或る、フルート吹きの青春   作:ハヤブサ320

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あけましておめでとうございます。
コミケの作業等もあり、久しぶりの投稿となります。

アンコン編が始まります。


四章 黄昏
EP.18 アンサンブルコンテスト① −Acacia−


 制服が夏服から冬服に移行した十月も下旬に差し掛かり、にっくき学校への上り坂に汗ばむこともなくなった。京都には昨今すっかり短くなった快適な季節が訪れていた。

 

 梓が全国大会出場を決めた関西マーチングコンテストから一ヶ月が経過した。その後、約三年振りに佐々木家との交流も復活した。母が梓の全国大会出場を祝福したいと懇願したために、小さな祝勝会が樟葉家で開かれた。

 その宴席で隆翔はフルート奏者への復帰を打ち明けた。安堵した母と梓の表情は今でも目に焼き付いている。

 

 一方、恋人である希美は吹奏楽部を引退した。みぞれが目指すことになった音大への憧憬に蓋をして、現在は私大の推薦入試に向けて邁進している。

 希美とみぞれの関係性は二人のものだ。隆翔が指図することではない。しかし、みぞれが希美に対して抱いていた友愛の感情を希美は知る義務があった。でなければ余りににみぞれが浮かばれない。隆翔はその仲介を買って出て、希美を説得した。二人が何を語り合ったかは分からないが、みぞれに対する確執は一旦の落ち着きを見せた。

 

 隆翔の周囲で起こることの全てが順風満帆とはいかない。それでも帰宅部で燻っていた時間に比べたら圧倒的に濃密な体験が出来ている現状に、得も言われぬ充足感があった。

 

 

     ◇◆◇

 

 

「流石に眠いな」

 

 自然と漏れ出る欠伸を噛み殺しながら隆翔は学校へ向かう坂道を上っていた。現在は午前七時半。帰宅部の頃は大体この時間に起きていた。特段早起きが苦手ということはない。それ故に黄前や高坂には劣るものの、早朝練習にもしっかり顔を出していた。

 

「おはよ」

「おはよう」

 

 音楽室には既に高坂の姿があった。

 

「随分早いな。まだ十五分前だ」

「電車使わないんだからアンタも早く来れるでしょ」

「来ようと思えばね」

「何それ……真面目なんだかそうじゃないんだか」

 

 高坂はむすっと顔を蹙めた。

 高坂は隆翔の家庭事情を知らない。

 隆翔が帰宅部の頃は、母と起きる時間が同じであった。その為、朝食なども準備してもらうことが多かった。しかし、部活を再開して以降は隆翔の方が早起きな為、準備や簡単な家事を含めて自分でする必要があった。隆翔の父がドイツへ単身赴任しているので、母と一人息子の二人暮らしだ。母の為にも家事は分担したかったし、その事を苦に思ったことも、他人にひけらかすこともしなかった。

 

「黄前は一緒じゃないの?」

「久美子は職員室」

「あいつも大変だな」

「そろそろ慣れてほしいんだけどね」

 

 高坂は苦笑いで親友を憂いた。

 黄前は人前で話すことが苦手だ。部長就任の挨拶では何度も噛んでいたし、部長時代の優子に倣って形から入れば声が上擦って変な違和感を与える。良く言えば物腰の柔らかな受け入れやすい雰囲気があるが、高坂はお気に召さないようだ。

 程なくして秀一が教室に現れ、それに続くように黄前も入室した。

 

「よっ、重役出勤」

「お前らが早すぎなの」

「久美子も、塚本と一緒だなんて隅に置けないわね」

「冗談やめてよれーな。そこで会っただけなんだから」

 

 そう言って、塚本の肩に一発拳を突き立てた。

 

「痛えな」

「うるさい」

「イチャつくな」

「「イチャついてないし!」」

「息ぴったりね」

 

 姦しくも息の合った幹部が、北宇治高校の新幹部だ。全員が北中吹奏楽部出身ということもあり連携は十分取れるだろうという先代部長、吉川優子の判断だった。

 メンバーが揃ったところで今日の議題が取り沙汰される。

 

「アンサンブルコンテスト?」

「ああ、懐かしいな」

 

 秀一が何かを思い出したようだ。隆翔にもその心当たりがある。

 北中ではコンクールに左右されない同時期に、小編成を組んでアンサンブルの部内発表をしていた。そのため、この場にいる四人には覚えがあった。

 しかし、今回のような吹奏楽連盟主催の大会に出場したことはない。

 

