束の間の盆休みも明け、二泊三日の合宿が始まった。場所は宇治市の山間部にある野外活動センターだ。
学校でトラックに楽器を搬入して、部員は学校が用意したバスに乗り込む。ここまで遅滞なく進行している。府大会前に友恵と学年リーダーで入念に打ち合わせた甲斐があったというものだ。
全員の乗車を見守り隆翔も乗り込む。空いてる席の隣には秀一が座っていた。
「マネージャーお疲れ様だな」
「何言ってんだよ。これからが大変だと言うのに」
合宿の間、演奏機会のないマネージャーはひたすら裏方の作業に徹する。友恵の話によれば、顧問、副顧問、そして滝の音大での友人である橋本と新山も参加する。昨年の合宿以上に気合の入った練習が予想されるとのことで、サポート体制も充実させる必要があった。
「運動部かよってくらいの大荷物だもんな」
「冷房は使えるけど、しんどいのは変わらないから熱中症対策もするって友恵先輩が進言してから荷物増えた。秀一にも手伝ってもらうからな」
高速道路に乗って山間部に入ってきた。秀一はスマートフォンに付いているトロンボーンのキーホルダーをしきりに気にしている。以前、黄前からもらったと自慢していたそれを、物憂げな表情を浮かべながら掌で転がしていた。
「そういえばさ、府大会の会場で梓に会った」
「佐々木に?」
「うん。あいつに会ったのは中学の卒業式以来だ」
「そっか。引っ越したって言ってたもんな」
秀一は今でこそ梓と同じトロンボーンを演奏しているが、秀一は中学でホルン担当だった。それでも、黄前の親友かつ同期のよしみということで去年も親交があったと聞いていた。
「今年の冬に立華と合同で演奏会したんだけど、俺と佐々木は同じ楽器だろ。そこでお前のことを聞かれたよ。吹部にいなくいて残念がっていたけど、結果的に佐々木も喜んだんじゃないか?」
「まあね」
梓は隆翔の事となると少しだけ精神的な距離感が近い。友人の動向を気にすることはなんら不思議なことではない。
そして、退部の相談を持ちかけた秀一にも知らせてやるべき出来事があった。
「……それとこの前、内藤に会った」
「内藤って、内藤秀?」
「そうだよ」
お互いの交友関係において、内藤は一人しか居なかった。隆翔の情報を聞いた秀一は座席にもたれ掛かると深く溜息を吐いた。
「陽明学園に進学してたよ。梓に連れていってもらった演奏会でフルート吹いてた」
「……そうか。あんなことがあっても、続けてたんだな」
思わぬ朗報にお互い笑みが零れる。中学二年の事件は、北宇治へ進学した者達にとっても看過できない出来事であった。秀一もそれは理解していた。それ故に、渦中の二人がお互いに楽器を携えていることを内心喜んだ。
「そう言えば、傘木先輩とは付き合ってんのか?」
秀一は先ほどよりも小さな声で隆翔に耳打ちした。隆翔は気管に入った水で盛大に咳を漏らした。
「どこ情報だよ」
「噂になってるんだよ。鎧塚先輩が目覚めた演奏以降、隆翔が傘木先輩に付きっきりでサポートしてるから、遂に付き合い始めたんじゃないかってな」
勘弁してくれと、隆翔は溜息混じりに呟いた。
「一応、公式に否定させてもらうよ」
「すまなかった。周りの声は、俺からも否定しておくよ」
年頃の男女は恋バナに花を咲かせる生物であるが、その話題は事実の範疇を超えてはならない。事実でない噂は誰も幸せにしない。良いことでも、悪いことでも。
府大会前日、隆翔は希美に告白した。しかも結果を保留にして。あれ以来、彼女とは一度も会話していない。希美には悪いことをした。自分を狡い奴だと自己嫌悪する気持ちもあった。想いを一方的にぶつけて、断られた時の痛みが怖いから逃げて全国が終わった後まで答えを引き延ばした。身勝手で受け身な自分を内心でせせら笑った。
「休み期間、秀一は黄前とどっか出掛けたのか?」
「ああ、近くのファミレスで勉強したくらいかな」
秀一は右前方に視線を送っている。その先には高坂と黄前が着席していた。
「てっきり花火大会は一緒に行ったのかと」
「久美子、高坂と行ったらしいぞ」
「彼氏、優先順位低いんだな」
「それを言うなって……」
ははは、と乾いた笑いが漏れた。
「あがた祭りのとき喧嘩していただろ。仲直りしたのか?」
「とっくにしたよ」
