或る、フルート吹きの青春   作:ハヤブサ320

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鎧塚みぞれが過ごした中学、高校の物語。



【幕間】鎧塚みぞれの物語 −Songbirds−

 早朝、まだ太陽は姿を隠している。私は今、校門の前で座っている。

 学校には人影も、人が居る気配も無い。

 私の待つあの子はまだ来ていなかった。

 

 スタッカートのようなローファーの擦れる音、メトロノームのように均一に揺れるスカート。間違いない、あの子が、希美が来た。

 心が躍る。今日も希美と一緒に練習出来る。朝が好きだった。これまでも朝、誰よりも早く登校して人気の無い時間に朝練をするのが好きだった。

 あの日までは。

 

 

 

 

 いつも通り学校へ行くと、いつもの時間にフルートを吹く希美がいなかった。パート練習の教室へ行くと、三年生と二年生がお菓子を広げて談笑していた。

 その輪の中に入っていくのは勇気がいる。でも、希美がどうなったのか、どうしても聞きたかった。

 

「・・・・・・あの、希美はいませんか」

 

 消えそうな声を必死に後押しする。すると、全員の目が私に向けられて、一人が私にこう言った。

 

 

 

「希美? 昨日辞めたじゃん。鎧塚さん知らなかったっけ」

 

 

 

 目の前の景色が、もの凄い速度で遠のいていく。私の視界は真っ暗になった。

 希美が私のことをなんとも思っていない。その事実と向き合うことが何より怖かった。それ以来、私は心を閉ざした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何これ、めっちゃ青い」

 

 希美が何かを手に取って空に掲げる。

 ほら、と言ってそれを私に見せてくる。青い羽根だった。

 

「あげるよ?」

「・・・・・・ありがとう?」

「なんで疑問形? どういたしまして?」

 

 カーテシーのようにスカートを持ち上げる希美。

 希美がくれた物、大事にしよう。

 

 職員室で音楽室の鍵を受け取って、四階までの階段を上る。希美はスタスタと上っていく。私はできるだけ同じ歩幅で付いていく。中学の時から変わらない風景だった。南中のスカートは赤色のチェック。教科書の入った黄色のリュックサックに弾むようなポニーテール。私はそれを追いかけて希美と一緒に登校した。今も、昔も変わらない。

 

 音楽室の真ん中の席に座ってオーボエのケースを開く。

 希美も茶色のフルートケースを開けてフルートを組み立てている。

 

 ダブルリードを濡らし試し吹きする。うん、大丈夫。希美のフルートも綺麗な音を出していた。

 この時間がたまらなく好きだ。思わずその気持ちが声に乗った。

 

「・・・・・・嬉しい」

「みぞれも嬉しい? 私も嬉しくてさ」

 

 希美もそれに共鳴している。希美も嬉しいと思ってくれている。

 

「この曲、めっちゃ良いよね。これが自由曲なの、すっごい嬉しい」

「・・・・・・うん」

 

 少しだけ期待した自分が恥ずかしい。

 

 

「この曲、いま人気の卯田さんが曲を付けたんだよ。卯田さん、いいよね」

 

 私にとっては、どの曲が誰の作曲だとかどうでもよかった。知らない、興味ないという態度が表に出た。

 

「ね、ちょっと合わせてみない、第三楽章」

 

 フルートを構える希美に併せて、私もオーボエを構えた。

 

 

 二人の音が共鳴する。『リズと青い鳥』の第三楽章、オーボエとフルートのソロ。

 

「うーん、ちょっとピッチずれちゃったかな。でも、こんなもんかな」

 

 もう一度試すようにフルートに息を通す。ひゅうという悲鳴のような甲高い音が鳴った。

 

「リズと青い鳥って、なんか私たちに似てない? あー、でも最後に別れちゃうんだよね、この話」

 

 私は目を伏せる。希美は眉尻を下げ、にこりと笑った。

 

「やっぱそれは悲しいよ。だって、物語はハッピーエンドが良いじゃん」

 

 

 

 

 

 

 

 人付き合いが苦手。協調性がない。声が小さい。他人に興味が無い。これが中学入学までの私。知り合った最初の頃こそ話し掛けてくる人もいる。だけど、私が興味なさげな態度を示すと途端に居なくなる。

 