「一編成三人以上八人以下の少人数で、演奏時間が五分以内でなきゃいけないんだって」

 

 黄前の用意したコピーにはそう書かれたタイトルと開催日時が記されていた。付け加えるように高坂が言葉を連ねる。

 

「コンクールと一緒で、府大会、関西、全国と上がっていく感じね。ただ……」

「うん、各校一組しか参加できないから、どの編成を向かわせるかという問題があってね」

 

 なるほど、と隆翔が頷いた。

 先日行われた演奏会で三年生が仮引退し、次世代幹部の任命があった。部長には一年生指導係として活動してきた黄前久美子。副部長には二年生代表を務めた塚本秀一。そして新役職であるドラムメジャーには、音楽知識や技術に最も定評がある高坂麗奈が就任した。

 隆翔は奏者に復帰したがマネージャー兼任で役職としては据え置きだ。ただし幹部ではない為、幹部会議は必要とあらば参加する方針で三人から承諾を得ていた。

 アンサンブルコンテストは少人数編成での活動となる。各々で決めたメンバーで、練習の裁量もすべて自分たちで決めなければならない。負担は大きいが、例年と違うことをしなければ上には行けないという判断なのだろうか。

 考えを巡らしていると、これまで黙っていた秀一が一つの案を提示した。

 

「じゃ、文化祭以来やってない演奏会で判断するのが良いんじゃね?」

「というと?」

「誰もが納得する選考をするのは、自分達で聴いて決めるしかないんじゃないかなってことだよ」

「選考は滝先生じゃだめってこと?」

 

 訝しむ高坂を尻目に、黄前は苦笑いを浮かべている。

 

「そうじゃねえって。今までは先生達に一任してきたけど、生徒同士で音の善し悪しを考える機会を設けても良いよねって話だよ」

 

 隆翔を含め、秀一の言葉に皆が驚かされていた。彼は決して秀才ではないが、時折妙に冴えている瞬間がある。高坂も黄前も面食らっている。

 

「なんか強豪校っぽいやり方だな」

「確かに。というか正直、秀一が建設的な意見を言ってくるとは思わなかった」

 

 あーあ、思っても口に出さなかったのに、と隆翔は黄前を一瞥した。

 

「アタシも同意見。今までで一番幹部っぽいことしたと思った」

「お前らな!」

 

 和気藹々とした雰囲気に隆翔の頬が緩んだ。三人とは五年もの時間を共にしていた。その間には凍り付いた時間も存在したが、隆翔の中では既に氷解に導かれたと確信していた。

 

「とりあえず編成決めに一週間。メンバーの集計は樟葉にお願いしようと思ってるけど、どうかな?」

「問題ないよ」

 

 隆翔の言葉に黄前はコクリと頷いた。

 

「では各グループは決定次第、練習を積んでもらって、十二月初旬に校内予選を行います。今日の部内ミーティングでアンコンの事は伝えるとして、決定事項はこの後私と麗奈で滝先生に伝えます」

「オッケー。じゃ、また部活で」

 

 秀一の一言で幹部会議は散会となった。

 幹部三人で職員室へ行くかと思えば、秀一は隆翔の隣で二人を見送っていた。

 

「副部長、お前は行かなくていいのかよ」

「いいんだよ。また高坂に睨まれちまう」

「高坂が? なんで」

「知らないのか。高坂が滝先生に惚れてるんだよ」

 

 隆翔は目を白黒させた。教師と生徒の禁断の恋というやつだろうか。あの高坂麗奈からは想像できない、あまりに強いギャップであった。

 

「まさか付き合ってたりしないよな」

「な訳ないだろ」

 

 秀一はけらけらと笑いながら隆翔の肩を強めに叩いた。しかし、誰がどこで聴いているか分かったもんじゃないので、話はこれくらいにしなければならない。高坂に知られたらどんな仕打ちが待っているか、秀一と隆翔は彼女の怖さを痛いほど知っていた。

 

 

     ◇◆◇

 

 

「やらかした……」

「形から入りすぎ」

 

