トントン、と、なにかを叩く音で、千明は目を覚ました。
眠りは浅く、すぐに目は覚めたものの、最初はその音がなにか判らなかった。
常夜灯の薄赤い光に照らされた室内を見て、ここがペンション・ラディウスの客室であることを思い出す。
いつもは完全に明かりを消して眠る千明だが、なでしこが真っ暗な中で寝るのが怖いと言い出したので、常夜灯を点けて眠ったのだ。
トントン、と、また音がした。
「はい」
と答えたのはリンだった。
千明の真下から、ごそごそと動く気配がする。
この部屋は三段ベッドが設置されており、千明は最上段、リンは二段目を使っている。
リンが梯子を使って下におり、壁のスイッチを押して電気を点け、出入口の方へ向かった。
どうやらさっきの音はドアをノックする音だったらしい。
千明は枕元に置いてあるメガネをかけ、スマホを取って電源を入れた。
朝六時を少し過ぎた頃だ。
起きている人は起きているだろうが寝ている人は寝ている、そんな時間帯だ。人の部屋を訪ねてくるには少々早いように思う。
ただ、昨日は殺人事件なんて非日常的なことが起こり、警察が到着したのが深夜ということもあって、夜通し現場検証が行われていたはずだ。
こんな時間に訪ねてくるからには、それなりの理由があるのかもしれない。
「誰ですか?」
と、リンが扉越しに訊いた。
「朝早くに申し訳ありません、警察の者です」
どこかのんびりとした男性の声が返ってきた。
「何かあったんですか?」
さらにリンが訊く。
「いえ、大した用事ではないんです。ちょっとお話を伺いたいと思いましてね。開けてもらっても構いませんか?」
リンはベッドの千明を振り返った。
互いに首をかしげる。
こんな朝早くに何の用だろう? 事件の捜査に進展があったのだろうか?
だとしても、わざわざ寝ている所を起こしてまで知らせてもらう必要など無いのだが。
こちらは一応十代の乙女であり、起きてすぐ寝間着姿で知らない男の人に会うのはかなりの抵抗がある。
「ちょっと待ってください」
リンは荷物の中から上着を取り出して羽織ると、鏡を見て簡単に髪を整える。
千明もベッドから降りて上着を羽織り、下段で枕を抱えてごーごーといびきをかくなでしこの身体をゆすって起こした。
「おかあさんあさごはんなにー」
と寝惚けるなでしこに無理矢理上着を着せると、リンはドアを開けた。
「おやすみのところ、大変申し訳ないです」
ドアの前に立っていたのはよれよれのトレンチコートにぼさぼさ頭の中年男性だった。
昨夜、簡単な事情聴取を受けた際にいた刑事で、確か
見た目は何とも頼りなさ気だが、若い制服警官が「警部」と呼んでかなり恐縮していたので、現場の指揮を任されたベテランの刑事なのかもしれない。
「ええっと、志摩さんでしたね? 志摩リンさん」
小池刑事は、むふふ、という笑い声が似合いそうな顔で言う。
「はい。お話って、なんでしょうか?」
「それがいろいろとありましてね。よろしければ、あちらの部屋に来ていただきたいのですが、大丈夫ですかね?」
小池刑事は階段そばの3号室を指さした。
客室の中で一番広い部屋で、関係者に事情聴取をするため、オーナーの西谷が警察に提供した部屋である。
昨夜、千明たちもその部屋で話をしたのだ。
「全員ですか?」
リンが訊くと、小池刑事は、ちらり、と、千明を見た後、またリンに視線を戻し、
「いえ、志摩さんお一人で」
と答えた。
この時、千明は、なにかがおかしいことに気が付いた。
昨夜の事情聴取は千明たち三人一緒に行われた。
それが、今回はリン一人だけ呼び出し。
何がとは言えないが、どうも悪い予感がする。
「小池刑事、話って、なんなんですか? なぜ、リン一人なんですか?」
千明は警戒心をあらわに訊く。
「ですから、いろいろです」
小池刑事はもう一度千明に目を向け、薄い笑みを浮かべた。
その目が、どこか爬虫類を思わせた。
なんとなくではあるが、遠くから獲物を狙っているような目に思えたのだ。
この刑事、見た目は頼りなさそうだが、実はかなり狡猾なタイプの刑事なのかもしれない。