「黄前とお前のことだから、キスでも迫ってキレられたのかと思ったよ」
隆翔の言葉に秀一は視線を落として、小さく溜息を吐いた。
「まさか図星?」
秀一は無言で頷いた。五月に二人の恋愛関係を揶揄った際に、隆翔が冗談混じりに焚き付けたが、それが仇となってしまった。
「それは、申し訳ないことをした」
「なんでお前が謝るんだよ」
「罪悪感かな。焚き付けたことには変わりないし」
「いや、単純に俺があいつの気持ちを察してやれなかった結果だし」
秀一は謙虚だった。普段の二人からは、熟年カップルのような安定感を享受していた。中学の梓と隆翔も似たように見られていたが、二人からはそれ以上にブレがなかった。しかし恋愛関係ともなると話は別なようで、恋人に見られるようなスキンシップは黄前の恋愛下手が故に進展していなかった。
秀一は再度ため息を漏らすと、先行きの不安を吐露した。
「俺らには早かったんかな……」
「そんなことないだろ」
「いや、実際あいつに拒絶されたのはキツかった。振られるのも覚悟したし」
「それは、怒ってもいいのでは」
「なんで? 俺に主導権はないだろ」
「そもそも、付き合ってるのに片方にしか主導権が無いのがおかしいだろ」
確かに、と呟くと秀一の目の色が変わった。
「ただ、久美子を悲しませると高坂が怖いからな……」
「なんで高坂が出てくるんだよ」
「だって久美子と仲良いし」
「だとしても怖いことあるか?」
すると秀一は呆れたように肩を落とした。
「後にも先にも、高坂を言い負かした奴はお前だけだよ。一緒にするな」
それからバスで三十分ほど揺られ、辿り着いたのは市が運営している多目的施設。宿泊施設の他にバーベキュー場も併設している。
北宇治は昨年もこの施設で合宿したこともあり、二、三年生は慣れた足取りで施設へ踏み込んだ。
「去年に引き続き、今年もお世話になります」
「いえいえ、今年も当施設を利用していただき誠にありがとうございます。今年も有意義な時間となるよう、遠慮無くお申し付けください」
施設管理の職員と滝が互いに頭を下げ合う。大人同士の挨拶であるため、隆翔と友恵は滝に倣って頭を下げた。
今回の合宿はマネージャーの仕事も多岐に渡る。スケジュール、練習メニューは幹部クラスと調整して取り決めた。コンクールメンバーはホールを使った合奏練習をメインに、パート練習では金管楽器を滝が担当し、木管パートに新山、パーカッションには橋本が担当する。合宿所の諸注意や本日のスケジュールを共有したら、早速練習が開始する。普段と違う環境に浮き足立っていた一年生も、合奏練習が始まるとその余裕は雲散霧消した。
「もう一度」
小ホールに響く滝の声に、部員たちは疲労を隠せない声で返事をする。全体練習の後、パーカッションは大ホール、木管はリハーサル室、B編成は会議室でそれぞれ指導を受けている。隆翔は小ホールで金管楽器の指導を見守っていた。
「ホルン、ユニゾンが汚いです。互いの音をきちんと聴いていますか?」
「トランペット、ここは臆病にならず、強気で行きましょう。掠れた音はみっともありません」
「チューバ、足りません。もっと音量をください」
「トロンボーン、もう少し後半から一気に上がる感じで」
滝から繰り出される指示に部員たちは対応する。関西大会ともなれば些細な妥協もコンクールの結果に左右する。隆翔は府大会以前までの練習と明らかに態度が変化していることを肌で感じ取っていた。それ程までに、関西大会を超えることは難しいことなのだった。
「樟葉くん、そろそろ行こっか」
合宿所に西日が差し込む頃、友恵と隆翔は部員と別行動を取った。
「練習、凄いでしょ」
「正直、驚きました。府大会までと違ってとにかく指示が細かいですよね」
「だよね。私もコンクールメンバーだったら付いて行けたか分かんないよ」
木管パートの練習部屋からは、二時間前から同じフレーズが流れてくる。フルートのファースト、希美の音が聴こえてきたので思わず足を止めた。
「……さすが、上手いよね」
扉越しに聴こえるメロディーに友恵が感心する。
「本当ですね」
「希美が憧れなの?」
友恵の言葉に躊躇いながら肯定する。
「今まで秘密にしていましたけど、入部の決め手になったのは希美先輩の音なんです」
