩いてやがって、こっちぁうっかりぶつかっちまったわけよ。そいつ言いやがる。『どこ見て歩いてるんだ』とな。おいらは言ってやったぜ。『てめえがクソ歩道を買ったつもりでもいやがんのか?』
そいつは言いやがる。『なめた口きくと、そのクソ首ひねり落としてやる』。んで『てめえ、飲んだくれてやがんな。すぐにでもサツに突き出しちゃる』ってな。そしたら、信じられっかよ、そいつおいらの胸ぐらつかんでよ、どつきやがって、こっちは投げ出されちまってバスに轢かれる寸前よ。まあおいらも若かったしよ、ここは一発くらわせちゃろうとしたら、そんとき——」
ウィンストンは絶望感に襲われた。この老人の記憶は、細かい話のゴミためでしかない。一日中質問しても、まともな情報は得られまい。やはり党史は、ある程度は正しいのかもしれない。いや完全に正しいことさえあり得る。かれは最後に一回だけ試してみた。
「きちんと説明できていなかったかもしれませんね。言いたいのはこういうことです。あなたはずいぶん長く生きてこられた。人生の半分は革命前に過ごされている。たとえば1925年には、もう成人してましたよね。ご記憶からするとどうでしょう、1925年の生活はいまよりよかったのか悪かったのか?
選べるものなら、いま生きるのと当時生きるのとどっちがいいですか?」
老人は思索にふけるようにダーツ盤を眺めた。ビールを以前よりもゆっくりと飲み干した。口をひらいたときには、寛容で哲学的な雰囲気が漂った。まるでビールで優しくなったかのようだった。
「おいらに何と言って欲しいかはわかっとる。文句なしに若くなりたいと言って欲しいんだろう。ほとんどの人は、尋ねりゃそう言うだろさ、若くなりたいってな。若い頃は、健康で強いもんな。人生でおいらくらいの時期になれば、ずっと身体のどこかがおかしくなる。足がなにやらおかしくなってて、膀胱もひっでえもんだ。夜には六回も七回も起き出すはめになる。んだが逆に、老いぼれだとかなりいいところもある。昔みたいな心配はねえ。女がらみの騒ぎもねえし、こいつはいいことだ。言っちゃあアレだが、もう三十年近くも女は抱いてねえなあ。それ以上に、抱きてえとも思わねえ」
ウィンストンは窓枠に背中をもたせかけた。これ以上続けても仕方ない。もっとビールを買おうとしたところで、老人はいきなり立ち上がり、あわてて部屋の横にある臭い小便器に駆け寄った。追加の半リットルがすでに作用していたのだ。ウィンストンはかれの空のグラスを見つめて、一、二分ほどすわったままで、自分の足が再び外の通りへと己を運び出したときも、ほとんどうわの空だった。最大でもあと二十年で、巨大で単純な質問、「生活は革命前のようがいまよりよかったのか?」は、どうあがいても回答不能となる。だが実質的には、今ですら回答不能だった。というのも数少ない散在する古代世界からの生き残りは、ある時代と別の時代を比べる能力がないからだ。何百万もの役立たずなことは覚えている。同僚との口論、なくした自転車ポンプ探し、とっくに死んだ妹の表情、七十年前の風の強い朝に舞い上がったほこり。だが重要な事実はすべて彼らの視野の外だった。こいつらはアリと同じで、小さな物体は見えても大きいものは見えないのだ。そして記憶があてにならず、文書記録が偽造されたら——そうなれば、党が人間生活の状態を改善したという主張は受け入れるしかなくなる。というのもそれを検証できるような基準は存在せず、二度と存在しようもないからだ。
この瞬間に、思索の流れが唐突に中断した。立ち止まって目を挙げた。狭い通りにいて、暗い小さな店が数軒、住宅の中に散在している。すぐ頭上には、色あせた金属の球体がぶら下がっていて、かつては金メッキでもされていたかのように見える。見覚えがある場所だった。もちろん!