 昔から耳は良かった。だから休み時間の教室はいろんな音が鳴っていて苦手だった。昨日のドラマの感想。次の授業の愚痴。同級生の噂話。取り留めの無い会話。全部雑音だった。

 

 

 

 

『君、鎧塚さんって言うの?』

 

『部活入ってる?』

 

『じゃあ、帰宅部かぁ・・・・・・何も入ってないんだ』

 

『じゃあ、吹奏楽部に入らない?』

 

 

 

 

 桜の下、左右に弾むポニーテールと大きな歩幅の彼女を追っている。

 

 希美の歩幅は大きい。自信家の希美と比例するように。

 私の歩幅は小さい。消極的な自分と比例するように。

 

 数歩先を歩む希美は、ちゃんと私を待っててくれた。

 

 

 音楽なんて、楽器なんて触ったことなかった。

 いろんな楽器、一つひとつ紹介される。

 

 希美は銀色の笛、フルートを持っていた。新品のそれは、希美のように輝いている。

 私はなにがいいのだろう。

 大きなラッパのような、カタツムリのような楽器を薦めてくる先輩。おなかの底が響くような音がした。ちょっと苦手かもしれない。

 パーンッとどこまでも響く音、トランペットは人気で人だかりが出来ている。私は無理。

 

「どうしたの、みぞれ? 楽器決まらない?」

 

 フルートを片手に希美が近寄ってくる。

 ひとりぼっちで少しだけ寂しかった私は希美の制服を掴む。希美はその様子を面白そうに見ている。

 

「みぞれは何が良いかな。あ、チューバなんてどう?」

 あの大きなカタツムリみたいなやつ。あれはちょっと、重そうだし。

「だめか。そうだな、みぞれみぞれ・・・・・・」

 

 こんな私のことを真剣に考えてくれる。

 希美は優しい。希美さえいれば、楽器なんてなんでもよかった。

 でもフルートはダメだった。自分の楽器を持っている人優先らしい。

 

 

 音楽室を歩いた中で、希美がある楽器の前で足を止めた。。

 私から離れて、先輩と何かを話している。

 

 

「みぞれ、こっちこっち」

 手招きする希美に付いていくと、一本の縦笛があった。

 

「これはね、オーボエっていうんだよ」

 

 おずおずとその笛を手にする。

 少し重い。木で出来ている?

 

「みぞれ、きっと似合うよ。オーボエ!」

 

 私には眩しすぎる笑顔に照らされ、私はオーボエを選んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 誰も居ない生物学室。ここからは向かいの校舎に音楽室が見える。

 

 学校で飼われている小さなフグ。お前もひとりぼっちなんだね。

 そう言って、私はこのフグにごはんをあげる。これが日課。

 

 希美に「私もあげていい?」って聞かれたときは嬉しかった。だって、もう三年生だから。希美と一緒に居られる時間は、卒業したらなくなるかもしれないから。

 だから、コンクールなんて来なければいいのに・・・・・・。

 

 

「鎧塚さん」

 フグを眺めていると、新山先生がやってきた。

「コンクールの曲、素敵な曲に決まったわね。この曲ではフルートとオーボエがリズと青い鳥を表してると言われてるわ。第三楽章のソロの掛け合いは、きっとリズと少女の別れ」

 一年の、希美が辞めた日のことがフラッシュバックする。思い出したくない記憶。私だけが知らなかった希美の悩み。

「・・・・・・あの」

「なにかしら」

「私には青い鳥を逃がしてやるリズの気持ちがよく理解できません」

「・・・・・・そう」

 新山先生は困ったように眉を細める。リズの気持ちが理解できないのではない。理解したら、すべて終わってしまうような気がしたから。私はそのことに耐えられない。

「そうだ、鎧塚さん、進路って決まってる?」

「いえ」

「ちょうどよかった。ここ、私や滝先生が行ってた大学なんだけど、興味ない?」

 新山先生が渡してきたのは一冊のパンフレット。表紙にはト音記号が書かれていることから、音楽大学だということはすぐに分かった。

「あなたのオーボエは素敵な音だから、磨けばもっと良くなるはずよ。ちょっとだけ考えてみてね」

 それでは、と新山先生は生物学室を後にした。

 先生にもらった音大のパンフレットをめくる。

 

 綺麗な校舎。

 

 広い中庭。

 

 大きなホール。

 

 たくさんある音楽室。

 

 こんなもの、別に私はいらない。私は求めていない。

 希美と一緒の大学なら、どこでもいい。

 

