府大会まで一日も無駄に出来ない。練習は日に日に激しくなり、音楽室では滝の指示が矢のように飛んだ。
このままのクオリティをコンクールでも出せることができれば、府大会金賞は確実だろう。それでも滝や橋本、新山は満足していなかった。府大会より高みを、全国大会金賞を獲る上では今の水準では足りないと踏んでいた。高みを目指すということは、一瞬たりとも慢心しないこと。それを理解している講師陣であるから、その暇さえも与えないのだ。
「足りない、全然足りません。第三楽章の肝はあなたたちです。分かりますか、傘木さん、鎧塚さん」
「……はい」
「鎧塚さん、以前新山先生に言われたこと、考えましたか?」
「はい。ただ、私には青い鳥を逃がしてやるリズの気持ちが分かりません」
みぞれはじっと滝を見た。その言葉に新山が反応する。
「鎧塚さんは、大事な人を大切にしすぎてしまうのね」
右手で髪を撫で、再び俯く。
「もう少し、試してみてもいいのではないでしょうか。鎧塚さん、あとでまたお話聞かせてちょうだいね」
「はい」
みぞれの返事に、新山は笑みを浮かべた。
「それでは最初から通しでやります。楽器を構えてください」
滝の指揮で、全員が集中した。
昼休憩の時刻になると、部員は各々で用意した弁当を食べる。基本的にパート間でグループになって食事となるが、それは決まり事ではない。
弁当を平らげた隆翔の元に、突然希美が来訪した。
「友恵、いる?」
「傘木先輩」
「樟葉くんだけか。友恵は?」
「今日はトランペットパートで食べると言ってましたよ」
なんだ、と肩透かしを食らった希美は、童話を読み進めていた隆翔の前にどかっと座った。
「もう食べたんですか?」
「うん。あ、でも私大食いとかじゃないから」
「じゃあ、早弁ですか?」
「違うってば! もう、先輩を揶揄うなんて君も結構生意気だよね」
眉を顰めつつも、その言葉は本気ではないことは分かっていた。
「先輩、音大行くって、どこまで本気なんですか?」
「本気だと思ったの?」
質問に質問で返され、隆翔は言葉を詰まらせた。聞かれたくないことを聞かれてしまった希美は、トレードマークのポニーテールを解いて、ぱさりと背中まで伸びる長い髪が現れた。
「色々調べたけど、正直言って想像していたよりも世界が違ったんだよね。音楽を生業にして行こうとも思っていなかったし、音大って試験でピアノ弾かされたり、フルートの個人レッスンを受けなきゃいけないんだって。そうやってみんな試験対策をしてる。生半可な気持ちだったなってことも重々理解してる。でもね、あの一瞬に音大に行きたいという気持ちが芽生えちゃったのは事実」
希美は隆翔と目を合わせなかった。自分の気持ちに自信がないのか、自分の言った言葉に責任を持てないと思ったのか、今は希美の言葉を待った。
「この気持ちはそんなにきれいなものじゃない。もっとしょうもない、未練とか意地みたいなものなんだろうなって思ってる」
「でも、鎧塚先輩はきっと目指しますよ」
みぞれの名前を出され、希美は目を細めた。
「あの子は、音大に行けるだけの才能があると思う。新山先生にも誘われてたし……」
やはり、みぞれの存在はコンプレックスとなっているようだった。これ以上踏み込めば、希美の機嫌を損ねない。せっかく築き上げた信頼も崩壊してしまう。
希美は再度ポニーテールを結いて空を見上げると大きく深呼吸をした。まるで体内に溜まった老廃物を吐き出すかのように。
「みぞれってさ、中学の時から毎日当たり前のように練習するの。私も負けたくなくて、みぞれと同じだけ練習した。最初からみぞれは努力を継続できる才能があった。でも、同じくらい練習を続けてたなら、私だって新山先生に声を掛けられたっていいでしょ?」