「捜査はどうなったんですか? 逃げた犯人は、もう見つかったんでしょうか?」
「んー、捜査中のことですから、お答えできません」
千明の質問に返事を濁す小池刑事。やはり、なにかがおかしいように思う。
「お話なら、あたしも一緒に伺います。あたし、サークルの部長なので」
「サークル?」
「はい。『野外活動サークル』と言います。ここに来たのはサークル活動の一環です。今日は顧問の先生はいないので、あたしが責任者ということになります」
「いや、あたしは野クルには入ってないぞ」
この期に及んでまだイヤそうな顔をするリンに、
「いいんだよ、そんなことは」
と言った後、
「小池刑事、中へどうぞ」
と告げた。
だが小池刑事は
「いえいえ、こんな時間に若い女性の部屋に入るなんて、非常識ですから」
と拒否をする。
やんわりとした口調ではあるが、どうしてもリン一人を呼び出したいように思える。
「その若い女性を一人だけ連れ出そうとする方が、よっぽど非常識だと思いますよ?」
思わず言葉にも声にも敵意がこもる。リンを一人だけで行かせてはいけないと思った。
「おい千明、やめろ」
リンは千明をとがめるように言った後、
「すみません」
と、小池刑事に謝った。
「いえいえ、とんでもない。大垣さんの言う通りです。こんな時間にやって来る私の方が非常識なんですよ」
そう言いながらも、小池刑事はやはり薄く笑っている。
言葉とは裏腹に、何も悪いと思っていないような顔。
どうにも不快な気分になる笑い方だ。
「お着替えの時間が必要なら、少し待ちますので」
と、小池刑事は続けた。
「いえ、このままで大丈夫です」
リンは答えた。
「ただ、一人だと不安なので、あたしも、できれば友達と一緒がいいです。ダメですか?」
小池刑事は「ふうむ」と唸って思案した後、
「ま、いいでしょう。他の方にも少々確認したいこともありますしね。では、お邪魔しますよ」
と言って、部屋の中に入った。
テーブルを挟み、小池刑事の正面にリンと千明が座る。
イスは三つしかないので、なでしこはベッドに座ってもらった。
寝惚けていたなでしこも、さすがにただ事ではなさそうな雰囲気を察したようで、不安そうな顔でリンと千明を見ていた。
小池刑事は部屋をひと通り見回した後で言う。
「なかなかいい部屋ですね。さすがは老舗ペンションです。高校生のお小遣いで、よくこんな部屋に泊まれるもんですな」
「雑誌の懸賞で当たったんですよ。それより、お話って何ですか」
思わず声に苛立ちを含ませてしまう千明に、なでしこも「アキちゃん、ダメだよ」となだめる。
小池刑事は千明の態度を気にした風もなく、
「そうですねぇ」
と少々思案するような声で言い、そして続けた。
「まずは、昨日のお話をお伺いしたいんです」
「話なら、寝る前にしたでしょう?」
「あのときは時間が時間でしたから、簡単なお話しか聞けませんでしたからね。今回は、できるだけ詳しくお願いします。まずは、昨夜伺ったお話の確認なんですが――」
そう言った後、小池刑事はコートのポケットから手帳を取り出してパラパラとめくった。
「ええっと、まずあなた方がペンションに到着したのが夕方五時ごろ。そこで、初めて被害者の豊島さんに会った、そうでしたね」
「はい」
と、リンではなく千明が答える。
「チェックインする前に、雪女や兵隊の幽霊とか、この辺に伝わる都市伝説みたいなことについて訊かれました。それらを取材する動画を作っているとか」
「その後チェックインして部屋に荷物を置き、一旦ロビーで他の宿泊客と雑談をした後、六時に三人で温泉に入った。七時に食事が始まり、八時に食事終了。ロビーでみんなとゲームをして、八時二十分に解散。九時三十分に個室サウナで遺体発見となった。ここまで、間違いないですね?」
「そうです。そう言ったでしょう?」
「はい。そう聞きました。しかし、ひとつ、重要なことが抜けているような気がしましてね。田中さんの部屋の前で見つかったという、
「あ!」
と、千明は声を上げた。