隆翔の告白に友恵がワオ、と反応する。
「それはまた、ロマンチックだね」
「そんなんじゃありませんけどね」
「でも、希美に近づく謎の男子生徒として、君は少しだけ有名だったよ」
「……やっぱり迂闊だったな。希美先輩に迷惑は掛けたくなかったんです。変な噂が流れて、先輩の音を濁したくなかったんで」
あの頃、吹奏楽部に入るつもりはなかった。だから希美に対して大胆なコミュニケーションが取れていが、組織の一員になった以上、部活中は慎むようになっていた。
「ま、頑張りたまえよ、青年」
友恵は隆翔の背中をポンと叩いて、拳を握っていた。
「希美を落とすのは、難易度高いぞ」
「話、聞いてました?」
隆翔の呆れ顔に満足した友恵はカラカラと笑って食堂へ入っていった。
部員が演奏しない時間、マネージャーは忙しい。食堂では夕食の準備が進められており、友恵と隆翔は調理場以外の手伝いをする。終わった頃には練習を終えた部員が死んだ顔をしながら食堂前に待機していた。
◇◆◇
食事会場はまさに死屍累々といった様相である。滝と二人の外部指導員は関西大会を前にかなり本格的な指導を施し。合宿初日にも関わらず、A編成は既に限度を迎えている。そんな鬱屈としたコンクールメンバーに出された夕食はコロッケであった。
「……うわ、コロッケ」
揚げたてのコロッケと山のように盛られたキャベツに対して、黄前は露骨に嫌がった。
「お気の毒」
「樟葉に言われるのが一番納得いかない」
初日から厳しい練習メニューをこなした後の揚げ物は身体に堪えるだろう。練習メニューの作成過程を知っているからこそ、当事者のA編成には当然いい顔はされない。
「このメニュー、誰が決めたの?」
「マネージャーと部長、副部長で練習の大筋とスケジュールを作ったけど、最終判断は滝先生だよ」
「じゃあ仕方ないか……」
滝の最終決定となっては納得せざるを得ない。覆せない現実に黄前は溜息を漏らした。
二人は食堂の一番端にある卓に向かい合って座った。なんだかんだと言いつつも、激烈な練習の後は腹が減る。お互い箸を動かしながら、黄前が何も言わずコロッケを一つ寄越した。
「なんだよ、くれるのか」
「コロッケ三つも食べられない。一個あげる」
「俺じゃなくて秀一にあげろよ」
「ごほっ! 今秀一は関係ないでしょ!」
唐突に出た秀一というワードに黄前は動揺した。バスでの秀一の様子と黄前の反応から、隆翔は二人の間に流れる良くない空気を感じ取った。
「お前さ、秀一となんかあった?」
「……何も無い」
「本当のところは?」
「樟葉には関係ないでしょ!」
「無いことはない。秀一は親友だからな」
黄前は迷惑だと訴える目つきで隆翔を睨んだ。明らかに険しくなっている二人の関係性に隆翔が直接関わることはない。しかし合宿は三日間ある。関西直前にピリピリしたまま練習しても能率が悪いだろうし、コンディションや気持ちは演奏に出てしまう。ましてや一年生指導係と学年リーダーの二人である。部員に頼られる存在が悩みを明るみにするのは難しい。だからこそ、他の部員よりも少しだけ長い付き合いである隆翔の出番だと自覚していた。
「……誰にも言わないで」
「分かった」
この件に黙秘を貫く黄前から隆翔が恋愛話を受けるのは初めてのことだ。
そもそも、恋愛のなんたるかを存じ上げなかった黄前にとって、幼馴染みとして常に隣にいた秀一が恋人になることなどあり得ないことだった。それがとある冬の日、突然秀一から告白されたのだ。
「最初は楽しかった。好きって気持ちも、最近やっと分かるようになってきた。でも、部活と恋愛で気持ちに折り合いがつかなくなったのもあって……」
終始俯きながら、黄前は言葉を絞り出した。
「黄前って、昔から大抵のことは一人で出来ちゃうタイプだったよな。でもさ、その気持ちを秀一に相談したのか?」
黄前は首を横に振った。
「あいつをもっと頼ってやれよ。彼氏に甘えることは別に悪いことじゃないぞ」
「分かってるよ……」
お節介と思われるくらい踏み込んだことを聞かないと黄前には届かない。向かいに座る同級生は、正解のない海でもがいていた。
「秀一には感謝してるよ。抱えきれないくらいたくさん支えてもらった。だから、これ以上秀一に迷惑は掛けられない」
