サウナストーブを囲む二段式の木組みベンチに座り、千明は襲い来る敵の攻撃にじっと耐えていた。
今回の敵の攻撃は『熱』と『乾燥』。
この攻撃に耐える手段はただひとつ、汗をかくことである。
千明は全身から大量の汗を流しながら熱と乾燥に耐え、ひたすら
この熱と乾燥は敵の攻撃であるが、
じっくりと腰を据え、
やがて千明は悟る。いよいよだ。いよいよ、
はやる心を抑えつつゆっくりと立ち上がった千明は、足場を確かめるかのごとく一歩ずつ静かに進み、熱と乾燥が支配する部屋を後にした。
そのままの足取りで露天風呂のエリアへ移動する。そこには、敵の猛攻に耐えた勇者のみが浸かることを許される
長時間熱に
千明は、泉のそばにピラミッドのように積み上げられたケロちゃんマークの黄色い洗面器をひとつ取ると、泉の水をひとすくいし、肩から全身へゆっくりと流しかけた。
きゅっ、と、全身の血管が引き締まるような快感。
泉に飛び込みたい衝動はますます強くなるが、その心を抑え、千明はさらに念入りに洗面器で水をすくっては身体にかけていく。
こうすることで、先ほどの熱と乾燥の攻撃に耐えるために身にまとった汗を洗い流すのだ。この汗を洗い流さない限り、決してこの聖なる泉に足を踏み入れることは許されないのである。
千明は戦いの勲章とも言える全身の汗を入念に洗い流す。
そして、ついにその時は来た。
「――ひゃっはー!!」
千明は大きく跳躍して水風呂に飛び込んだ。
先ほどまでのじれったい快感から一転、一気に全身を恍惚が包み込む。
これが、近年世界中に広く知れ渡り、世のサウナーたちを魅了し続ける究極の快楽、『整う』である。
彼らはこの快楽を得るため、日夜戦い続けているのだ。
「――珍しくお行儀よくしてると思ったが、結局最後は飛び込むのか」
水風呂から少し離れた所にある露天風呂エリアのベンチに座り、ずっと千明の様子を見ていたリンが呆れた顔で言った。
千明同様サウナルームに入っていたが、先に出て外気浴で身体の熱を冷ましていたようである。
「ま、いいじゃねぇか。いま利用者はあたしたちだけなんだし、ちょっとくらいハメを外しても、迷惑にはならないだろ。誰か来たら、ちゃんとお行儀よくするよ」
千明はてへへと笑いながらそう言った後、「ふわー」と大きく息を吐いた。
「しっかし、これぞ日本の古き良き『整い』という感じだな。やっぱサウナはこうじゃなくちゃいかん」
「おっさんか」
と、リンがツッコんだ。
近年のサウナブームにより、ひと口にサウナと言っても様々な種類が増えてきた。
蒸気を噴霧して温度と室温を上げるスチームサウナや、温水を霧状にして室内に噴霧するミストサウナ、熱したサウナストーンに水やアロマ液をかけるフィンランド式サウナなどがブームをけん引していると言えるが、ペンション・ラディウス本館のサウナは、老舗らしく、古くから日本にあるドライ式のサウナだ。
温度が高く湿度が低いのが特徴で、思いっきり汗をかけることで根強い人気がある。
「でも、ホントに雪がやんでよかったね」
と、ベンチの隣にある温泉に浸かっているなでしこが、空を見上げながら言った。
「あのまま降り続けてたら、せっかくの露天風呂に入れなかったよ」
千明も水風呂から空を見上げる。
ほんの一時間ほど前は一面真っ白に染まるほどの猛吹雪だったのだが、今はピタリとやみ、空にはキラキラといくつもの星が輝いている。
雪が酷い時はこの露天風呂エリアは閉めるそうなので、運が良かったと言える。
「でも、『雪ダイブ』ができないのは、ちょっと残念だけどな」
千明は無念の気持ちをにじませて降り積もった雪を見つめる。
サウナ後の雪ダイブによる究極の整いを期待していたのだが、残念ながら露天風呂エリアには『雪ダイブ禁止!』と大きな看板が立てられてあり、断念せざるを得なかったのだ。
「まあ仕方ないだろうな」
と、リン。
「サウナから出た後いきなり雪に飛び込むのはあまりも危険だ。比較的温度が高めの水風呂でも、しっかりとかけ水をして身体を冷たさに慣らしてからじゃないと心臓マヒを起こす危険があるんだ。なのに、水風呂よりもさらに冷たい雪の中に、かけ水も無しにいきなり飛び込むんだから、そりゃ危険だろう。昨今のサウナブームでそういった危険行為を平気で行う
「そっちこそおっさんクサいぞ」
千明はにひひと笑うと、
「さーて、もう1ラウンド行きますか」
と言って、水風呂から上がった。
「あたしは遠慮しとく。ドライサウナは、肌が乾燥するからどうもニガテだ」
「まさに肌に合わない感じか」
「言うと思った」
千明はなでしこを見た。
「なでしこは、サウナはいいのか?」
「あたしは、サウナより温泉かな」
