犯人はこの中にいる――千明の指摘により、ロビーに集められた人々は言葉を失った。
個室サウナにて、全身滅多刺しの惨殺死体で発見された豊島。
あんな残忍なことをする人間が、この中にいるのだろうか……皆、その目に恐怖と疑いを宿らせ、周りの人に視線を巡らせる。
「岩内さん――」
千明は、元警察の鑑識官である岩内を見た。
「犯人を特定するには、どうすればいいですか?」
「おい、やめろと言ってるだろ」
そう言ったのはリンだ。
「そういうことは警察の仕事だ。余計なことをするんじゃない」
「その警察がいつ来るかわからないから、一刻も早く犯人を見つけ出さないといけないんじゃないか」
さっきからやめろとしか言わないリンに対し、千明はもどかしい気持ちで言った。
身を守るためには必要なことであるはずだが、なぜリンは協力してくれないのだろうか。
「そうね」
岩内はあごに手を当て、しばらく考えた後で続けた。
「殺人事件で重要になってくるのは、まず動機ね。あれほど滅多刺しにするくらいだから、怨恨だと思って間違いない。被害者を殺したいと思うほど憎んでいた人を探し出すことが重要になると思う」
なるほど、と千明は頷き、考える。
殺したいと思うほど憎んでいた人……当然、それなりに深い関係であるはずだ。
千明はみんなを見た。
「念のため訊きますが、この中で、以前から豊島さんと面識があった方は、安東さんと立木さん以外にいますか?」
誰も手を挙げなかった。
皆、豊島とは今日初めてここで会ったか、せいぜい豊島がネット配信している動画チャンネルを観て知っていた程度の関係であろう。
そうなると、殺すほどの動機を持つ人物としては、豊島の仕事仲間である安東と立木が疑わしくなってくる。
みんなの視線が、一斉に安東と立木に向けられた。
「ちょっと待ってよ、あたしたちが犯人だとでも言うの?」
みんなの視線の意味を悟った安東は、冗談じゃないという顔をして反論する。
「あたしたちの動画チャンネルは、豊島の人気で成り立っているのよ? 彼がいなくなったら、動画配信は成り立たない。あたしたちは仕事を失うことになるの。殺すなんてありえないわ」
「いえ、それは判りません」
千明は冷静な口調で言う。
「確かに、豊島さんがいなくなると、安東さんたちは仕事を失うのかもしれません。でも、それでも殺害に及ぶほどの強い動機があったとも考えられます」
「じゃあ、その動機って何なのよ!」
「ですから、判らないんです。安東さんに豊島さんを殺す動機があったのか無かったのか、立木さんも同様です。あたしには、それを判断することはできません」
そう言った後、千明は安東からみんなに目を向けた。
「これは、他のみなさんにも同じことが言えます。みんな、豊島さんとは初めてここで会ったと思いますが、それが本当かどうか判断することはできないんです。本当は顔見知りだけど知らないふりをしているのかもしれません。あるいは、ここで会った数時間の間に恨みを持つことになったのかもしれません。失礼ながら、炎上系の動画クリエイターですから、動画が原因で殺意を持ったということも考えられます。これが警察の捜査なら、徹底的に聞き込みを行い、ウラを取ったりして証拠固めをするんでしょうけど、今この場であたしたちがそれをすることは不可能でしょう。なので、今回は動機を捨てます」
「動機を捨てる?」
岩内が驚いた顔になった。
「なら、どうやって犯人を見つけるの?」
「岩内さんの検視のおかげで、殺害時刻は夜八時半ごろだと判明しました。これを軸に考えて行きましょう。まずは、その時間、誰がどこにいたかを整理してみます。誰に犯行が可能だったのかを割り出すんです」
ということで、千明は一人一人夜八時半のアリバイを聞いて行き、なでしこがどこからかもってきたホワイトボードに記入して、整理していった。
「――まず、食事が終わったのが夜八時ごろ。この後、リン・なでしこ・安東さん・立木さん・岩内さん・田中さん・そしてあたしの七人でロビーに集まり、ゲームをしていました」
