或る、フルート吹きの青春   作:ハヤブサ320

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オリジナルキャラクターの設定は前話をご覧下さい。


序章 星間
EP.01 大吉山北中ビギニング


 歌うような旋律、そして横笛特有の身体全体の呼吸を繊細に扱って奏でる豊かな音域。

 惑わず、力強くも繊細で、他の木管楽器と見事に調和している。他人の奏でる音に奮い立つなんて、初めての経験だった。

 

 この会場で彼女が奏でる以上に見事なフルートは存在していない。

 そう確信してしまう程、完璧な音色が会場を支配していた。

 

 周囲に着席する大吉山(だいきちやま)北中学校吹奏楽部の誰もが、その音の虜となっている。

出番が終わって緊張の糸が切れ、お喋りに興じていた同級生も、吹奏楽初心者の後輩たちも、誰もが一目置く演奏を目の前にしていた。

 

 この物語の主人公である樟葉隆翔(くずはたかと)も、同じフルート奏者として演奏を聴き入っていた。

 

「フルートのソロ、上手すぎない」

「オーボエも安定してる。めっちゃ綺麗」

「きっと、今年の関西もまた南中だよ」

 

 感嘆を漏らす周囲の声さえも、彼の耳には届かない。

 どこまでも伸びるロングトーンに、しなやかな指先から奏でられる連符。

 演奏の核は自分であると一切譲歩しない強気な演奏が、どこまでも心地良かった。

 

 その技術に隆翔は大きな憧れを抱いた。それと同時に、彼は一抹の寂しさを感じていた。

 この日、隆翔は大吉山北中学校吹奏楽部を退部した。

 

 

     ◇◆◇

 

 

 夏真っ盛りの強い日差しが宇治川の水面を煌めかせている。

 

 川の畔にある木陰のベンチには、楽器ケースを傍に置いた学生服姿の二人が座っていた。

「泣くなよ梓。来年はきっと関西に行けるよ」

 

 ベンチに座っているのは隆翔と、涙に暮れる梓と呼ばれた小柄な少女だった。

 中学二年生である彼らには、来年まだのコンクールが残されていた。

 

「ちがうよ。隆翔が辞めなきゃいけないことになったのが悔しいの……」

 

 梓の傍らにある白いハードケースには、唯一の家族である母から贈られたトロンボーンが入っている。

 

 

[銀賞 大吉山北中学校]

 

 

 結果発表であっさりと告げられた隆翔たちの立ち位置。今日までの労力や時間をすべて一蹴するものだった。

 

「俺は先輩たちの最後のコンクールを台無しにしちゃったから、その責任は取らないと」

「……嘘だよ」

 

 梓は目元を強引に拭って、その赤くなった瞳を隆翔に向ける。

「隆翔は絶対そう思ってない。私にはわかるもん。あんなことされて、吹部に残ろうなんて絶対思わないよね」

 

 バレたかと言わんばかりに溜息を吐くと、隆翔は梓にもたれ掛かった。

彼女の肩は女子特有の柔らかさで心地よかった。彼の目線の先にはブラウス越しにもわかるほど成長著しい双丘があった。

 

 

 樟葉隆翔と佐々木梓は幼馴染みだ。

 

 京阪電車の黄檗駅から徒歩五分。陸上自衛隊駐屯地の向かいに立つマンションに二人は住んでいた。

 そして保育園、小学校、中学校と同じ学舎に通った。

 

 音楽に興味を持ち始めたのは隆翔が先だった。

隆翔の父はドイツのニュルンベルクで単身赴任をしている。そのため、この家では殆どの時間を母と二人で暮らしていた。

 幼少の頃から母の車に乗る機会が多かった。カーオーディオで流していたクラシック音楽を日常的に聴き、それが彼の音楽観を育んだ。ショパンやドビュッシー、ワーグナーにパッヘルベルを聴くうちに、演奏することへの興味が生まれた。

 

 小学三年生のある日、母の知り合いでピアノ教室を営んでいる安田に師事した。彼は髭を蓄えた小太りの男だったが、音大出身であり、ピアノ講師の傍らで恰幅の良さを活かしてオペラ歌手としても活動していた。

 

 隆翔は車の中で聴いていた音楽が鍵盤を叩くことで再現されることに感動を覚えた。

それから毎週火曜日は学校が終わればピアノ教室へ足を運んだ。

 

