或る、フルート吹きの青春   作:ハヤブサ320

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EP.14 僕らの夏の夢

「鎧塚先輩」

 

 合奏練習が解散となったタイミングで、隆翔はみぞれに話しかけた。

 

「何?」

「ちょっと、お話があるんですけど」

 

 肯定とも否定とも取れない表情だったが、人目を気にして場所を変えようと移動する隆翔に、みぞれは付いてきた。

 

「話って、何?」

「はい。第三楽章のソロ、今の状態はご自分でどう思われますか?」

 

 昨晩、高坂が気に掛けていたことであった。

 この日の午前練習は合奏練習であった。集中砲火を喰らう秀一の傍で、やはり第三楽章はネックであった。滝と橋本は、再度噛み合わない二人の掛け合いに苦悶と焦りを抱いている印象だった。

 

「……別に、どうも感じない」

「そうですか? 確かに先輩のオーボエは凄いですよ。高校生らしくない。でも、このままだと関西突破は難しい。そうですよね」

 

 隆翔は無意識にみぞれに苛ついていた。本音を押し殺しているのではなく、部活動への寄与ではなくエゴが見えた。

 

「むしろ、私が聞きたい。希美と喧嘩した?」

 

 みぞれの疑問に隆翔は息を詰まらせた。告白以来、互いに遠慮し合って会話していなかった。みぞれはよく観察している。意識しないように努めるほど、第三者には見えやすいのだろうか。

 

「喧嘩じゃないんですけど」

「じゃあ、何?」

「……誰にも言わないでください。鎧塚先輩だから伝えると思ってください」

 

 みぞれは表情を変えないままコクリと頷いた。

 

「告白したんです。府大会前に」

 

 こひゅ、と空気が詰まったような音がみぞれが響いた。

 

「……そう」

 

 みぞれのポーカーフェイスが少しだけ綻んだ。それも悪い方向に。

 

「希美、きっと迷ってる」

「先輩がそう言ってるんですか?」

「ううん。でも分かる。音で」

 

 無意識にあんぐりと口が開く感覚がした。あまりにもアバウトすぎはしないだろうか。

 みぞれの瞳はまっすぐと隆翔を捉える。

 

「希美と話して、ちゃんと」

 

 でないと許さないとでも言いたげな、静かな怒りの炎が見えた。音大志望のみぞれだからではない。希美と長い時間をかけて積み上げた音を通じての信頼感だろう。

 

「鎧塚先輩は、俺の恋敵ですか?」

「多分、違うと思う」

「そうですか?」

「私のは、もっと違う気持ち。恋とか結婚とか、諦められるような感情じゃないと思う」

 

 木製の手すりに添えた細い指先に力が篭った。みぞれが整理を付けられない感情の正体を暴いてしまうほど、隆翔はみぞれのことを知らなかった。だから、こんなありきたりなことしか言えない。

 

「先輩は、どこかで折り合いがつくといいですね」

 

 みぞれの感情の正体を詮索するほど彼女と近しい関係ではない。みぞれは希美に勝手に心酔して、勝手に傷ついて、勝手に自ら手離した。隆翔から見れば、鳥籠に入れられているのはみぞれの中の希美なのだ。

 みぞれとの会話はそれっきりで、彼女は軽く会釈をして女子部屋のある棟に入っていった。

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 隆翔が勝手に設定した告白の保留期間内でも、希美への恋心が萎えることは一切なかった。傷だらけの希美を支えていこうと誓ってから、その恋心を自覚し告白して二週間以上が経過していた。それ以上に隆翔を全国へ連れて行くと宣言した姿があまりにも頼もしく、三年前に南中を率いた昔日の面影は今も健在だ。

 しかし、府大会以後は彼女に対して誠実であったろうか。希美と顔を合わせると小っ恥ずかしい気分になったことは事実だった。お互いに距離感を見定めていては話すことも出来ない。そんな初心な二人に状況は許してくれなかった。告白したのも、答えを先延ばしにさせたのも隆翔だ。みぞれの言うとおり、隆翔の告白が希美の調子を狂わせているのだとしたら大変なことである。希美の身を案じれば、時間の猶予は一切なかった。

 この日のレクリエーションは花火だ。九十名弱の人数が満足できる程の花火を用意するのには骨が折れた。しかし、当日になってしまえばバケツを用意したらあとは自由時間だった。

 

「あまりはしゃぎすぎるなよ」

 

