お昼になり、山を下りた千明となでしこはふもとの町のファミリーレストランに来ていた。
あおいが見つけた安くておいしいと評判のランチバイキングが楽しめるお店で、ここでリン・あおい・恵那と待ち合わせをしたのだ。
合流した途端、千明はあおいから昨日スキーに行って遭難しかけた件を怒られたが、なでしことリンがなだめてくれたので、何とか事なきを得た。
「――しかし、宿泊客が死亡する現場に出くわすなんて、災難だったな」
リンが同情するような声で言った。
オフピステでの件は、すでにライーンで伝えてある。
「そうなんだ。それで、そのことでちょっと話があるんだが――」
千明はなでしこを見ると、
「そうだ。なでしこ、悪いが、料理を持って来てくれないか? あたしたち、結局朝ご飯を食べられなかったからな。おなかペコペコだ。なにか、がっつりしたものを頼む」
と言って、その後チラリと恵那を見た。
すると、テーブルについていた恵那は、千明の考えを察したような顔で頷いて立ち上がった。
「なでしこちゃん行こうよ。さっき見てきたけど、おいしそうな料理、たくさんあったよ?」
「ホント? やったあ! いーっぱいたべちゃおう!」
オフピステで寒林さんたちが死んでいるのを見て以降、ずっと幽霊コワイコワイモードだったなでしこだが、ランチバイキングのおかげで今はすっかり復活している。
なでしこと恵那はテーブルを離れ、料理を取りに行った。
「……なでしこを席から外させたってことは、怖い話か?」
鋭く察したリンが言った。
「まあ、そうなるな。あいつが聞いたら卒倒しかねないようなことだ」
「なんや? 珍しいな」
と、あおい。
「普段はなでしこちゃんを怖がらせて面白がってるのに」
「まあそうなんだが、いちいち怖がられてそのたびツッコミを入れてたら、全然話が進まないからな」
「確かにな」
と、リンが同意した。
「それで、どんな話?」
「二人とも、昨日のお昼になでしこが話していた怪談話を覚えてるか? 昔この地域で日本軍の兵士が雪中行軍訓練を行って遭難し、たくさんの死者が出た、とか、冬山で遭難者が裸で発見される、とかいうヤツだ」
「ああ。スキー場で聞いた話だ」
リンが頷く。
「雪女が出るとも言うてたな」
と、あおい。
「そうだな。でも雪女は今回関係なさそうだ。問題は遭難した日本兵の方で、その日本兵が、訓練のとき拠点にしていたのが、昨日あたしたちが泊まったオフピステらしいんだ」
「そりゃまたけったいなところに泊まってしもたな」
「まったくだ。そして、今回亡くなった寒林さんと冬野さんは、その日本兵の幽霊が出るってウワサされている小屋に泊まり、翌朝、真冬の雪の中裸同然で倒れて死んでいた――これって、どう思う?」
「どうもこうも、不幸な事故やな、としか思わんわ」
千明の問いかけに、あおいは考えるまでもないとばかりに即答する。
「大方、夜中に酒でも呑んで酔っぱらってたんとちゃうか?」
「そうなんだ。実際、寒林さんたちが泊まった小屋にはたくさんお酒があったし、警察もそう見ているようだった」
「なら、そうなんやろ。なんやアキ。まさか、日本兵の幽霊がその寒林さんたちを殺した、とか思てるのか?」
「まあ、ハッキリ言えば、その可能性を疑っている」
「アホくさ。幽霊がなんで通りすがりで見ず知らずの人を殺さなあかんねん。サイコパスな殺人鬼が幽霊になったのならともかく、元は普通の人間なら、良心くらいあるやろ」
「幽霊自体は否定しないのか?」
「さあ、どうやろな? ウチはあんまり信じてないけど、幽霊がいないということも、科学的には証明されてないしな」
「あたしもあんまり信じてはいないが、絶対にいない、とも言い切れないような気がしてきている。実は、夜中におかしなことがあったんだ」
「なんや?」
千明は二人に夜中の出来事を話した。
二時頃誰かが小屋に来て、無視しようとしたがなでしこが起きて小屋の外に出た。
それを連れ戻そうとしたら、実際は自分が外に出ようとしていて、なでしこに腕を掴まれて止められた。
そして、小屋の外に兵隊の姿をしたいくつもの人影を見たこと。
しかし、気が付くと朝になっていて、なでしこは夜中の出来事を覚えてなかったこと。
話を聞き終えたあおいは、胡散くさい話やなと言いたげな表情をする。
「そんなん、夢でも見たんやろ」
「普通に考えればそうだ。でもな、夢にしてはあまりにリアルだったし、なにより、あたしの腕に、掴まれた跡が残ってるんだ」
そう言って、千明は左腕の袖をめくり、くっきりとついた痣を見せた。
痣を見たあおいは、痛そうやな、というように表情を歪めた後、
「それも、アキが寝ている間に無意識に自分で握って付けたんちゃうか?」
と言った。
「両手で握った痣だぞ。ひとりでどうやって腕に付けるんだよ」
千明は袖を元に戻し、ずっと黙って話を聞いているリンを見た。
「リン、お前はどう思う?」
リンはしばらくあごに手を当てて考えていたが、やがて口を開いた。
「人間の心理は極めて複雑だ。強く思い込んだ結果、それが本当に起こってしまう、なんてことも、あるかもしれない」
「どういうことだ?」
「例えば、なんでもないただの鉛筆を、催眠術か何かで熱々に焼けた鉄の棒だと思い込ませて腕に当てたら、本当に火傷したような傷ができた、という話を聞いたことがないか?」
「ああ、テレビか何かで観たな。あたしが観たのはスイッチが入ってないアイロンだったが」