 しかし彼のピアノへの挑戦は呆気なく終わる。

 ピアノは一定のラインまで上達した。入賞はしなかったが、コンクールにも出場した。

 しかしそのレベルから技術の進歩が見込めなくなってしまった。周りの生徒はもっと難しい曲に挑んでいるというのに、隆翔の指は思うように動いてくれなかった。

 

 安田は上達が遅いからといって、決して怒る人ではなかった。音楽の技術や表現方法は奏者の数だけあると言って隆翔を励ました。

 

 そんなある日、安田は生徒を連れてオーケストラコンサートに連れてきた。

 安田の音大の後輩による有志のオーケストラだったが、隆翔を突き動かすには十分すぎるクオリティだった。

 

 隆翔の前に、再び新しい扉が開いた。

 

 ピアノ教室は小学校卒業と同時に辞めることとなった。

 その日、安田は隆翔にあることを伝えた。

「隆翔君がこれからどんな楽器に出会っても、君は音楽のセンスがある。四年間、悩んだことの方が多かっただろう。でも、音楽は楽しくなくちゃいけない。どんな楽器でもいいよ。いつかまた、僕に聴かせておくれ」

 

 安田の言葉を隆翔は頭の中で反芻した。ピアノを辞めることに恩師に対する後ろめたさが無いといえば嘘になる。音楽が楽しくなくなった今、胸を張ってその言葉を守る気力は存在しなかった。

 

 

 

「……えっち」

 

 真横から聞こえた訴えのあと、梓は隆翔の眉間に渾身のデコピンをお見舞いした。

「痛い!」

「嫌らしい目で見ないで! バレバレなんだから」

 

 もたれ掛かった際に目に入った梓の胸を見ていたことが完全にばれ、梓は抗議のデコピンをお見舞いした。

「……見てないし」

「その間は何よ」

「嘘です。ごめんなさい」

 まったく、と胸を隠すように背中を向けた。

 

 あわよくばもう少し彼女の柔らかな肩に身体を預けたかったが、梓はぴょんっとベンチから起き上がると隆翔の前へ出た。

そして満面の笑みで隆翔に約束を持ちかけた。

 

 

 

「隆翔がまた吹きたくなったらで良いからさ。いつかまた、一緒に演奏しようね」

 梓の掲げた小指に、隆翔は躊躇いつつ同じ指を絡ませた。

 

 

     ◇◆◇

 

 

「ねえねえ、制服似合ってるでしょ」

 

 学校指定の紺色のブレザーを纏い、グレーのプリーツスカートをくるくると翻しながら梓は隆翔に制服を見せびらかしている。

「似合ってるから、道路目一杯に広がるのはやめろ。危ないだろ」

「えー、大丈夫だよ」

 そう言いつつも、隆翔から半歩距離を置いて歩みを進める。

 

 今日は、これから二人が通う中学校の入学式だ。

 

「隆翔は中学で何が楽しみ?」

「ええと、何だろうな。同じ小学校の奴もたくさんいるだろうし……強いて言えば、部活かな」

「私も! 絶対吹部に入ってトロンボーン吹くんだ」

 

 梓は再び、器用にステップを踏みながら体を回転させた。

 その背中には、真新しい楽器ケースが陽光を反射させながら煌びやかに輝いていた。

 

 梓は小学四年生で金管バンドに入った。

 母子家庭の彼女が、母親への甘えを口にした瞬間は殆どない。

 

 金管バンドに入った理由も、仕事に勤しむ母を心配させたくないという気遣いからくるものであった。

 そんな梓の母、佐々木亜矢美は、中学でも吹奏楽部へ入ると決めた娘に新品のトロンボーンを贈った。

 トロンボーンを貰った梓の喜びようは凄まじく、樟葉家に遊びにきた時は演奏もしないのにケースを抱えて現れるほどだった。

 

 

「今日部活行く?」

「え、もう行くの」

 

 待ちきれないと言わんばかりに部活への執着を見せたが、二人はまだ入部もしていなければ入学式すら終えていないのだ。

 

「当然でしょ。だって北中吹奏楽部だよ。今から練習が楽しみだな」

 梓は鼻歌を鳴らしながら、前途ある未来の姿を想像し満喫した。

 隆翔はそんな梓に呆れながらその後ろ姿を追った。

 

 