 保護者のような一言を向ける隆翔の先では、羽目を外した川島緑輝が花火を持ちながらくるくると回っている。

 

「君は、もうちょっと羽目を外してもいいんじゃない?」

 

 手持ち花火を一本差し出してきたのは、他でもない希美だった。

 

「先輩、楽しんでますか?」

「うん。お陰様で」

 

 二本の花火が蝋燭に触れる。しばらくすると、黄色とピンク色の閃光が放たれた。

 

「……綺麗だね」

「はい」

「二週間も話さないなんて、初めてだね」

 

 希美は目を合わさない。閃光が照らす希美の表情は大人びていて妖艶だった。

 

「先輩、告白したこと、怒ってますか?」

「うーん、それよりも避けられてたことの方がショックだったかも」

「……すみません」

「ふふ、許してあげる」

 

 パチパチと弾ける火薬が先に尽きたのは隆翔だった。程なくして希美の花火も消えた。

 

「……返事は、まだいいんだよね」

「はい。でも、俺が間違ってました。改めて謝罪します。本当に、先輩のタイミングで大丈夫なので」

「……私の、タイミング」

 

 その言葉の後で希美は何かを紡ごうとしたが、一瞬の躊躇いの先に希美は再度口を閉ざした。三年生は風呂の時間も差し迫っていたため、希美は「また明日」と言って宿舎へ帰った。最後に余った線香花火は、隆翔の思惑よりも早く地面へと儚く落ちた。

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 合宿から一週間が経過した。合宿中に懸念されていた第三楽章のソロの掛け合いは、感情表現にブレーキをかけたみぞれの判断により落ち着きを見せた。演奏は丸みを帯びつつも完成形となっている。期待と不安が入り混じる中、いよいよ関西大会は翌日に迫った。

 青白い街頭が寂しく隆翔の影を伸ばしていく。黄檗駅前から一本路地を入ると隆翔のマンションが見える。その玄関先で白いシャツにグレーのスカートを纏い、上半身程はあるだろう白い楽器ケースを抱えた梓が座っていた。

 

「梓?」

「隆翔、おかえり!」

 

 いつも通りの溌剌とした笑顔を見せる。幼なじみの佐々木梓が通う立華高校も、北宇治と同じく関西大会へ駒を進めていた。

 

「待ってたの。どうしてるかなって」

「家に入ってればよかったのに。寄ってく?」

「ううん、大丈夫」

 

 遠慮がちに頭を振ると、彼女のトレードマークであるポニーテールが踊った。隆翔と梓は二年間顔を合わせていなかった。物理的な距離よりも、心に根付いた距離感がそうしていた。そして再会を喜び合った府大会から、彼女には今まで通り接することを心がけた。隆翔にとっては誠意の意思表明だった。

 隆翔は梓の自転車に跨がった。梓も躊躇いなく荷台に座ってくる。二人乗りは北中の頃からよくやっていたので懐かしい気分になる。

 梓の体重は軽い。中学の頃に一度だけ伝えたことがあった。言うが直ぐに背中を叩かれて抗議の態度を取られたから、女の子的には気を付けた方がいい言葉なのだろう。

 自転車の荷台に座る梓の体重をペダルで感じながら走る。宇治川に架かる道路橋の交差点まで来ると、川上から吹く生ぬるい向かい風が強く吹いた。風に煽られた自転車が少しよろめくと、背中の柔らかい温もりが制服越しに伝わってきた。梓もまた、以前と同じような距離感を保とうとしていた。

 

「懐かしいな、ここ」

「私は今でもここで練習してるよ」

 

 二人が辿り着いた場所は宇治川の畔。中学時代に二人でよく練習していた河川敷の広場だった。高速道路から零れたオレンジ色の独特な街灯が周囲を照らしている。

 

「どうしてここに来たの?」

「梓と話すなら、まあここかなって」

 

 夏場の湿った空気がお互いの間を擦り抜ける。何か言いたげな梓、それを待つ隆翔との間にある琴線に触れたような気がした。

 

「関西、明日だね……」

「だな」

「隆翔……私ね、立華では誰にも負けないくらいトロンボーンが上手になったよ」

 

 ぽそりと囁かれる言葉に、隆翔は息をのんだ。

 誰にも劣らない梓の努力。その始まりから隆翔はずっと見てきた。だから驚くことは無かった。梓ならば、誰よりも上手い奏者になると信じていた。自信家の一端を垣間見る発言とは対照的に、梓は「でもね」と唇を噛む。その顔は怖いものでも見たように引き攣っていた。