「ウチが聞いた話はスプーンやったで?」
とあおい。
「そう」
と言って、リンは続ける。
「他にも、被験者が男性だったり赤ちゃんだったりすることもある。
この話はイマイチ出所がはっきりしないから本当のことなのかどうか判らないけど、似たような事例はある。『プラシーボ効果』とか、『ノーシーボ効果』とか呼ばれているものだ。
『プラシーボ効果』は、薬としては何の効果もないブドウ糖や乳糖を『病気に効く薬だ』と言って投与し続けたら、本当に病気が治るといった現象のことだ。
『ノーシーボ効果』は逆で、例えば副作用が無い薬に副作用があると思い込んだ結果、本当に副作用が現れたりする。
あるいは、健康な人間が『自分は癌だ』と思い込んだ結果、本当に死んでしまったという事例もある。これも『ノーシーボ効果』に入るだろう」
「思い込みで怪我をしたり病気になったり、最悪死んでしまうこともある、ってことか」
「そういうことだ。だから、千明の腕の痣も、そのたぐいの現象なのかもしれない」
「つまり、なでしこに強く腕を掴まれた夢を見て、それを本当の出来事だと強く思い込んだ結果、腕を掴まれたような痣ができてしまった、ってことか? そんなこと、本当に起こるのか?」
「可能性としては極めて低いだろうね。でも、起こらないは言い切れないし、幽霊が出たと考えるよりは、まだ現実的じゃないかな」
「じゃあリンは、今回の事件に幽霊は絡んでおらず、寒林さんたちが真冬の夜に外に出て裸で死んだのは、お酒を呑んで酔っぱらった末の事故だと?」
「話を聞く限りではそう判断するのが妥当だと思うぞ」
「そうか……」
視線を落とす千明に、あおいが、
「なんや。まだ納得してないって顔やな」
と言った。
千明は「うーん」と唸って腕を組む。
「寒林さんたちが酔っぱらってたのは間違いないと思う。でも、なんで極寒の雪の上で服を脱いだんだ? 夜中の最低気温は氷点下になったはずだ。とても裸でいられるような気温じゃない。いくら泥酔してたとはいえ、そこまで感覚がマヒするものかな?」
「そう言われても、ウチらは未成年やから酔っぱらった時の感覚は判らへんやろ。今度鳥羽先生に訊いてみるか?」
「先生は酔っぱらっても服を脱いだりしないだろ」
「なに言ってるのかわからんなったりはするけどな」
「これは想像だけど――」
と、リンは話す。
「酔っぱらって服を脱ぐのは、お酒を呑むと血流が上がって身体が熱くなるのに加え、アルコールによって理性の
まあ、この辺は犬山さんの言う通り鳥羽先生あたりに訊いてみないと判らないけど、雪山で遭難した人が服を脱ぐ現象に関しては、生物学的に説明されている」
「そうなのか?」
「ああ。人が暑いとか寒いとか感じるのは、体温と外気温の差が関係している。例えば、人の体温が平均の三七度、外気温が二〇度だったとしよう。この場合、体温と外気温の差は一七度だ」
「そうだな」
と、千明は頷いた。
「ここから、外気温が一〇度上昇したとする。当然、人は暑くなったと感じる。この時、体温が三七度で、外気温が三〇度。体温と外気温の差が一七度から一〇度縮まって七度になった」
「ふむ」
「逆の例も考えてみよう。同じく体温が三七度で外気温が二〇度で、そこから外気温が一〇度下がったとする。当然、人は寒くなったと感じる。この時は、体温が三七度で外気温が一〇度。体温と外気温の差が一七度から一〇度広がって二七度になった」
「そうなるな」
「つまり、人の身体は、体温と外気温との差が縮まると暑く感じ、広がると寒く感じるんだ。そして、これは外気温の変化だけでなく体温の方が変化しても現れる」
「と、言うと?」
「ほら。風邪をひいたりして熱が出ると、寒気を感じるようになるだろ? あれも同じ現象だ。
さっきと同じく、体温が三七度で外気温が二〇度だったとして、風邪をひいて熱が出て、体温が四〇度になると、体温と外気温の差が一七度から三度広がって二〇度になる。
体温が上がることで外気温との差が広がるから、寒くなったと感じてしまうんだよ」
「なるほど。なんとなく判ってきたぞ」
千明はぽん、と手を叩いた。
「極寒の雪山で遭難した場合は、体温が下がってくる。そうなると体温と外気温の差が縮まって、暑く感じるのか」
「そういうことだ。
極寒の雪山だから外気温を思いっきり下げるが、体温が三七度で外気温がマイナス二〇度だとする。
ここから体温が五度下がって三二度になると、体温と外気温の差は五七度から五度縮まって五二度になる。
体温と外気温の差が縮まったから、暑くなったように感じるんだ。
加えて、人は体温が三三度を下回ると血液循環が悪くなって脳に充分な酸素が届かず、意識が混濁してくる。
正常な判断ができなくなるから、単純に暑いというだけで服を脱いでしまう、ってわけだ」
「なるほど。風邪をひいて熱が出た時とは逆、っていうのは、判りやすい例えだな」
「リンちゃんって、ホンマそういうことよう知ってるな」
あおいも感心した顔で言う。
「まあ、本で読んだだけの知識だけどね」
リンは少し照れたように笑うと、「でも」と言って続ける。
「極寒の雪の上で服を脱ぐのはそれで説明がつくけど、その亡くなった二人が、なんで夜中に小屋から極寒の外に出たのか、までは判らないな。そもそも、その二人は外に出てから服を脱いだの? それとも、服を脱いでから外に出たの?」
リンの問いに、千明は「あっ」と声を上げた。
どうだっただろう?
