或る、フルート吹きの青春   作:ハヤブサ320

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EP.15 飴玉の唄

 張り詰めた空気が会場を支配する。三年前、府大会中学生の部での結果発表は、こんなにも緊張するものではなかった。隆翔も初めて経験する緊迫した時間だった。

 壇上では関西吹奏楽コンクール高校の部、そして十月に行われる全日本吹奏楽コンクールへ出場する関西代表校の発表と表彰式が行われる。我が北宇治高校吹奏楽部は二年連続の全国大会出場に向けて、高校生の貴重な日々を吹奏楽に費やして来た。それが当たり前かのように、部員たちは切磋琢磨し演奏技術を磨いた。

 関西地区から全日本吹奏楽コンクールへ進める学校は三校のみ。全国という舞台は、言うまでもなく特別である。そして、この会場へ詰めかけた全吹奏楽部員の目指す場所なのだ。

 

 

「──十五番、京都府代表、北宇治高等学校。ゴールド金賞」

 

 

 みんなが座るエリアの後方に陣取っていた隆翔は、周囲の喜びの声に安堵の息が漏れる。全国へ行く。その権利は得た。しかし北宇治の本命は、関西金賞だけではない。

 

 

「続きまして、来る十月に名古屋で開催する全日本吹奏楽コンクールに出場する三団体を発表します」

 

 

 歓声は形を潜め、皆固唾を飲んでその行く末を見守る。

 全国大会出場を有力視されている学校はすべて金賞を獲得していた。三強の説明をした緑輝の姿が思い出される。彼らもまた、約束されたかの如く金賞を獲得していた。

 壇上に立つ初老の男が野太い声で代表校を告げる。誰もが手を組み、祈り、固唾を飲んで自分たちの名前を呼ばれる瞬間を待った。

 

 

「一校目、三番、大阪府代表、明静工科高等学校」

 

 

 歓声が沸き、拍手が贈られる。

 残る枠は、あとふたつ。

 

 

「二校目、八番、大阪府代表、秀塔大学付属高等学校」

 

 

 視界に納められる位置で爆発のような歓声が上がった。期待と重圧に押し潰されそうな環境の中で努力を続けてきたであろうと、彼らの落涙が物語っていた。

 あと一枠。唇が乾いて、背中に冷たい汗を感じる。歓喜か悲嘆か、それはどの学校も同じ立場なのだ。

 

 

「三校目、二十二番、京都府代表、龍聖学園高等部」

 

 

 地鳴りのような咆哮が会場を揺るがした。男たちのサクセスストーリー。大柄の男子が号泣している。あの場で揉みくちゃになる感情は、一体何なのだろうか。それは当事者以外、判るはずがなかった。

 

 終わった。

 

 頭では理解しているのに実感が湧かない。また明日から全国大会へ向けて地獄の練習が待っているのではないか。そう言われても信じてしまいそうな程に。

 前の席に固まる部員たちは抱き合い、悔し涙に暮れている。視界の端では高坂が泣き崩れ、黄前が抱きかかえる形で介抱していた。結果に呆然とする者や、膝を抱えて涙を流す者で埋め尽くされている。

 隆翔は希美の姿を見る勇気がなかった。隆翔を吹部へ誘った時の言葉が蘇る。希美は中学では行けなかった全国へ行きたい、その為にフルートを頑張ってきたと語っていた。

 今、希美の夢は崩れ去った。その事実に隆翔は拳を強く握りしめた。親指の爪が掌に食い込む。その痛みすらも、彼女の痛みに比べれば大したことではない。

 部長と副部長は表彰式のため、壇上で堂々と前のみを見据えていた。彼女が一番口惜しい筈なのに、その足ではしっかりと地面を掴んでいる。

 賞状とトロフィーを受け取った二人は堂々としていた。背筋は伸び、誇らしげに舞台を見て一礼する。割れんばかりの拍手が彼女たちを包んだ。北宇治の演奏した『リズと青い鳥』は、間違いなく観客の心を掴んだ。その労いと、来年への期待を込めた温かい拍手なのだろう。

 隆翔も、部員たちもその姿に大きな拍手を贈った。

 

「隆翔くん」

 

 不意に肩が触れた。振り返った先には、希美が立っていた。目尻に残った赤い痕が目に入り、隆翔は目を逸らした。

 

「先輩、すみませんでした。何て言葉をかけたらいいか……」

 

 夢潰えた先輩達を想うと申し訳なさでいっぱいになった。何を言っても正解ではない気がして、隆翔は頭を下げることしか出来ない。

 

「え、ちょっとちょっと。なんで隆翔くんが謝るの? 違うよ、私はむしろ君に感謝してるんだから」

 

 思ってもみない言葉だった。希美の言葉に隆翔は頭を上げる。

 

「確かに私たちは全国に行けなかったよ。君を全国に連れて行ってあげる、なんて強気なことも言ったけど、この会場に入ってから手汗びしょびしょだったし、体温は下がるしで万全じゃなかった。でもね、本番前に君が信じて待ってるって言ってくれたことが本当に心強かったの」

 

 希美は隆翔の手を取る。そしてありったけの笑顔で隆翔に伝えた。

 

「君のお陰で、私はみぞれを支えることができたし、最高の演奏が出来た。本当にありがとう」

 

 視界がぼやける。希美の笑顔と握られた手の温かさがゆっくりと伝播して、つんとした痛みが鼻を通り抜けた。

 希美は誰よりも報われない吹奏楽人生だっただろう。一年生では先輩たちと衝突し立つ瀬が無く、二年生では補欠扱い、そして、最後の年に挑んだコンクールでは、あと一歩のところで全国の夢が絶たれてしまった。その希美が、隆翔に向けて満面の笑みを向けている。