ホワイトボードには館内のマップが描かれ、そこにそれぞれの名前を書いた丸型のマグネットを張り付けていく。
「その時間、従業員の西谷さんと半田さんは、食堂と厨房で食事の後片付けをしていました」
千明は西谷と半田のマグネットを移動させた。
「八時一〇分、ゲームに敗れたあたしは、退屈してうたた寝してしまいます。ゲームが終了したのは八時二十分ごろ。この後、リン・岩内さん・田中さんの三人は、二階の各々の部屋へ、安東さんと立木さんは、それぞれお風呂に入りました」
千明は言った通りマグネットを移動させた。ロビーには、千明となでしこが残っている。
「これ以降、死体発見時間である九時三十分まで、誰もロビーを通っていません。そうだな? なでしこ?」
うん、と、なでしこは力強く頷いた。
「犯行時刻は八時三十分ごろです。そのため、二階にいた三人は容疑者から除外して良いでしょう。犯行現場である個室サウナへ移動するためには、ロビーを通る必要があります。ロビーを通ったら、必ずなでしこが目撃しているはずですから」
千明は館内マップからリンと岩内と田中のマグネットを外した。
「残る安東さんと立木さんはお風呂に、西谷さんと半田さんは食堂か厨房にいました。どちらも、ロビーから人の出入りは見えません。なので、殺害時刻である八時三十分ごろに、抜け出して豊島さんを殺し、戻ることは可能であると考えます。死体を発見したのもこの四人です。そこで訊きたいのですが、死体発見時、豊島さんの個室サウナに、鍵はかかっていましたか?」
「ええ」
と答えたのはクルーの半田だ。
「呼びかけても返事がなかったので、マスターキーを使って鍵を開け、中に入りました」
「念のために訊きますが、個室サウナの鍵は、豊島さんがサウナを借りた時にお渡ししたんですね?」
「はい。鍵はリラックスルームのリクライニングチェアの上に置いてありました」
「そうなると、豊島さんがいる個室サウナへ入るためには、マスターキーを使うしかないことになります」
千明は、半田と西谷の目を交互に見て、そして続けた。
「どちらか、八時三十分ごろ、食堂から抜け出しませんでしたか?」
半田と西谷を見るみんなの目に一斉に疑惑の色が宿った。
「ちょっと待ってください! 僕たちが犯人だとでも言うんですか!?」
心外だという声を上げる半田。
「冗談じゃない! なぜ我々がお客様を殺さないといけないんです!」
声を荒らげる半田に対し、千明は冷静な口調なまま続ける。
「先ほど言った通り、今回動機は重視していません。殺害が可能だったかどうかで判断します」
なおも心外という顔をして反論しそうな半田だが、その場にいるほぼ全員が、質問に答えろと言わんばかりの目で見つめているため、言葉を飲み込む。
代わりに、西谷が答えた。
「お互いずっと同じ作業をしていた訳じゃないので、五分から一〇分くらいは目を離したことはあるはずです」
「なら、犯行は可能ということになりますね」
千明の言葉にみんな一瞬どよめいたものの、西谷が
「待ってください」
と言って、さらに続ける。
「被害者はあれほど滅多刺しにされているんです。なら、犯人はかなりの量の返り血を浴びているはずでは? そうなると、殺害後に血を洗い流す必要があると思うんです」
西谷の指摘に、千明は「あ」と声を上げた。
確かにその通りである。殺害だけならば時間的に二人とも可能だ。
しかし、血まみれの姿で戻るわけにはいかない。犯人は、どこかで血を洗い流し、着替える必要があるのだ。そうなると五分や一〇分では時間が足りない。
この二人は、犯人ではないのだろうか。
ならば、怪しくなるのはお風呂にいた安東か立木だ。
二人ともお風呂にいたから個室サウナへ行くのに人目にはつかないし、殺害後またお風呂に入れば、返り血を洗い流して着替えることができる。
みんなの疑惑の視線が、今度は安東と立木に向いた。
「ちょっと待ってよ」
