或る、フルート吹きの青春   作:ハヤブサ320

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EP.09 その心に熱を穿て

 B編成の練習が早々と切り上げられ、隆翔は友恵と共に『リズと青い鳥』第三楽章の練習を見ていた。

 音楽室にいた誰もがみぞれの演奏に飲まれていた。誰も彼女の演奏に及ばない。それは即ち、誰もみぞれを支えることが不可能な状態を指していた。フルートのエースである希美ですら、みぞれの領域に到達できていなかった。

 このままでは希美の心が砕けてしまう。残された短い時間の中で、隆翔は考えなければならなかった。希美のフルートに救われた隆翔の高校生活。もう一度音楽と向き合うきっかけをくれた一言。その人柄に隆翔も例外なく惹かれていた。隆翔は彼女に手を差し伸べる術を、ひたすら熟考した。

 合奏練習が続いてゆく。演奏しては滝の指揮する手が止まり、容赦なく鋭い指摘が飛んだ。

 

「傘木さん。やはり今のところはフォルテで吹けますか?」

「はい」

 

 フルートを構え、いつもの音程よりもやや強めに息を送る。滝の指示は的確だった。みぞれの演奏を聴いてしまった滝はおそらく動揺したのだろう。それまでの指導方針に手を加えた様子が見て取れた。

 みぞれの演奏に肩を並べるレベルのフルーティストは希美しかいないと理解している。だからソロの掛け合いを二人に託した。しかし、なんと酷な仕打ちだろうか。中学で部長として皆を率いた実績も、復帰してからパート内外で頼られるエースとしての自覚もあった彼女のプライドも、みぞれのたった一度の演奏によって粉々に砕かれていた。

 

「……っ!」

 

 突如、希美の演奏は音を外し演奏する手が止まった。大会も近く緊迫感のある中、普段なら有り得ないミスが発生した。

 

「どうしましたか、傘木さん」

「……すみません。指が動きませんでした」

 

 演奏を止めた希美に部員全員の視線が注がれる。衆人環視に希美は完全に項垂れた。はっきりと表情は窺えないが、きっと唇を噛み締めるほどの悔恨に苦しんでいる筈だ。

 

「分かりました。みなさん、今日の練習はここまでとします。明日も『リズと青い鳥』を中心に練習しますので準備をお願いします」

 

 音楽室は騒然とした。唐突に打ち切られた練習に多くの部員が唖然とした。その喧噪を聞き流すように、滝は新山と橋本を連れて足早に音楽室を後にした。

 

「はいはーい、練習はこれで終わります。明日は通常通り、放課後から始めますのでそのつもりでお願いします」

 

 部長である優子は手を叩いて喧噪を沈める。希美はショックの余り、そこから動けずにいた。みぞれ、優子、夏紀を含め、誰しもがその姿を視界に捉えつつも、彼女に声を掛けることはできなかった。

 やがて希美は無言でフルートを解体しケースに収納した。

 今しかない、と隆翔は希美の元へ向かった。

 

「傘木先輩、今日、一緒に帰りませんか?」

 

 帰り支度で部室が雑然とする中、希美は鞄を肩に掛けスクッと立ち上がって振り向いた。

 

「……いいよ。帰ろっか」

 

 

 

 

 宇治川の畔は夕日のオレンジ色に染まっていた。川辺を歩く二人の間には沈黙が支配していた。希美と帰るのは初めてだった。希美を置いていかないよう、自分よりも狭い歩幅の希美に合わせて歩いた。みぞれはオーボエで飛び立った。希美を、演奏している全員を置き去りにした。隆翔にもその経験があった。中学二年のコンクールで、羽が生えたように軽くのびのびとしたフルートが吹けた。みぞれの演奏を聴いて、希美は何を思ってフルートを吹いていたのか。それとも、吹けていたのだろうか。

 

「……ずるいよね、ほんと」

 

 夕焼けの空にぽつりと希美が呟いた。

 

「あの子が私にどんな思いを持っているのかも、私全部知ってたんだ」

 

 隆翔は歩きながら無言で希美の独白を受け止める。彼女の声は段々と掠れ、熱と水気を帯びていた。

 

「私がフルートを好きなように、みぞれも私のフルートが好きでいてほしかった。でもみぞれは、別に私のフルートを好きなわけじゃなかった」

 

 希美はその場に蹲り、慟哭と共に全てを吐露した。

 

「私、みぞれのオーボエが好き。でも、私よりも認められていくみぞれを見るのが嫌だった。みぞれは何も悪くない。相談なしに退部したことも、音大行くって言ったことも、みぞれの演奏が凄くて悔しくて八つ当たりしたのも、全部私だから……」

 

 留まることなく流れる涙を両手で拭いながら、希美は正直に自分の心に向き合っていた。彼女を茶化す者は誰もいない。例え居たとしても隆翔がその存在を許さない。

 隆翔は膝を抱える希美の頭を撫でた。嫉妬、羨望、屈辱、罪悪感。心を痛めながら自分と向き合う人が愛おしく感じていた。隆翔には嫉妬心や友達想いの狭間で葛藤する彼女に掛ける言葉は無い。ただ、希美の傷ついた心に手を当てることしか出来なかった。