『だってオーボエ、頑張ってたじゃん』

 

 私が塞ぎ込んで、希美から逃げた時に希美が掛けてくれた言葉。私がオーボエを続ける理由。

 嬉しかった。希美が褒めてくれる。また、希美と一緒に楽器が吹ける。それだけで良かったのに、どうして希美は私のオーボエしか見てくれないの。

 こんな感情、知らない。まるで、私は希美のことが・・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「この羽根、すごく青いですね! どこにも売ってなくないですか?」

 今年の一年生、剣崎梨々花ちゃん。明るくて、友達もたくさん。私と正反対の女の子。

「希美がくれた」

「やっぱ、仲良しですね~」

 

 梨々花ちゃんが嬉しそうに表情を崩す。

 仲良し、そうなのかな。

 希美はそう思ってくれているのかな。

 

「みぞ先輩、この前ダブルリードの会やったんですけど――」

 ダブルリードの会。オーボエやファゴットなど、演奏でダブルリードを使う楽器を使うパートの交流会、みたいなもの。梨々花ちゃんが企画してくれて、ファゴットの籠手山駿河さんと兜谷えるさんの三人でいつも仲良く交流してるらしい。

 

「えるちゃん、この前CD貸してくれたんですよ。海外のバンドで、ええと、ベルベットなんちゃらみたいなバンド名だったんですよね。私、ロックとかはあまりわかんないんですけど」

「そうなんだ」

「そうなんですよ。ルー・リードっていう人のバンドなんですって。だからこの会もダブルルー・リードの会だ、なんつって」

「・・・・・・そう」

 きっと、梨々花ちゃんは私と話してもつまらない。話の膨らまし方を私は知らないから。

 希美はそういうのが得意だ。だから希美の周りにはいつもたくさんの人が集まる。

 

 希美の中では、私はたくさん集まってくる人のうちの、たった一人。

 音楽をやっていないと、今の関係はきっとすぐに途切れてしまう。

 だからコンクールが来て、引退して、卒業して・・・・・・考えたくなくて私は頭を振った。

 

 

 

 

 

 四月でもないのに吹奏楽部に入部する人がやってきた。

 名前は樟葉隆翔くん。北中出身で、フルートをやっていたと希美が言っていた。

 彼もまた、希美の許に集まってきた人の一人だ。

 

 樟葉くんの挨拶中、高坂さんの表情があからさまに強張っていた。黄前さんも驚いたような、そんな顔をしている。

 北中は上手い。その中でやっていた彼が二年生になって入部するということは、何かあったんだろう。

 希美と一緒だ。もう一度やりたいという強い意志が彼からは迸っている。

 樟葉くんはマネージャーになった。

 

 

 

 廊下の先の階段を上る足音、聞き慣れない音。でも力強いから男子かな。

 

「先輩、おはようございます」

「・・・・・・おはよう」

 

 樟葉くんも早朝からやってきた。楽器吹かないのに。

 

「暑いですね。今日も早朝からやってるんですか」

「・・・・・・うん。私、体温低いからこれくらいなら大丈夫」

 

 私と喋っててもきっとつまらない。でも、私と会話しようとしてくれる彼にちゃんと答えなければならない。慣れないし怖いけど、ちゃんと話さなきゃ。

 

「いま吹いてたのってリズのソロですよね。譜面配ってそんなに時間経ってないのに、モノにしてて流石です」

「・・・・・・別に」

 

 凄いとか、上手いとか、素直に言われるとやっぱり照れる。上手く言葉が伝えられないのがもどかしい。彼は素直に褒めてくれたのに。

 

「では、また部活で」

 

 結局彼とのファーストコンタクトは会話にならずに終わってしまった。

 

「みぞれ、おはよう」

「おはよう優子」

 しばらくして優子が登校してきた。

「あのマネージャー、何か言ってきた?」

「ううん。挨拶しただけ」

 そう伝えると、優子は安心したような表情になった。

「そう、まあ樟葉はマネージャーだし、みんなのサポートに回ってくれるだろうからよろしくお願いね。何かあったら、ちゃんと言うのよ」

「分かってる。大丈夫」

 優子は私に優しい。他の人はどう見ているかは知らないけど、部長としてちゃんと周りが見えている気がする。

 みんな、私を支えてくれる。一年生を除いたら唯一のダブルリード。今年の自由曲もオーボエソロがある。私を大切に思ってくれている人は多い。

 でも、希美の本当の思いはずっと分からないままだった。

 