と、視線に気づいた安東がまた反論する。
「部屋には鍵がかかってたんでしょ? 鍵は、豊島が持っていたものとマスターキーしかないんだから、あたしたちには部屋に入る手段がないわ」
「いえ、鍵がなくても、お二人なら問題ないでしょう」
千明が言う。
「電話なりで豊島さんを呼び出して、中に入れてもらえればいいんです。お仕事仲間であるお二人なら、それが可能でしょう。問題は、部屋を出た後どうやって鍵をかけるかですが……」
「それなら、鍵がなくても大丈夫です」
そう言って手を挙げたのは従業員の半田だ。
「個室サウナの鍵は、単純なボタン錠ですから、鍵がなくても外から施錠することは可能です」
ボタン錠とは、ドアのノブに筒状のボタンがついているもので、押すと鍵がかかるという仕組みだ。内側からはもちろん、外からでもボタンを押してドアを閉めれば、それで施錠できる。
千明が通う高校にもいくつかこのタイプのドアがある。
鍵がなくても施錠できるのは便利な時は便利だが、鍵を部屋の中に置いたまま施錠してしまうこともあるため、不便なことの方が多い。
仕組みが単純なため防犯的にも弱く、最近では使われることは少なくなったはずだが、そこは老舗旅館ゆえだろう。
「そうなると、誰でも外からの施錠が可能になり、部屋は密室ではないことになります。安東さんと豊島さん、どちらも犯行が可能です」
千明の指摘に、安東は「ふざけないで!」と声を荒らげた。
「そんなことで犯人扱いされてたまるものですか!」
「落ち着いてください。あたしは、あくまでも誰なら犯行が可能だったかを確認しているだけです」
「なら、そういうあんたはどうなのよ!」
安東が、千明を真っ直ぐに指さした。
「は? あたしですか?」
突然のことに、千明は目をぱちぱちと瞬かせる。
「さっきから、いかにも自分は名探偵だ、とでも言いたげに推理みたいなことしてるけど、あんただって容疑者の一人には変わりないでしょ!? 犯行時刻にロビーにいたんだから、誰にも見られず個室サウナに行くことができるじゃないの!」
「あ……あたしはその時間寝てたんですから、犯行は不可能です!」
「はん! それを『アリバイが無い』って言うのよ!」
「あたしが寝てたことは、なでしこも証言しています」
「そんなの信じられないわね。友達だからかばってるとも考えられるし、二人の共犯ということもあり得るわ」
「でも、現場には鍵がかかってたんですよ? あたしたちじゃ入れません」
「それもどうかしら? 従業員の二人が食堂にいたってことは、フロントには誰もいなかったんでしょ? なら、こっそり鍵を取って犯行に及び、こっそり返して、また寝たふりをすればいいだけよ。返り血だって、そもそも個室サウナにはシャワールームがあるんだから、そこで洗い流せばいい。犯行が可能だった人物というのなら、あんたが一番怪しいじゃないの!」
「そんなバカな! あたしには、豊島さんを殺す理由がありません!」
「はあ? 動機は重視しないって言ったのはあなたでしょ? 自分が疑われ始めたら『殺す理由が無い』だなんて、ますます怪しいわね」
安東の言い分に、みんなの疑惑の視線は千明に向けられた。
まずい。このままでは犯人にされてしまう。自分が犯人でないことは千明自身が一番判っている。なんとかして、このあらぬ疑惑を晴らさなければ。
「だったら、みんなに訊いてみましょう!」
千明の提案に、安東は、フン、と鼻を鳴らした。
「なに? 多数決で犯人を決めようってワケ?」
「そうです!」
と言って、千明はみんなの方を向いた。
「みなさん、あたしと安東さん、どちらが怪しいと思いますか? まず、安東さんの方が怪しいと思う方は、手を――」
挙げてください――という前に。
「やめろやめろやめろ!! そんなことは無意味だ! これはゲームじゃないんだぞ!!」
リンが大声を上げた。普段クールぶって物静かにしているリンからは想像もつかないような怒鳴り声だった。