 宇治市立大吉山北中学校。京都府宇治市三室戸寺近辺にあるこの学校は地元では北中と呼ばれ、かねてより吹奏楽の強豪校としてこの地に君臨していた。

 この学校が北中と呼ばれるように、付近には東中、西中、そして南中学校が点在していた。

 

 全日本吹奏楽コンクール。その中学生の部では、いくつかの支部大会で選ばれた学校のみが全国大会へと駒を進めることができる。

 隆翔と梓の所属する北中は、コンクール金賞の常連校となっていた。

しかし近年では関西大会へ出場できない金賞、通称『ダメ金』と呼ばれている結果に甘んじてきた。

 最初のミーティングでそのことを語った吹奏楽部部長は、それはそれは口惜しそうに奥歯を噛み締めていた。

 

 中学校の吹奏楽部は音楽初心者が大半を占める。

 女子であれ、まだ小学生の延長であり容姿には幼さが残る。そんな生徒たちが手にする楽器はどれも目が飛び出るほど高価である。

 先輩から楽器の値段を聞いた一年生の中には、怖じ気づいてしまう同級生の姿もあった。

 

 

 そして吹奏楽部は圧倒的に女子の社会である。

 即ち、隆翔のような男子生徒は少数勢力であった。

 その重要性に、この時の隆翔はまだ気が付いていなかった。

 しかし、安田のオーケストラを鑑賞してから、吹奏楽部へ入部することに一切の迷いはなかった。

 

 そんな威勢の良い隆翔の前に、新たな壁が聳え立つ。そう、楽器選びだ。

 この北中には二十種類以上の楽器がひしめいている。隆翔はピアノ以外であれば何でも良かった。しかし、こう多くては楽器選びも難航した。

 また、各楽器が置かれている机には女子が姦しく会話している。その渦中に飛び込む勇気は毛頭なかった。

 

 そうこうしている内に一人、また一人と楽器内定者が現れている。

 隆翔は藁にも縋る思いで、既にトロンボーンに内定していた梓に助けを求めた。

「梓、ちょっといい?」

 梓は手招きする隆翔のもとへ向かった。

「どしたん」

「実は楽器が決まらなくて」

 頭の前で手を合わせる隆翔の所作ですべて察した彼女は、若干呆れつつも隆翔の手を取った。

 

 そしていくつかの楽器を吟味した上で、とあるグループへと彼を差し出した。

「隆翔はね、この楽器が似合うと思うよ。難しいと思うけど、吹いている姿はかっこいいしね」

 梓の言葉はいつも迷いがなかった。小学生の頃からこうした悩みとは無縁なのではないかと思う事がある。

 

 彼女の薦めた楽器は、その細い管にいくつものトーンホールとキイが織りなす、シルバーのボディがメカメカしくもある。音楽室の照明を美しく反射させるその楽器は、フルートだった。

 

「なに少年。フルートパート希望?」

 フルートを抱えた先輩から声が掛かる。

「あっ、いえ、ごめんなさい。違うんです……」

「何も違わないでしょうが。ホラ、行ってきなさい」

 先輩たちの覇気に情けない声が出てしまう。梓はバシンと背中を叩いて、トロンボーンパ―トへ帰っていった。

 

 フルートを近くで見ると、また違った特徴があった。

 小学校でリコーダーを吹いたが、それとは全く違う。キイは各トーンホールを押さえる役割がある。そして息の吹き込み口とキイが離れ、横に持ちながら吹くことが何よりの特徴だった。

 

 この楽器はオーケストラで見たことがある。

 長身の美しい女性がしなやかな音色を出す印象が強かった。

 男子がフルートを吹くという環境が少し異質であることは、各パート内に一人はいる男子がフルートには一人もいないことで察することができた。

 

「男子はフルートが似合わないって思ってる?」

「なんで解ったんですか?」

「ふふふ、顔に出てるよ。フルートはこんな見た目だからお淑やかな女子が吹くイメージが強いと思うんだけど、そう簡単には音は出せないし肺活量も求められるんだよ」

 

 自分のフルートだろうか、三年生の先輩は手に取って優しく扱っていた。

 

「お淑やかなのは否定しないんだ」

「私って、お淑やかでしょう。少年」

「……あ、はい。そう、思います」

「あっはっは。ごめんごめん、そう緊張しないでいいよ。私はパートリーダーの米山沙綾。よろしくね」

「はい。俺は樟葉隆翔と言います」

 

