或る、フルート吹きの青春   作:ハヤブサ320

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EP.10 真っ赤な空を見ただろうか

 朝、スマートフォンのアラームで起きた隆翔は半目を擦りながら洗面所で顔を洗う。ぼうっとした顔が鏡に写って、昨日起きたことはさっき見た夢なのではないかと錯覚する。頬を抓っても、目が覚めるような痛みが現実へ誘うだけだった。

 

『手伝ってくれるかな、隆翔くん』

 

 夕日に照らされた希美の笑顔が瞼の裏に映る。その顔を思い出すだけで胸の鼓動が高鳴る。

 昨晩、机に広げたままのスコアを鞄に仕舞う。そして今日は他に持っていく荷物があった。両親から贈られ、北宇治で再入部するまで押し入れに仕舞い込んでいたフルート。高校に進学してからは、初めて学校へ持参する。

 

「おはよう隆翔」

「おはよう、お母さん」

 

 リビングには早朝にも関わらず母の姿があった。朝ごはんを作っていた母は、フルートを持つ隆翔を見て優しい表情になった。

 

「あら、久しぶりじゃない、それ」

「ああ、うん。今日必要なんだ」

 

 その必要は無いのに照れ隠しをしてしまう。所詮、隠したところで母には全てお見通しなのだが。

 

「いってらっしゃい」

「いってきます」

 

 物心ついた時から父のいない家だった。母が最も身近な存在で、隆翔は母の一言に何度も背中を押された。今日という日も例外ではなかった。

 朝七時の学校は静寂に包まれていて、どこか特別な感じがした。

 

「希美先輩、おはようございます」

「おはよう、隆翔くん。朝早くから付き合わせちゃってごめんね」

 

 申し訳なさそうに両手を顔の前で合わせる。口にはしなかったが、希美と一緒に居られるだけで早起きなんて苦ではなかった。朝から爽やかな希美の笑顔を浴びたところで、隆翔の中に生まれた悩みの種は膨らんでいた。希美はそう言った関係でもない男子を名前で呼ぶのだろうか。彼女への恋心を自覚した隆翔には毒であった。

 音楽室には朝練に勤しむ生徒が散見された。希美の隣に腰掛け、自前のフルートを組み立てる。その光景を希美が覗き見ていた。

 

「君のフルート、私と同じ型なんだね。なんか嬉しいな」

 

 希美の甘い言葉に表情筋が緩む。顔に出ないように奥歯を噛みしめた。朝の楽器は冷え切っていてピッチの調節が難しい。隆翔にとってはその調律すらも懐かしかった。

 指の運動をして試し吹きをする。こんなものだろうか隆翔は希美に何も告げないまま、第三楽章のソロを吹き始めた。

 希美ほど上手くは吹けない。希美ほど音に感情を乗せることは出来ない。全部分かっているから、今の実力を確かめたかった。

 横で希美が聴いている。楽譜に目を向けているが、気配で分かった。希美だけではない。朝練に来ていた先輩、後輩の皆が練習の手を止めて北宇治で初めて吹く隆翔の演奏に耳を傾けていた。どんな感情で聴いているのだろうか。

 突然の入部者、フルート奏者のマネージャー、謎めいた肩書きなのは自覚していた。出来るだけ現状を引っ掻き回さず、北宇治を底上げ出来るように。

 最後のロングトーンで息が続かなかったが、第三楽章を吹き切った。緊張と息切れと弾む心臓で視界が狭まる。三年間吹いていなかったブランクが余りにも顕著に出ていて悔しさが上回っていた。

 

「良いね」

 

 希美はそう小さく呟いた。

 

「希美先輩に褒められたなら本望です」

「そう? でも私の方がもっと上手く吹けるよ」

 

 勝ち気に言ってのけた希美に、昨日の面影はなかった。

 

「当たり前です。全国目指してるのに下手であっては困りますよ」

「言うねえ。でも、初めてこの楽譜を客観的に見れたかも」

「それなら吹いた甲斐がありました」

 