そして、リンは千明を押しのけて安東の前に行く。
「安東さん申し訳ありません! コイツが言ったことは、すべて撤回します! 素人が探偵気取りで適当なことを言って、本当にすみませんでした!!」
深く頭を下げ、謝る。
さらには。
「立木さんも、西谷さんも半田さんも、あらぬ疑惑をかけて本当に申し訳ないです! みなさんも、不安な気持ちにさせて、すみません!」
一人一人に頭を下げて詫びるリン。こんな必死になって謝るリンの姿など初めて見た。
だからこそ、千明は納得がいかない。
「リン! なんで謝るんだ! あたしの推理は筋が通ってるだろ! あたしは犯人なんかじゃない! だったら、怪しいのは――」
だが、顔を上げたリンは、怖い目を千明に向けて来た。
「いいからお前は黙ってろ!! なでしこ! そいつの口を塞いでろ! この先一言もしゃべらせるんじゃない!! なんならつまみ出せ!!」
「つまみ出せって、お前それでも仲間か!? あたしの味方をしてくれないのか!?」
リンの胸ぐらをつかまんばかりの勢いで前に出た千明だったが。
「アキちゃんダメ!」
後ろからなでしこにものすごい力で羽交い絞めされた。
なでしこは一見すると森の中の小鹿のように無害な存在に見えるが、キャンプに土鍋やカセットコンロを背負って持ち込み、その状態で急な山道をダッシュで登っても息ひとつ乱さないほど底なしの体力を持っている。
非力な千明どころか通りすがりの寝惚けたクマ程度なら簡単に抑え込んでしまうとかしまわないとか。
「アキちゃん、今は、リンちゃんの言う通りにしよう」
反抗しようにもなでしこに抑え込まれてはなすすべもない。最初はジタバタしていた千明もおとなしくするしかなかった。
これ以上ヘタにうるさくするとホントに口を塞がれかねない。
なでしこの力で口を塞がれようものなら、窒息して死体がもうひとつ増えることにもなりかねない。
千明がおとなしくなったのを見て、リンは気持ちを落ち着かせるためか一度大きく息をし、あらためてみんなに向かって千明の行為を謝った。
「ま、まあ、こんな状況ですからね。疑心暗鬼になって誰かを疑うのも、仕方ないのかもしれません。あたしは、別に気にしていませんから」
と、オーナーの西谷は言ってくれたものの。
「あたしは納得いかないわね」
怒りが収まらない表情で言ったのは安東だ。
「言葉だけで謝罪されても、みんながあたしたちを疑っているという点は変わらないわ。詫びるのなら、疑いを晴らしてもらわないと」
「それに――」
と、今度は岩内が言う。
「一刻も早く犯人を見つけるという点に関しては、あたしも賛成だわ。あんな残忍なことをする犯人を、野放しになんてできない」
「判っています」
と、リンは頷いた。
「ただ、あたしはずっと疑問に思ってました。本当に、この中に犯人なんているんでしょうか?」
「はぁ? 今さらなに言い出すのよ」
安東が眉根を寄せた。
「みなさん、重要なことを忘れていると思います。豊島さんが個室サウナを借りたのは、『誰か』と会うため、ということです」
リンの指摘に、みんな「あ」と、思い出したような声を上げる。
確かに、そもそも豊島が個室サウナを借りたのは、人に会うためだった。
リンは半田を見た。
「半田さん、豊島さんが個室を借りたのは何時でしたか?」
「えっと、夕方の五時半ごろです」
「それ以降、誰も豊島さんの姿を見てませんね?」
今度は他のみんなに向かって言う。見たという人はいなかった。
リンは続ける。
「なら、その豊島さんが会っていた『誰か』が犯人である可能性が高いと考えるべきではないでしょうか?」
「でも――」
と、岩内。
「その『誰か』を見た人なんて、いるの?」
再びみんなを見る。誰も答えない。当然かもしれない。そんな人物を目撃していれば、真っ先に言っているだろう。
仮に、本当にその『誰か』がいたとして、館内にいる誰にも見つからずに中に入って豊島と会い、誰にも見つからずに館内から出て行くことなど可能だろうか?