 

 

 ある日を境に、個人練習の時間になると新山先生が付きっきりで指導することが増えた。先生の言葉は分かりやすくて、的確で、無駄がない。私のスピードに寄り添ってくれるから言葉を音楽に変換することが簡単だった。

 

 そして、希美は私から距離を置くようになった。

 寂しい。練習が熱を帯びると、段々と希美と一緒にいる時間が少なくなっていった。怒っているのか、愛想を尽かされたのか。

 私が求めた大好きのハグは、希美に拒絶されてしまった。

 

 

 翌日の練習では第三楽章を集中的に演奏し、内容は散々だった。滝先生は足りないと言っている。それでも、私と希美の距離はどんどん広がっているような気がして気まずい時間が流れていった。

 

 昨日の大雨と打って変わって晴れやかな青空が広がる。

 黄前さんと高坂さんが楽器を持って個人練習に向かっている様子を尻目に、フグにごはんをあげに行く。

 しばらくすると、二人が第三楽章の私たちのパートを演奏する音がした。

 高坂さんが私、黄前さんが希美のところを演奏する。

 強気なリズだった。遠慮がちに飛び去っていく黄前さんのユーフォも、その勢いに押されて飛び立ったような気がした。

 

 

「あの、ソロのとこ、私やっぱり分からなくて」

 生物学室。今日も新山先生が話し掛けてきた。

「鎧塚さんは、あのソロで何を表現しているの?」

「・・・・・・リズの、気持ち」

「どんな?」

 先生は優しく微笑んだ。

「仲良くなった青い鳥を鳥籠から出して、自由に・・・・・・」

「それはリズの行動で、気持ちではないわね」

「気持ちは・・・・・・私には分からなくて。好きな人を自分から突き放したりなんかできないから。理解できないし、分からないです」

 静寂が流れる。個人練習の楽器の音と、水槽に酸素を送るエアポンプの駆動音以外なんの音もしなかった。

「鎧塚さんは、きっと好きな人を大切にしすぎてしまうのね」

 図星だった。何も言えず、自分の髪を撫でる。

「・・・・・・そうね、じゃあ、もし鎧塚さんが青い鳥だったら?」

 考えたこともなかった。ピクッと眉が反応する。自分が、青い鳥。飛び立つのは、私。

「青い鳥はあの日、突然リズに別れを告げられる。昨日まで、二人で幸せに暮らしていたのに」

 

 あの本の、二人のお別れのシーンを思い出す。

 

『あなたは自由になるべきよ』

 

 突き放すように聞こえたリズの台詞がフラッシュバックした。リズが希美なら、本当にそうならば、私は希美の選択を拒めない。もっとそばにいてと言っても、リズは青い鳥を解き放つだろう。それは正に慧眼だった。

 

「どう? 青い鳥は飛び立てたかしら」

「リズがそう言ったから受け入れた。リズの選択を青い鳥は止められない。だって青い鳥は、リズのことが大好きだから、悲しくても飛び立つしかない」

「青い鳥は不幸だった?」

「分からない。でも、リズに幸せになってほしいって思ってる。それだけは本当」

 ずっと暗い、フィルターが掛かったような視界だった。もし、リズが希美で、青い鳥が私なら、私は希美の思うようにしたい。

 

 

「それが、青い鳥の愛の在り方。飛び立つしかない」

 

 

 私は私の演奏をしたい。希美が導いてくれたオーボエで、歩き続けたい。

 でもそれで、希美が失望したら誰が希美に手を差し伸べるのだろう。

 

 やっぱり、彼しかない。

 気が付けば、私は自然と駆け足になっていた。もうすぐ合奏練習が始まる。希美と対等に、希美の心に寄り添ってあげられるのは彼しかいない。

 希美を助けてあげられるのは、私じゃない。

 

 

 

「樟葉くん・・・・・・!」

「鎧塚先輩、どうしたんですか?」

「あのね、希美のこと・・・・・・」

 目頭が熱い。言葉にするのが怖い。でも、今はちゃんと伝えなきゃ。

 手に力が入る。逃げ場を失った力をスカートを掴んで放出する。

 

