5号小屋の部屋は十畳ほどの広さで、小さなテーブルにクローゼット、そして二段ベッドと石油ストーブがあるだけの簡素なものだ。
後はシャワールームとトイレ、そして、流し台とひと口コンロだけだが一応キッチンもあり、ちょうど学生寮の二人部屋という感じである。
千明は荷物を置くとまずストーブを点けた。
ストーブは家庭でもよくつかわれる反射板のタイプで、点けっぱなしで寝るのは火災や一酸化炭素中毒の危険がある。
もっとも、ベッドには厚手の布団に毛布にブランケットがあるし、千明たちがここに来ることになった経緯に同情してくれたオーナーが湯たんぽをタダで貸してくれたので、ストーブを消しても夜中の防寒はバッチリだ。
「千明、先にシャワー使っていいよ」
部屋が温まってきたので上着を脱いでいると、リンが言った。
「なんだよ。二人で身を寄せ合って身体を温め合った仲じゃないか。せっかくだから、一緒に入ろうぜ」
千明がリンに擦り寄って言うと、
「ア……アホなこと言うな」
と、リンは顔を真っ赤にして目を逸らした。
からかい甲斐のあるヤツだ。
最近なでしこに怖い話をするのもワンパターン化してきたし、これは面白いネタができた、と思いつつ、千明はお言葉に甘え先にシャワー使わせてもらうことにした。
残念ながら湯船は無いが、温かいシャワーを浴びられるだけで天にも昇る心地だった。
交代でシャワーを浴び、食事の支度をする。
コンロでお湯を沸かしてパックのご飯と缶詰を温め、カップめんを作る。
老舗ペンションの豪華ディナーとまではいかないが、あたたかい部屋にあたたかいシャワーとあたたかいご飯、そして、あたたかい寝床。それだけで、人は幸せになれるんだな、と、二人はしみじみ実感する。
「ところでリン。さっきの寒林さんたちの話、どう思う?」
缶詰のいわしを口へ運びながら、千明はリンに訊いてみた。
「日本兵の行軍訓練中の事故、って話か?」
リンはカップめんをすすりながら言う。
「うん。あの話、なんか聞いたことがあるような気がするんだよな」
千明は箸を止めて言う。
寒林さんが気持ち良さ気に話していたので話の腰を折らないように黙っていたが、どうもあの話、以前に聞いたことがあるような気がする。
リンは、「ああ」と頷いた。
「『八甲田雪中行軍遭難事件』と、ほとんど同じだな」
「『八甲田雪中行軍遭難事件』……そうか、思い出した。八甲田山の事件。怪談話とかでよく題材になるヤツだ」
千明は納得し、いわしの汁が滲みたご飯を箸で摘み上げ、口へ運んだ。
八甲田雪中行軍遭難事件。
明治三十五年一月、青森県の中央にある八甲田山で起こった事件である。
当時ロシアとの戦争に備えていた日本陸軍は雪中での戦闘を想定した行軍訓練を実施。
気象条件の悪化や装備品の準備不足、情報・認識不足などが重なり、参加した青森第5連隊二一〇名はほぼ全滅する大惨事となった。
「この事件では訓練参加者全二一〇名の内、一九九名が亡くなったとされている」
そう言った後、リンはカップめんのスープをズズズとすする。
「一九九名……寒林さんの話と同じだな」
「そうなんだ。でも、この辺でそんな大きな事件が起こったなんて事実はないと思う。少なくとも、あたしは聞いたことがない」
八甲田山の事件は、発生直後は軍部への批判をかわすために隠蔽や情報操作が行われたが、月日が流れるとともに少しずつ事実が判明。
近年小説として執筆され、さらには映画化もあり、世間に広く知れ渡った。
最近でもドキュメント番組などで取り上げられることも多い世界最大の遭難事件である。
それと同レベルの事件がこの辺で起こっていたとしたら、もっと広く知れ渡っているはずだ。
「だから、たぶん八甲田山の事件をパクった創作だろうね。
まあ、初めは創作怪談だったのに、広く知れ渡るようになったら尾ひれがついて、いつの間にか本当にあった話のように語られるようになった、なんていうのは、よくある話だよ」
リンは困ったことだというように肩をすくめた。
確かに、そういう例はよくある。
千明たちが住む山梨では、富士山のふもとの樹海にまつわる話が最たる例だろう。