 放課後、最初に行われる部内ミーティングにおいてアンサンブルコンテストの説明がされた。黄前は優子のカリスマ的仕草を真似て大失敗し頭を垂れていた。それを横目に隆翔は部員名簿に目を通していた。アンサンブルコンテストには、奏者に復帰した隆翔も例外なく参加する。その為、隆翔に降った喫緊の課題はグループに入れるかというところであった。

 不安を吐露した隆翔に、高坂が話し掛ける。

 

「今までマネージャーで分け隔てなく接してきたんだから大丈夫でしょ」

「一部パートには随分と入れ込んでたみたいだけどね」

「そこは許してくれ。自分の楽器だし」

 

 実際、フルートパートの教室で練習を見る時間は多めに取っていた。希美に惚れ込んでいたこともあったが、もっと上手くなるためには自分よりも上手な生徒の演奏を間近で見ることに意義があったからだ。

 

「樟葉の実力は元北中の生徒ならそれなりに覚えてる子もいるだろうけど、北宇治には北中出身が少ないからね。これからの実力で訴えていくしかないね」

「余ったら拾ってやるよ」

 

 秀一の余計な気遣いに、高坂の眉間の皺が寄った。

 

「アンタだってメンバーのアテがないでしょう」

「まあまあ」

 

 以前より何かと衝突しがちな副部長とドラムメジャーを黄前が仲裁する。

 秀一と黄前は合宿の最中に交際関係を解消した。実際は恋愛関係の保留という形に収まったが、一時期はこの二人に流れる空気は乾き切っていた。それが部長と副部長という関係となって、無理矢理にでも関わらざるを得ないのだから人生は分からないものだ。

 結果的に黄前が振ったことで生じた軋轢は解決されたようだった。任ぜられた新たな立場がそうさせたのか、付き合いの長い二人の空気感がそうさせたのか。何はともあれ、親友の悩みが解消されたことは好ましいことであった。

 

「久美子は誰と組む予定なの?」

「別に決めてないけど。多分、グループを組めなかった子のフォローに回ることになるかなぁ」

「じゃ、まだ誰とやるかは決めてないんだ」

「いま決めてる子の方が少ないでしょ。麗奈は決まってるの?」

「決まってない。ただ、なあなあで済ますような子は嫌」

 

 その言葉は厳しいように見えて、至極まっとうな筋を通していた。やるからには本気で、常に魂を込めて演奏に励む高坂の背中は、中学時代よりも凜々しく見えた。

 黄前、高坂、秀一の三人は滝先生へ報告するために途中で隆翔と別れた。隆翔はフルートケースを持って、パート練習の教室へ向かう。

 フルートパートの教室では、既に後輩たちが練習に勤しんでいた。

 

「樟葉先輩、こんにちは」

「こんにちは。アンコンのメンバー決まった?」

「一年生で組もうって話になってるんですよ」

 

 膝を突き合わせて基礎練習に打ち込む一年生。話題は早速アンサンブルコンテストの組み合わせについて盛り上がっている。

 南中吹奏楽部出身で希美の直属の後輩に当たる江藤香奈。未経験者ながらよく気が付くことで先輩からの覚えが良い平石成美。おっとりとマイペースで掴み所がないが、映画趣味が隆翔と合う山根つみき。三人寄れば姦しいとも言えるが、文殊の知恵も生み出せると期待を寄せていた。

 希美と前パートリーダーであった井上調が引退した後、フルートパートは二年生三名、一年生三名の合計六名での活動を余儀なくされていた。技術的に卓越していた希美はともかく、唯一三年間活動した井上はここの精神的支柱だった。その為、三年生が抜けた後のフルートパートの戦力ダウンは顕著であった。

 そこで白羽の矢が立ったのが隆翔である。滝と高坂の進言によって、隆翔は奏者への復帰を果たした。技術は希美に及ばず、信頼感では井上に劣るが、現在は猫の手も借りたい状況なのだ。

 

「樟葉先輩は誰と組むか決まったんですか?」

「まだだよ」

「あ~。人数多いですけど、どうしても余っちゃうことありますもんね」

「のぞ先輩がいたら絶対組みたかったな。三年生の先輩は参加出来ないんですか?」

 

 希美への憧憬を語るのは江藤だ。彼女は南中からの経験者で、希美の直属の後輩に当たる。希美が部長をしていた頃の一年生であり、彼女のカリスマ性に影響された一人でもある。

 