「きっと、希美はまたどこかに行っちゃう。私が手放したら、希美はきっとがっかりする。だから、どうか希美を守ってほしい・・・・・・」

「・・・・・・先輩、言ってる意味がよく分かりません」

 私は大きく深呼吸して、彼に、本当に伝えたいことを解き放った。

「もう、私のせいで希美を縛り付けられない。希美を自由にしたい」

 彼の顔が途端に強張る。怒ってるの? それとも悲しいの? 彼の行き場のなくなった感情は、冷たく降り注いだ。

 

「鎧塚・・・いや、みぞれ先輩。みぞれ先輩は寂しかったんですよね。コンクールが来てしまうのが。傘木先輩と別れることが」

 

 そう。

 

「今までは傘木先輩が自分を気を掛けてくれた。傘木先輩は自信家で、みんなのリーダーで、底抜けに明るくて、だから自分が傘木先輩を束縛するのは良くない。気が付いたんですよね、みぞれ先輩」

 その通り。私が希美を縛り付けた。

 

「新山先生、なんて言ってたんですか?」

「青い鳥は、リズの選択を止められない。もし私が青い鳥なら、希美はリズだから・・・・・・希美に幸せになってほしいから・・・・・・」

 

 視界がぼやけ、ポツポツと足下に涙が落ちる。

 ああ、友達を手放すってこんなにも痛くて、熱いものなんだ。

 

「・・・・・・正直に言います。俺は傘木先輩が好きです。もう一度吹奏楽に関わるきっかけをくれました。あなた達が演奏した『韃靼人』のフルートの音に救われたんです。だから傘木先輩のことは俺に任せてください。みぞれ先輩は、傘木先輩のために本気を出してください」

 

 

 それからのことはよく覚えていない。全てが一瞬で、周りの音が聞こえなくて。希美のフルートさえも・・・・・・。

 滝先生の手が鳥の羽ばたきに見える。そんな幼稚な考えが浮かんだ。

 指が軽やかに動く。私の体温を含んだ呼吸がオーボエに染み渡って、今まで以上に強く音が羽ばたいていく。

 トランペットやホルン、トロンボーンから押し出されるファンファーレ。青い鳥の旅立ちを祝福するかのように。

 

 いつだったか、希美にもらった青い羽根が床に舞い落ちる。

 それと同時に私の音はどこまでも伸びていく、そんな気がした。

 

 

 いつの間にか合奏が終わり、みんなが集まってきていた。その口々には凄いだとか、感動しただとか言っている。

 

「・・・・・・希美」

 

 

 

 黄金色に染まる生物学室に希美はいた。

 

「・・・・・・泣いてるの?」

「ううん」

 

 目が腫れている。希美の表情は、私が危惧したように放心している。

 

「みぞれさあ、今まで手加減してたんだね」

 

 希美はどこか軽薄そうに、まるで興味がないものに向けるような表情だった。今まで希美のそんな表情は見たことなかった。私には絶対に向けてこなかった顔。

 何かがこぼれ落ちる気がした。

 

「私のレベルに合わせてたから、今まで全力を出せなかったんだ」

「ちが・・・・・・」

「私馬鹿だねえ。みぞれに頑張ってって言っといて、みぞれが本気出せないの、私の実力が足りてないだけだったわ」

 

 希美、それは違う。だって希美は、いつだってフルートに本気だった。そんな希美を見るのが好きだった。みんなの中心に立って、笑顔が可愛くて、性格が優しくて。だから希美が悪いことなんか、一個もない。

 

「違う」

「新山先生が音大に誘ったの、みぞれだけだもんね。分かってたけど、みぞれ昔から上手いもん」

 

 擦れていく希美の声。絞り出すように本音が聞こえた。

 

「・・・・・・ずるいよ、みぞれは。本当ずるい」

 

 希美をじっと睨む。私を見てくれない希美が、どこか腹立たしかった。いつもそうやって、肝心なところで私を見なくなる。まるで後ろめたさがあるように。

 

「私さ、みぞれに負けたくなくて。なんか同等になれるかなって、同じ音大行くって言った。私才能ないから。みぞれみたいに凄くないから音大行くって言っておけば、それなりに見えるかなって。私、みぞれみたいに凄くないから。私、普通の人だから」

 

 まるで慟哭だ。畳みかけるように希美の自嘲が続く。私は、それを聞いてられなかった。

 

「希美、聞いて!」

 