本来は自然あふれる美しい観光地だが、『自殺の名所』『コンパスが狂う』『一度入ったら二度と抜け出せない』などの誤った情報がテレビなどで流れると、それが真実であるかのように語られ、今でもその話を信じている人は少なくない。
特に最近はインターネットやSNSの普及により、そういった怪談話も短時間で世界中へ広がるようになった。
リンがさらに話を続ける。
「あと、雪山での遭難者が裸同然の格好で発見される、っていうのは、八甲田山の事件でもあったそうだけど、それより有名なのは『ディアトロフ峠事件』だね」
「あ、それは、ちょっと前にテレビで観たから覚えてるぞ。冷戦下のソ連の雪山で起こった事件で、映画とかゲームにもなってるヤツだろ?」
ディアトロフ峠事件。
一九五二年二月、ソビエト連邦ウラル山脈の雪山でスノートレッキングを行った九人の若者が遭難・変死を遂げた事件である。
遭難場所は現地語で『死の山』と恐れられている場所で、冬はマイナス三十度にもなるという極寒の地。
そんな中、死亡したメンバーはテントの外で、極めて奇妙な姿で発見されたのだった。
後の調査によると、一行は設営したテントを内側から破って外に飛び出しており、メンバーのほとんどは雪の中裸足の状態、中には下着姿の者もいたという。
他にも、発見された遺体からは通常の2倍の放射線が検出されたり、頭がい骨やろっ骨を骨折したり、眼球や舌が喪失している遺体もあったそうだ。
これらの不可解すぎる状況から、この事件は『世紀のミステリー』と呼ばれ、野生動物の襲撃や雪崩・地震の影響、果てはソ連軍の秘密兵器実験やUFO説など、世界中で様々な論争を巻き起こしたのである。
「そうだね」
と言って、リンはさらに続ける。
「この事件ではいろんな不可解なことが起こってるけど、真冬の雪山なのに裸同然の姿で発見された、っていうのは、いちばん有名な例かもしれないね。
ディアトロフ峠事件は今でも謎が多いから原因がはっきりしないけど、雪山で遭難者が服を脱ぐ行為は、『矛盾脱衣』と言って、そのメカニズムがきちんと説明されているんだ」
「そうなのか?」
と、千明は身を乗り出した。
リンの話によると、人が暑い寒いと感じるのは体温と外気温の差が関係しており、体温と外気温の差が広がると寒くなったと感じ、差が縮まると暑くなったと感じるそうだ。
そして、極寒の地で低体温症になると外気温と体温の差が縮まるから暑く感じ、結果、服を脱いでしまうという。
リンの説明に、千明は
「なるほど」
と納得する。
「リンって、ホントそういうことよく知ってるよな。さすが、ダテに本ばかり読んでないな。よっ! 歩く図書館」
「おだてても宿代は割り引きせんぞ」
「そうか。残念だ」
「まあ、そんなワケで、あたしが思うに、寒林さんが言ってた怪談話は、いろんな事件からパクった創作だな。
それが、寒林さんが作った話なのか、他の人から又聞きした話なのかは判らないけど、少なくとも、日本兵の幽霊が現れるなんてこと、無いと思うよ」
リンは結論付けるように言うと、カップめんのスープを美味しそうに飲み干した。
「そうか。ま、それもそうだな」
千明も残ったいわしでご飯をかき込み、食事を終えた。
食後はコーヒーでも飲みながらタブレットで動画を見ようかと思っていたのだが、腹が満たされると急に強烈な睡魔に襲われた。
コーヒーなどでは到底太刀打ちできないレベルである。
時刻はまだ九時。寝るには早いが眠いのも当然かもしれない。
今日は朝早くから起きて無謀な雪中キャンプに挑み、夜にはリアル雪中行軍事件になりかねない状態で遭難しかけたのだ。
これで温かい部屋でシャワーを浴び食事をして、眠くならないわけがない。
「悪い、リン。めちゃくちゃ眠いから、あたし先に寝るわ。ストーブは任せたぞ」
千明はタブレットのスイッチを切り、ストーブのそばで本を読んでいるリンに向かって言った。
リンは本に目を向けたまま「うぃー」と手を挙げて応える。
ちなみに本のタイトルは『つくえをかく』となっていた。
イラスト関連の本だろうか?
机専門のイラスト本だとしたら随分と変わった本だが、まあ、リンが変わったタイトルの本を読むのはいつものことである。
千明は二段ベッドの下段にもぐりこむと、ほかほか湯たんぽの気持ちよさに癒されながら、眠りの世界へ落ちていった。