「先輩達は受験生だし、流石に声かけてないよ。我慢してね」

「はぁい」

 

 二人は落胆したように肩を落とした。その光景に、自分の彼女が信頼されていることは悪い気はしない。むしろ嬉しかった。

 

「おはよう」

「おはようございます!」

「全員揃ったね。練習始めようか」

「はい!」

 

 二年生三人、リーダーを引き継いだ高橋沙里、小田芽衣子、中野蕾実が遅れてやってきた。性格は三者三様であるが、おっとりしながらも芯のある高橋、独特の感性を持っている小田、のんびりした口調と包容力で後輩人気の高い中野。そして先月から奏者としてパートに加わった隆翔の二年生四名で構成されている。

 

「先輩方はアンコンの編成決まったんですか?」

「一応、この三人で組もうってなったよ」

「フルート三重奏ですか? いいですね!」

 

 山根の質問に、小田が高橋と中野の肘を組んで手繰り寄せた。

 するとクラスメイトでもある中野が、隆翔に歩み寄った。

 

「樟葉くんは誰と組むか決まってる?」

「まだ。とりあえずグループを集計しながらって感じになるから早めに決めたいんだよね」

 

 この部において最も経歴の浅い隆翔が一番危惧していたことは、こうしたグループ絡みのことだ。マネージャーというある意味他の部員と隔絶された役職であれば与えられた仕事を熟せば良かったが、奏者兼任ともなるとそうは行かない。他の部員と適切な距離感を保ちつつ、楽器を吹きながら自分に与えられた仕事に邁進する労力は想像以上の労力であった。

 

「なら、私たちと吹く?」

「へ?」

 

 隆翔の悩みとは裏腹に、二人に耳打ちしていた中野の提案は予想外のものであった。

 

「でも、やりたい曲とかあるんじゃないの?」

「まだ曲は決まってないし、カルテットの方が曲数も多いからやりやすいかなって沙里が」

「私じゃないよ!」

 

 揶揄う小田に高橋が顔を真っ赤にして否定する。とは言え、隆翔としては願ってもない提案であり、断る理由がなかった。

 

「……じゃあ、是非ご一緒させてください」

「ん、決まりね。メンバー表は後で提出するから、ちょっと待ってて」

「了解」

 

 悩みの種であったアンサンブルコンテストのメンバーもあっさりと決まり、隆翔の考え事は別の方面へとシフトした。

 

「基礎練習始めます。音階からアンブシュワまで通しでいきます」

 

 高橋の号令に全員がフルートを構える。調律された音が膨れ上がって、心地よい振動が下腹部を刺激する。

 合奏こそ吹奏楽の醍醐味だと言っていた希美の笑顔が思い浮かぶ。今頃は第一志望の私大への受験勉強が佳境に差し掛かっているだろう。最愛の恋人への労いも込めて、希美から受け継いだ意志を音に乗せた。

 

 

     ◇◆◇

 

 

 パート練習の合間を縫って、隆翔のもとには次々とメンバー決定の報がもたらされる。

 最初に表れたのはホルンの一年生だった。手渡されたメンバー表にはホルンを表す記号である『Hr』が三つ。

 

「もしかして、ホルン三重奏?」

「そうです。ライヒャの『六つのトリオ』をやろうと思ってて」

 

 一年生部員ははにかみながら答える。一年生の屋敷、土屋を二年生の瞳ララが支える形だろうか。

 名簿に書き記していると、何か聞きたげにもじもじと指をこすり合わせながら隆翔を見つめていた。

 

「どうしたの?」

「樟葉先輩は、もう決まってるんですか?」

「うん、フルート四重奏になったよ。曲は任せてきちゃったけど」

「へえ、素敵ですね」

「やたら難しい曲持ってこられても困るけどね。高橋はともかく、小田はその辺こだわりそうだから」

 

 自嘲気味に眉を顰めて苦笑いすると、一年生の子は緊張が解けたのか笑顔になった。

 ホルンは木管でも金管でも活躍できるため、こうした少人数編成では大変重宝される。貴重なホルン隊がトリオを組んだ情報は瞬く間に部内を駆け巡りメンバー決めに苦戦する人たちを震撼させた。

 

「え、ホルン売り切れ!?」

「まさかホルン三重奏とは……」

「だから早く勧誘しておけば良かったのに」

「パーリーの森本先輩は?」

「既に高坂先輩が勧誘したって」

 