 お淑やかさとは程遠い笑い声で隆翔を歓迎した米山は、隣で見学する同級生にも手を差し伸べた。

「あなた、名前は?」

「はいっ。えっと、内藤(しゅう)って言います」

 内藤は先輩を前に極度に緊張していた。内藤ほどではないが、隆翔も肩に力が入っていた。

「まだ緊張は取れないよね。じゃあ、歓迎の意味も込めて何か演奏しようか。麻里奈、お願い」

 

 米山が麻里奈と呼んだボブカットの先輩がフルートを構えると、銀色の管に息を吹き込む。笛特有の突き抜ける呼吸音が音階を奏でた。

 

 先輩が演奏した曲は『ホール・ニュー・ワールド』。三十年ほど前に公開された外国のアニメ映画で作られたテーマ曲だ。

 

「いま吹いてくれた子は菱沼麻里奈。二年生だよ。ここのパートで一番上手いから」

「そんな、先輩にはまだまだ及びませんよ。でも、初心者にはみんなで教えるし、これから楽しく部活できたらいいね」

 

 菱沼も柔和な表情で一年生を歓迎した。

 緊張していた内藤も、良い先輩に恵まれたことで表情が解れていた。

 隆翔を含めた一年生二名、演奏する楽器はフルートに決定した。

 

 

     ◇◆◇

 

 

 月日は流れ、六月になるとコンクールメンバーの選抜が始まった。

 北中は二年生、三年生の層が厚く、一年生がメンバー入りすることは困難を極める。

 

 それでも数名はメンバーに食い込んだ。トロンボーンからは梓が、トランペットから高坂麗奈、ユーフォニアムからはクラスメイトの黄前久美子が選出された。

 発表時に一年生が選ばれれば驚嘆の声が上がり、選ばれなかった先輩の悲嘆が音楽室に響いた。

 

 入学して以来、白か黒かが決する瞬間に立ち会ったのは初めてのことだった。

 そして、この年のコンクールは府大会を金賞で飾ったが、関西大会への切符は得られなかった。

 

 米山たち三年生の代は仮引退となり、二年生の菱沼がパートリーダーに就任した。

 隆翔の目には会場で泣き崩れる先輩達の姿が焼き付いた。

 十分程度の本番。これだけの為に毎日暗くなるまで練習し、選抜され、上手くなければ跳ね返される。

 隆翔が一年生で迎えたコンクールは、ステージに立つことなく呆気なく終わった。

 

 

 

 時が経ち、十月二日の誕生日には、ドイツから帰参した父の姿があった。

 

「誕生日おめでとう。音楽はピアノで辞めるものだと思っていたのに、まさか吹奏楽部へ入るとはね」

「安田先生が吹部に入った方がいいって。俺にはセンスがあるって」

 食後に出されたショートケーキを囲みながら、話題は部活のことに移った。

 

「隆翔に才能がねえ。音楽のことはよく分からないけど、部活は楽しいか?」

「分かんない。まだ一年だし、雑用仕事多いし、でもフルートはそれなりに吹けるようになったかな」

 

 中学生から年功序列という環境に身を投じたと痛感する毎日だった。二年生と三年生で実力が同じならば、コンクールには三年生が選ばれる。北中の選考基準は大体の場合が実力で判断されるが、実力が拮抗していた場合は先輩が優先される。

 

「そういえば梓ちゃん、この前のコンクールに出たんでしょ。凄いわよね」

「まあ、いつも最後に下校してるし」

「自主練してるってこと?」

「そう。たまに付き合ってるけど、先輩たちが帰っても梓は最後まで残ってるよ」

「へえ、そりゃコンクールに出られるのも納得だ」

 努力は裏切らないという言葉があるが、梓はその体現者だ。部活、勉強、交友関係。梓はその間を上手く立ち回り、吹奏楽部一年生の中心人物となっていた。

 

 隆翔との幼馴染という関係は、梓にとってただ一介の同級生という立場にあっさりと掛け替えられ、隆翔はその姿に一抹の寂しさを覚えていた。

 

「……んん、そうだ」

 父は何かを思い出したように軽く咳払いをして自分の部屋へ入っていった。

 

 そして、梱包された大きな段ボールを大事に抱えてリビングへやってきた。

 