 

「去年の関西大会、今思えばあの環境に完全に飲まれてた。まぐれなんかじゃ全国へ行くことはできないって思った。結果的に、私の心の弱さが先輩達の最後のコンクールを終わらせちゃった」

 

 隆翔は何も答えない。梓の心を蝕む恐怖心の正体を見極めていた。

 

「怖かった。先輩みたいに心の底から楽しく演奏が出来なかった。でも今なら分かる。誰よりも上手く吹きたくて、誰よりも上手いと勝手に思い込んでたの。隆翔には分かるでしょ。私の独りよがりな性格」

「分かるよ」

「あの時、私、どうしたらいいかわからなくって。みっともなく泣いちゃうし、期待に応えられないって、こんなにもつらいんだね……」

 

 彼女の小さな手が縋るように隆翔の腕を掴んだ。あの梓がきっと他人には見せない心。弱音を吐く幼馴染みは、あまりにも小さく、あまりにも等身大だった。

 隆翔は他人の感情を軽率に理解したつもりでいるのは好きではない。しかし、梓のことなら別問題だ。梓の母は女手一つで彼女を育てあげている。仕事のため帰りも遅い。寝静まった梓をおぶさって帰る梓の母親の姿は今でも目に焼き付いている。そして幸いなことに、梓は小学校や中学校でも多くの友人に恵まれた。人当たりの良い性格は彼女の長所だ。それ故に佐々木家がシングルマザーの家庭であることを知る者は限られている。

 一度だけ、梓が母の帰りが遅いことに涙を流したことがあった。まだ小学校低学年の頃だった。そう考えれば無理もない。さびしい、さびしいと隆翔の部屋でおんおんと泣いた。隆翔の手を引っ張るのはいつも梓の役目だった。あの頃は隆翔よりも梓の方が精神的に強く見えた。それだけに、無防備に泣く彼女の姿は衝撃的だったのだ。梓は寂しがり屋の一面もある。ただし、それは大人になれば自然と払拭されるものだ。今、目の前で苦悶の表情を見せる梓の心境は如何ほどであろうか。

 

「俺、梓が泣いてるのって一度しか見たことがなかった」

「……はぁ?」

「小学生の時、佐々木のおばさんがなかなか帰ってこなくて家で泣いてた。あの時だけ」

「な、何言ってんの!」

 

 梓は顔を真っ赤にして抗議した。突然覚えてもいない赤裸々な過去を抉られたのだから無理からぬ話だ。

 隆翔は「まあ聞けよ」と梓の頭を撫でて諭した。

 

「梓は立華のエースなんだろ。一握りの人しか行けない学校の、しかも吹奏楽部でトップレベルの奏者なんだろ。俺にはそんなプレッシャーは想像できないよ」

 

 不安に駆られ、手が震えるほど動揺していた梓は、落ち着きを取り戻して隆翔の言葉に耳を傾けている。

 

「でもさ、俺はずっと小さい頃から梓を知ってるよ。強い梓も、弱い梓も。全部じゃないけど、明日あのホールにいる誰よりもお前のことを知ってる自信がある。俺が断言するよ。お前には努力を糧にして、音楽の才能を味方にした事実があるだろ」

 

 互いの顔同士が触れ合ってしまうほど接近した。淡い水色の瞳が、薄い涙の膜に覆われている。綺麗だった。吸い込まれそうになってしまうほどに。

 

「……隆翔、ちょっと、近い」

「あ、ごめん」

 

 距離感を見失うほどに熱く語っていた先程と打って変わって、二人の間には恥じらいと熱っぽい空気が流れていた。

 

「でも、ありがとう。ちょっと勇気出た。いつもそんな風に思ってくれてたんだね」

「まあね。つっても、立華の梓のことはよく知らない。きっと滅茶苦茶期待されるんだろ?」

「実際そうなんだよぉ。でも楽器もマーチングもかなり上達したと思ってるよ。でもさ、本番で躓いた事って一生尾を引く感じがして……」

「梓なら、そういう気持ちを分かってくれる人が沢山いそうだけどね」

 

「そうでもないよ」と呟いて、梓の表情は再び暗くなった。

 

「帰ろう、隆翔。お互い明日早いでしょ」

 

