或る、フルート吹きの青春   作:ハヤブサ320

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EP.20 アンサンブルコンテスト③ −Flower Crown−

 アンサンブルコンテスト校内予選まで約一ヵ月となったこの日、受験を終えた三年生の優子、夏紀、希美の参加が表明された。

 その報せを最終決定のメンバー表で知った隆翔は呆然とした。卒業を控えている希美と合奏できる最後の機会が失われてしまったのだ。

 

 悲劇はそれだけではない。希美の口からアンサンブルコンテストへ参加する旨の相談は一切なかった。

 実際に受験合格からメンバー最終決定までの期間を考えれば、今回の飛び入り参加はギリギリのタイミングであった。

 その間に起きた出来事を隆翔は知らない。隆翔から仕事を引き継いだ黄前による采配なのだろう。

 仕方ないと思いつつも、胸の内では希美への苛立ちにも似た感情に苛まれていた。

 

「のぞ先輩、アンコンに参加するんだってね」

 放課後、フルート四重奏の練習中に中野がポツリとつぶやいた。他の3人は敢えて口を閉ざし、高橋も頷くだけに留めている。

 少なくとも、この4人は隆翔以上に希美の世話になっていた。

 彼女のアドバイスによって上達した人もいる。

 それぞれ思いの丈は違えど、最後の演奏機会となるであろう三年生に対して特別な感情が湧かない筈が無かった。

 隆翔は無言を貫いた。

 今、希美への感情に整理をつけられない状態で、その話題を口にしたくなかった。

 

「……みんな、のぞ先輩と演奏したかったって」

「そりゃ、そうでしょ」

 小田が同意する。

 今日の練習は全体的に覇気がない。

 どこか上の空であり、集中力を欠いている。高橋はこの現状に戸惑っていた。

「樟葉くん、集中できてる?」

 

 当然、隆翔も希美の参加に戸惑っていた。

 これまで彼女の自発的行動は、今まで隆翔にとって光にも等しかった。しかし今回は事情が違う。

「ごめん、集中する」

 上の空であったのは事実だったので、隆翔は素直に謝罪した。

 

 小田が「はぁ」とため息を漏らした。

「個人練行ってくる」

 現状に苛立っている小田は、わざとらしく音を立て譜面台と椅子を持って教室を出て行った。

 まるで、練習に身が入っていない隆翔へのあてつけのようだった。

 

「失礼な奴だな」

「そう言わないであげて。芽衣子も香奈ちゃんたちへの対応で疲れちゃったんだと思う」

 

 フルートパートの後輩である江藤香奈は、希美がアンサンブルへ参加が伝えられると黄前にグループの変更を直訴した。

 江藤は南中出身であり、北宇治を志したのも希美の存在が大きかった。

 希美の直属の後輩である彼女は確かに上手かった。きっと、どこのグループに属してもその存在感を遺憾なく発揮するであろう。

 

 しかし最終決定が下された今、個人的な我が儘にも取れる希望は受け入れられなかった。

 江藤の説得は小田が担当した。そうした事情もあって、今日の小田は虫の居所が悪いのだ。

 

「本当はパーリーの私がやるべきことなんだけど、芽衣子が気を遣ってくれたの。後で私がフォローしとくから大丈夫だよ」

 事情を聞いた隆翔は「分かった」と一言呟いて、もう一度譜面と向き合った。江藤の行動も理解ができる。一歩間違えたら、隆翔も希美に対して似たような行動を起こしたかもしれない。

 

 

 三年生の参加はフルートパート以外にも影響を及ぼしていた。優子の所属するトランペットパートや、夏紀の所属する低音パートでもその話題で持ちきりであった。

 希美とはまた違った意味でカリスマ的な人気がある二人だから、それも当然のことであった。

 

     ◇◆◇

 

 この日の昼休み、希美たち管楽五重奏のメンバー表を見た隆翔は楽器室で固まってしまった。朝練で黄前はメンバー決定の報を幹部に伝え、最終決定項として顧問に提出した。

 漏れてしまったメンバーの解決を三年生に委ねることは盲点であった。隆翔もシミュレーションとして三年生ありきの編成は考えた。しかし、受験期の三年生に助力を求めることは気が引けたので、その考察も青写真と化している。