そうだった。千明たちが温泉をあがった後、ロビーで田中と西谷の二人が、不審なメモについて話しをしていたのだ。
メモには確か、『こんや じゅうにじ だれかが しぬ』と書かれていた。
「お心当たりがあるようですね?」
小池刑事は唇の端を吊り上げた。
「なぜ、黙っていたのです?」
「黙っていた訳じゃありません。ちょっと忘れてただけです」
「忘れてた、三人全員が、ですか?」
小池刑事は、千明からリン、そしてなでしこへと視線を移動させる。明らかに、なにかを疑っている。
「仕方ないでしょう」
と、千明は言った。
「メモに書かれていたのは『今夜十二時誰かが死ぬ』というようなことです。死体が発見されたのは九時三十分なんですから、関係あるとは思わなかったんです」
「関係があるかないかは我々が判断します。それで、そのメモは、いまどこに?」
千明はあの時のことを思い浮かべる。確か、丸めてフロント横のゴミ箱に捨てたはずだ。
そう小池刑事に伝えた。
「そうですか。実は、その場にいた田中さんと西谷さんも、そうおっしゃっているんです。しかし、ゴミ箱を調べたんですが、そのメモ、発見できないんですよ」
「え?」
と、声を上げる千明。
改めて思い返してみるが、やはりあの時ゴミ箱に捨てたはずだ。
すでに処分されたのだろうか?
いや、ゴミの収集車が来るにはまだ早い。
地域によっては夜に収集するところもあるが、そもそも昨夜のあの雪の積もり方ではここまで収集車が来ることは不可能だろう。
「大垣さん、あなた、本当にその時、メモをゴミ箱に捨てましたか? 他の人の目を盗んで、別のメモにすり替えたとか?」
小池刑事の目は何かを探るようなものになっている。
「な……なんであたしがそんなことをする必要があるんですか!!」
「さあ? それは判りません」
小池刑事はとぼけたような顔をした後、
「ま、メモのことはとりあえずいいでしょう。話を戻します」
と言って視線を手帳に戻し、続けた。
「えーっと、九時三十分に個室サウナで遺体を発見したところまで話しましたね。その後、大垣さんと志摩さんのお二人で、探偵のマネ事をされたそうですねぇ。岩内さんに検視を頼み、犯人の逃走経路を確認して、館内に犯人がいないことを確認した後、ロビーに人を集めて犯人探しをしたとか。鑑識の連中がぼやいてましたよ。警察の到着前に、素人が勝手なことをされちゃ困るって」
小池刑事は笑みを深めて言う。ただでさえ不快だった笑い方が、さらに憎々しげに思える。
「捜査に支障があったのでしたら謝ります。でも、警察の方がすぐに来てくれなかったのだから、仕方がないでしょう? あんな残忍方法で人を殺すような犯人が、館内にいるかもしれないんですよ? 身を守るために、犯人を見つけ出さなきゃいけないと思ったんです」
千明としては、今でも自分がやったことが間違いだったとは思わない。
結果的に犯人はすでに逃走しているとの結論に至ったものの、もし犯人が館内に潜伏していたとしたら、身を守るためにはやはり犯人を捕まえるしかなかったと思う。
「到着が遅れたことに関しては、申し訳ありません。新たな被害が無くて、本当に良かったです。今のところ、捜査に支障があるというほどのことでもありませんので安心してください」
「なら、何が問題なんですか?」
「いえ、問題というほどのことではないんですが、そのとき志摩さんがみんなに言った推理が、少し気になりましてね。犯人は雪がやむ前に逃走した、とか。その推理、私にも詳しくお聞かせ願えますか?」
小池刑事は、リンの顔を覗き込むようにして訊いた後、
「大垣さんではなく、志摩さん自身の口から、お願いしますよ?」
と、釘を刺すように言う。
「……はい」
リンは小さな声で返事をすると、昨日みんなの前で披露した推理を話した。
豊島は『誰か』に会うために個室サウナを借りていたこと、その『誰か』はサウナ内で豊島を殺害することで犯行時刻を誤認させたこと、状況から考えると、『誰か』は雪がやむ前に豊島を殺害して逃げたのではないかということ、など。
