「流石に遠いな、大阪は……」
九月も下旬に差し掛かっていたが夏の暑さはしぶとく残っていた。隆翔は額を伝う汗を乱暴に拭って地下鉄の出口を出て地上に上がった。隆翔の住む宇治市から京阪電車と地下鉄を乗り継いで一時間半、難波や梅田などの繁華街に程近い多目的ホールが今日の目的地だ。
ホールの入口には『関西マーチングコンテスト』と書かれた幟が立っている。
今日ここで、梓の通う立華高校吹奏楽部が、マーチングの全国大会を懸けて演奏する。
隆翔は梓に誘われてこの会場に赴いた。それと同時に、隆翔が奏者としての情熱を自問する場として、この大会を選んだ。
話は二週間前に遡る。
練習終わり、陽の落ちる時刻が段々と早まると、梓は一人で河川敷へ行くことは自重していた。そこで隆翔の出番である。二人が帰宅する時刻は大抵決まっていた。梓はマンション前で隆翔を待ち、梓はトロンボーンを、隆翔はフルートを持って一緒に練習場所まで自転車を走らせた。
梓は大会で披露するマーチングの動きや振りを実際にトロンボーンを持って確認していた。隆翔が土手の上に立ち、梓の動きを動画に撮って、それを見た梓が細かい修正を加える。気の遠くなるような練習だった。
隆翔にマーチングの知識はない。それ故に、立華のエースである梓の動きの凄さがいまいち理解できなかった。梓としても、余計に囃し立てない隆翔の姿勢が心地良かった為に自主練に付き合ってもらっていた。
「……ふぅ、ちょっと休憩」
「お疲れ」
「ありがと」
ペットボトルを取り出して、渇いた喉を潤す。
「マーチングってめっちゃ体力使うんだよ。フラついたり隊列が乱れたりするとすぐに分かっちゃうから、そうならないように練習で鍛えてる。案外、私含めてみんな腹筋割れてるんだよ」
半袖のシャツから伸びる、無駄な肉が削ぎ落とされたしなやかな腕。身長も中学の頃より伸びたようだ。梓の洗練された体躯は誰もを魅了するだろう。それは間違いなく、梓のストイックな性格が起因していた。立華のパフォーマンスは日本一であるのは、梓の語る練習量に裏付けされている。隆翔であれば三日で音を上げる。
「俺には無理だ」
「そんなことないよ」
「ある。ついこの前まで帰宅部だぞ。根性足らんって言われたらそれまで」
「あー、確かにね」
「肯定されてもなんか釈然としないんだよな……」
「自分で言ったんじゃん」
カラカラと笑う梓に、隆翔は溜息を吐く。
「でも、北宇治も参加してるじゃん、サンフェス」
「サンフェス? 何それ」
首を傾げた隆翔に、梓は信じられないと言った表情を見せた。
「え、知らないの!? 宇治に住んでるのに。毎年五月に太陽公園でやってるマーチングフェスだよ」
「え、知らない……俺吹部に復帰したの六月だし」
「じゃあ知らないのも仕方ないか」
「ちょっと待て。北宇治もそれに出てるのか?」
「そうだよ」
頭を抱えた。奏者への復帰で悩んでいたが、サンフェスとやらに出場するなら復帰しない方に傾きつつあった。
「そんなに残念がらないでよ。最初は本当に大変だけど、慣れてみれば意外と楽しかったりするよ」
「ありがたいアドバイスどうも」
「まったく……っていうか、サンフェスに出るか悩むって事は、奏者に戻るつもりなの?」
「ああ、この前顧問に頼まれて、今は保留にしてもらってる」
ガタンとベンチから梓が立ち上がった。右手に持ったペットボトルがペキペキと悲鳴を上げている。
「やるべきだよ! もう一度、もう一度っ……!」
街灯の光を大型バスが反射して、梓に影と光の波を投影させていた。興奮した梓は頬を上気させていた。
「ずっと、隆翔が吹かないことに後ろめたさがあった。中学の頃、私がもっと庇えてたら三年になっても隆翔と一緒に演奏できたのかなって。だから府大会で会えた時は、また隆翔が音楽に戻ってきた嬉しさがあった」
梓の手が隆翔の肩に触れる。ベンチに項垂れた隆翔の高さに合わせるように、彼女も屈んだ。
「もう一度吹こうよ、一緒にさ。約束したじゃん」
「……そうだったな。すっかり忘れてた」
「まだ悩んでる?」
「うん」
「……そっか」
梓は踵を返すと、トロンボーンの管に思いっきり空気を送り込んだ。
ヴァーン、と普段なら出さない、荒々しい梓の音が宇治川にこだました。
「じゃあ、うちらの演奏見に来てよ。後悔はさせないから」
勝ち気に微笑む梓を思い出す。エースの自覚か、それとも友達への情か。覗かせる自信なども全部ひっくるめて、梓は高校生活をマーチングに懸けてここまで来たのだ。そんな生き方は隆翔にはできない。だからこそ、一度でいいからその勇姿を目に焼き付けてみたかった。
