太陽が照らす海よりも碧く   作:heavy weather

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第3話

曜に誤解されてしまった。

そのことは、俺の心の中にくすぶり続けた。

曜が俺をどう思って立って関係ないじゃないか。

別に俺たちはただの知り合いにすぎない。

友達というほどですらないんだ。

何度も自分にそう言い聞かせた。

しかし、なぜか胸の奥底は晴れなかった。

まるで、焚火をした後の火を消そうとしたのに、水をかけても消えないような感じだ。

何かよくわからない心地の悪さが、心の奥底にヘドロのようにこびりついている。

それは、スナックでロック音楽を聴いていても、消えなかった。

 

「少年、機嫌が悪いな」

 

カウンターでグラスを磨きながら、笠井さんが言った。

 

「……んなこと、ねぇよ」

 

俺はそう答えたが、顔に出てしまっていたらしい。

笠井さんがため息をついた。

 

「なぁ、洗い物が終わったら、ちょっと奥に来な」

 

 

笠井さんに促され、スナックの奥の小さなステージへ。

そのスペースに足を踏み入れるのは初めてだった。

随分と埃っぽい。

 

「しばらく使ってないからな」

 

笠井さんが苦笑いした。

 

「ここって、カラオケをするスペースだよな?」

 

俺が問いかけると、彼女は笑った。

 

「今は、な」

「昔は違ったのか?」

「昔は、ライブをやってたんだよ」

「ライブ」

「そう。ここは、ジャズ喫茶だったのさ」

 

ジャズ喫茶。

その単語そのものは聞いたことがあった。

 

「JBLのスピーカーに、マッキントッシュのアンプ。ここのシステムはその頃のをそのまんま使ってる。30年ほど前までは、土曜日の夜はトリオやカルテットがやってきて演奏もしていたらしい」

「30年前」

「そっ。あたしがこの店にやってくるずっと前。前のオーナーの頃だよ」

「へぇ……」

「あたしは、ジャズは聞かない。もっぱらロック専門だけどね……あった」

 

笠井さんが、ステージの奥に飾りみたいに置いてある、古びたギターを手に取った。

 

「少し年代物だが、メンテすれば弾けるはずだ。むしろ昔のもののほうが作りがしっかりとしているぐらいだよ」

 

そう言って、俺にそのギターを手渡した。

 

「これ、やるよ」

「え?」

「むしゃくしゃするときは、弾けばいい。ロック聴いても心が晴れないんなら、あとは弾くしかないわな」

「あ、ありがと」

「おっ、珍しい。あんたが礼を言うとはね」

 

それは、安くておんぼろのギターだったが、そんなことは関係なかった。

(後になって分かったことだが、カントリーロックでよく使用される、いわゆるナショナルギターだった。ジャズ喫茶だったスナックになぜそんなものが置いてあったのかは、わからない)

誰かから何かを与えられたのは初めてだった。

俺は心の奥に温かいものが満ちてくるのを感じた。

 

「あたしは楽器はできない。店が開くまでの時間使っていいから、自分で勝手に練習しな」

 

俺はうなづいた。

 

 

その日から、俺は必死になってギターの練習をした。

ある程度の基本は、ネットで調べれば知ることができた。

はじめは音もちゃんと出でなかったが、やがて少しづつ、思ったように弾けるようになっていく。

簡単なコードを覚えると、あとはめきめきと上達していった。

1年……2年が過ぎた。

俺は笠井さんのスナックでロックを聴き、ギターを練習し続けた。

高校に上がるころには、体の芯にまでロックがしみ込んでいるような気分になることができた。

体中の細胞が、毎日聞き続けたロックを記憶している。

体をめぐる血液はミシシッピの川の流れのようだ。

高校生になったある日、笠井さんが俺に、封筒を手渡してきた。

 

「なんだよ、これ」

 

中には札束が入っていた。

 

「2年間のバイト代さ」

「え?」

「お前、よく飽きもせずに毎日、開店準備を手伝ってくれたな」

「いや、でも」

 

お金以上のものをすでにもらっている。

ロック音楽、ギター、そして居場所。

 

「中坊の間は、バイト代なんて出せないからさ」

 

その言葉を聞いた瞬間、俺の頬を涙が伝った。

ほんの一筋だけのその涙に気づかれないように、俺は慌ててうつむく。

笠井さんが言った。

 