「ハッピーバースデー。なかなか家にいられないけど、隆翔がまた熱中できることが見つかって父さんは嬉しいよ」

 ちょっとクサいか、と照れ隠しをする父から手渡された段ボールを開封する。

 

 開けた瞬間、覚えのある重さ、質感、そして、毎日学校で手にしている固くざらついたケースが視界に飛び込んできた。

 

『YAMAHA』と金色の文字で書かれたハードケースを、震える手で恐る恐る取り出した。

 ピンを外し開けると、シーリングライトを反射するシルバーのフルートが入っていた。

 

「こ、これ……」

 

 まだ実感が湧かなかった。フルートは正規品でも十万円は下らない。それを買い与えてもらうことは決して簡単なことではないと、隆翔は理解していた。

 

 ヤマハのスタンダードモデルで、管体がシルバーメタリックに加工されたプロも愛用する仕様だった。

「隆翔が毎日朝から晩まで学校で練習してるってお母さんから聞いてたんだ。なかなか家にいられない父親で申し訳ないけど、これでまた頑張ってほしい。お父さんとお母さんからのプレゼントだ」

 

 銀色のキイに反射する隆翔の瞳からは大粒の涙が溢れていた。自分が周りから期待されていること、それと同時にまだ何も成し遂げていない悔しさで感極まっていた。

 感謝を伝えたかった。しかし、どうにも言葉がまとまらず、ありきたりな一言だけが喉を通り過ぎた。

 

「……ありがとう」

 

 自分の楽器を手にすることで、こんなにも感情を揺さぶられるとは思わなかった。あの時の梓が肌身離さず持っていた気持ちが、隆翔にもようやく理解できた。

 

 その後は部屋に籠もって夜遅くまで手入れをした。貰ったフルートは、今まで使用していた学校のフルートよりも手触りの良い合金で形成されていた。

 隆翔は初めて両親に心からの感謝をした。

 

 それからの日々は今まで以上に練習に励んだ。朝練、昼休み、夕方は最終下校時刻の十九時まで練習した。

 更に学校が終わってからは、梓と近くの河原で一緒に練習した。

 吹けば吹く程、フルートは音の輪郭を鮮明にする。楽器本来の奥の深さを知るごとに練習が楽しくなっていった。

 

 それから季節は過ぎ、四月になって二年生に進級した。

 その年の一年生は隆翔の代以上の人数が入部し、フルートパートには新たに五人が所属した。

 その中で、まだ小学生の名残がある小柄な体躯に、長髪を後ろで束ねた村上秋樹(あき)と名乗った一年生は本物の実力を兼ね備えていた。それもその筈で、彼女は小学四年生からフルートを習っている経験者だった。

 

 三年生にはパートリーダーの菱沼の他に、藤波と吾妻という生徒がいた。菱沼と違って、この二人が自主的な練習で姿を見かけることは殆どなかった。

 

 

 一年生が入部し、フルートは十人体制での活動となった。

 そして新入生が入部すれば、コンクールの練習が始まる。

 

 今年の自由曲はロッシーニ作曲、『ウィリアム・テル−序曲−』が選ばれた。コンクールは課題曲から自由曲までの時間が十二分以内に収まるように編曲しなければならない。

 その為、この十分以上ある曲を短く編曲された譜面を使用し演奏する。

 この曲の見せ場はなんと言っても第四部『スイス軍の行進』である。トランペットが掻き鳴らすファンファーレから金管楽器の盛り上げに高揚しない奏者はいないであろう。

 

「今年のメンバー、フルート何人だろうね」

「一昨年も去年も二年生以上は全員選ばれてたし、今年も大丈夫じゃない」

 

 楽譜が配布されるや否や、三年生の藤波と吾妻から楽観的な会話が聞こえる。

 

「うちら最後の年だし、全員出られるでしょ。ね、麻里奈」

「……え。う、うん」

 パートリーダーの菱沼は二人に調子を合わせるように頷く。しかし、その笑顔は引き攣っていた。

 

 隆翔と内藤も、菱沼の考えていることが理解出来ていた。

『ウィリアム・テル』は元々管弦楽編成で作られた楽曲だ。その為コンクールでは吹奏楽用に編曲した楽譜で挑むこととなる。つまり、編曲されたこの曲で、フルートに割く人数が多い保証はどこにも無かった。