その疑問に答えるように、リンはさらに続ける。
「食事中は、豊島さんを除く館内の全員が食堂に集まっていました。その時間帯なら、誰にも見つからずに出入りできます。あるいは、それ以外の時間でも、裏口から入って裏口から出れば、人目に付くことはないでしょう。この場合は、豊島さんが個室から出て裏口まで行き、招き入れたことになります」
豊島が借りた個室サウナから裏口はすぐそこだ。個室サウナのエリアは食堂からは少し離れた場所にある。
リンの言う通り、誰にも見られずに人を招き入れるのは難しいことではない。
しかし、そうだとしたら、もうひとつ大きな問題がある。
「でも、その『誰か』が豊島さんを殺し、館内から出て行ったなら、外の雪に足跡が残るはずよ?」
岩内が、千明の疑問を代弁するように言った。
「でも、外に足跡は無かった。そして、館内には他に人いない。その『誰か』は、どこに消えたの?」
岩内の指摘にも、リンは冷静に説明を続ける。
「犯行時間が本当に八時なら、おっしゃる通り、雪に足跡が残るか、館内のどこかに隠れていることになります。でも、そもそも犯行時刻の割り出し方に、もうひとつ盲点があると思うんです」
「盲点?」
「はい。被害者が、サウナで死んでいた、ということです」
「サウナ? サウナで死んでいたことが、どう盲点になるの?」
「岩内さん、死亡推定時刻は、死体の体温から割り出したんですよね?」
リンの質問に、岩内は一瞬「え?」と目を丸くしたが、すぐに「ええ、そうよ」と頷いた。
死亡推定時刻を体温から割り出す?
どういうことか判らず、千明は首をかしげる。
他の人も同様だった。
リンは千明たちにも判るように説明する。
「人の体温は平均して三十六度ほど。これが、死亡すると、どんどん下がりはじめます。死体の体温がどれだけ下がっているかで死亡時刻を割り出すのが、この方法です。例えば、死体の体温が三十四度だったとしたら、今の時期なら死亡推定時刻は一時間ほど前になります」
「今の時期なら?」
安東が、どういうこと? という顔をした。
「体温の低下具合は、外気温によって左右されます。冬は外気温が低いですから体温は下がりやすいですが、これが夏場になると外気温が高くなり、下がりにくくなるんです。わずか二度の低下であっても、夏場なら四時間以上経っていることもあります。つまり、体温による死亡推定時刻の割り出しは、外気温を考慮する必要があるんです」
「その通りよ」
と、岩内が言った。
「あなた、随分詳しいみたいね?」
「いえ、本で読んだだけの知識です。すみません、専門家の方がいるのに、あたしなんかが偉そうに講釈してしまって」
「それは別に構わないけど、でも、外気温に関しては、ちゃんと考慮したわ」
「はい。そこで、豊島さんが死んでいた『サウナ』という場所が、重要になってくるんです。言うまでもなく、サウナ内は高温です。このペンションのサウナはドライ式のため、温度は一〇〇度近くまで上がります。こうなると、体温は下がるどころか、むしろ上がって行くことになります。当然、死亡推定時刻の割り出しは、非常に困難になります」
「なるほど、死体を電気毛布でくるむのと、同じ原理ね」
岩内が言った。確かに、千明も推理ドラマか何かでそういうトリックを見た覚えがある。
死体を電気毛布でくるんで温めれば体温は下がりにくくなり、そうやって死亡時刻を誤認させるというわけだ。
「でも」
と、岩内は続ける。
「あたしが検視をしたとき、サウナ内の温度は、特に高くはなかったわよ?」
「そうなんです」
リンは頷いた。