ホールに入ると、既に何校かはパフォーマンスを終えていた。立華の順番は十五番目だ。アナウンスは八番目の演奏が終わったことを告げていた。
コンテストのパンフレットを開くと、名だたる関西の強豪校が並んでいた。座奏で行われるコンクールでも関西大会や全国大会常連校が群雄割拠する。コンクールを重視し、その練習しか行っていない北宇治は、マーチングでも好成績を収める彼らと何が違うのか。練習風景や学校の特色による違いはあろう。
ただし北宇治も負けてはいない。滝の旧知である橋本や新山などの臨時顧問の教え方は本物だ。来年、北宇治が全国金賞を本気で獲りに行くならば、今まで以上に彼らの献身に翻意になるしかない。
十番目の学校が演奏中、マナーモードにしたスマートフォンが震動した。便りの主は梓だった。
『会場来てる?』
『来たよ』
『良かった。ちゃんと見ててね』
梓のメールに『任せとけ』と返信する。
送られた文章は短かったが、逆に梓らしくもあった。そこに宿る信頼や、本番に対する緊張は一切見せない強さがあった。
『続いての演奏は、十五番、京都府代表立華高校です』
いよいよ立華高校、梓たちの出番だ。
キャーという歓声を上げながら、水色のスラリとした衣装を纏った部員たちが列を形成していく。迷いなく自分の立ち位置まで走り、ピタリと立ち止まる。統率された動きの片鱗がそこに表れていた。
隆翔から見て左に陣取る、長い管を装備した楽器。小柄で、高い位置で結んだポニーテールが目印の梓はすぐに見つかった。
肩にスカーフのかかった女生徒が指揮台から大きく手をあげる。ドラムメジャーだろう。その立ち位置にある重圧を思うと、みぞおちの下がきゅうっと締まった。全観客の視線を一点に集める彼女は、その重圧を楽しむかのように笑顔で各パートに視線を送っていた。
「ワン、ツー!」
寸分の狂い無く一歩目を繰り出すと、会場中が息を呑んだ。恐らく、この会場のすべての観客が彼女たちを観るためにここまで残ったのだろう。
立華のマーチングはその名声に違わない程高いクオリティを常に維持し、それだけ我慢が多いであろうに、その感情をおくびにも出さない程晴れやかな表情で演奏している。そう、演奏が生き甲斐かのように。
やがて、隆翔にも聴き馴染みのあるメロディーが奏でられる。立華のシングだ。
右、左と交互に繰り出すステップ。しかし、彼女たちの上半身は一切ぶれない。ぶれない上半身で奏でる音楽はドラムメジャーの指示を正確に演奏する技術がある。人間はここまで出来るのかと、隆翔は乾いた口内に溜まる唾液を呑むことしか出来なかった。
くるりと反転した彼女たちの中には、溢れんばかりの笑顔でトロンボーンの長い管を自由自在に操る梓の姿があった。隆翔はその姿に釘付けとなった。梓も隆翔の座っている位置に視線を送った。
二人の視線が交差する一瞬の間隙に、梓は最高の笑顔を送ってきた。
楽しい、演奏はこんなにも楽しいと訴えかけるように。
七分間の短い演奏だったが、会場はその圧倒的なパフォーマンスに揺れていた。
隆翔は立華高校の演奏を初めて見た。その機会が全国大会を懸けた関西大会というのは幸運だった。
立華だけではない。関西に上がってきた学校はすべからく実力がある。
会場がどことなくそわそわと落ち着きのない雰囲気になってきた。まもなく結果発表が行われる。今日演奏した学校の生徒が一糸乱れること無く整列し、その中には終わったばかりの立華高校の姿もあった。
壇上に小太りの男が歩み出る。いよいよ結果が公表される。
一番手の学校から順番に賞状とトロフィーが授与される。立華は最後の演奏だったので、呼ばれるのも最後だ。
しかし、彼女らに結果に対してざわつく素振りはない。
これが王者の貫禄だろうか。堂々と、そして淡々と自らの学校の順番が来るのを待っている。そしていよいよ、その時は訪れた。
『十五番、京都府代表立華高校、ゴールド金賞』
観客席から歓声と拍手が沸いた。縦列に並ぶ水色の人垣からは安堵の溜息は聞こえても、歓喜の声は上がらない。それが信条であるかのように、彼女らは最も求める結果を静かに待っていた。
その後も次々と結果が発表され、いよいよその時間が訪れた。
『続きまして、来る十一月に大阪城ホールで行われます全日本マーチングコンテストに関西代表として推薦します学校を発表します。三校ございます』