 再び二人乗りで家路を急ぐ。ペダルを漕ぐために力を込めると、金属が軋む悲鳴のような音が鳴った。

 

「立華の出番って明日の午前中だろ」

「そうだよ、北宇治は午後だっけ。北宇治が出る頃には多分結果は出てるかな」

「見届けられないのが残念だよ」

 

 明日の北宇治は後半の部だ。出場校の多い関西大会では、前半の部と後半の部に別れて表彰が行われる。北宇治は後半に演奏するため、隆翔が梓の演奏を聴くことは叶わなかった。

 隆翔の残念そうな心情を察してか、梓は背後から隆翔の耳許で呟いた。

 

「任せなさいな。全国で会おう」

「そうだな」

 

 ずっと昔から一緒に居た友達。いや、友達と呼ぶには近すぎる関係だ。幼馴染みという言葉の距離に戸惑うことが多くなった。ただ、梓に対して抱く感情に隆翔の昂ぶる心を擽ることは、これまでもこれからも存在しなかった。

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 関西吹奏楽コンクールの会場は東山三条にあるコンサートホール。隆翔が小学生の頃、ピアノ講師に連れられてオーケストラコンサートを観に訪れたことがある思い出の場所だ。

 隆翔は昨日みぞれと話した通り、希美の精神状態が気がかりだった。搬入作業を手伝う最中、希美を横目で見ても普段と特段変わらない状態だった。そもそも、なんと声をかけたら良いのか答えを出せていなかった。

 北宇治が会場に到着した頃には既に前半の部が終わっており、金賞、銀賞、銅賞の結果はもう耳に届いていた。

 

「明工、秀大付属は金だって」

「あー、やっぱり。立華は?」

「銀だったらしい」

「ま、あそこの本命はマーチングだもんね」

 

 あまりにもあっさりと伝えられた立華の結果に、隆翔は息が詰まった。梓としては、去年躓いた関西大会。昨晩の彼女を見ていたら、他人事のようには思えない。おそらく、彼女たちは既にここを発ったのだろう。今は自分たちの出番に集中するしかなかった。

 

「はー、めっちゃ楽しみ!」

 

 楽譜ファイルを抱き締めたまま、うっとりと頬を上気させている同学年の女子はコントラバスの川島緑輝だ。その隣で緊張した面持ちでぶつぶつと呟いているのは求だった。

 

「求、大丈夫か?」

「……樟葉先輩。大丈夫、いつも通りです」

「やっぱ関西は求でも緊張するんだな」

「僕でもってなんですか。まあでも、緊張はしますね」

 

 やけに素直だな、と隆翔は思った。隆翔が入部したての頃はなかなか心を開いてくれなかったが、秀一を介してコミュニケーションを取りながら少しずつ壁を取り払って今がある。最も、彼は川島を崇拝している訳だが。そのことは一年生指導係の黄前から聞いていて、血統書付きの犬みたいだと鋭い表現で的を得ていた。絶対本人には言えないことだが。

 

「緑先輩の横で無様な演奏をしたらと思うとそれは怖いですよ」

 

 ああ、やっぱりな、と隆翔は小さく溜息を吐く。逆にいつも通りで安心すら覚える。それこそが彼の原動力であり、演奏の動機なのだとしたら今日の演奏はきっと大丈夫だろう。

 

「みんな頼んだぞ、求」

「は、はい!」

 

 後輩にこうして何かを伝える事は中学の頃には出来なかった。舞台に立たない者として、何かを伝えてやりたかった。求は遠慮がちに隆翔へ拳を突き合わせた。

 

「皆さん、心の準備は出来ましたか」

 

 黒のタキシードに身を包んだ滝は、部員たちの顔を一人ひとり見渡している。その瞳が隆翔を捉えると、一瞬ふわりと微笑んだ気がした。

 

「京都府大会と比べても、皆さんは格段に上手くなりました。結果がどうなろうとも、今日いちばんの演奏者は皆さんであると私は信じています。これからの本番で、最高の十二分間を作り上げましょう」

『はい!』

 

 静かに、それでいて熱い滝の言葉に部員たちのモチベーションは最高潮に達しただろう。続いて、吉川部長の言葉が紡がれる。

 

「北宇治吹奏楽部は、二年前はぐちゃぐちゃでした。私が一年生のときのこの部活と、今の部活は全然違います。色々なことがありました」

 