 北中のフルートはレベルが高い。今までの二、三年生はずっとその環境に揉まれてきた。特に去年メンバー落ちを経験した隆翔と内藤は雪辱に燃えていた。

 

 他のパートも例外ではなかった。トランペットで昨年のコンクールに出場した高坂麗奈は、持ち前の肺活量とブレのない演奏技術で三年生を押しのけてファースト入りを果たした。トロンボーンの梓も、直向きな練習が上達への近道と信じて誰よりも練習した。そして誰もが彼女を練習の鬼と呼んだ。数少ない男子の同級生であるホルンの塚本秀一も、上達は早くメンバー入りするであろうと見込まれていた。

 去年も選ばれていたユーフォニアムの黄前や、トランペットに入部した一年生の小日向夢も上手いと噂されている。群雄割拠の二年生に粒ぞろいの一年生が入部したことで、今年のメンバーオーディションは苛烈極まることは誰にでも想像できた。

 だからこそ隆翔が聞いた藤波と吾妻の会話は、どこか間延びしたものに聞こえた。

 

 個人練習のために音楽室を出た隆翔は、内藤に呼び止められた。

「樟葉くん、今日も居残る?」

「そのつもり。梓も残るだろうし」

「そうなんだ」

 内藤は覗き込むように隆翔を見つめている。

 

「樟葉くんって、いつも佐々木さんと一緒に帰っているよね。もしかして、そういう仲だったりする?」

「あー、別に付き合ってる訳じゃないよ。帰り道が一緒なのも、ただ家が近所だってだけだし」

「じゃあ、幼馴染みなんだ! 羨ましいな。私、そういう友達いなかったから」

「小学五年生の時にこっちに来たんだっけ」

「そうなの。一応仲の良い友達は出来たんだけど、今は先輩だから樟葉くんたちみたいにフレンドリーには出来なくて」

 内藤は肩を竦めながらため息を漏らす。

 

「へえ、この学校?」

「うん。藤波先輩だよ」

 その言葉で、内藤が取った態度に得心がいった。

 

 小学校で仲が良くても、上下関係の厳しい中学の、ましてや吹奏楽部に入ってしまえば今まで通りとはいかないだろう。

「意外だった。あの先輩(ひと)、ああいう性格だから」

「でもね、私を吹部に誘ってくれたのもフルートを紹介してくれたのも、みんな藤波先輩のお陰なんだ。先輩、今年で最後だから一緒にコンクール出たいし」

「なら、もう少し自主練に顔出してほしいんだけどね」

「でも受験生だし、きっと塾とかで忙しいんだよ」

 

 藤波のことで想起するのは、やはり練習へ向かう態度であった。

 内藤は藤波と最後のコンクールに出たいと向上心を見せていたが、肝心の藤波は十八時以降の自主練で姿を見ることは殆どない。内藤の希望が空振りで終わらないことを祈るしか無かった。

 

「先輩はともかく、自主練するなら付き合うよ。それまでに譜読みは終わらせとく」

「ありがとう。じゃあ、また後で」

 内藤は小柄な体で譜面台と楽器を持ちながら、忙しなく練習教室へと入っていった。

 隆翔も負けてはいられなかった。同時期にフルートを手にした内藤へのライバル意識もあるが、最も対抗意識を燃やす相手は幼馴染みの梓であった。

 彼女は隆翔よりも一年早くコンクールメンバーに選ばれている。練習の鬼と囁かれている梓に対抗するには、もっと効率よく練習に励むしか無かった。

 

 

 それからの日々はあっという間に経過した。

 肺活量を鍛えるために学校まで走ったり、ホルン担当である秀一に左指のトレーニングをアドバイスして貰ったりと、練習量と効率を今まで以上に気遣った期間となった。

 隆翔の姿に触発された内藤も同じトレーニングを熟し、その技術は上達の一途を辿った。

 脇目も振らず練習した期間を経て、運命のオーディション当日を迎えた。

 

「……やばい、緊張で指が動かない」

「余計な力が入ってるのかも。ちょっと貸して」

 隆翔は内藤の左手を取ると、親指と小指を両手で開き、掌を揉み解した。指の腹は皮膚が厚くなり固くなている。隆翔にもあるそれが、彼女が積み上げた功績だ。

 