 吹奏楽部は蜂の巣を叩いたような騒ぎとなっていた。

 その傍らで我関せずと言った様子でオーボエの基礎練習を続ける鎧塚みぞれの姿があった。

 一階の廊下、階上の喧噪とは隔絶され、陽光も差し込まない薄暗さも相まって異様な空間が広がっていた。

 

「みぞれ先輩」

「……樟葉くん」

「今日も練習ですか?」

「うん。音大受験で、滝先生がここ使っていいって」

「そうですか」

 

 みぞれと出会った当初は、隆翔に対して機械かのように感情を見せてくれなかった。しかし希美との出来事を介して、みぞれは隆翔に対して少しずつ心を開くようになった。会話が続くのも、その証左であろう。

 彼女の視線が隆翔を捉える。長い睫毛が瞬きする度に揺れた。

 

「……梨々花ちゃん、どう?」

 

 梨々花ちゃんとは、ダブルリードのパートリーダーにして唯一のオーボエ奏者、剣崎梨々花。みぞれの直属の後輩だ。

 みぞれなりに二学年下である彼女の心労を気遣っているのだろう。後輩想いなみぞれの言葉に、隆翔は胸がじんわりと温かくなった。

 

「パーリー唯一の一年生ですけど、ちゃんと自分の意見も持ってますし頼れる後輩ですよ。流石、みぞれ先輩の後輩です」

「そんなことない。私は何もしてあげられなかった」

「いや、そんなことは……」

 

 と言って、隆翔は口を噤んだ。

 

「先輩が労ってたぞって、彼女に伝えます」

「うん、そうしてほしい」

 

 みぞれの真意が隆翔へ正確に伝わり、頬が少し綻んだ。

 ほとんどの部活では大会が終了し、放課後に校内で三年生を見かける機会もめっきり減ってしまった。みぞれのような例外を除いて殆どの受験生は学習塾などに通うため早々に下校している。

 

「なんか、学校から人が減ったような気がする」

 

 フルート四重奏の面々である小田が、がらんとした三年生の教室を見て呟いた。

 

「減ったんじゃなくて、みんな帰ったんだよ。来年の私たちもこうなってるよ」

「いやあああ、言わないで! まだ部活してたい」

 

 至極真っ当な高橋の言葉に小田は大袈裟に耳を塞いだ。現実を直視したくない気持ちが前面に表れている。

 

「……そっか、私たちももうすぐ卒業か」

「とはいえ、まだ一年はある」

「あっという間だよ、一年なんて」

 

 皆平等に時間が流れる。この先の未来に何が起こるかなんて誰も分からない。そう思うと、子供でいられる時間がとても刹那的に思えてきた。

 

「とりあえずアンコンだな。曲は決まった?」

「三人で話し合って『はなのゆくえ』にしたよ」

「楽譜は?」

「楽器室にあったのを持ってきた」

 

 高橋は腕に抱えたファイルを隆翔に見せた。

 フルートによるアンサンブル楽曲では新興的であり、美しい花の一生を表現する。諸行無常のような側面も然る事ながら、花が咲き開くことの自然美にフォーカスを置いている。

 

「良い選曲だな」

「そう?」

「校内予選突破は難関だけど、観客の印象に残り易いんじゃないかな。大人数で演奏するよりも、少人数で観客を魅了するのは難しいからさ」

「確かに」

 

 隆翔の言葉に中野が肯定する。

 

「さっそく練習に取り掛かろう。高橋はピッコロじゃなくていいのか?」

 

 今年のコンクール編成では、フルートよりも小さく高音の出るピッコロは高橋が担当していた。しかし、アンサンブルコンテストではその縛りを解消し、高橋はフルートに持ち替えて演奏していた。

 

「うん。来年からはつみきちゃんがピッコロの担当になるから、私はフルートに戻るよ」

 

 この一件が初耳だった隆翔は、名簿に記載のある高橋の担当楽器をピッコロからフルートに書き換え、一年生の山根つみきがピッコロとなるように訂正した。他にもサックスパートで担当楽器の変更があるなど、新体制への移行期間であることを実感した。