 隆翔は、去年以前の記憶を共有していない。二年生、三年生とこの部活が滝の手によって大きく変貌していった様を見ていなかった。それでも、優子の言葉には真に迫る感情があり、彼女にとって並々ならぬ三年間であったことは隆翔でも理解できた。

 

「去年の冬から部長になって、副部長にもいっぱい支えてもらって、Aでない子も含めて、私はこの全員が最高の北宇治だと思っています。みんなで最高の十二分間にして、みんなで名古屋へ、全国へ行きましょう!」

『はい!』

「それじゃ、いつものやつやります。ご唱和ください」

 

 隆翔も、一年生も、B編成の子も、先生方もみんなの拳が天に突き上がる。戦場へ赴く戦士たちに、誓いのファンファーレを。

 

「北宇治、ファイトー!」

『オー!』

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 舞台袖、暗幕の先で一つ前の学校の演奏が奏でられる。

 隆翔は最後の宿題を終えるべく、希美の姿を探した。しかしフルートパートのところにも、みぞれの袂にも姿は無かった。本番までの時間は差し迫っている。希美に伝えることは見つかっていなかったが、本番前に労うことくらいはできるだろう。暗い空間の中で静かに捜索を続けた。

 リハーサル室へ繋がる扉が少しだけ開いていた。そこから漏れる光の先に、見覚えのあるポニーテール。隆翔の探していた希美の姿があった。その背中は酷く小さく見えた。

 

「……希美先輩?」

 

 ビクッと肩が揺れる。ゆっくりと希美は隆翔の姿を見た。引き攣った顔に、少しだけ呼吸も荒い気がした。只事では無い、と隆翔は判断した。彼女はまったくもって大丈夫な状態では無い。隆翔は希美の手を取った。その手は小刻みに震えており、ひやりと冷たかった。それでも何か言われても離さないつもりだった。

 

「希美先輩、怖いですか?」

 

 無理もない。希美が高校のコンクールに出場するのは今年が初めてで、しかも関西大会という大舞台だ。普段なら平気で強がる希美が、今日は素直に頷く。そんな希美であったから隆翔は少し安堵した。

 

「希美先輩はフルートのエースで、後輩みんなから慕われていて、今日のコンクールも貴女が居なければ北宇治は路頭に迷うでしょう。でも、持つべき者の責任という言葉があります。それを、あなたしか背負えない責任と思わずに、俺と背負ってくれませんか?」

「……なっ」

 

 普段ならこんなカッコつけた言葉は絶対に口にしない。何ならプロポーズにも近しい言葉だろう。希美は芯のある人だ。それ故に他人の抱く期待を何倍にも増幅させて背負ってしまうのかもしれない。特に彼女の念願である全国出場が決まる、この大一番では。

 言葉の意味を解釈した希美は顔を真っ赤にしながら慄いた。

 

「希美先輩のそんな表情、初めて見ました。やっぱり可愛いですね」

「……バカなの?」

「はは、そうかもしれません。希美先輩、約束してください。どんな結果でも良いですから、ここに帰ってきてください。俺、待ってますから」

 

 希美の手を強く握る。そしてその瞳から片時も目を逸らさなかった。いま、希美に必要なのは信頼ではない。彼女をどんな時も肯定する存在だろう。その言葉を伝えられる存在は北宇治において隆翔しかいなかった。

 希美はふぅーっと深く息を吐いた。隆翔の言葉は核心を突いていた。みぞれという存在を支える一心で切磋琢磨した夏休み。その思いが結実し、関西大会まで来られたのは希美の上達あってこそだろう。もう、我々に失うものはない。北宇治は挑戦者だ。そして、いつの日か自慢できる夏の夢となり得るだろう。

 一つ前の学校の演奏が終わり、拍手が彼らを包み込む。希美の手は血が通って温かさを取り戻した。表情はいつものように自信に満ちあふれ、踵を返すと共に彼女のトレードマークが大きく踊った。

 

「ありがとう、隆翔くん。いってきます!」

「いってらっしゃい!」

 

 賽は投げられた。もう止まることはない。

 北宇治高校吹奏楽部の運命が決まる十二分間が始まった。

 

 

 壮大なファンファーレで始まる課題曲『マーチ・スカイブルー・ドリーム』。クラリネットとサックスの木管で紡ぐ優雅なメロディへと変遷し、行進曲らしくトロンボーン、フルート、シンバルが津殻強くリズムを形作っていく。作曲者は学生時代に金管楽器で吹奏楽の道を歩み、我々と同じように仲間と共に笑い、涙した日々があったのだろう。曲調は常に曇りなく、どこまでも広がる青空のように明朗であった。

