太陽が照らす海よりも碧く 作:heavy weather
次の年、中学校に上がってから、俺は急速に背が伸び始めた。
それに従い、体つきも心なしかたくましくなっていった。
曜と海に飛び込んだ日から、いじめっ子たちは俺をいじめなくなっていた。
俺自身の内面も変化していた。
海に飛び込むという一つの恐怖を通過したことで、怯えが消えていた。
俺は、かつての俺じゃないような気分になった。
それと同時に、思春期特有の内面的変化もやってきた。
理由もなく、むしゃくしゃする。
暴れたい。
そんな気持ちだ。
俺は学校帰りに、意味もなく商店街の看板を蹴ったりするようになった。
理由は特にない。
なぜか、そういうことをしたくなるのだ。
「おらっ!」
その日は、特にむしゃくしゃしていた。
理由は、心当たりがあった。
久しぶりに曜と目が合ったからだ。
その時俺は中学2年生。
曜は小学5.年生になっていた。
俺も変化したが、彼女も変化していた。
背が伸びていた。
すらりとした体躯は、幼さの中にも美しさを感じさせた。
彼女は、ランドセルを背負って、下校している途中だった。
「よぉ」
目が合ったので、挨拶をした。
「う、うん」
曜は、ちょっと目をそらす。
「どうしたんだよ」
俺が問いかけると、「別に」と彼女は答えた。
「じゃぁね」
そう言って、行ってしまった。
俺はまるで『期待外れだった』と言われたような気分になった。
2年前のあの、互いに海に飛び込んだ日。
何かが起こりそうな気がしたのに。
特に何もなかった。
俺たちは、顔見知りの知人程度のままだった。
そのうえ、どこかやさぐれてしまった俺に、愛想をつかせたのではないか。
勝手にそんな想像が、心の中になだれ込んできた。
それで、ことさらに、むしゃくしゃしたのだ。
「くそっ、くそっ、くそっ!」
叫びながら、商店街の適当な看板を蹴る。
古ぼけて色あせたスナックの看板は、俺の蹴りで、ひしゃげてしまった。
「おい、こら、なにやってんだ」
唐突に、声をかけられた。
「何やってんだ、少年」
咥え煙草の、若い女だった。
若いといっても、20代の後半ぐらいだろうか?
生気のない顔をした、ひょろっとした女だった。
「何してたっていいだろ」
俺は唾を吐いた。
「よかねーよ」
女が煙草を吐き捨てる。
「そのスナックの看板。うちのだ」
けだるそうに、首を回した。
「ちっ」
俺は舌打ちした。
「謝ればいいのかよ」
「別に?」
「あぁ?」
「謝ってもらって看板が戻るわけじゃないしな」
「……弁償しろってのか」
「いいや、それも別に」
女がしれっと答える。
「そんな看板、別に価値もないよ」
昭和の頃からあるしな。
そんな言葉をつぶやいて、もう一本煙草に火をつける。
少し吸ってから、咳きこんだ。
「じゃぁ何だってんだ」
「いや、なに、持て余してるなぁと思ってね」
女が、口角を歪めた。
笑ったらしい。
「危なっかしい。ちょっと来い」
言いながら、すぐ後ろのスナックの扉の鍵を回した。
・
女に連れられて、スナックの中に入る。
スナックに入るのは初めてだった。
「ちょうど今、開けに来たところだったんだ」
中には誰もいない。
殴られる……というわけでもなさそうだ。
そもそも、ひょろそうな女一人だ。
その点は心配しなくてもよさそうだ。
パチンっと音を立てて、女が電灯のスイッチを入れた。
中は、案外広かった。
カウンターがあって、横にはソファー席。
名前のよくわからないウィスキーやら焼酎の瓶。
奥には、小さなステージがあった。
それらすべてが古びていた。
「まぁ座りな」
女がカウンターの椅子をすすめる。
「なんか飲むか」
「酒なんて飲めねーよ」
「それもそうか」
笑って、氷をグラスに入れ、そこに茶色い液体を注ぐ。
手前に出されたので飲んでみると、麦茶だった。
家庭的な味がした。
「よっと」
女が、カウンターの奥にある装置に手を伸ばす。
銀色のスチールの大きな機械。
古めかしいスイッチレバーを上げると、タコメーターが動いた。
「なんだよ、それ」
「アンプさ」
「アンプ?」
「これでいいか」
女が棚の上にあったものを手に取った。
無造作に置かれていたそれは、レコードだった。
「ちょっと待ってろよ」
女が、レコードをターンテーブルに設置する。
針を置くと、音が流れ出した。
それは、耳をつんざくような音だった。
まるで天空の空高くから、雷みたいに降りてくる、歪んでひずんだ音のギター。
そこに絡みつく、野獣のように暴れたベース、そして精神の奥底を鼓舞するような激しいドラム。