「希美はいつも勝手。一年生の時だって勝手に辞めた。私に黙って」

「昔のことでしょ」

 

 私は怒っていた。まるで人非人だ。傷ついて泣いていた人に怒りをぶつけている。

 

「昔じゃない、私にとってはずっと今。私はずっと希美を追いかけてきた。希美に見放されたくなくて楽器も続けた。私の一番はずっと希美。希美と一緒にいたいからオーボエも頑張った。希美といられればなんだって良い!」

 

 希美に返すように、私は精一杯の力で言い返した。

 

「そんな大袈裟なこと言わないでよ」

「大袈裟じゃない」

「ずるいよ」

「希美が、私の全部なの」

 

 その時、希美はせせら笑うかのように私を見た。その瞳の奥にある感情は、もう制御出来ないほどに黒く染め上がっていた。

 

「私、みぞれが思っているような人間じゃないよ。むしろ軽蔑されるべき」

 そんなの間違ってる。

「希美は、私の特別。希美にとってなんでもなくても、私には全部、ぜんぶ特別っ」

「・・・・・・なんでそんなに言ってくれるのかわかんない」

 

 その口を塞ぎたくて、でも、今の私に出来ることはきっとこれしかない。

 両手を希美の前に出す。希美は罰の悪い顔で目を逸らしている。

 

「大好きのハグ」

 

 希美が何かを口にする前に、私は希美に突進した。風に舞ったスカートがふわりと遅れて付いてくる。希美は柔らかかった。しなやかで細い腕。シャンプーに混ざった、希美の香り。希美も遠慮がちに腕を回してくる。

 

「私、希美がいなかったら何にも無かった。楽器だってやってない。希美が声かけてくれて、友達になってくれて、優しくしてくれて、嬉しかった」

「ごめん、それ覚えてないんだよ」

「みんなを引っ張って、いつも楽しそうで凄いな思ってる」

「みぞれは、努力家だよ」

「希美の笑い声が好き。希美の話し方が好き。希美の足音が好き。希美の髪が好き。希美の・・・・・・希美の、ぜんぶ」

「みぞれのオーボエが好き」

 

 私の声に被せるように、希美の声は生物学室に響いた。

 恐る恐る目を開ける。部屋にはエアポンプの音しかしない。

 

「っふ、あはははっ、あはははは」

 

 吹き出したように希美は乾いた笑い声を零す。希美の身体が揺れて、私にまで伝わってくる。希美の鼓動は早かった。ずっと、息を止めて私の声を聞いていてくれた。

 

「はーあ。ありがとう、ありがとうみぞれ・・・・・・ありがとう」

 

 まるで、染み出してくるような感謝の言葉だった。どこまでが希美の本心か分からなかった。でも、少しだけ吹っ切れたような顔をしていて私は安堵した。

 

 

 

 

 

 

 希美は音大を受験しない。直接聞いたわけじゃないし、そのことを希美に聞くことは出来なかった。優子や夏紀と一緒に話すときは自然と進路の話になる。希美はこれからのことは分からないと言っていたけれど、きっと希美の目指す場所なら心配はいらない。希美を支えてくれる存在も居ることだし。

 

 

 夏真っ盛りの昼。あんなことがあっても、希美は私と一緒に帰ってくれる。その優しさに甘えてはいけないんだと、もう分かってる。

 下校途中の階段で、希美は私に言ってくれた。

 

「みぞれ。私、みぞれのソロ、完璧に支えるから。今はちょっと待ってて」

 

 その瞳に嘘はなかった。これが、希美の生き方なんだって瞳の奥に確かに光があった。

 

 

「私も、オーボエ続ける」

 

 

「「本番、がんばろう」」

 

 ハッとした。考えるより先に、この言葉が出る。

 

「ハ、ハッピーアイスクリーム!」

「何、みぞれアイスが食べたいの? じゃあ、アイスにするかぁ、決まり!」

 

 きっと、希美とはこれからもちぐはぐのままかもしれない。

 でも、希美とやっとちゃんと目を合わせられるようになれた。希美が背中を押してくれるから、私はきっと、もう飛べる。

 それまでは、いつも振り返って見せてくれる笑顔があれば、私は十分嬉しい。

 

「みぞれ、」

 

 不意に希美が振り返る。その顔は、私の思いなんてとっくに知っていたかのような眩しくて尊い素顔だった。

 

 

 

 

【つづく】

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