 

「先輩は偉いです。そんないじらしい人に絆されて、また吹奏楽やろうって思わせてくれたのは他でもない希美先輩なんですよ」

「こんな汚い私に良いとこなんかない」

「汚くなんかないです。何かを誤魔化しながら、自分を騙しながら生きていく方がずっと汚い。希美先輩は、今ちゃんと自分と向き合ってるじゃないですか」

 

 ゆっくりと顔を上げた希美は、ぐちゃぐちゃの目尻を少しだけ下げて不器用に笑った。隆翔は両手で希美の頬を挟んだ。いつも整った顔立ちを見ていたからか、少しだけ不細工だった。

 

「先輩、俺は先輩の本気が見たい。希美先輩なら、鎧塚先輩に肩を並べられるソロを吹けるって思ってます」

 

 希美はまっすぐ隆翔の目を見て静かに頷いた。

 

「よかった」

 

 希美は立ち上がると、うさぎのように目を真っ赤にしながら笑った。釣られて、隆翔の表情にも笑顔が戻った。

 

「そうだ先輩、フルート貸してください」

「いいけど、どうするの?」

 

 フルートケースを受け取ると、河川敷のベンチに腰掛けてフルートを組み立てていく。希美のマイ楽器の型式は隆翔とまったく同じスタンダードタイプであった。手入れの行き届いた接続部、滑らかであり手応えのあるキイ。少し触っただけで、彼女がどれだけこのフルートを愛しているか理解できた。

 

 隆翔の息がフルートの管を伝う。吹奏楽を辞めた日、隆翔はこのフルートが奏でる音に救われた。そして希美と出会った日から密かに練習していた曲。

 

「……韃靼人」

 

 ゆったりとした旋律が宇治の川面に溶け込む。ロシアの雄大な大地を思わせるような緩やかな旋律。騎馬民族と遊牧民族の音楽観の対比。融和による宴と踊りを形容し、少しずつ曲調を変化させながら見せ場へと移る。ここにオーボエのソロがないことだけが勿体ないといった感情にさせられる。しかし、目を閉じるとハープの響き、低音の下支え、オーボエの優しい音色が聞こえるようだった。

 隆翔が吹いたのは希美のソロ、その譜面を暗譜していた。二人で会っていた教室で何度も聴かせてくれた『韃靼人の踊り』は、隆翔の心を突き動かした。

 

 希美は何を思うだろうか。それでも彼女に教えたかった。貴女に心を揺さぶられた人がいたこと。この音が大好きな人がいること。この音を奏で、聞かせてくれた人に恋慕を抱いてしまったことを。

 

 隆翔は冒頭部分をを吹き切った。

 音は外さなかった。しかし練習不足が祟って、希美の持つ表現力には到底及ばなかった。

 

「樟葉くん、普通に上手いじゃん」

 

 一人だけのオーディエンスから拍手が上がる。その笑顔から、お世辞などではないことが伺えた。

 

「でも、先輩の音には遠く及びません。それがちょっと悔しいです」

「そんなことないよ! 凄く良かった。なんて言えば良いのかな。なんか、心が動かされたっていうか、誰かのフルートの音がこんなに響いたのって生まれて初めてだったよ」

 

 頬を紅潮させて興奮気味に隆翔へ迫る。決して満足のいく演奏ではなかったが、今の精一杯を詰め込んだ演奏は確実に彼女の心に響いていた。

 

「滝先生、きっと動揺していたんですよ。希美先輩の演奏が悪かったんじゃない。これ以上、腑に落ちないまま譜面をアレンジしても埒が明かないと思ったんじゃないですかね」

 

 二人はベンチに並んで夕日を眺める。先ほど滝が指揮を止めて部活を終わらせたことについて話し始めた。

 

「あの時は終わったなって思ったよ。滝先生は全然私と目を合わせてくれなかったし、みぞれの音を聴いてから私も指が全然動かなくて」

「でも、希美先輩は最後まで諦めなかったじゃないですか。技術に裏付けられたたくさんの練習があったからこそ、希美先輩でないと鎧塚先輩を支えられないですよ」

 

 希美の大きな瞳が煌めいた。そして小さく「ありがと」と呟いた。

 

「でも、あの子はもう私がいなくても大丈夫なんだと思う。みぞれの演奏、コンクールまでにちゃんと支えられるようになりたい。手伝ってくれるかな、隆翔くん?」

 

 希美は隆翔を必要としている。それだけではなく一気に距離を縮めてきたことに驚いた。

 

「分かりました。明日から俺がサポートします」

「えへへ。よろしくね」

 

 希美は会心の笑顔を隆翔へ向けた。

 二人だけの演奏会は、川面に反射する夕日の退場を持って終演となった。

 

 

【つづく】




−追記−
2025.6.13 内容を大幅加筆修正しました。
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