 

「――でさ、曲なんだけど。あっ」

 休み時間の騒々しい廊下で、渦中の三人と遭遇した。

「先輩……」

 希美は隆翔の表情を見た途端、気まずそうに夏紀の影に隠れた。

 その様子を夏紀は不思議そうに見ている。

 二人を取り巻く状況を優子と夏紀は知らない。

 

「あら、樟葉じゃない」

 前部長の威厳そのままに、隆翔は優子に対して居直った。

「これは吉川部長、合格おめでとうございます」

「うむ。礼儀が成っていてよろしい」

 隆翔が礼儀正しく合格の祝辞を述べると、優子は胸を張って応えた。

 実際、推薦を勝ち取ってこの時期に合格するのは一握りだろう。そう考えれば、この三人は夏休みの全てを吹奏楽に費やしながらも、最短経路で進路を確約させたのだから優秀極まりない。

 

 優子の影から身を乗り出すようにして夏紀が隆翔の前に出る。勢い余って優子の肩にぶつかっていた。

「ちょっと、私たちもいるんだけど」

「……痛いんですけど!」

「何一人だけ偉ぶってるの。後輩にドヤ顔して楽しい?」

「楽しいか楽しくないかで言ってんじゃないわよ!」

 やいのやいのと始まってしまった応酬を、隆翔はただ見守ることしかできなかった。ただ、いつもならば仲裁を担う希美は、隆翔に視線を合わせること無く所在なさげに立ち尽くしていた。

 彼女が俯いている原因は、想像していることで相違ないだろう。

 何か言ってやらねばと隆翔が口を開くが、初めて感じた希美への不信感と苛立ちが邪魔をして言葉が出なかった。

「……希美先輩」

 掠れ落ちた声に希美は肩をピクッと揺らして顔を上げた。

 

 二人のただならぬ雰囲気を察した優子と夏紀は喧嘩をやめ「場所を変えよう」と進言した。

 四階廊下の突き当たりにある倉庫は、吹奏楽部や他の文化部が大荷物を収容する目的で使用している。普段は滅多に人の出入りがないため、優子と夏紀は表沙汰にできない話をする時によく利用していた。

「じゃ、話してみなさい」

 優子はパイプ椅子にドカッと座ると、裁判長よろしく被告人尋問を行った。

「え、気まずっ」

 この状況に希美は理解が追いつかないのか、思ったことが口に出ている。

 

 逆にあまりの展開に隆翔は冷静となり、自身が抱いていた感情が如何に稚拙で未熟なものであったかを痛感していた。

 優子は一向に口を割らない二人に痺れを切らし、呆れるように口を開いた。

「あのね、黙っていれば解決するのかしら? アンタ達が喧嘩しているところなんて初めて見たからびっくりしたけど、希美は全然成長してないし、樟葉は希美に対して態度悪くって見てらんないっての」

 優子の悪態とも取れる指摘は、二人に畏怖の感情を植え付けた。

 その横で夏紀は苦笑を漏らしている。

 

 一度態度に出てしまったのだから仕方がないと覚悟を決めて、隆翔は吉川裁判長に供述を始めた。

「前に希美先輩と約束したんです。いつか一緒に吹こうって。でも先輩たちは受験ですからアンコンは出ないとばかり思っていました。だからさっき、希美先輩の名前を見て、ちょっとモヤモヤしたというか……そんな感じです」

 苛立ちは完全に治まっていた。それ以上に幼稚な我が儘を言葉にした羞恥で顔が熱い。

 

 希美は優子からの言葉にショックを受けたのか、完全に固まってしまっていた。

「希美は、って大丈夫?」

「……うん。本当、自分が嫌になっちゃう」

 絞り出した声に力は無く、床面を見つめながら自嘲した。

「隆翔は信じてくれないかも。でも、一緒に吹こうって約束を忘れたことは一度もないよ。でもフルート四重奏で頑張って練習している姿を見たら、余計に声掛けられなかった。ごめんね……」