 アンサンブルの演奏には指揮者がいない。全て奏者同士でタイミングを計りながら演奏する。息の合った演奏にはリズム感以上にコンビネーションの高さが求められた。

 高橋の演奏は上手かった。一年間ピッコロを担当していながら、フルートに持ち替えたとてその技術は劣っておらず、グループのファースト奏者としてその実力を遺憾なく発揮するだろう。

 高橋と共に二年連続でコンクールメンバーに選ばれている小田や、今年のコンクールメンバーでもあった中野も当然技術がある。楽譜を一目見て出したい音を出す。練度はそれぞれ違えど、その域に達するまでは相当の練習量が必要である。そして、北宇治の練習量にはその説得力があった。

 奏者として三年のブランクがある隆翔は焦っていた。このままでは、来年のコンクールメンバーとして舞台に立つことすらも危うい。

 以前より内心で燻っていた思いに隆翔は決心を抱き、早速母に伺うことにした。

 その日の夕食でのことだった。

 

「お母さん、相談があるんだけど」

「あら、なあに?」

 

 ほうれん草のおひたしに手を付けようとした母は箸を置いて隆翔に向き合った。

 

「フルートの教室に通いたいんだ。やっぱり三年のブランクは厳しい。まだ、俺の実力じゃコンクールに出られるかも怪しいんだ」

 

 吹奏楽というのはとにかくお金がかかる。半年に一度徴収される部費はもちろんのこと、合宿や遠征ともなれば追加で工面する必要もある。楽器のメンテナンスもしなければならない。しかも北宇治は公立校だ。橋本や新山といったプロで研鑽を積んでいる奏者から直接指導を受けることなど通常では有り得ないことであり、一部は学校側が負担するとはいえ、その依頼料も考えれば他の部活よりも出費は多くなった。

 隆翔はその上で更に個人レッスンを受けたいと願い出たのだ。樟葉家は貧乏ではないが、お金が有り余るほど裕福ではない。通常ならば必要のない出費を懇願していることに良心が痛んだ。

 

「北宇治って、そんなに強いのね。お母さん、音楽の善し悪しはよく分からないけど、隆翔がそう思うなら信じるわよ」

「もっと上手くなりたいって思ったんだ、フルート」

 

 身体の前で手を組む。じっとりと手に汗が滲む。無理な願い事であることは百も承知だ。しかし、同じ楽譜、同じ音なのに高橋や小田とフルートの実力差を見せられた。

 

「隆翔、なんか隠してることない?」

「え?」

 

 母は隆翔を覗き込んだ。まるですべてを見透かしているように。

 いやむしろ、一緒に暮らしている母に隠し事をしているのは健全ではない。隆翔が隠していること、それは一つしかない。

 

「……実は、彼女が出来たんだ」

「あら!」

 

 隆翔のカミングアウトに、母は表情を明るくした。とんでもなく顔が熱い。

 

「どんな子?」

「部活の先輩。性格はちょっとだけ梓に近いかな」

 

 と、言ってみたところで、梓とは快活さだけで希美の性格は全然違う。もっと情熱的で、悔しさを露わにして、人間くさくて。希美のことを考えると自然と頬が緩んだ。

 しかし、母は息子である隆翔の変化に目敏い。隆翔自身、吹奏楽への心情変化の感覚は薄いが、希美という大切な存在が生まれたことで無意識的な姿勢が少しずつ変化していった。上手くなりたい、希美に認められたいという思いは、確実に膨れ上がっていた。

 

「というか、よく分かったね」

「分かるわよ、あんたのことだもの。フルート教室の件、お父さんに連絡を取ってみるわね」

「ありがとう」

「あと、安田先生にもね」

 

 安田とは、隆翔が小学生の頃に通っていたピアノの講師だ。

 

「なんで安田先生?」

「多分、あの人なら良い先生知ってるかもしれないから」

 

 音大出身の安田の人脈に頼る。隆翔は母の慧眼に溜飲が下がった。

 

「じゃあ、お願いしようかな」

「分かったわ」

 

 母は喜んでいた。フルートに本気になったからなのか、それとも息子に初めての恋人ができたからかは分からない。

 学校に部活、そしてフルート教室へ通うこと。今後は多忙となり、間違いなく茨の道だ。

 希美とは、彼女の受験シーズンも相まって一度しかデートをしていない。

 寂しいかと言われたら嘘になる。希美は毎日学校が終われば図書室で勉強していた。苦手な文系教科にも果敢に取り組んでいる。努力に費やす時間は平等だ。しかし、必ずしも結果が伴うとは限らない。それは希美が一番知っている。あんな思いはもうたくさんだ。