あの日記を買った古物屋の前に立っていたのだ。
刺すような恐怖に貫かれた。そもそもあの本を買うこと自体が拙速な行為だったし、この場所には二度と近づくまいと誓っていたのだ。だが思索がさまようのを許したとたん、足が勝手に自分をこの場に連れ戻したのだ。日記を始めたのは、まさにこうした自殺的な衝動から自衛したいと思ってのことだったのに。同時に、二十一時近いというのに店がまだ開いているのに気がついた。歩道をうろついているよりも中に入るほうが、多少は怪しまれないという気がして、彼は戸口をくぐった。質問されたら、カミソリの刃を買いたいと思っていたといえばもっともらしい。
店主はちょうど、ぶらさがった灯油ランプに火をつけたところだった。それは汚れた感じながら親しみ深い匂いを放った。店主は六十歳くらいの人物だろうか、弱々しく背中が曲がり、長い博愛的な鼻を持ち、穏やか目が分厚いメガネで歪んでいる。髪はほぼ真っ白だが、眉毛はぼさぼさでまだ黒かった。そのメガネ、優しく念の入った動き、古い黒ビロードの上着を着ているという事実が、彼に漠然とした知性の雰囲気を与えていて、まるで彼が何か文筆家か、あるいは音楽家だったかのような印象をもたらした。その声は柔らかく、まるでかき消えるようで、その訛りはプロレの大半ほど歪んだものではなかった。
店主は即座に言った。「歩道にいらっしゃるときからわかりましたよ。あの若い女性の記念アルバムをお買い上げ下さった紳士でいらっしゃいますね。あれは美しい紙でしたよ、あれは。クリーム罫線紙、と昔は呼ばれておりました。あのような紙は——そうですな、50年は作られておりません」。かれはメガネの上からウィンストンをのぞいた。「何か特にお役にたてることでもございますか?
それとも単にご覧になりたいだけでしたか?」
ウィンストンはあいまいに答えた。「通りすがりで、ちょっとのぞいただけです。何かこれといって欲しい物もない」
「かまいませんよ。ご満足いただけたとは思えませんから」とかれは柔らかい手のひらで、詫びるような身ぶりをした。「ご覧のとおりですよ。空っぽの店と言ってもいい。ここだけの話ですが、骨董取引はもうおしまいです。もはや需要もないし、在庫もありません。家具、陶器、ガラスはみんな、大なり小なり破壊されました。そしてもちろん金属はほとんど溶かされてしまった。真ちゅうのロウソク立ては何年もお目にかかっていない」
店の小さな内部は、実は不安なほどモノだらけだったが、いささかでも価値があるものはほとんど何もなかった。床はきわめて限られていた。壁際はすべて、無数のほこりっぽい額縁が積み上がっていたからだ。ウィンドウにはナットやボルト、すりきれたノミ、刃の折れたペンナイフ、まともに動くようなそぶりさえしていない、古びた時計などの各種ガラクタが並んでいた。隅にある小さなテーブルの上だけに、小物が大量にあった——漆塗りの嗅ぎ煙草入れ、めのうのブローチなど——そこには何か面白いものがありそうに見えた。そのテーブルのほうにふらふらと向かう途中で、目がランプの灯りの中で柔らかく光る、丸い滑らかなものにとまり、かれはそれを手に取った。
重たいガラスのかたまりで、片側は丸く、反対側は平らで、ほとんど半球状だった。ガラスの色彩と手触りの両方に、何か得意な柔らかさ、まるで雨水のような感じがあった。その真ん中に、曲がった表面により拡大されて、奇妙な、ピンク色の、複雑な形をした物体があり、バラかイソギンチャクを思わせた。
「これは何ですか?」魅了されてウィンストンは尋ねた。
老人は答えた。「サンゴでございます、それはね。おそらくインド洋からきたのでしょう。かつてはそれを、何かガラスの中に埋め込んだのです。それは作られて百年に満たないはずはありません。もっと古いかもしれない、その様子ですと」
「美しいものですね」とウィンストン。