場内は静寂に包まれた。しかし、期待に燃える熱気はメラメラとホールを支配していた。立華以外の演奏も素晴らしかった。そして、金賞に選ばれた学校はどれも溜息を漏らしてしまうほど統率され、洗練された演奏と隊列であった。
立華が選ばれないかもしれない。その現実も、確かに隣り合わせで存在していた。
『一校目、三番、大阪府代表、大阪東照高等学校』
淡々と読み上げられた校名は、誰もが納得の選考だった。場内を暖かい拍手が彼らを包んだ。
『二校目、十番、大阪府代表、三輪自由学園高等学校』
キャー!、という色めきだった歓声が沸き上がる。隆翔は知らない校名だった。無名、という程でもないが、全国には初選出である。響めきと共に、場内は緊張感に包まれた。
立華の二つ前に演奏した兵庫県代表の滝上第二高校は、全国大会の常連校である。高校吹奏楽の勢力図を半年前に叩き込まれた隆翔でさえも、その名前は目にしたことがあった。
十三番か、十五番か。冷たい汗が頬を伝った。
場内の静寂に逆らうようにして、壇上で発表する審査員の口が開いた。
『三校目、最後の代表です』
誰から発せられたかも分からない、ゴクリと唾を飲む音。心の中で手を合わせて、その名前が呼ばれるのを静かに待った。
スゥっと短く吸った息の音をマイクが拾って、野太くもはっきりした口調で場内に響き渡った。
『十五番、京都府代表、立華高等学校』
「よしっ」
無意識に出た歓喜の声は、立華高校の生徒が発した水色の歓声に掻き消された。彼らは、重圧と期待の狭間でやってのけたのである。結果発表中、ずっと握っていた拳は汗でびしょびしょに濡れていた。
抱き合って歓喜に沸く彼女たちの表情には、涙と笑顔の花が咲いていた。
高校の部が終われば中学の部がすぐに始まるため、結果発表の後は余韻を味わうこともなく全員があっさりと退場した。
「隆翔!」
退場口に近い客席に座っていた隆翔を見つけた梓が手を振っている。
梓に応えて、隆翔も手を振る。そして客席の最前列に移動して梓を労った。前髪が汗で額に張り付いている。
「全国おめでとう!」
「隆翔も、見に来てくれてありがとう!」
満面の笑みだった。いつも自転車の後ろに乗る小柄な彼女だが、今日に限ってはどこまでも大きな存在に見えて仕方なかった。
そして小さくサムズアップして、梓はツインテールの友人と共に退場した。
覚悟を決めなよ、と言われているようだった。もう一度フルートを持つ覚悟を。
先月の関西大会、悲嘆の涙に暮れる北宇治の生徒、河原で泣き崩れた希美の姿を思い出した。自分が演奏していないのに悔しかった。完成された演奏に、必ずしも結果が伴うとは限らない。
あの時の北宇治は、歓喜に包まれる立華高校とは対照的だった。
心がチリチリと焼けるような痛みを覚えた。突き動かしたのは、希美が果たせなかった全国金賞の夢だ。その想いを俺が背負うしかない。
隆翔の心に燻る熾火は、みるみるうちに立ち上る焔となった。
翌朝、普段よりも早めに登校した隆翔はまっすぐ職員室へと足を運んだ。
「では、早速今日から合奏練習に加わってください。楽譜は準備できていますか?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
滝は一息入れ、眼鏡を丁寧に拭いた。
「府大会の日に、私が貴方に言った言葉を覚えていますか?」
「はい。あの時から、先生に誘われてましたから」
「ええ。樟葉くんの実力はお二人から伺っています。私としては、傘木さんと井上さんが抜けたフルートに貴方が入ってくれることが大変心強い。一緒に頑張っていきましょう」
「よろしくお願いします」
隆翔は姿勢を正して、再度滝に頭を下げた。
「あれ、樟葉?」
背後から黄前の声がした。朝練終わりに、音楽室の鍵の返却に来たのだ。
「朝練お疲れ様でした」
「あ、はい。鍵お返しします」
かちゃりと音を立てて滝の手に音楽室の鍵が収められた。
用事の終えた二人は職員室を後にした。
一歩前を歩く黄前の後ろ髪が、歩く度にふよふよと揺れている。
「樟葉はなんで滝先生のところにいたの?」
「ああ、今日から俺もフルートパートの一員だから。よろしく、新部長サン」
「はぁ!?」
黄前は寝耳に水と言わんばかりに、その場で硬直した。
「ちょっと! 聞いてないんですけど!」
北宇治高校吹奏楽部マネージャー兼フルートパート副リーダー。隆翔の新しい肩書きだ。
一切の不足はない。希美の無念を晴らすための、挑戦の一年が始まった。
【つづく】