 希美に釣り合える人になりたい。フルートでも、人間性でも。それが隆翔の原動力であった。

 

 

     ◇◆◇

 

 

 数日後、安田から連絡があった。彼の音大の後輩で、水谷というフルート奏者が中書島駅の近くで教室を開いている。安田が推薦するだけあって、その奏者は輝かしい経歴を持っていた。

『管楽LESSON水谷』の塾長、水谷理恵子。大阪の音大を卒業後、東京の交響楽団に入団。ヨーロッパでの演奏経験も有する。結婚を機に京都へ帰郷し、フルートを中心とした木管楽器専門教室を開講した。この教室には学生から社会人まで幅広い年代が所属しており、中学、高校生は毎週木曜日と土曜日がレッスン指定日となっていた。

 隆翔の音楽への傾倒の道筋を作った安田の計らいに感謝し、隆翔は入会手続きをした。

 そして一週間後、レッスン初日を迎えた。部活が終わって下校後、レッスンは十九時から始まる。学校の最寄り駅から三駅ほどの距離であるため、今後は自転車通学も考えようと中書島駅へ向かう京阪電車の中で思案した。

 雑居ビルの三階に構える教室の壁には、一面に有孔ボードが敷き詰められている。広さといい雰囲気といい、学校の音楽室そのものであった。

 受付係に講師専用の控え部屋に通された隆翔は慣れない空間に緊張している。安田の紹介する人なので信頼を置いているが、隆翔でも初顔合わせは背筋が伸びるものだ。

 やがて、母より少しだけ若い女性が部屋に現れた。

 

「こんばんは。講師の水谷です」

 

 突然現れたことに虚を突かれた隆翔は慌てて椅子から立ち上がった。

 

「は、はじめまして。今日からお世話になります、樟葉隆翔です!」

「あら、緊張しているの? ダメよ、肩の力を抜いて」

 

 身体が強張っていることを瞬時に見抜いた水谷は、隆翔の両肩に手を添えて摩った。

 

「そう、そうして身体に余計な負荷が掛からないようにして、リラックスした姿勢で演奏しなきゃね……よし!」

 

 水谷は緊張が解けた隆翔に微笑んだ。

 

「改めまして、ここの講師をしている水谷理恵子と言います。樟葉くんが言ってたピアノの安田先生からは色々お話を伺ってます。今日はフルートを持ってきてるの?」

「はい。部活帰りなので持参しています」

「あら、学校はどこなの?」

「北宇治高校です」

 

 高校名を聞いた水谷は「あら」と少し驚いたような表情を見せた。隆翔にはその仕草の理由が分からなかった。

 

「去年から関西大会に出るようになったんですってね」

「はい。でも、僕は今年の春に入部したので去年のことは分からないんですけども」

「確か、三年くらいブランクがあるんでしたね。心配しないで、それくらいのブランクならすぐに取り戻せるようになるから」

 

 終始楽観的に、かつ励ますような水谷の言葉が隆翔の心に浸透した。

 

「では早速、レッスン場に行きましょうか」

「はい」

 

 扉一つ隔てた先のレッスン場には、中学生と高校生が約二十人ほど椅子に座って待機していた。皆の前に立つこの緊張感は、隆翔が吹奏楽部で入部挨拶をした時以来であった。

 

「みなさん、こんばんは」

「こんばんは!」

 

 水谷の挨拶に威勢の良い返事がこだまする。

 

「今日も元気そうで何よりです! 今日はみなさんの新しいお仲間を紹介します。樟葉くん、前へ」

 

 水谷は指揮台を隆翔に譲ると、自己紹介を促される。こうなることは予感しており、無難な挨拶を脳内シミュレーションしていた。

 

「えー、はじめまして。北宇治高校二年、樟葉隆翔と言います。フルートを担当しています。みなさんと一緒に切磋琢磨していきたいと思っていますので、どうぞよろしくお願いします!」

 

 隆翔の挨拶に拍手が沸き起こる。ほとんどが制服姿の学生であり、学校帰りに通っていることが伺えた。その中の一人、茶色のセーラー服に赤色のタイ。見覚えのあるその制服は北宇治のものであり、一層こちらを見て微笑んでいる生徒がいる。