「だから、岩内さんも通常の方法で死亡時刻を割り出した。でも、検視時に常温だからと言って、殺害時も常温だったとは限りません。殺害後にサウナストーブを止めて立ち去れば、それから室温は下がっていきます。当然、死体の体温も最初は上がりますが、室内が常温に戻れば、それに従って下がりはじめるわけです。そうなると、三時間四時間前に殺害していても、一時間と誤認させることができるんです」
死体発見から四時間前なら殺害時刻は五時半頃。雪がやんだのは千明たちが温泉に入った六時頃だから、その三十分間に豊島を殺害して逃走すれば、足跡は雪に埋もれてなくなってしまう。
しかし。
「でも、そのとき外は猛吹雪だったぞ? あんな中、逃げられるか?」
千明はガマンしきれずに言った。
きっ! っとリンが睨んで来たが、怒られることはなかった。
「恐らく大丈夫だ」
と、千明に言った後、リンは再びみんなを見て説明を続ける。
「田中さんは、あの猛吹雪の中でもペンションに到着しました。なら、逃げることも無理ではないはずです。犯人にしてみれば、多少危険でも、ずっと館内に留まっているよりは、少しでも遠くへ逃げた方がいいはずなんです。そのために犯行時刻を誤認させるトリックをしたんでしょうから」
そして、リンは訴えるように言葉を継ぐ。
「以上があたしの考えです。犯人は、もう何時間も前にこのペンションから逃走しているんです。だから、犯人探しなんて無意味です。だって、犯人なんてもういないんですから。どうでしょうか?」
「…………」
みんな、無言で近くにいる人の顔を見つめた。
リンの言うことを信じていいのかどうか、本当にこの中に犯人はいないのか、そんなことを探る目だ。
恐らく、どう判断して良いのか判らないのであろう。
千明も同じである。リンの説明は筋が通っているようにも思えるが、死体の体温を調整するなど専門的なことが多すぎるため、正しいかどうかを判断する知識が無いのだ。
リンの推理を信じるべきかどうか――。
すると。
「うん! あたし、リンちゃんの言う通りだと思う!」
びしっ! っと手を挙げ、なでしこが言った。
「あたしも、この中に犯人なんていないと思ってたの! だって、みんないい人ばかりだもん! 誰も人を殺すなんて思えない。だったら、リンちゃんの言う通り、犯人は、絶対もう逃げたんだよ!」
まったくもってなんの根拠もない言い分だ。普通なら即座に却下されるだろう。
だが、なでしこには必殺の武器がある。それは――。
「だから、犯人探しなんてやめて、みんな仲良くしよう、ね?」
なでしこは、にぱーっと笑って、みんなに訴えかけた。
その瞬間、隙を見せたら犯人にされかねない殺伐とした空気は消え、高級羽毛布団にくるまれているかのような優しい空気が満ちてくる。
「……そうね。確かに、犯人はもう逃げたと考えるのが妥当ね」
そう言ったのはオーナーの西谷だった。
「そうよね?」
と、みんなに同意を求める。
すると、他のみんなも「そうだな」「確かに」「あたしもそうじゃないかと思ったのよ」と、声を揃えて言い始めた。
さっきまでの疑惑の宿った目にも、自然と安堵が戻ってくる。そして、顔には笑みが浮かぶ。
そう。なでしこの必殺の武器、それは笑顔。彼女の平和な笑顔を見ると、どんなに
リンの推理となでしこの笑顔により、さっきまで疑心暗鬼に陥っていたみんな、信じる心を取り戻した。
もう、だれだれが怪しい、などと言い出す者はいなかった。
リンが、ふう、と、大きく息をついた。
その後。
日付が変わろうとする頃、ようやく警察が到着した。
すぐに現場検証が始まったが、もう夜も遅いということもあり、千明たち宿泊客の事情聴取は簡単なもので終わり、ひとまず部屋に戻ることが許された。
これで、逃走した犯人は警察が捕まえてくれる。これ以上悪いことは起こらないだろう。
安心し、千明はベッドに横になって眠りに就いた。
――――。
の、だが――。