「美しいものです」と相手も味わうように言った。「ですが、そんなことを言う人は最近はあまりおりませんな」とかれは咳き込んだ。「さて、まさかそれをお買いになりたいというなら、四ドルの値段となります。そんなものなら八ポンドの値がついた頃を覚えておりますよ。八ポンドといえば——まあ計算はできませんが、かなりの金額でございました。しかし最近では本物のアンティークのことなんて、だれが気にしましょうか——残ったわずかなものについてでも?」ウィンストンは即座に四ドルを渡して、その欲しくてたまらないものをポケットにすべりこませた。それに惹かれたのは、美しさよりもむしろ、現在とはまったくちがう時代に属しているように思わせる雰囲気なのだった。ソフトで雨水のようなガラスは、これまで見たどんなガラスともちがっていた。それが二重に魅力的なのは、一見するとまったく役立たずだからだ。とはいえ、かつてはそれが文鎮として使われただろうと推測はできた。ポケットのなかできわめて重かったが、ありがたいことに、そんなにふくれては見えない。党員が所有するにしては奇妙なものであり、疑念を抱かせるものですらあった。古いものはすべて、それを言うなら美しいものはすべて、いつも漠然と怪しまれた。老人は四ドルを受け取って、目に見えて機嫌がよくなった。ウィンストンは、三ドルか、ヘタをすると二ドルでも相手が受け取っただろうと気がついた。
「よろしければ、二階の別の部屋もご覧になりますか。大したものはございません。ごくわずかです。二階に行かれるなら、灯りを用意いたします」
かれは別のランプを灯し、曲がった背中で、急でボロボロの階段をゆっくり先導して、小さな通路を通り、街路には面しておらず、石畳の中庭と、煙突の森林を見渡す部屋に案内した。家具の配置は、まるでこの部屋がまだ人が暮らすためのものだとでも言うようだとウィンストンは気がついた。床にはじゅうたんがあり、壁には絵が一つ二つ、暖炉に寄せて深いだらしない安楽椅子があった。古風な十二時間の盤面を持つガラス時計が、マントルピースの上でカチカチと時を刻んでいる。窓の下、部屋の四分の一近くを占めているのは巨大なベッドで、まだマットレスがのっている。
老人は半ば詫びるように言った。「妻が他界するまでここでいっしょに暮らしておりました。少しずつ家具を売りさばいておるところです。さてこれは美しいマホガニーのベッドでございます。あるいは、南京虫を追い出せればそうなります。しかし申し上げれば、いささかかさばるものではございますな」
かれはランプを高く掲げて部屋全体を照らそうとするようだった。そしてその温かく薄暗い光の中で、その場所は不思議なほど魅力的だった。あえて危険を犯すつもりさえあれば、この部屋を週に数ドルで借りるのは容易だろうという考えがウィンストンの脳裏をよぎった。それはとんでもない、あり得ない考えで、思いついたと同時に放棄すべきものだった。だがこの部屋はかれの中にある種のノスタルジーを目覚めさせた。一種の先祖伝来の記憶だ。こんな部屋にすわるのがどんなものか、燃える炎の前の安楽椅子にすわり、足をフェンダーに向けて暖炉の台にやかんをかけるのがどんな感じか、ずばり知っているように思えた。完全に一人で、完全に安全で、だれにも見張られず、どんな声にも追い立てられず、やかんの歌と時計が時を刻む親切な音しかしないのだ。
「テレスクリーンがない」かれは思わずつぶやいた。
「ああ、あの代物は一度も持ったことがありません。高価すぎます。それに一度も必要だと思ったこともございませんで、なぜかしらね。さてその隅にあるのは素敵な折りたたみ式テーブルでございますが、畳む部分を使いたければ新しいちょうつがいを入れねばなりません」
もう一つの角には小さな本棚があり、ウィンストンはすでにそちらに近づいていた。そこに入っているのはゴミだけだった。書籍の狩り立てと破壊は、他の場所と同じくプロレ地区でも徹底して行われたのだ。オセアニアのどんな場所にも、1960年以前に印刷された本があるとはきわめて考えにくかった。老人はまだランプを持ったまま、暖炉の反対側、ベッドの向かいにぶら下がったローズウッドの額に入った絵の前に立っていた。「さて、もし古いプリントに少しでもご関心がおありでしたら——」と彼は穏やかに話し始めた。