 フルートパートの同級生、高橋沙里だった。

 自己紹介と前半のレッスンを終えた隆翔の元に、早速高橋が駆け寄ってきた。

 

「まさか樟葉くんが入ってくるなんて」

「いや、俺もびっくりだよ。習っているとは聞いてたけどまさかここだったとは」

「家から近いからね。私ん家、丹波橋だから」

「なるほどね」

 

 まったく初めての空間に知り合いがいるというのは心強い。普段、学校ではそこまで話さずとも、言葉数は自然と多くなっていく。

 

「沙里ちゃん、彼と知り合いなの?」

 

 隆翔の背後から、水色のブレザーを纏ったボブヘアの女子が話し掛けてきた。

 

「うん、同じ北宇治の樟葉くん」

「へ~。君がサリサリの彼氏くんか」

 その背後から、まったく同じ姿の女子が顔を出した。

「え、どういうこと?」

 まるで幽体離脱したかのような状況に、隆翔は目が点になった。その様子に満足したのか、二人はにんまりと顔を合わせてハイタッチする。

 

「違うから! 変なこと言わないで!」

 高橋は顔を赤く染めて強く否定する。

 二人の制服は梓の着ているものと同じ、立華高校の制服だった。

 

「花音がごめんね。えっと、はじめまして、西条美音と」

「西条花音です」

 一卵性双生児の双子、西条美音と花音はまったくと言って良いほど同じ容姿をしていた。

 

「……見分けるポイントは?」

 瓜二つ、あえて同じにしているのか、どちらが美音と花音か区別はできなかった。

 

「なんだろ。雰囲気?」

「サリサリもよく間違えるよね」

「正直、私は楽器持ってないと分からない」

 

 西条姉妹は、姉の花音がフルートを担当し、妹の美音がオーボエを担当する。もともとは埼玉県の強豪中学出身であったが、高校進学を機に家族総出で京都へ引っ越し立華へと進学した。梓に誘われて見に行った先月の関西大会では、二人ともマーチングではカラーガードを担当していた。

 

「そういえば、この前の関西大会見に行ったよ」

「え、マジで!?」

 

 隆翔の言葉に花音がずいっと顔を寄せる。その勢いに気圧されてしまう。

 

「……うん。知り合いが出てたから」

「知り合いって、立華の?」

「そう。佐々木梓って言うんだけど」

 

 不意に出した幼馴染みの名前を聞いた二人は、顔を見合わせてどこか得心の行ったような表情を見せた。

 

「なるほどね。そういうことか」

「君が、ほお……」

「え、一体なに?」 

「知ってるか分からないけど、吹コン関西前の梓ってちょっと変じゃなかった?」

 

 吹コンとは、吹奏楽コンクールの略称である。マーチングコンテストにも出場する立華はコンクールを吹コン、マーチングをマーコンと省略することがある。

 関西大会前の梓を思い出すと、確かに自信を喪失しているような切迫感があった。やはり、普段の部活動でもその片鱗はあって、付き合いの長い彼女たちでも察知していたのだろう。

 

「変というか、いつもの過剰なまでの自信はなかったかも」

「やっぱりか。そういうとこ、私たちにはあまり見せないんだよね」

「マーコンは元気なのに、吹コンになると一人で抱え込んでるって感じで」

「大変なんだな」

 

 梓はエースとしての自覚があるが故に、抱える重圧が桁違いなのだろう。想像すらもできない責任感に、中途半端な同情を寄せるしかなかった。

 

「でも、大会当日はケロッとしてたよね」

「そうそう。あれは完全に吹っ切れてた。彼氏にでも会ったんじゃないかって噂されてたけど、今日やっとタネが分かったよ」

 

 西条姉妹の所為で、隆翔のあずかり知らぬ方向へ話が進んでしまっていた。どうやら二人は悪戯を好むようだ。

 

「いや、彼氏じゃなくて幼馴染みなんだってば」

 

 重要なことだぞ、と念押しした隆翔だったが、花音と美音はニヤニヤとした口もとを隠して隆翔を値踏みした。

 まさか入会初日から揶揄われるようになるとは思わなかった。

 しかし、隆翔自身でも自覚できるほど吹奏楽一辺倒となった生活は、歯車の回転を速めるように心の充足度を上げていった。

 

 

【つづく】




次回、希美登場回です。

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