「それと、来週からステージに立ちなよ」

「ステージ?」

「そうさ。随分ギターが上手くなった。ステージで弾いても馬鹿にされないだろうさ。武者修行のつもりでやってみな。ギャラは払ってやるよ。小遣い程度の額だけどな」

 

そんなわけで俺は、月に二回、スナックのステージでギターを奏でて歌うようになった。

といっても、激しいロックではない。

田舎の町のスナックに集まる連中が好むような曲だ。

60年代のフォーク、あるいは小林旭やフランク永井。

たまにカントリーソングもやった。

ジョニー・キャッシュにグレン・キャンベル。

そういったものは、実際にやってみると面白かった。

俺はむしろ、そのような典型的なヒット曲を奏でることで、わかりやすい音楽の構造というものを学んだ。

3分間の中にどのような展開を作れば人が喜ぶのか。

そういったものが、自然に頭の中に入ってきた。

それに、ありきたりな古いヒット曲の中には、驚くほどに素晴らしいものが混じっていた。

ことさらに、グレン・キャンベルのウィチタ・ラインマンだ。

たった3分間の一見地味にすら聞こえるバラードの中に、純文学性ともいえる高貴な空気感が内包されていた。

俺は、夜布団にもぐりこんで目を閉じると、ウィチタの荒涼とした大地に、しめやかに雨が降り注ぐ情景を想像することがあった。

しかし、本当は雨は降っていない。

それは、何か象徴的で形而上学的な雨なのだ。

 

 

俺がそんな風にして日々を過ごしているうちに、曜はいつの間にか中学生になっていた。

そのことに気が付いたのは、内浦の堤防で学校帰りの曜とすれ違った時だ。

 

「あっ」

 

互いに、目が合った。

2年前に煙草の件で勘違いされてから、俺は曜とちゃんと喋ったことがなかった。

なんとなく気まずくて、俺は目をそらす。

このまま、やりすごしちまおう。

そんなことを考えると、少し胸がうずいた。

が、もはやどうしようもないことだ。

そのまま、通り過ぎようとした時。

 

「あ、あのさっ」

 

曜が、俺の背中に声かけた。

 

「その、間違ってたら、ごめんだけど」

「……なんだよ?」

「最近、スナックで演奏してるって、聞いて」

「…………」

 

俺は振り向いた。

 

「それがどうかしたか?」

「あ、えと」

 

明るく物おじしないはずの曜が、珍しく言いよどむ。

 

「ほら、まえに、その。煙草のこと、注意したでしょ」

「あぁ」

「あれって、勘違いだったのかな……って」

 

俺は息をのんだ。

 

「そういう場所って、煙草の煙とかすごいって聞くし、洋君、前からそこでずっと真面目に練習してたって……」

 

どこかで俺のそんな噂が回っているのだろう。

恐ろしく狭い、田舎の町だ。

人の噂は、いつの間にか広まっていく。

俺の母親はそんな噂に苦しめられた人だった。

離婚した原因をまことしやかに語られ、ずっと苦しんでいた。

だから人の噂は好きではない。

しかし、今回の俺の噂に関しては……ありがたい噂だった。

 

「まぁ、そうだな」

 

俺はぶっきらぼうに返事をした。

他にどういう風に言葉を返せばいいのか、わからなかったのだ。

俺の言葉に、曜が勢いよく頭を下げた。

 

「ご、ごめんね!」

 

俺は面食らう。

 

「私、洋君が不良になったと思ってた。それって完全に誤解だった! 本当にごめんなさい!」

 

気が付くと、俺は笑っていた。

曜は、子供の頃から何一つ変わっていない。

素直で、まっすぐで。

 

「いいよ、別に。ちゃんと説明しなかった俺も悪いしさ」

 

俺たちは、笑いあった。

 

 

そのあとは、堤防に腰かけて、久しぶりにおしゃべりをした。

夏の入り口と言っていいような初夏の日だった。

初夏の日差しを受けた海は、きらきらときらめいていて、そのまま絵葉書にしてもいいように思えた。

俺たちは駄菓子屋で少し季節には早い棒アイスを買って食べた。

曜は大きめのボストンバッグを持っていた。

 

「水泳部。水着とか、タオルとかこれに入れてるんだ」

「へぇ」

 

俺の頭の中で、曜のしなやかな体が陽光の海に飛び込む様子が思い浮かんだ。

それはとても幸福そうな光景だった。

 

曜との久しぶりの会話は楽しくて、あっという間に一時間が過ぎて、俺はその日のスナックのバイトに遅刻した。

 

 

 

(つづく)

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