ウィンストンは部屋を横切って絵を検分した。四角い窓を持ち、正面に小さな戦闘がある、楕円形の建物を描いたスチール版画だった。その建物のまわりには手すりがあり、その裏がわには彫像らしきものがあった。ウィンストンはしばらくそれを見つめた。何か漠然と見覚えがあるような気がしたが、その彫像は記憶がなかった。
「額縁が壁に固定されておりますが、はずして差し上げてもよろしゅうございますよ、よろしければ」と老人。
ウィンストンはようやく口を開いた。「この建物は知っています。いまは廃墟です。正義宮殿の外の、通りの真ん中にある」
「その通りです。法廷の外。爆撃されたのは——ああ、もう何年も前のことです。かつては教会で、セントクレメント・デインズ、という名前でした」。かれは申し訳なさそうに微笑し、まるで自分が何かバカげたことを言うのを意識しているとでも言うようだった。そしてこう付け加えた。「オレンジにレモン、とセントクレメントの鐘!」
「なんですか、それは?」とウィンストン。
「ああ——『オレンジにレモン、とセントクレメントの鐘』。私が少年だった頃にあった詩ですよ。続きは忘れてしまいましたが、最後は覚えています。『これがロウソク、ベッドに導く灯り、これが鎌で頭を切り落とす』。一種のダンスでした。腕を伸ばしてその下を通るのですが『これが鎌で頭を切り落とす』というところで腕をおろして、こちらを捕まえるのです。教会の名前ばかりでしたな。ロンドンの教会はみんな入っておりましたよ——主要なものは、ということですが」
ウィンストンは漠然と、その教会が何世紀のものだろうかと思案した。ロンドンの建物の年代を見極めるのは常にむずかしかった。巨大で壮大なものはすべて、外観がそこそこ新しければ、自動的に革命後に建てられたものとされ、明らかにもっと古いものは、中世と呼ばれるなにやら薄暗い時代のものとされる。資本主義の数世紀は、価値あるものはまったく生み出さなかったとされた。本からと同様、建築からも歴史はまるで学べなかった。彫像、記念碑、碑石、通りの名前——過去に光をあてそうなものはすべて、系統的に変えられていた。
「教会だったとは知らなかった」
老人は語った。「実は、かなり残ってはいるのですよ。だが他の用途に使われておるのです。さて、あの詩はどう続きましたっけ?
そうそう!思い出した!
『オレンジにレモン、とセントクレメントの鐘、お代は三ファージング、とセントマーチンズの鐘——』
そうでした、さてこれが精一杯思い出せるところです。ファージング、というのは小さな銅の硬貨で、一セントと似ておりました」
「セントマーチンズというのはどこでした?」とウィンストン。
「セントマーチンズですか? まだ建っておりますよ。勝利広場の、写真ギャラリーの横に。三角じみたポーチと、正面に列柱がある建物で、大きな正面階段がございますな」
ウィンストンはその場所をよく知っていた。各種のプロパガンダ展示に使われる博物館だった——ロケット爆弾や浮遊要塞の縮尺模型、敵の残虐行為を描いたロウ細工のタブローなどを飾るのだ。
「セント・マーチンズ・イン・ザ・フィールドというのが昔の呼び名でした」と老人は補った。「とはいえ、そのあたりのどこにもフィールドなどあったとは記憶しておりませんが」
ウィンストンはその絵は買わなかった。ガラス製文鎮よりなおさら不適切な所有物になっただろうし、額縁から取り出さないと、家に持ち帰るのは不可能だ。だがさらに数分にわたりそこにとどまり、老人と話をした。その名前はウィークスではないという——店頭の碑銘からはそうとしか思えないが、チャリントンという名前なのだ。チャリントンさんはどうyたら、六十三歳のやもめで、この店で30年にわたり暮らしてきた。その間、ウィンドウの上の名前を変えるつもりではいたが、それを実際にやるまでには到っていなかったのだった。二人がしゃべっている間ずっと、途中まで思い出された詩が、ウィンストンの脳裏を駆け巡っていた。オレンジにレモン、とセントクレメントの鐘、お代は三ファージング、とセントマーチンズの鐘!