「――ナルホド。体温の低下から死亡時刻を割り出すこと、よくご存知でしたね。それを利用し、サウナで殺して犯行時刻を誤認させようだなんて、犯人も中々考えたものです」
小池刑事は何度も頷きながら言った。言葉では感心しているようにも思えるが、腹の底ではバカにしているような言い方だった。
「今のリンの推理に、何か問題でも?」
千明は睨みつける視線を向ける。
と言っても、所詮はただの女子高生の強がりだ。
殺人事件の捜査をするような刑事には何の効果もない。
「いえいえ、問題というほどではないんですがね、我々の捜査では、いまのところ、豊島さんが『誰か』と会っていたというような形跡は、発見できていないんですよ」
「え?」
千明は大きく目を見開いた。
豊島が『誰か』と会った形跡が無い。
そうなると、リンの推理は根本的なところから間違っていたことになる。
隣に座るリンを見る。
リンは、千明と違って驚いた様子も見せず、ただ黙って座っている。
動揺していないようにも見えるが、驚きのあまり声も出せないように見える。
小池刑事は話を続ける。
「昨夜の事情聴取の際、捜査のために志摩さんや大垣さんをはじめとする全員の指紋の提出をお願いしましたよね? それらと、館内に付着していた指紋、主に犯行現場と裏口・表玄関付近から採取されたものを中心に、鑑識の連中が照合したのですが、発見された指紋は、全て宿泊客か従業員のものだそうです。いやはや、ペンションですから人の出入りが多いでしょうに、清掃員はよほど念入りに掃除しているんでしょうな」
ははは、と、おもしろい冗談でも言ったかのように笑う小池刑事。
もちろん、千明に笑う余裕などない。
「でも、犯人は手袋をしていたのかもしれないでしょう? だったら、指紋は残らないはずです」
千明は何も言わないリンに代わって訊いた。
「その通りです。大垣さん、なかなか鋭いですねぇ」
ニヤニヤしながら言う小池刑事。それくらいは子供でも判りそうなものだから、これはバカにされていると受け止めるべきだろう。
案の定、小池刑事は「しかしですね」と続けた。
「その場合は、『手袋痕』というのが残るんですが、今回は、それも発見できていません」
「手袋痕?」
「はい。言葉通り、手袋の痕です。ドラマや小説の影響からか、手袋をすれば痕跡が残らないと思っている人は多いのですが、手袋をしたまま物に触れれば、そこに手袋の痕がきちんと残るんですよ。もっとも、指紋と違って犯人を特定するほどの証拠になることはまず無いんですけどね。それでも、この手袋痕が見つかれば、犯人は手袋をしていたことが判るわけです。その手袋痕も、そして未照合の指紋も発見できていないとなれば、我々としては、志摩さんが言う『誰か』なんていない、と判断せざるを得ません」
リンが言う『誰か』なんていない――豊島が外部から来た人と会っていないのなら、犯人は館内にいた人物ということになる。
「まあ、あくまでも簡易的な検査です」
小池は補足するように続ける。
「本格的な指紋の照合は、署に戻ってから行います」
「なら、今の段階での照合結果が間違っているということもあるんですね?」
「もちろん、可能性としてはあります。しかし、私自身も、恐らく第三者なんていなかっただろうと思っています。これを言うとよく笑われるんですけど、いわゆる刑事の勘というヤツですな」
「そんな曖昧なものを信じられる訳ないでしょう?」
「ごもっともです。ただ、もうひとつ志摩さんの推理には問題がありましてね。殺害時刻についてです。志摩さんの推理では、豊島さんが殺されたのは、六時よりも前だということでしたね?」
「…………」
リンは返事をしなかった。じっと、小池刑事を見つめている。
小池刑事の言う通り、リンの推理では豊島が殺害されたのは六時よりも前だ。
五時三十分ごろから猛烈な勢いで振りはじめた雪は、六時ごろにはウソのようにやんでしまった。
よって、犯人が雪に足跡を残さないためには、雪がやむ六時より前に逃げなければならない。
六時前に豊島を殺害し、雪がやむ前に逃走――これが、リンの推理だ。