 つい数ヶ月前までは先輩相手にこんな会話をするなんて想像できなかった。心に負った傷は少しずつ、けれど確実に癒えていた。

 

「おはよーございます」

「おはようございます」

 

 気怠けな黄前としゃきりとした高坂が登校してきた。

 

「おはよう!」

 

 希美は二人に元気な挨拶を返す。隆翔はチラリと二人を見て、おはよと小さく返事をした。フルートを片手に希美と談笑する姿を見た二人は面食らっていた。隆翔が吹いている姿を見せたのは、中学以来なのだから。

 

「希美先輩、第三楽章でリズが伝えたい事って何だと思いますか?」

 

 二人を横目に見つつ希美とのレッスンを開始する。

 

「リズの気持ちってこと? えっとね、青い鳥を逃がすことを選択するリズは、内心はきっと離れたくないって思ってんじゃないかな」

「そうですね。それはこの文末に、どうして鳥籠の開け方を教えたのですかと書いてあります」

 

 隆翔は図書室で借りた『リズと青い鳥』の文庫本を開く。何頁にも渡ってインデックスが付けられていた本は、借りた日から読み進めていた証だった。

 

「希美先輩、『ニュー・シネマ・パラダイス』って観たことありますか」

「え、いや……無いけど」

「あの映画は、少年が大人になるにつれて子供の頃に大切だった思い出に蓋をしてしまう主人公を描いています。俺はラストシーンが大好きなんですけど、大人になって子供の頃の思い出ってどう見えると思いますか。もし、彼女とは生きる世界が違うとリズが逃がす決心をした後に青い鳥が帰ってきたらリズはどう思いますか」

 

 希美は隆翔の話をじっと大人しく聞いた。彼女にも思うところがあったのか、顎に指を這わせて言葉を選びながらこう言った。

 

「私ね、この本を読んでハッピーエンドじゃないのが嫌だった。そりゃ、何事もハッピーエンドに越したことはないんだけど、青い鳥を逃がして一歩踏み出したリズの決心は揺らいじゃうんだと思う。そのことは青い鳥も分かっているから、もう二度と会えないって……」

「青い鳥はリズのことが大好きだから、飛び立てと背中を押すリズの想いを否定できなかったんですよね」

 

 希美の瞳が少しだけ彷徨った。そして、あははっと乾いた笑いを零した。

 

「全然ハッピーエンドじゃないね」

 

 明るく、どこか皮肉交じりに呟く希美に、隆翔は少しだけ安堵の溜息を漏らした。

 

「自分なりに噛み砕いてみるよ。ありがと、隆翔くん」

「いえ……。希美先輩。俺、どんなことがあっても先輩の味方ですから」

 

 希美と話すと、希美を想うと止めどなく溢れてくる感情。そう遠くない日に、この感情はきっと希美に伝わってしまうだろう。

 

 

 そして、いよいよコンクールが翌日に迫った。

 希美の演奏は誰の目にも明らかな程に良くなった。滝は指導方針を変え、みぞれの演奏をより活かすため金管、ハープに新たな指導が入った。要求した指示に即座に答える他の部員の技量もあってか、感情的でありつつも演奏全体にキレが生まれた。新山、橋本も、特に第三楽章には太鼓判を押した。

 

「コンクール前、最後の練習が終わりました。あなた達は春からこの『リズと青い鳥』という難しい曲に果敢にチャレンジしました。そして、先ほどの通し練習でこの曲は完成したと思っています。これは前にも言ったことですが、音楽は誰かを打ち負かしたり、誰かよりも優位に立とうとする為の手段ではありません。しかし、私たちの演奏をまだ知らない人々もいます。是非、明日のコンクールでは北宇治の実力を見せつけてきましょう」

「はい!」

 

 血が沸き立つ、という表現が正しいのかは隆翔には分からない。しかし、滝の言葉には説得力のある高揚感があった。

 