 さぞ無念であろう。想像すると、どうしても涙を抑えることはできなかった。

 

「ほら、泣かないで。男子なんだから」

 

 自分のハンカチを探すより先に、ピンク色のハンカチが手渡される。希美のハンカチは微かに石けんの香りがした。

 隆翔は少しだけ、希美が享受する優しさに甘えた。

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 吉川部長の演説の甲斐あって、今は前を向く者が多い。学校に戻った部員たちは足早に楽器を元に戻すと帰宅の途についた。隆翔は楽器の管理を任されており、楽器室の鍵を閉めて顧問に返すまでが仕事だ。最後の打楽器が運ばれ、所定の位置に収納し、楽器室の扉を閉める。そのタイミングを見計らったかのように、隆翔を待つ人がいた。

 

「……希美先輩」

 

 隆翔の姿を見ると、彼女は立ち上がって出迎えた。

 

「待ってたよ。帰ろっか」

 

 希美との帰り道では宇治川を横目に自衛隊の駐屯地を通り過ぎるまで彼女と一緒に歩き途中で別れる。隆翔にとっては遠回りだが、この時間に些かの文句もない。

 今日、希美と一緒に帰る理由はひとつしか思い浮かばなかった。

 宇治川河川敷を少し歩くと、以前フルートを演奏したベンチが目に付いた。隆翔の目線に気が付いたのか、希美はひとり土手を下ってベンチに向かった。無言で歩みを向けた希美を追いかけるようにして、隆翔もベンチへと座る。

 一息ついてから、希美が話し出した。

 

「はぁあ、終わっちゃった……」

「……そうですね」

 

 希美は溜息交じりに感傷にふける。

 希美の、そして北宇治の目標である全国大会で金を獲ること。それは目前で三年生たちの手からするりと消えた。

 

「でも、めっちゃ良い演奏ができた。多分人生で一番」

 

 希美はにかっと笑って人差し指を立てた。

 

「そう思います。第三楽章、舞台袖でみんな泣いてましたよ」

「ほんと? いっぱい練習した甲斐があったよ」

 

 ベンチから両足を伸ばして、消え入るように呟いた。

 

「でも、だめだった……何が足りなかったんだろうね」

「…………」

 

 希美に掛ける言葉が見つからなかった。全国行きを確信していたのは隆翔だけではなく、あの瞬間に最高の演奏をした北宇治のメンバー全員であったからだ。

 

「……あの会場に、希美先輩を超えるフルートはいませんでした。先輩のフルート、あの時の韃靼人のような雰囲気でした」

 

 嘘偽りのない言葉だった。希美より上手いフルートはあの会場に存在しない。関西一のフルートであることは疑う余地がないのだ。

 

「希美先輩のフルートを見つけて、先輩のフルートに付いてきた俺が言うんです。自信を持ってください」

 

 ふわりと、シトラスの香る匂いが隆翔を包み込む。

 一瞬、何が起きたのか分からなかった。胸に飛び込んできて顔を埋めているのは紛れもなく希美だった。

 

「そんなこと言われたら、本気になっちゃうじゃん。ダメだよ、こんな私じゃ。君に釣り合わない」

 

 鼻をすする音。熱を帯びて隆翔の胸に消える声が身体に響く。

 身体がカッと熱くなった。希美に抱きしめられている状況をやっと理解した隆翔は、その腕を希美の背中に持って行った。隆翔よりも遙かに小さい背中に、どれほどの重圧を抱えていたことか。彼女の啜る声、涙の熱さ、そして、震える背中に触れた。

 

「悔しい、死ぬほど悔しいよ! どうして、どうして……ああああ、うわあああああ!」

「希美先輩、よく頑張りました。俺の中では先輩のフルートが世界一です」

 

 ポニーテールで纏まった髪を乱さないよう優しく頭を撫でる。

 希美は隆翔の胸の中で嗚咽を漏らしながら泣いている。

 会場でもバスの中でも涙を見せなかった。泣けなかった訳じゃない。彼女は二度目の不条理な現実と対峙していた。

 希美はしばらく堰を切ったように涙を流し続けた。

 今度は隆翔が希美にハンカチを渡した。

 

「……ありがとう」

 

 目元が赤くなっている。泣き腫らした希美の顔に軽く布を当てると、涙が滲んだ。

 

「もう大丈夫ですか?」

「うん、泣いたらちょっとすっきりした」

 

 そう言って笑顔を見せる希美に隆翔は安堵する。

 

「そういえば先輩のハンカチは俺が持ってるんでした、洗って返します」

「い、いいよ、いいよ。恥ずかしいし」

「じゃあ、俺のハンカチは先輩に貸します」

「もう、仕方ないな」

 

 半ば無理矢理ハンカチを交換された希美は、隆翔のハンカチをスカートのポケットにしまった。

 

「ねえ、もう一度私のフルートを好きって言ってほしいな」

「え、なんでですか?」

「いいから。お願い!」

 

 希美の顔が急激に紅潮した。懇願に応えるように隆翔は一度咳払いをして、その言葉を目の前の愛しい人に放った。

 

 

「希美のフルートが好き」

 

 

 その刹那、隆翔の視界は何かに遮られた。

 柔らかく、温かいものが隆翔の唇を塞いでいる。

 希美にキスをされた。頭では分かっていても身体が反応しない。

 時間にして三秒もなかったが、隆翔には永遠に思えた。

 希美の唇が離れる。ちゅ、という小さな音がなった。

 とろんとした官能的な瞳に、隆翔の心臓は早鐘を打ち続ける。希美はそのまま隆翔を抱き寄せて耳許で呟いた。

 

 

「ありがとう……私も隆翔が好きだよ」

 

 

【つづく】




−追記−
2025.6.13 内容を大幅加筆修正しました。
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