小池刑事は笑顔を浮かべたままさらに続ける。
「現在までの我々の捜査では、犯行時刻は六時三十分頃と見ています」
「六時三十分?」
千明はまた声を上げる。
犯行時刻が六時三十分なら、すでに雪がやんでいる。犯人がペンションの外に逃げたなら、足跡が残っているはずだ。
しかし、そんなものがどこにもなかったことは千明自身が確認した。
ならば、第三者なんていなかったという可能性は、ますます高くなる。
「でも、なぜ犯行時刻が判ったんですか? サウナの中で殺されていたから、死亡推定時刻を割り出すのは困難なはずでは?」
千明はテーブルの上に身を乗り出して訊いた。
「はい。体温から割り出す方法は、おっしゃる通りアテになりません。我々は、別の方法で犯行時刻を割り出しました。実はですね、このペンションのサウナは、個室・大浴場ともに、フロントから温度が判るようになっているんですよ」
「フロントから、温度が判る?」
「そうです。温度を管理する専用の機械が、フロントに設置されているんです。ここのサウナはドライ式ですから、かなり高温になります。一〇〇度を超えると危険なので、警報が鳴るようになっているんですよ。もし警報が鳴った場合は、従業員が確認に行くそうです。個室サウナは利用客が自由に温度を設定しますから、従業員も注意して見ているそうなんです」
「でも、それが死亡推定時刻とどう関係するんですか?」
「サウナ内の温度は一〇分おきに記録が残るようになっているのですが、それによると、豊島さんが個室サウナを借りた五時三十分頃から上がり始めた温度は、一時間ほど経った六時三十分を境に下がっているんです。そして、それ以降は上がっていない。つまり、犯人はその時刻に豊島さんを殺害し、サウナストーブを消して部屋を後にした、と見るのが妥当でしょうな」
犯人が死亡推定時刻を誤認させるためにサウナ内で豊島を殺害したのなら、当然、サウナを切ったのは犯人であろう。
死体発見時にサウナが常温に戻っているからこそ、このトリックは成り立つのだ。
よって、小池刑事の見立ては正しい。
もちろん、サウナの温度が下がりはじめた時刻を殺害時刻と断定することはできないかもしれないが、少なくとも犯人はその時間まで個室サウナにいたことになる。
リンの推理は、完全に間違いだ。
だが。
それで、なぜ小池刑事はリンの元を訪れたのだろう。
リンの推理が間違っていたとはいえ、それをわざわざ警察が指摘しに来るというのもおかしな話だ。
間違った推理によって無実の人間に罪を着せたというのなら怒られるのも判るが、リンの推理は、あくまでも犯人はすでに逃げ、みんなの中に犯人はいない、というものだ。
咎められる筋合いはない。
そんな千明の心中を察したのか、小池刑事は話を続ける。その顔からは、あの不快な笑みが消えていた。
「犯行時刻に目星がついたので、あらためて皆さんのアリバイを確認します。まず、先ほどお伺いした通り、志摩さんは、六時ごろに大垣さんと各務原さんの三人で温泉に入られたんですね?」
「はい」
と、リンは頷く。
千明となでしこも、
「間違いありません」
と念を押した。
「すでに他の方にはお話を伺ったのですが、この時、豊島さんのお仕事仲間である安東さんと立木さんは、安東さんの部屋で仕事の打ち合わせをしていたそうです。また、岩内さんと田中さんはロビーに残ってお二人でお話を、西谷さんと半田さんは食堂で食事の準備をされていたそうです」
千明は頭の中で館内マップと人の配置を思い描く。
犯行現場である個室サウナに最も近い位置にいたのは、食堂で作業をしていた従業員の二人だ。
この二人のどちらかに殺害が可能かは、時間帯こそ違うものの、昨夜千明も検証した。
お互い五分か一〇分ほどなら目を離していることはあると言っていたから、犯行自体は可能だ。
しかし、犯人は被害者を数十ヶ所滅多刺しにしている。
当然返り血を浴びているはずで、着替えたり洗い流したりする必要がある。
その時間を考慮すると、一〇分では難しいであろう。西谷と半田に犯行は難しい。
では、岩内と田中はどうか?