「それは秀一が望んでることじゃないだろ」
「そうだよ、これは私のわがまま」
「だから別れるのか」
黄前は黙り込んでしまった。食いしばっているのか、頬の筋肉が緊張しているのが見て取れた。
「……秀一の気持ちは考えたのか?」
秀一に甘えたくないから距離を取る。同じ男子として、秀一の親友として、その恋人が答えに至ってしまうことは、あまりに心が痛かった。
隆翔の思考から一拍置いて、黄前は口を開いた。
「甘えを捨てないと、上手くなれないから」
普段の黄前にしては芯の籠もった言葉だった。北宇治という環境が彼女を変えたのか、それとも他に影響される出来事があったのだろうか。
「自分勝手なのは理解してるよ。秀一は私には勿体ないくらい気が利いて、誰に対しても優しいよ。秀一が褒められているのを聞くと誇らしくなるし、秀一が注意されると背中を押したくなる。でも、北宇治のことも大事にしたい。それって悪いことなのかな」
「それは俺じゃなくて秀一に訊けよ。ただ、黄前は結果を追い求めるならひどい事も厭わないってことは、よく理解できたよ」
少々きつい言い方だったからか、黄前は再度唇を噛んで俯いてしまった。部のため、音楽のためならば恋人を切り捨てるというのは些か強引な気がしたが、これ以上追求しても埒があかないと隆翔は判断した。
途切れた会話に再度燃料を投下することはなかった。隆翔は冷めたコロッケを承服できない思いと共に無理矢理飲み込んだ。
◇◆◇
この夜のレクリエーションは西瓜割りだった。準備は友恵と一年生の数名で行われた。割れるまでに十名ほどが挑戦したが、最後はチューバの後藤先輩がとどめの一撃を加えたようだった。
西瓜割りを興じた後は風呂の時間となる。吹部男子は女子に比べて人数が少ない。レクリエーションの片付けと清掃を終えて大浴場へ向かった頃には全員上がっていた。慣れない環境と集団活動に普段と違う疲労感を覚えていた為、布団に入った途端に睡魔に襲われた。
微睡を彷徨っているときに想うことは常に希美のことだ。あの告白以来、まだ一言も話せずにいる。互いにその話題に触れることが怖かった。希美に拒絶される最悪な未来を想像しては心臓を掻かれるような痛みを覚えた。
消灯時刻を過ぎた頃、部屋の襖が開く音がした。外に出たのは秀一だった。
時刻的に、やんごとなき事情が察せられた。バスでの秀一に食堂での黄前、早くも事が起きそうな予感がしたので、隆翔は秀一の後ろ姿を追った。
「何やってんだよ」
大浴場の自動販売機に煌々と照らされる秀一は、思い詰めた表情でスマートフォンを眺めていた。
「なんだ、隆翔か」
「寝れないか?」
「ああ、ちょっとな」
それ以降、会話は途切れた。重い空気が流れる。二人の問題に口を挟んでいいのかと思案していたその時、口火を開いたのは秀一だった。
「なあ、隆翔は本当に傘木先輩とは何もないのか?」
「なんだいきなり」
「いや、なんかさ。恋愛とか、正直よく分からなくなっちまって」
隆翔は黙って頷いた。黄前は部活動を優先したい。秀一は黄前の気持ちと自分の恋愛感情と板挟みに遭っている。
「直接話せばいいじゃん」
「……やっぱそれしかないよな」
隆翔の言葉がトリガーとなったのか、再度トークアプリを開いてメッセージを送った。送り主はおそらく黄前だろう。
秀一が送信したと同時に、宿泊棟の扉が開いた。
「何してるの?」
隆翔と秀一はビクッと肩が跳ねる。顧問であれば小言の一つでも覚悟しなければなかったが、現れたのは高坂だった。
「なんだ高坂か」
「なんだとは何よ」
「眠れないのか」
「喉乾いただけ」
高坂は自動販売機で買ったお茶のペットボトルを開けながら、秀一に伝えた。
「久美子、まだ起きてたから呼んでこようか?」
「いや、これから来るってさ。そうだ高坂」
「何?」
「……いや、やっぱいい。お前怖いし」
秀一の言葉で不機嫌になった高坂は、ペットボトルで一突きした。秀一は優しい。それは自分に対してではなく他人に対して長所を発揮する。そして意外と気配りが出来る。二年生の学年リーダーを担当するあたり、信頼があるのだろう。
秀一が席を外して数分後、黄前が宿泊棟から姿を現した。
「あれ、秀一は?」
「あっち」