奇妙ながら、それを頭の中で繰り返すと、本当に鐘の音が聞こえるような幻想が生まれた。どこかにまだ偽装され忘れられたまま存在する失われたロンドンの鐘。一つ、また一つと幻のような鐘楼が、次々に鳴り響くのが聞こえるような気がした。だが思い出せる限り、自分は現実の生活で教会の鐘が鳴るのを聞いたことなど一度もないのだ。
チャリントンさんから離れて、一人で階下に下り、自分がドアを出る前に通りを偵察しているところを老人に見られないようにした。すでに、しばらく間隔をおいてから——一ヶ月くらいだろうか——この店にまたくる危険を犯すと決めていた。センターでの一晩をサボるより大して危険ではないかもしれない。深刻な愚行は、そもそもあの日記を買った後でこの場所に戻ってくることなのだった。この店主が信頼できるかもわからないというのに。だが——!
そうとも、とかれは再び考えた。また来よう。さらに美しいごみくずのかけらをもっと買うのだ。セントクレメント=デインズの版画を買い、額縁から取り出して、オーバーオールの上着の下に隠して持ち帰ろう。あの詩の残りをチャリントンさんの記憶から引き出してやろう。あの二階の部屋を借りるというキチガイじみた計画すら、再び一瞬頭を横切った。五秒ほどくらいか、その興奮状態のために軽率になって、かれは窓からざっと外を確かめることさえせずに、歩道に足を踏み出した。そして即興の曲にあわせてハミングさえ始めていた。
オレンジにレモン、とセントクレメントの鐘、お代は三ファージング、とセントマーチンズの鐘——
いきなり、心が凍り付き内臓が水になったような気がした。青いオーバーオールの人物が歩道をこちらに向かっており、十メートルも離れていない。架空部の女子だ。黒い髪の女子。暗くなっていたが、彼女を見分けるのは容易だった。向こうはこちらの顔をまっすぐ見つめ、それからこちらを見もしなかったかのように、さっさと歩き続けた。
数秒にわたり、ウィンストンは麻痺状態でまるで動けなかった。それから右に曲がり足早に立ち去ったが、そのときは自分の向かう方向がまちがっているとは気がつかなかった。いずれにしても、一つ疑問は片付いた。もはやあの女子が自分をスパイしているのは、疑問の余地がなかった。ここまで尾行してきたにちがいない。単なる偶然だけで、たまたま同じ晩に、同じへんぴな裏通りを歩いていたなどはあり得ない。ここは党員たちが暮らすあらゆる区画から、何キロも離れているのだ。偶然にしてはあまりにできすぎだ。本当に彼女が思考警察のエージェントなのか、生真面目さに動かされた素人スパイなのかは、ほとんど問題ではない。彼女が見張っているというだけで十分だ。おそらくあのパブに入るところも見られただろう。
歩くのは一苦労だった。ポケットのガラスの固まりが、一歩毎に腿にぶちあたり、それを取り出して投げ捨てようかと半ば思ったほどだ。最悪なのは腹の痛みだった。数分にわたり、すぐに便所にたどりつかなければ死ぬとさえ思った。だがこんな区域には公衆便所などない。だがそこで痙攣がおさまり、後には鈍い痛みだけが残った。
その通りは袋小路だった。ウィンストンは立ち止まり、数秒たちつくして漠然と、どうしようか思案し、そしてきびすを返して来た道を戻った。向きを変えたとき、あの女子が自分の横を過ぎたのはたった三分前だから、追いかければたぶん追いつけるはずだと気がついた。どこか静かな場所にくるまで後をつけて、舗石で彼女の頭蓋骨を叩き潰せる。ポケットの中のガラスの固まりは、重いから十分その役を果たせるはずだ。だがかれは即座にその考えを捨てた。肉体的な努力を少しでもするなど考えただけで耐えがたかったからだ。走れないし、そんな一撃もくらわせられない。それに彼女は若く頑丈だから、身を守るだろう。またコミュニティセンターにいまから急いでかけつけ、そこが閉まるまでとどまって、この晩について部分的なアリバイを確立しようかとも考えた。だがこれまた不可能だ。死にそうな倦怠感に襲われた。もうさっさと家に帰って腰をおろし、静かにしたいだけだった。