二人はロビーで話をしていた。席を外したかどうかは判らないが、もしどちらかが一〇分以上席を離れたのなら、もう一人は不審に思うだろう。
この二人も、疑われずに犯行に及ぶのは難しい。
ならば、二階の部屋にいた安東と立木はどうだろう?
この二人の場合、どちらが犯人にしても、個室サウナへ向かうにはロビーを通らなければならない。
当然、ロビーにいた岩内と田中の目に留まるだろう。
そういった証言が無いのならば、二人は一階に下りてきていない。犯行は不可能だ。
だが、そうなると犯行が可能な人物がいなくなってしまう。
誰かが豊島を殺害したのは間違いなく、そして、その犯人は外へ逃げていない。必ず犯人は館内にいるはずだ。
こうなると、単独犯ではなく複数犯の可能性を疑うべきだろうか。
千明が、お風呂の外にいた人物に考えを巡らせていると。
「――志摩さん。あなた、大垣さん各務原さんより、一人だけ早く温泉から出たのでしたね?」
小池刑事は、予想外の言葉を口にした。
千明は思わず「ああっ!」と、大きく声を上げてしまった。
そうだ。すっかり忘れていた。あのときリンは、確かに千明たちよりも先にお風呂から上がったのだ。
正確な時刻は判らないが、入って三十分も経っていない頃だ。
千明たちは六時に温泉に入った。
つまり、犯行時刻である六時三十分前に出たことになる。
どくん、と、千明の心臓が大きく血液を送り出した。小池刑事は、一体何を言いたいのだろう。
「はい」
と、リンが返事をした。
「サウナで少し気分が悪くなったので、部屋で休むことにしたんです」
「ええ。昨夜お話した時にも、そう伺いました」
小池刑事は手帳を確認しながら頷く。
「しかし、ですね……」
小池刑事は一度言葉を切り、こちらを焦らすかのように間を取った後、続ける。
「その時間、ロビーにいた岩内さんと田中さんは、志摩さんの姿を見ていない、と仰るんです」
「ええっ!!」
千明が声を上げる、なでしこは言葉を失い、両手を口で覆う。
ありえない。
温泉から二階の部屋へ戻るには、ロビーを通らなければならない。
岩内と田中がロビーにいたのなら、必ずリンの姿を見ているはずだ。
二人が見ていないのならば、リンはロビーを通らなかったことになる。
なら、リンは、お風呂を出た後、どこへ向かったのだ。
ロビーを通らなかったのなら、館内の奥へ向かうしかない。奥には、食堂と、個室サウナしかない。
食堂に飲み物を貰いに行ったのだろうか?