「なんだよ、せっかくの温泉サウナなのに、楽しまなきゃ損だぞ?」
千明は唇を尖らせた。
「楽しみ方はそれぞれだ」
リンが反論するように言う。
「あたしもなでしこも、それぞれの温泉を満喫してるぞ」
そう言われ、千明も
「ま、それもそうか」
と納得する。
せっかくの至高の整いをリンたちと共有できないのは残念ではあるが、それを無理矢理押し付けるのは単なる迷惑行為であろう。
「ゴメン、あたし、先に上がるわ」
そう言って、リンがベンチから立ち上がった。
「ん? どうしたリン。まだ三十分くらいしか入ってないぞ?」
千明は首を傾ける。
リンたちとはキャンプへ向かう途中でよく温泉に入るが、最低でも一時間はのんびり温泉活動略して温活を満喫している。
「ちょっと頭がボーっとしてきた。サウナに長居しすぎたのかもしれない」
「え!?」
なでしこがざばんと水しぶきを上げ立ち上がる。
「大丈夫リンちゃん!? 救急車呼ぶ!?」
「いや、そんな大げさなモンじゃない。部屋に戻って、水分補給して少し横になってたら大丈夫だ」
「でも、一人で階段登れる? もし足を滑らしたり、途中で意識を失って転げ落ちたり、凍死した兵隊の幽霊に足を引っ張られて黄泉の世界に引きずり込まれたりしたら……」
「大丈夫だってば。お前は心配し過ぎだ。あと、怖がり過ぎだ」
自分で言い出した話に怖がってブルブル震えながら湯に浸るなでしこに、リンは苦笑いでツッコミを入れた。
「本当に大丈夫なんだな?」
千明は念のためもう一度確認する。
「ああ、問題ない」
そう言って、リンは一人、先にお風呂をあがった。
「ま、別に顔色も悪くはなかったし、暗い夜道を一人で帰るわけでもなし、そう心配することもないだろ」
まだ心配そうにしているなでしこに言って、千明は「ようし」ともう一度気合を入れ直す。
「じゃあ、あたしはあたしで
千明ははり切って2ラウンド目のサウナへ突入した。
一時間ほど温泉とサウナを堪能した千明となでしこは、七時少し前にお風呂を出た。
少し物足りなくはあるが、温泉は二十四時間入れるそうだし、夜はまだまだこれからだ。
まずは、七時からの食事に備えなければならない。
温泉からロビーへ戻ると、フロントの前でオーナーの西谷と女性客の田中が話をしていた。
なんだかやたらと深刻そうな顔をしている。
何かあったのだろうか? 気になった千明は、声をかけて見た。
「すみません、どうかしたんですか?」
千明を見た田中は、
「大垣さん。実は、部屋の前に変な物が落ちていたんですよ」
と言って、一枚のメモを見せた。
黒のサインペンで、やたらとカクカクとした文字が書かれてある。その文面を見て、千明は眉をひそめた。
『こんや じゅうにじ だれかが しぬ』
「今夜十二時、誰かが死ぬ? なんですか、これ?」
千明は視線をメモから田中へ向ける。死ぬ、とは穏やかじゃない。
「それが、よく判らないの。お茶を飲んで部屋に戻ったら、ドアの前に落ちてたのよ。なんだか犯行予告みたいで、怖くてオーナーさんに相談したの」
「『かまいたちの夜』だな」
いきなり背後から声がした。
振り返ると、リンがメモを覗き込んでいた。
「うお。なんだリン、部屋に戻ったんじゃないのか? 気分はどうだ?」
「問題ない。ちょっとお茶を飲もうと思って、おりてきたんだ」
「なら良かった。それで、なんだ、その『かまいたちの夜』って?」
「テレビゲームだ。小説に映像とBGMと効果音を融合させた『サウンドノベル』っていうジャンルのパイオニア的作品で、雪に閉ざされたペンション内で起こった殺人事件を調べる推理モノだ。そのゲームの中で、これと同じようなメッセージが登場する」
「雪に閉ざされたペンション……ここと同じだね」
なでしこが窓の外を見つめながら言った。
雪はやんでいるが、降り積もった雪によって道は閉ざされている。
この状態では、山から街へ下りることも、街からここへ来ることも難しいだろう。
「そのゲームって、どんな展開になるんだ?」
千明はさらに訊いた。
「ゲームだから途中でいろんな選択肢があって、それによって展開が変わるんだ。すぐにトリックを暴いて犯人を捕まえるハッピーエンドはもちろん、何人も被害者が出てから真相を暴く微妙なエンドもある。さらには、選択を誤ると主人公が犯人に殺されたり、疑心暗鬼になって宿泊客同士で殺し合いになったり、あろうことか主人公が犯人に間違えられてヒロインに殺されたり、逆に主人公が犯人と間違えてヒロインを殺したりするバッドエンドもある」
「ええ! そんなのやだー!」
悲鳴を上げるなでしこを、リンは
「いや、それはゲームの話だ」
と言ってなだめる。
