どんどん、と、なにかを強く叩く音がして、千明は目を覚ました。
周囲は薄暗い。天井からぶら下がったフックにランプがぶら下がっているだけの部屋だ。
少し離れたところに千明のストーブがあり、自分はシュラフにくるまっている。
少し考えて、昨日は山小屋に泊まったことを思い出した。
ストーブの火は消えており、なでしこは千明の隣でシュラフにくるまって寝ている。
どんどん、と、もう一度音がする。
ドアからだった。誰か来たのだろうか?
寝る前に枕元に置いた腕時計を確認すると、深夜二時を過ぎたところだ。
他人の家を訪れるには、あまりにも非常識な時間であろう。
どんどんどん――さらにドアが叩かれる。
「誰ですか?」
千明は上半身を起こし、強めの口調で訊いた。
格安の山小屋だからインターフォンはもちろん小窓やドアスコープも無いため、相手を確認するには名乗ってもらうしかない。
だが、返事は無い。
代わりなのか、また、どんどんと叩かれる。
「誰なんですか? 何か言ってください」
さらに強い口調で訊くが、やはり無言だ。
ただドアが叩かれる。
その強さは増しているようにも思う。
いいから早く開けろ。
そんな風な叩き方になっていた。
千明は、受付小屋で寒林から聞いた話を思い出した。
――この話を聞いた人の元には、一週間以内その幽霊が現れるらしいんだ。
いやまさか、と思い直す。
あれは、寒林さんも冗談だと言っていた。
「なにも言わないのなら開けられません。帰ってください」
冷たく言って、後は無視することにした。
幽霊でないなら人間か、あるいは熊か猿などの野生動物だろう。
なんにしても、こんな夜中に女子二人で出迎えるのは危険だ。相手にしないのが一番。そう思い、千明は横になって目を閉じた。
どんどん――ドアは叩かれ続ける。
無視無視。
千明はごろんと転がってドアに背を向けた。
――と。
隣で寝ていたなでしこが、むくりと起き上がった。
じっと、ドアの方を見つめる。
「なでしこ、起きたのか。なんか、誰か来たみたいなんだが、誰か訊いても答えないんだ。得体が知れないから、ほっといていいぞ」
なでしこは。
「……呼んでる」
シュラフから出て、立ち上がる。
「……おい、なでしこ。どうするつもりだ」
千明は首だけ起こし、なでしこを見上げる。
「呼んでるの」
なでしこは真っ直ぐにドアを見つめたまま、そちらへ向かう。
「おいよせ。こんな夜中に名乗りもせず乙女の部屋に来るようなヤツだ。相手にするな」
千明は上半身を起こして言う。
なでしこは、振り返りもせず、ドアの方へ歩いていく。
「やめろ。幽霊かもしれないだろ」
千明はさらに言った。
こう言えば、怖がりのなでしこのことだから、シュラフにくるまってガタガタ震えるはずだ――そう思ったのだが、なでしこは千明の言葉になんの反応もしない。
何かがおかしい。
千明はシュラフから出て、なでしこの肩に手を置いて引き止めた。
「おいなでしこ。どうしたんだ。大丈夫か」
なでしこの目は虚ろだった。
千明のことなど見えていないかのように、ただドアの方に目を向けている。
目の前で手のひらを振っても、ぱちぱちと頬を叩いても反応せず、ただ「呼んでる……」とつぶやきながら、ドアに手を伸ばす。
まるで、何かに憑りつかれているかのようだ。
「よせなでしこ! ドアを開けるな!」
千明は後ろから羽交い絞めにして止めようとしたが。
「――放して!!」
ものすごい力に振り払われ、尻餅をついて倒れる。
なでしこが、ドアを開けた。
途端に、部屋の中に猛烈な風と雪が吹き込んできた。
ここに来る前に遭遇した吹雪と同じ、いや、それ以上かもしれない。
シュラフやブランケットが風に舞い、フックに吊るしたランプも飛ばされ、床に落ちてがしゃんと割れた。
なでしこは、風も雪も意に介すこともなく、そのまま外に出ようとする。
さっきまでシュラフにくるまって寝ていたので、決して厚着ではない。
上着も着ていなければ、靴も履いていない。
その姿のまま、なでしこは猛烈に吹雪く外に出た。
あんな格好で外に出ては、五分も持たずに凍え死んでしまうかもしれない。
到底正気とは思えなかった。
何かに
千明は、昼間聞いた話を思い出した。
――この山では今でも遭難による死亡事故がたびたび起こるが、どういうわけか、遭難者は真冬なのに裸同然の姿で発見される。
「なでしこ! 戻れ!!」
千明はなでしこを連れ戻すべく、後を追って駆け出そうとした。
その腕を、
「アキちゃん! どこ行くの!!」
――え?
振り返ると、なでしこが、必死の形相で千明の左腕を掴んでいた。
訳が判らなかった。
自分は、猛吹雪の中薄着で外に出たなでしこを追いかけようとしていたはずだ。
なのに、そのなでしこが後ろにいる。
じゃあ、さっき出て行ったなでしこは、なんだったのか。
なぜ、
ドアの外を見る。
そこには、雪もなければ風もなかった。
それどころか、あるべきはずの地面も、空も、なにもない。
ただ真っ暗な空間が広がっている。
そこに――なでしこが立っていた。
いや、あれは本当になでしこなのか?
こちらを見ているその顔に、笑みが浮かぶ。
ぞっとするほどの、悪意に満ちた笑みだった。
その背後に、いくつかの人影が見えた。
長い銃のようなものを持っており、学生帽のようなものをかぶり、全身黒ずくめの服を着ている。
その格好は、軍人のように思える。
――日本軍の幽霊。
そう思った瞬間、ばたん、と、ドアが閉じ。
そこで、千明の意識は途切れた。