「傘木先輩に、その資格がないとは思えません」
「そりゃ、これまでやってきた実績とか努力とかは自覚してるよ。でもさ、やっぱり悔しいじゃん。ずっと私の後ろを付いてきた子が、私の前を歩いていくのは」
開け放った窓から、幾分か涼しい山颪が校内へ吹き込んできた。こんなにも悔しがる希美を見たのは、中学二年のコンクール以来二度目のことだった。間違いなく、いま希美は心を曝け出している。
「みぞれは音大に行けるだけの技術もあるし、多分お金とか、そういうところもクリアしてる。なんか、私にはどうすることも出来ないところで差が付いちゃってて悔しい」
隆翔から見た希美の魅力は、人心掌握に長けているところである。それが持って生まれた才能なのか南中で部長を経験した故なのかは計り知れない。大体のことは人並み以上に出来るから、同級生や後輩からの支持も厚い。しかし、何かの第一人者になれるのはみぞれなのだ。直向きな努力。音楽で花開いた才能。そこに希美は憧れていた。
よく、ガムシャラに足掻く姿が美しいと評価する者がいる。確かに綺麗でなくても心が揺さぶられるかもしれない。しかし希美は潔かった。届かないことに意固地にならず、親友の努力を否定しない。隆翔の前でだけ突き付けられた現実に歯を食いしばっている。
希美を肯定する立場で居たい。誰の為でもない、希美だからこそ支えなければならないと心が揺れ動いた。
「良いんですよ、別に下手でも。先輩が楽しく吹いてくれさえすれば」
希美はハッとした。言った本人は忘れていたかもしれない。しかし、隆翔には紛れもなく救われた一言であった。今、この言葉を返さずして、いつ言えようか。
「……それ、私が下手くそだって言いたいの?」
「え? いやっ、そういう訳じゃなくて……」
「うそうそ。覚えてるよ。私が言ったことだもん」
暗く俯いていた顔が、くしゃりと綻んだ。
彼女が素を出せる場所でいたい。男女間でそれがカテゴライズされるのは、恋愛関係となるのかもしれない。それでも良いと思った。希美となら前に進めそうな確信が生まれた。
◇◆◇
午後の練習では、B編成の指導に回っていた。全体の彼らも同様にコンクールが存在し、出場に向けて日々練習している。この日、A編成のサポートは友恵に任せていた。
指揮台に立つ副顧問の松本は、厳しくも愛のある言葉で各楽器を指導する。B編成が演奏する曲はカバレフスキー作曲『組曲「道化師」より』。全十曲からなる管弦楽のための組曲であり、日本では第二曲『道化師のギャロップ』が運動会等で使用されるなどで有名である。全曲演奏すると十六分にもなるので、コンクール用に編曲された楽譜を使用し、吹奏楽編成でも演奏できるようアレンジが加えられている。ちなみにこの曲は松本のお気に入りであり張り切っていると証言したのはチューバ担当の加藤葉月である。
「やめ。樟葉、何かあるか」
「はい。チューバ二人、少し置いていかれがちです。あと木管の存在感をもっと出してもいいと思います」
「……よし。加藤、鈴木はもう少し走らせて吹け。追いつけないテンポではない筈だ。木管もいくら小編成とはいえ、この機会に度胸を付けるんだ。来年に繋げるためにな。分かったか!」
「はい!」
これが所謂、松本の軍曹モードであった。
演奏を指揮者の横から聴くと様々なことが見えてくる。自分が吹く位置、そうでない時の姿勢、その人が得意とする箇所、苦手としている箇所が一目で理解できる。その為、気になった事は遠慮なく出すようにと練習前に伝えられていた。
しかし、彼らもオーディションに落ちたとはいえ強豪北宇治の一員だ。大会でも金賞を狙える実力が兼ね備えられていた。
「では、十五分間の休憩とする」