アパートに戻ったときには二十二時をまわっていた。照明の主電源は二十三-三十にスイッチが切られる。かれは台所にいって、勝利ジンを紅茶カップ一杯近く飲み干した。そしてアルコーブのテーブルにでかけ、すわって日記を引き出しから取り出した。だがすぐには開かなかった。テレスクリーンからは騒々しい女性の声が、愛国的な歌をがなりたてていた。かれは本の大理石模様の表紙をすわったまま見つめ、意識から立ち上る声を封じようとしては失敗していた。
連中がつかまえにくるのは夜、いつも夜なのだった。適切なことは、つかまる前に自殺することだ。まちがいなく、そうする人々もいた。多くの消滅は実は自殺なのだ。だが火器や、素早く確実な毒が完全に入手不能な世界にあって、自殺するには絶望的な勇気が必要だった。彼はある種の驚きをもって、苦痛と恐怖の生物学的な役立たずぶりについて考えた。まさに特別な努力が必要とされるときに限って、常に惰性へと凍り付いてしまう、人間の身体の裏切りを思った。素早く行動さえしていれば、あの黒髪の女子を黙らせられたのに。だがまさに自分の危険が極端だったがために、自分は行動の力を失ってしまった。危機のときには、人は決して外部の敵と戦っているのではない、とかれは思い当たった。常に自分の肉体と戦っているのだ。この瞬間ですら、ジンにもかかわらず、腹の鈍い痛みのおかげで続けてものを考えるのは不可能だった。そしてそれは、一見すると英雄的だったり悲劇だったりするあらゆる状況で同じなのだ。戦場だろうと拷問室だろうと、沈む船上だろうと、自分が戦おうとしている問題は常に忘れ去られる。というのも肉体はふくれあがって宇宙を満たし、恐怖で麻痺したり痛みで絶叫したりしていないときですら、人生は一瞬ごとの、飢えや寒気や睡眠不足、腹痛や歯痛との戦いなのだ。
かれは日記を開いた。何か書き留めておくのが重要だ。テレスクリーンの女性は新しい歌を始めていた。その声は、ギザギザのガラスのかけらのように、脳に突き刺さるようだった。オブライエンのことを考えようとした。この日記を贈る相手、宛てる相手だ。だがかわりに、思考警察に連行された後で自分に何が起こるかを考え始めた。即座に殺されてもかまわない。殺されるのは想定通りだ。だが死ぬ前に
(だれもそんな話はしないのに、みんなそれを知っていた)自白のルーチンを経由しなければならない。床に這いつくばって、お慈悲を求めて絶叫し、骨の折れる音、砕かれる歯、血みどろの髪の毛のかたまり。
なぜそんなものを耐えさせられるのだろうか。終わりはいつも同じなのに?
なぜ人生から数日、数週間を切り出す必要があるのか?
だれも見つからずにはすまないのだし、だれも自白を逃れることは一度もなかった。思考犯罪に陥ったら、ある日付までに死ぬのは確実だった。ならばなぜあの恐怖が、何を変えるわけでもないのに、未来の時間に埋め込まれていなければならないのか?
さっきより少し、オブライエンの姿を呼び起こすのに成功した。「暗闇のない場所で会おう」とオブライエンは語った。その意味はわかった、あるいはわかったと思った。暗闇のない場所とは想像された未来であり、決して見ることはないが、事前の知識によって神秘的に共有できる場所なのだ。だがテレスクリーンからの声が耳をいたぶり続けていたので、その考えの流れを続けられなかった。口にタバコをくわえた。タバコの半分がすぐに舌の上に転がり落ちた。苦い粉で、再び吐き出すのはむずかしい代物だ。ビッグ・ブラザーの顔が心に浮かび上がり、オブライエンの顔に置き換わった。数日前にやったのと同じように、彼はポケットから硬貨をすべり出して眺めた。その顔がこちらを見上げていた。重く、平静で、護るような顔。だがその暗い口ひげの下にはどんな微笑が隠されているのだろうか?
不吉な葬鐘のように、あの言葉がよみがえってきた。
戦争は平和
自由は隷属
無知は力