 隆翔の明日は多忙を極めている。楽器運搬、忘れ物チェック、現地に到着してからの搬入、部員の移動、アクシデントへの備えと奏者のケア、数えればきりがなかったが、友恵と入念に計画した内容だった。

 顧問命令により今日ばかりは居残り練習を禁じられ、体調管理を優先して早めの帰宅を奨励された。

 

「隆翔くん、もう仕事は終わってる?」

「はい、終わってますよ」

「じゃあ、一緒に帰らない?」

 

 希美の細い腕が手招きする。希美から誘われたのは初めてだった。数日前と同じ夕焼けの川辺に二人分の影が浮かぶ。

 

「……最後の練習が終わっちゃったね」

 

 鑑賞に浸りながら希美がぽつりと呟いた。

 

「……最後とか、言わないでください」

「そうだね」

 

 今日の希美はどこか元気が無い。

 

「というか、俺で良かったんですか? 部長とか、鎧塚先輩とかと帰った方が良かったんじゃないですか」

「うーん、ま、いつも一緒にいる四人組だし、部活終わりに隆翔くんと帰れる機会も今日が最後かもしれないし」

 

 隆翔はさも当然のように言い切る希美に嘆息した。

 

「だから、最後にしないでくださいよ……」

 

 隆翔が希美に向けている感情が何なのか、もう答えは出ていた。希美の最後という言葉がこんなにも重くのしかかるとは思っていなかった。想いを告げる瞬間は、きっと今しかないと踏み込んだ。

 いつも隆翔の一歩前を歩く希美に並び立つ。心臓が五月蠅い。身体の動きを鈍くする心臓の鼓動を無理矢理押さえつけて、希美の細くてすらりとした左手を捕まえる。そして不器用に彼女の小さな手を包み込んだ。

 希美の肩がビクッと跳ねる。それでも歩みは止めなかった。

 希美先輩、と隆翔が呼ぶと、今度こそ足を止めた。

 隆翔は彼女と顔を合わせない。真っ赤なその顔を見られてしまうことが恥ずかしかった。

 

「先輩、希美先輩は俺の道標です。どんな時も先輩の屈託のない笑顔に救われてきました。貴女のフルートが好きです。貴女の笑い方が好きです。でも今は違う、俺は希美先輩が好きです」

「……へ」

 

 隆翔の告白に、希美は目を見開いた。

 人は緊張が極限に達すると、意外にも言葉がスラスラと出てくる。ただ、少しだけ涙が出そうだった。

 希美は顔を真っ赤にしながらじっと隆翔の言葉を聴いた。じめっとした暑さなのか、勢いを増す二人分の血流が生み出した熱なのか、繋いだ手が段々と熱くなっていった。

 

「この前、ここで韃靼人を吹いたとき思ったんです。希美先輩に出会わなかったら先輩の痛みに寄り添えなかった。分かろうとするのは烏滸がましいけど、痛みを理解したいと思いました。あの日、希美先輩に会いに行かなかったら冷め切った高校生活を送っていたかもしれません。だから、今の全部は先輩がくれたんです」

 

 希美は押し黙った。目線を泳がせて俯いた。

 

「私は、そんなに綺麗な人間じゃないよ」

「知ってます。痛みを伴って、悔しがって、それでも諦めが悪い。それが希美先輩です」

 

「……なにそれ」

 

 希美は溜息交じりの乾いた笑みを浮かべた。

 

「いま、急いで答えを待つことはしません。俺たちには全国があります。その後で、答えを聴かせてください」

 

 隆翔は掴んだ手を解いた。

 希美は首を縦に振った。

 二人とも真っ赤になっていた。その顔を夕日の所為だと言いたげに、太陽に向かって歩き出した。

 

「本番、頑張ってください」

「もちろん、君を全国に連れて行ってあげる」

 

 

 

【つづく】




−追記−
2025.6.13 内容を大幅加筆修正しました。
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