柄杓ですくった水を熱く焼けた石の上にかけると、ばちばちじゅわわわーっと耳心地の良い音を立ててすぐに蒸発した。
水には白樺のアロマ液が入っており、室内に水蒸気と一緒にほんのりと甘い木の香りが立ち込めた。
心安らぐ香りと共に、室内の温度はますます上昇し、千明の身体を
そろそろ頃合いか……そう思う反面、いや、まだだ、まだ早い、と、もうひとりの自分が制する。これを乗り越えた先にこそ、恍惚の時があるのだ、と、教え諭す。
その言葉を信じ、千明は瞑想するかの如く目を閉じてじっとしている。
上昇する室温、蒸される身体、甘い香り……それら三つが混ざり合い、やがてひとつに結び付いた瞬間、千明は時が来たことを知った。
カッと目を開いた千明は、座っていたベンチから立ち上がり、ゆっくりとした動作で部屋の外へ出る。
そして、露天のスペースに移動すると、これまでの動きから一転し、脱兎のごとく駆け出した。
「――ひゃっはー!!」
歓喜の声とともに大きくジャンプすると、千明は湯船のそばに降り積もった柔らかな雪の中に全身でダイブインした。
焼け焦げるかと思うほど熱を帯びた頭が、顔が、腕が、お腹が、足が――千明の全てが急速に冷やされてゆく。
それは、全身の感覚がリセットされたような感覚。
例えるならば、部屋いっぱいに並べたドミノを倒すような、あるいは天井ギリギリまで積み上げたトランプタワーを一気に崩すような、はたまた人間世界侵攻の足掛かりとなる鉄塔を爆破して侵略者の野望をくじいたときのような、そんなこの上なく爽快な気分。
この瞬間、千明は新たな世界の扉を開く。身体は軽くなり、脳は冴えわたり、五感の全てが研ぎ澄まされ、第六の感覚が解放され、この世の全てを見通し、世界の真理をその手に掴み、全ての可能性をひとつに収束できるような気にさえなる。
そう、これが世に言う、『整う』という状態である!
「いやあ、整う整う。整いますなぁ」
雪の中から顔を出した千明は、恍惚の表情で言った。
温泉大好きな千明はサウナもよく利用し、『整う』を何度も体験しているが、このペンション・ダウンヒルのサウナには、今までのサウナとは別次元の『整い』があった。
熱されたサウナストーンにアロマ水をかける『セルフロウリュ』も魅力だが、この時期最大の醍醐味は、やはりサウナから出た後、露天風呂エリアに降り積もった雪の中へダイブすることであろう。
一般的な水風呂よりもさらに冷え冷えの雪ダイブは、サウナーたちを至極の『整い』へと導くのである。
「ホンマ騒がしいやっちゃな。お風呂くらい、もうちょっと落ち着いて入りや」
露天風呂の一角に建てられた小さな東屋の中に座っているあおいが呆れきった目で千明を見る。
あおいもサウナを利用しているが、千明のように極端な入り方はせず、サウナルームで身体を温めるのは短時間、外に出て冷ますのは雪ダイブを避け外気浴、と、かなりゆっくりとしたペースで楽しんでいた。
恵那はサウナよりも温泉が好きなようで、東屋のそばにある湯船にゆったりと浸かっている。
「ま、イイじゃねぇか。利用者それぞれに楽しみ方があるのが温泉道ってもんだ。他に誰もいないんだし、ちょっとくらいハメを外しても、迷惑にはならないだろ」
雪の中から出た千明は、ぶるぶると身体を振るって全身の雪を落とした。
いま温泉を利用しているのは千明たちだけだ。
他の客は、ロビーや部屋でそれぞれの時間を過ごしているだろう。
「しかし、ホント、雪がやんでよかったな。あのまま吹雪いていたら、せっかくの雪ダイブもできなかったぜ」
千明は空を見上げながら言う。
ついさっきまで吹雪と言っていいほど激しく降っていた雪は、いつの間にかピタリとやんで、空にはキラキラといくつもの星さえ瞬いていた。
天気が悪い時はこの露天風呂エリアは閉めるらしいので、そうなったらサウナ後の雪ダイブも露天風呂も楽しむことはできなかっただろう。
実に運が良かったと言える。
「せやけど、いくら山の天気は変わりやすいとは言え、ここまで極端に変わるものかな」
あおいが不思議そうに言う。
雪だけでなく、昼からずっと吹き付けていた冷たい風も治まっている。
東屋の屋根に降り積もった雪は温泉の熱で溶けだし、いくつもの
「日ごろの行いがいいから、山の神様からのプレゼントだろう」
千明はにかっと笑うと、
「よーし、じゃあ、もう1ラウンド行くとしますか」
と言って、またサウナへ向かう。
サウナで身体を温め雪ダイブで身体を冷やす。これを何セットも繰り返すことで、人は
「あんまりムチャせんときや? 水分補給もちゃんとするんやで? あと、水風呂や温泉に入るときは、ちゃんとシャワーで汗を流さなあかんで」
まるで母親のように細かく注意するあおいを「わかったわかった」と適当にあしらった千明は、再びサウナルームへと入り、しっかりと身体を温めた後、また飛び出して雪へダイブする。
その時、千明は――。
◇
「ぷっはあぁ! サイッコー!!」
雪の中から顔を出した千明は、天国のような心地よさに歓喜の声を上げた。
そんなはしゃぎまわる千明を見て、あおいと恵那はやれやれと肩をすくめ、まあそれも千明らしいと微笑ましく見守っていた。
温泉とサウナを満喫した千明たちは、上機嫌でお風呂を後にする。