ロビーにはセルフサービスのお茶があるから、わざわざ食事の支度で忙しい食堂に行く理由は判らないが、ありえなくはないだろう。
だが。
「もちろん、食堂にいた西谷さんと半田さんにもお話を伺いました。お二人も、その時間志摩さんの姿は見ていないそうです」
千明の心臓がさらに大きく鳴った。二階にもロビーにも食堂にも行っていないのなら、残るは個室サウナしかない。
「判りますか、志摩さん」
小池刑事は、刺すような視線をまっすぐリンに向け、念を押すように言う。
「豊島さん殺害の時間、館内にいた人物で、あなただけアリバイが無いんですよ」
「…………」
リンはなにも答えない。ただ小池刑事の視線を受け止めるだけだ。
「お話、お聞かせいただけますか? できれば、署までご同行願いたいんですが。お友達に訊かれたくない話も、あるでしょうからね」
小池刑事の顔に、またあの不快な笑みが戻ってくる。まるで犯人を追いつめ満足したような顔だ。
千明はテーブルの上で拳を握りしめぶるぶると震えていたが、我慢しきれずに立ち上がって言った。
「リン、こんなのに応じることはないぞ」
立ち上がった千明を、小池刑事は下から覗き込むように見る。
「こんなのとは心外ですね。豊島さんの死亡推定時刻、志摩さんにアリバイが無いのは間違いありません。その事情を訊くのは、警察として当然のことでしょう?」
「でも、それは任意の事情聴取ですよね?」
「もちろんその通りです。私は、なにも強制なんてしてませんよ?」
「なら、拒否することもできるはずです」
自信満々に言ったが、小池刑事は「むっふっふ」と肩を揺らして笑った。
「そういうテレビで見たにわか知識は、あんまりドヤ顔で披露するもんではありませんよ? まあ、任意だから拒否できるという点に関してはその通りなんですが、そうしたところで警察への心証は悪くなるだけです。私の経験上、あまり良い結果に繋がることはないですねぇ」
テレビで見たにわか知識――そう言われ、千明は恥ずかしさと悔しさでさらに拳を強く握る。
小池刑事の言う通りだ。千明が言うことは、すべて、テレビやマンガなどで得た知識に過ぎない。
その程度の知識しかないのに、昨日は犯人を見つけようとしていたのだ。探偵のマネ事と言われるのも当然だろう。
だが。
千明は、最初に自分で言ったことを思い出す。
あたしはサークルの部長で、今日の責任者。
小池刑事は間違いなくリンを疑っている。
仲間が疑われているのだ。
仲間を危機から救えなくて、なにが部長だ。
千明は悔しさを怒りに変えて拳に込め、どん、とテーブルに打ち付けた。
「そもそも、あたしたちはまだ未成年なんですよ? 保護者を通さずそんな話をするなんて、非常識じゃないですか? 弁護士に連絡するとか、黙秘権があるとか、いろいろ手続きがあるはずです! こんな捜査が認められるはずがありません! 上に人に報告して抗議して、それからツブヤイターとかSNSに投稿して、それからそれから、ライーンで学校中のみんなにも拡散して――」
知ってる限りのテレビの知識を並べ立てる。
たとえ本職の刑事に笑われようと、仲間を守るためだったら、なんだってする。
「やめろ、千明」
と、リンが止めた。
「さっきからお前は、真犯人フラグを立て過ぎだ。そんなんじゃますます疑われる」
千明を見て冗談ぽく言った後、リンはもう一度視線を小池刑事に向けた。
「判りました。準備をしますので、少し時間をください」
リンの返事に、小池刑事は満足げに笑った。
「ご協力感謝いたしますよ。では、私は外で待ってますので」
小池刑事は椅子から立ち上がると、千明とはもう目を合わせず、部屋から出て行った。
千明はしばらく悔しさに身を震わせながらドアを睨みつけていたが、リンが着替え始めたので、そちらを振り返る。
「おいリン、行く必要は無いぞ。あんな刑事のいうことなんて、聞かなくていい」
「心配ない」
と、リンは身支度を整えながら、落ち着いた口調で言う。
「あたしは犯人なんかじゃない。あたしは何もしていないんだ。ちゃんと話をすれば、判ってくれる」
そして、なでしこを見た。
「なでしこ、悪いけど、あたしの荷物を頼む」
どうしていいか判らずおろおろしているばかりのなでしこも、はっとした表情になる。
「リンちゃんホントに大丈夫なの? お父さんとお母さんに連絡した方が良くない?」
「いや、余計な心配をかけたくない。ちょっと話をするだけだ。そんな
支度を終えたリンは、
「じゃあ、二人とも、後は頼むぞ」
と言って部屋を出る。
小池刑事は廊下で電話をしていたが、リンの姿を見ると電話を切り、
「こちらへどうぞ」
と、まるでパーティー会場へ案内するかのような仕草で、階段の方に手を向けた。
二人が階段を下りて行くのを、千明となでしこはただ見送るしかなかった。