「筋肉が固まっちゃってる。まあ、無理もないか」

「ごめんね。樟葉くんももうすぐなのに」

「気にすんなって」

「……あのさ、私たちってめっちゃ頑張ったよね」

「……うん」

「私、生まれて初めてかも。こんなに一つのことに向かって集中したの」

「俺もだよ」

「じゃあ、きっと受かるよね、オーディション」

 内藤の顔は、怯えているように歪んでしまっていた。内藤ほどではないが、隆翔もここまで積み上げた努力に裏切られるかもしれないという恐怖はあった。

 それでも、いま伝えるべき言葉は決まっていた。

 

「絶対大丈夫」

 

「……え?」

「昔、ピアノ習ってて、発表会の前にこうしろって先生に言われたことがあったんだ。演奏する前に、自分の胸に手を当てて言うんだ。絶対大丈夫、今までの自分を信じて、絶対合格するって」

「絶対、大丈夫……」

「そうだ」

「絶対大丈夫」

「もう一回!」

「絶対大丈夫!」

「そう! 俺たちは絶対に大丈夫だ!」

「うん!」

 

 その言葉に、誰しもが納得する根拠はない。

 しかし、直向きに努力してきた時間は確実に糧となっている。

 自信を取り戻した内藤の笑顔と左手の握力が、その証明だった。

 

 オーディション会場の音楽室では、顧問と副顧問が待機していた。

「名前と所属パートを」

「はい。二年、樟葉隆翔。フルートです」

「では、三十五小節目から指示があるところまで吹いてください。準備はよろしいですか?」

 隆翔の右手には、両親が買い与えてくれたフルートが体温を帯びてその時を待っている。

 隆翔は左手で胸を押さえ「絶対大丈夫」と自分に言い聞かせた。

 

「準備できました。行きます」

 管に息を通し、運命のオーディションが始まった。

 

 演奏時の記憶は殆ど無い。ミスしないように、音が割れないよう細心の注意を払って演奏した。気がつけば顧問の手が上がり、演奏は終了した。

 顧問の顔色を伺おうとしたが、あくまでもポーカーフェイスを貫いており、手応えは感じられなかった。

 どこか浮ついた気持ちを抱きながら、オーディションの日は幕を閉じた。

 

 

 オーディションから数日が経ち、いよいよA編成の五十名が発表される。

 緊張の糸が張り詰めた音楽室に顧問の声が響いた。

「それではA編成の五十名を発表します。名前を言われた人は返事をしてください。まずは……」

 

 続々と名前が呼ばれる。一つの楽器が呼び終えるたびに悲喜交々とした空気が充満した。

 

「続いてフルート、菱沼麻里奈」

「はいっ」

 

 鋭い返事が鼓膜を揺らす。

 

「吾妻成美」

「はい」

 

「樟葉隆翔」

 

 自分の名前なのに、呼ばれたことへの意識が回っていなかった。

 返事をするために呼吸をする。フルートの順番が来たときから彼は呼吸を忘れていた。

 

「……はい!」

 

目尻に熱いものが込み上げる。それを必死に堪えながら、結果に耳を傾けた。

 

「内藤(しゅう)

 

 発表が始まってから、隣で目を瞑っていた内藤の表情が驚きで満ちた。

 返事をした後、彼女は歓喜の涙を流した。内藤の姿に感化された隆翔にも、堪えていたものが一筋こぼれ落ちた。

 

「村上秋樹(あき)

 

 内藤の涙から間髪入れずに呼ばれた名前は、音楽室に響めきをもたらした。

 一年生にして彼女はコンクールメンバーに選ばれた。隆翔からしてみたら当然の結果であったが、やはり緊張は隠せなかったのか、弛緩した意識から普段あまり笑わない彼女の表情が少しだけ緩んだ。

 

「以上、五名」

 

 そして顧問は感情なく締め切った。

 三年生全員でメンバーに入りたいと願った藤波は呼ばれなかった。

 最前列で結果を聞いていた藤波の肩は震えていた。

 

 あの時の藤波が発した楽観的な会話の違和感は、最も残酷な結果をこのパートにもたらした。

 他のパートでは高坂麗奈、佐々木梓、塚本秀一、黄前久美子らが二年生のメンバーとして順当に選出された。

 だが、悔しさに肩を震わして涙を流す三年生の姿を見て、歓喜の声を上げようとする者は誰一人いなかった。

 

 

【つづく】

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