「さっき言った通り、雪に閉ざされると言っても、この辺りでこのくらいの雪は珍しくない。朝になれば除雪車が動きはじめるから、すぐにふもとの街におりられるようになる」
そう言った後、リンは西谷を見て、「そうですよね?」と、同意を求めた。
「もちろんです」
と、西谷は頷く。
「まして、殺人事件なんて、お話の中だけですよ」
「そうだな」
と言って、千明はメモをくしゃくしゃに丸めた。
「大方これも、そのゲームのマネをしたイタズラだろ」
「そう……そうですよね」
田中はちょっと安心したような顔になって頷いた。
「じゃあ、そろそろ夕食にしますので、食堂にお越しください」
西谷が明るい声で言った。
「やった。すぐに行きます」
千明は丸めたメモをフロントそばのゴミ箱に捨てると、なでしこと一緒に一度二階の自分たちの部屋に戻り、お風呂の道具を置いた後、すぐに一階に戻って食堂へ向かった。
食堂内には、田中や岩内ら他の宿泊客もすでに集まっていた。
千明はぐるりと食堂内を見回す。まだ挨拶をしていない人がいたらしようと思ったが、みんな見覚えのある顔ばかりだった。
ただ、あの動画配信者の豊島の姿が見えない。
ちょうど撮影仲間の安東が通りかかったので訊いてみた。
「豊島は、人と会うとかで個室サウナを借りてるの」
安東は肩をすくめて言った。
「個室サウナですか」
千明は首を傾けた。
確かにこのペンションの一階奥には個室サウナがある。
千明たちも興味はあったが、別料金で一時間二千円と、金欠の千明にはかなりお高めだったので断念したのだ。
それにしても、温泉宿の個室で密会とは、なにやらインモラルな香りがする。
「……なんか変なこと考えてるだろ」
リンが目を細めて見ていた。
「な、なんだよ、変なことって」
千明は慌てて否定する。
「ただ、豊島さんが誰かと会ってるってことは、館内にもうひとりお客さんがいるってことだろ?」
「まあ、そうなるな」
リンも食堂内を見回して言った。
食堂内には安東の仲間の立木もいるし、オーナーの西谷もクルーの半田もいる。
千明たちが館内で会った人は、豊島を除けばこれで全員だ。
「ちょっと呼んで来るわね。みんなは、気にしないでご飯を食べててね」
そう言って、安東は食堂から出て奥の個室サウナへ向かって行った。
千明たちは席に着く。
ペンション・ラディウスの本日の夕食は欧風のコース料理だ。
テーブルに置かれたメニュー表によると、前菜の鴨とサーモンの燻製サラダに始まり、スープはかぼちゃのポタージュ、魚料理はマグロのポワレ、肉料理は牛ほほ肉の赤ワインやわらか煮、パンは焼き立て食べ放題、デザートはアップルパイのアイス添えと、高級ホテルにも引けを取らない豪華なラインナップだ。
メニューを見た瞬間、なでしこが腹の中に飼っている猛獣がぐるるるると唸り声を上げた。
温泉に入る前に人一倍いや二倍三倍食べたお菓子は、もう消化してしまったようである。
前菜が運ばれてきて、千明とリンがひと口なでしこがペロリと全部平らげたところで、安東が一人で戻ってきた。
「外から呼びかけてみたけど、返事がないの。くつろいで寝てるのかも」
と、安東はまた肩をすくめた。
「まあ、料理とかにはあんまり興味がない人だから、ほっといて大丈夫よ」
そう言うと、安東は立木と同じテーブルについて前菜を食べ始めた。
「信じられない……この世に料理に興味がない人がいるなんて……」
なでしこが聞いてはいけない言葉を聞いてしまったかのように、両耳に手を当ててぐるぐる首を振った。
「そりゃいるだろ」
と、千明。
「なんで? 『食欲』『性欲』『睡眠欲』は人間の三大欲求だよ? それが無いなんて、人間じゃないってことだよ?」
「そこまで言うか」
リンが呆れた声で言う。
「まあ、食欲が無いわけじゃないだろうが、豊島さんは、なでしこと違って『食欲』がぶっちぎりの1位じゃないってことだろ」
「つまり、『食欲』よりも『性欲』か『睡眠欲』の方を優先してるってことだな」
という千明に、リンは
「また変なこと考えてるだろ」
と、冷めた目を向けてきた。
「でも、それだと豊島さんの食事はどうなるの……?」
なでしこはまだ納得できないという声で続ける。
「このままだったら、豊島さんの分が余っちゃうよね? だったら、あたしが――」
甘い誘惑に誘われるように、なでしこは三人分の料理が並ぶ安東の席へ向かおうとする。
「お前はもっと『食欲』を抑えろ」
リンがなでしこの襟首を掴んで引っ張り、無理矢理席に着かせた。
「ま、楽しみ方は人それぞれだ」
と、千明が言う。
「温泉宿での密会を楽しむのも、その人の自由だろ。あたしたちは、おいしい料理を楽しもうぜ」
そして、千明たちは新たに運ばれてきたスープと魚料理に舌鼓を打った。