記憶を探るが、思い出せない。
二人の死体を発見した時は衝撃の方が強くて、そこまで気が回らなかった。
思い出す限り二人の周囲に衣服は見当たらなかったように思うが、しっかりと見たわけではない。
見逃していたかもしれないし、離れた場所に落ちていたのかもしれない。
4号小屋の中を見た時も同じだ。
部屋に衣服があったかどうかまでは確認していない。
「すまん。服がどこにあったのかまでは、確認してない」
「いや、別に謝ることじゃないけど」
そう言った後、リンは結論付けるように続ける。
「まあ、警察がお酒に酔った末の事故と判断したなら、それを否定するような根拠は今のところ無いかな。
もっとも、実際に現場を見たのは千明だからね。千明にしか判らない違和感があったのかもしれない。あたしも、現場を見てみたら、意見が変わるかもしれない」
「現場を見たら、か……」
千明はまた唸りながら考える。
今回の事件、もしなでしこではなくリンと一緒に行動していたら、結果は変わったのだろうか。
「――アキ」
と、あおいが鋭い目で見てきた。
「あんた、まさか今からリンちゃんと一緒に現場に戻って捜査ごっことか始めるつもりやないやろな?」
「ん? あ、いや、そこまでするつもりはないぞ?」
警察やリンの話は筋が通っている。
千明が夜中に遭遇した怪現象と左腕の痣だけでは、それを否定する確かな根拠はならないだろう。
それに、仮に現場に戻ったところで、千明のような素人を現場に入れてくるはずもない。
「みんなおまたせー。おいしそうなもの、いっぱいあったよー」
なでしこと恵那が戻ってきた。
両手で持ったプレートには、鶏唐揚げやハンバーグやピラフや焼きそばやカレーなどの料理がテテンコ盛り盛りに盛られている。
ドリンクバーから持ってきたジュースやお茶もたくさんだ。
「ホントだ。うまそうだな」
なでしこが戻って来たので、千明は話をやめることにした。
そして、気持ちをランチバイキングに切り替える。
余計なことを考えていると、あれほど大量の料理でも一瞬にしてなでしこの胃袋に収まってしまうだろう。
「よーし。今日はお腹いっぱい食べるぞー」
千明はパチンと割り箸を割ると、焼きそばとピラフとカレーの上に唐揚げとハンバーグをのせる。
食べ放題で焼きそばやピラフやカレーはコストが安いワリに食べるとすぐ腹が膨れるのでコスパが悪い――なんてこと、千明は気にしない。
食べ放題では好きなものを好きなタイミングで食べるのが千明の流儀だ。
リンとあおいは顔を見合わせ、やれやれと肩をすくめると、自分たちも箸を割って食べ始めた。
その後、美味しいランチをお腹いっぱいに堪能した五人は、満足して家路についた。
後日。
事件のことが気になった千明は、ネットで詳細を調べてみた。
検索して見つかったのは、県内の会社員がスキー場近くの宿泊施設で酔っぱらった末に夜中に裸で外に出て凍死、というニュースだった。
小池刑事の言った通り、事故で処理されたようだ。
なにか釈然としないものを感じながらも、それ以上千明にできることはなにもない。
そもそも寒林と冬野とはあの夜初めて会い少し話をしただけの間柄で、特別強い繋がりがあったわけではない。
亡くなったのは気の毒だと思うが、それ以上の感情はない。
これ以降、千明はこの件を忘れることにした。
千明の左腕についた痣は、春まで消えなかった。
参考文献
『死因を科学する』上野正彦(アスキー新書)