松本はそう伝えて足早に教室を出た。隆翔も同じく教室を出て音楽室へと歩いていた。四階の屋外へ出る渡り廊下の手すりに、力なくもたれ掛かる生徒がいた。腕組み顔を隠していたが、特徴的なポニーテールが枝垂れかかっていた。
「傘木先輩?」
名前を呼ぶと、希美はビクッと肩を震わせた。そしてゆっくりと顔を上げた。その瞳には、強引に涙を拭った痕があった。
「どうしたんですか?」
「ううん、何もない。なんでもないよ」
隠し通そうとする希美の背中は、昼休憩の時よりも小さく見えた。
「俺にも言えないことですか」
「やめてよ。私は誰も特別に思ってない」
突き返すような口調で黒い瞳が深く、深く隆翔を見つめる。これ以上踏み込んだら許さないと視線で訴えていた。
希美がそう来るならと隆翔は単刀直入に聞いた。
「鎧塚先輩、なんですよね?」
希美の目が大きく見開かれる。そこにあるのは軽蔑か自嘲か。こんなにも歪んだ視線を受けたのは初めてだった。
「醜いでしょ、私」
空気が震えていた。隆翔は口内の乾きを誤魔化すように唾を飲み込んだ。
「そんなことありません」
隆翔の答えを嘲笑うかのように、希美はふっと溜息を漏らした。
「本当のこと言ってよ。みぞれを舐めてかかって、あの子の本気の演奏に動揺して、実力の差を判らされてみっともなく泣いて。なんでいつもこうなのかな」
前髪をくしゃりと掴んで悔しさを露わにした。
「あの子、さっき私にこう言ったんだよ。希美はいつも勝手って……。余計なお世話だよ。あの子は私のこと、何も分かってない」
持たざる者の悩みか。みぞれの憧れとは希美のような明るさと社会性なのだ。そして希美の求めるものはみぞれのようなセンスと才能だ。相容れない二つの憧憬が遂にぶつかった。衝撃的な告白によって、山から吹き下ろす風が一層冷たく感じた。
「新山先生に認められているみぞれが羨ましい。でも私の方が音楽が好きだし、フルートが好き。だからいっぱい練習してるのに……」
練習中、新山がみぞれの練習に付き添っている光景が何度かあった。それが希美の嫉妬心を煽っていたのだ。一緒に切磋琢磨していた友達が自分よりも才能に恵まれるという事実は、残酷以外の何物でも無い。
「それから負けたくない、みぞれに舐められたくないって思うようになった。だから音大行くなんて口走った。ホント醜い。音大を志望することが、みぞれよりも音楽に本気で見られるステータスに思ってるサイテーな人間なんだよ、私は」
希美の自嘲が止まらない。鋭利なナイフで自らを斬りつけている。彼女は目尻に溜まる涙に免じて慰めてほしいなんて思っていない。もっと、もっと断罪してほしいと叫ぶように供述を続けた。
なんて言葉を掛けたら良いのか分からなかった。隆翔が逡巡するよりも早く希美は自分を嘲笑う。隆翔はそのナイフを取り上げてあげたかった。
「俺は、傘木先輩のフルートが好きです。みんながどう思ってるか知らないけど、先輩のフルートはちゃんと届いてます。……ごめんなさい。今はこんなことしか言えません」
希美は何も言わなかった。その代わりに、唇を噛みしめることで折り合わない気持ちと葛藤している。
そのとき、不意に反対側のドアが開く。
「希美、アンタいつまで油売ってるわけ! 練習始められないじゃない。樟葉、アンタも持ち場に戻りなさい!」
優子の甲高い怒鳴り声が校舎に反響する。二人はその迫力に肩を竦めた。その後、希美は優子に引っ張られながら音楽室へ連行された。
「はあああ……」
緊迫した空気が弛緩し、隆翔はその場にもたれかかった。太陽は西に傾き始めていた。あと一時間もしないうちに部活動が終わる。彼女へ掛ける言葉を考える時間の猶予が、刻一刻と迫っていた。
【つづく】
−追記−
2025.6.13 内容を大幅加筆修正しました。