高坂がエントランスを指差す。お互いに聞かれたくない話題なのだ。
黄前が去った空間には、隆翔と高坂が残された。
「そういえば、アンタはいつ奏者に戻るつもり?」
高坂に倣って自動販売機で飲み物を調達した隆翔は、高坂の質問に考え込む。
「うーん。一応、コンクール終わったあたりで考えてる」
「それは、先輩たちの引退を見越してってこと?」
正直、そこまでの考えに至ってはいなかった。希美が進路に悩むということは、引退、卒業が迫っているということだった。
「一番はメンタル的なこと。でも、希美先輩が卒業したら確かに痛手だな」
「……正直、今も不安なのはあるけど」
高坂がボソリと呟いた言葉が、耳に引っかかった。
「アタシ、やっぱり第三楽章のソロの掛け合いは今のままじゃまずいと思う」
「どうして? 府大会ではほとんど完璧だったろ」
「確かに府大会はあの演奏でも通過できたけど、みぞれ先輩が本気を出すようになってからどんどん精度が高くなってる。最後の合奏練習、みぞれ先輩が橋本先生に行きすぎた演奏を注意された程だった」
「珍しい。鎧塚先輩のブレーキが効かないことなんてあるんだな」
「でも、それで二人の演奏が噛み合わないんじゃ話にならない。みぞれ先輩には本気の音を出してほしい。でも、それで演奏が崩れるのは望んでない」
高坂はこめかみを抑え、着地点の見えない問題に頭を悩ませていた。しかし、当人不在の状況で何か解決できるものでもない。ちょうど瞼が重くなってきたのもあり、隆翔は部屋に戻ることにした。
「とりあえず、明日は合奏練習に顔出すよ。おやすみ」
「戻るの? 塚本を待ってるのかと思った」
「……お前も戻った方がいいぞ」
高坂は意外と鈍感なのかもしれない。
合宿二日目。この日も三人の指導者から演奏への容赦ない指摘や要望が飛んだ。
「ホルン、何度も言っていますよね。そこのフォルテがいつも弱い。ちゃんと指揮を見ていますか。そしてトロンボーン。いま、出だしが遅れたの、誰ですか?」
「はい」
天井に向けて真っ直ぐ挙手したのは、群衆の中でも一際背の高い秀一であった。いつもは大きく見える彼の背中はしゅんと萎んで見えた。
「関西まで二週間を切っています。暑さで集中力も切れてくる頃だと思いますが、そこでミスが出てしまうのは致命的です。音量のあるあなたが崩れると皆が崩壊すると自覚して修正してください」
「……はい」
吊し上げに近い滝の追求に隆翔の背筋も凍った。隆翔だけではない、全員が肝を冷やしたのは言うまでも無かった。
合奏練習後の自動販売機前で秀一はタオルを頭に掛けて項垂れていた。その姿から、昨晩何があったかは容易に察することが出来た。
「お疲れ」
「ああ、お疲れさん」
「集中砲火だったな。隣いいか?」
秀一は無言で頷くと、深く溜息をついた。
ダメージを受けて項垂れる親友に掛ける第一声は何かと逡巡していると、秀一の口が先に開いた。
「お前には言うけど、昨日久美子と別れたよ」
あまりに突然のカミングアウトに隆翔は言葉が出なかった。思わず持っていたB編成用の指導スケジュールが床に散乱した。
「そう、なのか」
痛々しい秀一の姿に言葉が出なかった。ここは親友として寄り添った言葉を掛けるべきなのだろう。ただ、つい数時間前に失恋した親友に掛ける言葉が出てこなかった。
「久美子、ああ見えて結構ちゃんと考えてんだよな。責任感も強いし、俺との関係もなあなあに終わらせないようにしてくれたし」
虚空を望みながら秀一は無気力に言葉を紡いだ。中学の頃から見てきた二人である。その距離感は同じく親しい幼馴染みを持つ隆翔には唯一無二のような、言及しがたい関係性に見えた。
「秀一、お前はそれでいいのかよ」
「久美子が考えて決めたことだしな。来年、引退した後にまだ好きだったら告白してほしいってさ」
「なんだよそれ。振られ損だな」
「まあ、そう言うなって。俺たちはこれで良いって決めたんだからさ。見守っててくれよ」
隆翔は拳を握りしめた。二人の決断に口を挟める勇気を持ち合わせていなかった。それでも絞り出した一言は、秀一にはどう聞こえただろうか。
「秀一、お前のしたいようにしたら良いよ」
【つづく】
−追記−
2025.6.13 内容を大幅加筆修正しました。