時刻は六時二十分。次はおいしいご飯が待っているはずだ。
「――おや?」
お風呂を出てロビーへ行くと、食堂の前で従業員の南奥原田と女性客の一人が、なにやら不安げな顔で話をしていた。
女性客は、お風呂に入る前にロビーで一緒にお菓子を食べた人だ。
「えーっと、あれは確か、田中さんだったか」
千明が女性客の顔を見て言った。
「山田さんや」
と、あおい。
「結局シンプルな名前も覚えてないんかいな」
「そうそう、山田さん山田さん」
そう言うと、千明は二人に声をかける。
「すみません、何かあったんですか?」
「ああ、これは大垣さん」
南奥原田は困ったような顔で千明を見た。
「いえね、山田様の部屋の前に、こんなものが落ちていたそうなんですよ」
そう言って、南奥原田は一枚の紙を見せた。
メモ帳を切り取ったもので、黒のサインペンで文字が書かれている。
その文面を見て、千明は眉をひそめた。
『こんや くじ だれかが しぬ』
文面はその一行だけだ。全て平仮名だが、やたらとカクカクとした文字だった。
「今夜9時、誰かが……死ぬ?」
首をかしげる千明。死ぬとは、穏やかじゃない。
千明はメモから山田へ視線を移した。
「なんですか、これ?」
「それが、よく判らないの」
山田は不安げな顔で言う。
「誰かのイタズラだと思うんだけど、なんだか怖くて……」
「有名な推理ゲームに、こんなんがあったな」
千明の背後からメモを見たあおいが言った。
そして、「ひょっとして……」と言って目を細め、疑惑の表情で千明を見た。
「アキ、あんたのしわざやないやろな?」
「失礼な。あたしは、こんなオチのないイタズラはしないぞ?」
「オチのあるイタズラならするんかい」
「ねえあおいちゃん」
と、恵那も加わる。
「その有名な推理ゲームって、どんなの?」
「えーっと、雪に閉ざされたペンション内で殺人事件が起こって、犯人を捜し出すゲームや」
「雪に閉ざされたペンション……ここと同じだね」
恵那が窓を見たので、千明も同じく窓から外を見る。
雪こそやんでいるが、道は降り積もった雪に閉ざされ、容易に通れそうにはない。
「大丈夫ですよ。この辺りでは、このくらいの雪は珍しくありません」
南奥原田が言った。
「電話は繋がりますし、朝になれば除雪車が動きますので、外部から孤立するなんてことは滅多にありません。まして殺人事件なんて、お話の中だけですよ」
「ま、そうだろうな。大方これも、そのゲームのマネをしただけだろ。つまんないイタズラだよ」
千明はメモをくしゃくしゃに丸めた。
「そうか……そうよね」
山田はちょっと安心したような顔で頷いた。
「それじゃあ、そろそろご飯にしましょうかね」
南奥原田は、ぱん、と手を叩き、イヤな空気を入れ替えるような明るい声で言った。
「やった、すぐに行きます」
千明たちは一度部屋に戻ってお風呂の道具を置き、食堂へ向かう。
荻原たちや渡邉ら他の宿泊客もやって来た。
千明は、まだ挨拶をしていない人がいたら声をかけようかと思っていたが、みんな見覚えのある顔ばかりだった。
「…………」
千明はスマホを取り出すと、メモ帳アプリを起動し、ささっと入力する。
☆
ワタベ ………… 一人旅が趣味。温泉目当てでペンションに来た。
オギワラ・ハギワラ ………… 静岡の女子大生二人組。スキーが目的。メガネをバカにされた。
南奥原田 ………… ペンションのオーナー。
山田 ………… 雪まみれで到着した客。名前が覚えやすい。
大垣千明
犬山あおい
斉藤恵那
☆
「……アキ、なにしてんねん?」
あおいが首を傾けて訊く。
「うん? これか? 宿泊客のリストだ」
「宿泊客のリスト?」
「ああ。自慢じゃないが、あたしは人の顔と名前を覚えるのは得意ではない」
「自慢になるかいな」
「その上、どういう巡り合わせか、このペンションにはやたらとややこしい名前の人ばかりが集まっている。だから、名前を覚えるために自分なりに作ってみたんだ。もし呼び間違えたりしたら、失礼だからな」
「……
「ぎく。ま、まあその辺はいいじゃねぇか。さーて、ごはんごはん、と」
千明はごまかすように言ってスマホをしまうと、改めてご飯を食べることにした。
食事は、調理室前の大テーブルにいろいろと並んだ料理から好きなものを選んで食べるビュッフェ形式だ。
ほうとうや鳥もつ煮などの山梨の郷土料理から、カレーに唐揚げといった定番料理まで、さまざまな料理が用意されていた。
千明たちはそれぞれ好きなものを取り皿に取ると、テーブルについておいしくいただいた。
食事中、従業員の南奥原田はひっきりなしに食堂と調理室を行き来しては、料理を追加したりお皿を下げたりお茶をくんだりしていた。
そう言えば、ここに来てから南奥原田以外の従業員を見ていない。
訊いてみると、普段はアルバイトの人が何人かいるのだが、今日は夜から雪になって帰宅が困難になることが予想されたので、夕方前に帰したのだそうだ。
あまり手を煩わせても悪いので、千明たちは使い終わったお皿を下げたりお茶をくんだりは自分でやるようにした。
それでも南奥原田は一人でてんてこ舞いな様子であった。
「南さんと奥さんと原田さんの三人に分裂できればいいのにな」
千明が言うと、あおいは「やめや」と、怖い目を向けてきた。