 やはりマーチは良いな、と隆翔は心の中で反芻した。彼が好きなワーグナーは、聴き手の高揚感を擽る楽曲が代名詞であろう。滝の指揮に呼応し、一糸乱れぬ音を紡ぐメンバー。北宇治は強い。紛れもない事実だろうし、この舞台まで駆け上がってきた学校はどこも遜色なく上手い演奏をするだろう。その中の三校に入ることが出来るのか。今はその一点だけを見つめて音を繋いでいく。

 決然とした意志を込めて、シンバルの歩調に背中を押された高坂のソロが響き渡る。これが彼女の音だ。痛い程に真っ直ぐと伸び行く旋律に身震いすら覚える。音が伝わるたびに、全身の毛が逆立つような感覚を覚える。それほどまでに印象に残る魅力でもあった。完璧なクオリティを保ったまま、課題曲は幕を閉じた。

 

 そして、運命の自由曲『リズと青い鳥』が始まる。

 滝の腕が再び振り上げられる。まっすぐに滝を見つめる希美が、フルートに鋭く息を吹き込んだ。

 物語をなぞるように音楽の場面が展開していく。穏やかな日常は破壊され、やがて嵐が到来する。ウィンドマシーンを回す度、不安になるような風の音が鳴り響く。そしてチューバのフォルテが感情を揺さぶっていく。

 滝がみぞれを見る。運命の第三楽章『愛ゆえの決断』。

 リードを口に含み、オーボエソロが奏でられる。圧倒的な完成度。美しさ以外、すべてを削ぎ落した音色は麻薬のような快感を与える。恐らく彼女以上のオーボイストはこの会場に居ないだろう。希美との紆余曲折。彼女が抱く歪故に心苦しい感情の一端を介錯した事実が、隆翔の胸に深く刻まれていた。

 ただ、それだけでは本当に麻薬なのだ。このソロには欠けているピースが存在する。

 希美のフルートが加わる。複雑さを増した掛け合い。転んでもただでは起き上がらない希美の姿に感銘を受けた。隆翔の手には先ほどの冷たい希美の手の感触が残っている。しかし壇上の彼女にはその不安や迷いなど欠片も見せない強く、鮮烈に印象付けさせる音の魅力があった。

 どこまでも伸び行くフェルマータを、みぞれのオーボエが奏でる。背中を押す希美のフルート。誰もがその心に刻んだであろう。今日、この演奏を聴いた事実を一生自慢できると隆翔は高揚した。

 第四楽章『遠き空へ』。

 高坂のトランペットが、リズの決心を後押しするかのように青い鳥の羽ばたきを助ける。寸分の狂いなく、ユーフォニアムの旋律が正確に押し出され、音楽は最大の見せ場を迎える。誰の顔にも曇りない、ただ一点を見つめてのみ昇っていく。

 連続するフォルテッシモ。隆翔の瞳から流れる涙は、間違いなく心が揺さぶられた感動の涙だった。完璧ともいえるこの演奏に、どうして評価という名の色を付けねばならないのか。掛け値なしの賞賛。これに尽きるのではないか。

 そんな彼の心情が後押しするかのように、会場からは割れんばかりの拍手が鳴り響いた。どの学校にもなかった。激しい、そして興奮の混じった拍手。

 壇上のメンバーはみんな目を丸くしている。彼らに向けられた賞賛の拍手は、文句なしの会心の演奏であったことの証明だった。

 帰ってきた部員の表情は晴れ渡っていた。緊張から解放されて泣き出した一年生もいる。府大会と圧倒的に違う雰囲気で、あれだけの演奏をしたのだから、緊張の糸が切れた瞬間に感情が溢れ出てしまうのも無理はない。

 

「隆翔くん」

 

 勇士たちの戦列の奥からフルートを大事に抱えた希美が現れ、二人は相対した。その時間は数秒にも満たなかったかもしれない。でもそれだけで十分だった。

 

 

「ただいま!」

 

 

 眩しかったのは壇上の灯りではない。隆翔に向けられた最高の笑顔に、心が満たされていた。

 

 

 

【つづく】




−追記−
2025.6.13 内容を大幅加筆修正しました。
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