「ロックだ」
女が、つぶやいた。
煙草の煙を、唇からゆっくりと吐き出す。
俺は、動けなかった。
体の芯を揺さぶられたみたいだった。
体の奥深いところにある魂に手を伸ばされ、ぎゅっとつかまれるような気分がした。
破壊、暴力。
優しい音楽ではない。
そこには、俺が放出したかったものと同じ暴力性が、高次元な音として表現されていた。
やがて、言葉が聞こえてきた。
かすれた声で歌われる、メロディー。
暴力的なギターの音の上に、揺らめきながら混じっていくそれは、どこか墓投げて弱弱しくすらあったのだが、そのことがむしろ俺の胸を打った。
英語だったので、まったく意味は分からなかったが、俺はいつしか、聞き入ってしまう。
気が付くと、レコードのA面がすべて終わっていた。
「すげぇ」
俺はつぶやいた。
「A面で、3曲。14分超の大作を含んで、30分だよ」
女が言った。
信じられない。
体感、5分ぐらいだった。
「気に入ったかい?」
「あ、あぁ」
「そりゃよかった」
女が笑う。
ずっと年上の女だが、笑うと意外に可愛かった。
「あんたさ、看板なんか蹴らなくたっていい。ロックを聴きゃいいんだよ」
「ロック……」
「そうさ。でなきゃあんた、こんな街であんなことしてりゃそのうち警察かやくざの手籠めにされちまうぜ? ほらよっ」
女が俺に、コップを投げてきた。
俺は慌ててそれをキャッチする。
「ここにきて、たまってる汚れものを洗いな。看板へこました分はそれでチャラにしてやるよ」
・
あの日、俺の体を揺さぶり、俺の血液に充満したロックの香りは、生涯忘れることができない。
それは確かに、俺の人生を変えた。
俺の心中のぐずぐずとくすぶった怒りやら暴力性やらは、ロック音楽にそっくりそのまま置き換わっていった。
俺は女のスナックに通って、毎日のようにロックを聴かせてもらうようになった。
開店前のおよそ一時間、皿洗いを手伝いながら。
狭いスナックの店内は、女の吸うたばこの煙と、極上のロックに満ちていた。
ジェリー・リー・ルイス、ボ・ディドリー、ジョニー・リヴァース、ディランにジミヘン、ザ・フー、ディープ・パープル、フリーにオザンナ、ニュートロルス、ELP、イエスにジェネシス、ハンブル・パイにCSNY、体全体でロックを浴び続けた。
女の名前は、笠井さんといった。
それ以上のことは分からなかった。
教えてくれなかったし、俺も訊かなかった。
スナックの開店時間が近づくと、裏口から出て家へ帰った。
少し歩いてから、後ろを振り返ると、スナックの明かりがついていた。
早い時間の客がもうやってきたのだろう。
中からは、演歌の音がかすかに聞こえてきた。
うらぶれた街の、うらぶれた路地を歩く。
そこには演歌の音が染みついているような気がした。
「あっ」
路地を抜けて通りに出ると、見知った顔と出会った。
曜だった。
少し遅い時間だが、友だちの家で遊んだ帰りなのだろうか。
俺は、少し迷ってから、手を振った。
「よ、よぉ」
今の俺なら。
恥ずかしくないような気がしたのだ。
俺はもう、むしゃくしゃして壁を殴ったりしていない。
「う、うん」
曜が、ぎこちなく笑う。
「久しぶりだな」
俺は近づいた。
いつの間にか背が伸びたので曜が小さく見えた。
「…………」
「どうしたんだよ」
前みたいに明るく、話しかけてくれよ。
この瞬間になって俺は、この子のあの、太陽みたいな笑顔が好きだったんだなと思った。
それを早く見たかった。
あの時みたいに、俺に見せてくれ。
でも、曜の表情に笑顔は現れなかった。
「洋くん」
「ん?」
「その……タバコ、吸ってるの?」
「え?」
ようやく気付いたのだが、スナックで皿洗いをした直後の俺の体には、煙草の匂いが染みついていた。
「い、いや、違うよ、これは」
言い訳をしようとしたが、ダメだった。
「よくないとおもうよ、そういうの……」
ぽつりとつぶやいて、曜は行ってしまった。
小さくなっていく後姿を見つめ、俺はシャツの袖を匂った。
もう慣れてしまった、女の煙草の匂いが、かすかにへばりついていた。
「んだよ、それはよぉ……」
舌打ちをする。
しかし、俺はその場から動けなかった。
今、走って追いかければ、理由を説明すれば、わかってもらえたかもしれない。
だけど、なぜかそうすることができなかった。
俺はただその場に立って、どんどん小さくなっていく曜の後ろ姿と、赤いランドセル、そしてくすんだ小さな町の灯りをじっと見つめていた。
(つづく)