 悲痛な懺悔が狭い倉庫に響いた。

「俺の方こそ、ごめんなさい。我が儘言いました」

 尊敬する先輩方に頭を下げる。

 我が儘を言ったことよりも、希美を俯かせてしまったことに情けなさを覚えた。

 

 二人を取り巻く雰囲気は弛緩し、希美は眉を顰めながらも隆翔に笑顔を向けた。

 照れ臭くなった隆翔は、希美の笑顔につられて笑った。

「はあ……。あとはお二人でどうぞ」

 優子と夏紀は「熱い熱い」と手で仰ぎながら呆れたように倉庫を後にした。

 

 想いを告げ合った隆翔と希美は、それぞれのグループで練習に励んだ。

 二人は互いの音が大好きだ。

 希美の音が校舎に響き渡れば、呼応するように隆翔のフルートも校舎に響き渡った。

 

     ◇◆◇

 

 メンバー最終決定から一ヶ月が経過した。

 木枯らしも吹き去り、師走の名に違わぬ忙しさも相まったアンサンブルコンテスト校内予選前日、隆翔は希美に連れられて校舎裏の藤棚に来ていた。

 校内予選前日、即ち、希美がこの吹奏楽部で練習する最後の日だった。

「ここなら誰も来ないよね」

 アンサンブルの練習が始まってから、初めて互いが奏者として活動する機会に恵まれた。

 同じ型式のフルートが夕日に反射して橙色に染まっている。

 

「じゃあ、吹くね」と目配せした希美がフルートを構え、管に息を通した。

 希美たちの管楽五重奏、曲目は『フラワー・クラウン』。

 主旋律を吹くトランペットとフルート。それを下支えするアルトサックス、ユーフォニアム、ファゴット。

 先日、彼女たちの演奏を廊下からこっそり聴いていたことがある。

 それは余りにも優美的で、魅惑的な合奏だった。たった五人のアンサンブルなのに、花冠と銘打つこの曲の尊さを表現している。

 

 透き通った音色が夕風に乗って宇治市内へと舞い降りる。

 目を閉じると、肌寒いはずの空気が一変する。

 一陣の春風が隆翔を優しく包み込んだ。

 ああ、いつかはこんな音を奏でたい。

 希美の音は隆翔の永遠の目標だ。

 

 最後の一音を吐き出した希美は、一息ついてから「うん」と頷いた。どうやら、満足のいく音が出せたのだろう。隆翔としても、希美が練習を始めてから今日までは、どこか浮遊感のある特別な時間であった。

 

「本当に、泣いても笑っても最後なんだ」

 沈黙が二人を支配する。希美にとって吹奏楽部はどんな存在だったのだろう。

 隆翔にとって、吹奏楽部とは希美と紡ぐ特別な時間だった。その特別は、もうすぐ終わってしまう。

 希美の感情を推し量れない自分が悔しくもあった。

 

「大学でもフルートを吹くんですか?」

「うん、そのつもり。調べたらオーケストラサークルとかあって面白そうだったよ」

「良かったですね」

「うん! 演奏会とかあったら観に来てほしいな」

 希美は大学でも音楽に携わる。

 環境が変わると違う楽器に鞍替えする人もいるが、あくまで希美はフルートにこだわるようだ。

 

 年が変わって来年には、希美は北宇治から卒業する。

 当たり前のように三年生の教室へ行っても、そこに希美はいないのだ。

「……寂しいな」

 口にするつもりがなかった言葉が希美の鼓膜を揺らした。

 けれども紛れもなく隆翔の本心で、受け取った希美は優しく微笑んだ。

「私だって寂しいよ。でも、しょうがないよ。もう隆翔くんたちが引っ張って行かなきゃなんだから。いつまでも私たちが居たら迷惑だよ」

「そんなこと、ないですよ……」

 今の北宇治が強豪であり続けられたのは、間違いなく現三年生の尽力あってこそだ。そして希美は部長経験者のノウハウを活かして優子や夏紀を支え、後輩へ指導を施し、隆翔に手を差し伸べた。

 希美の愛に縋ったのは隆翔だ。そしてまた、希美は北宇治を愛していたと思う。

 

「何かを変えられたのかなあ」

「……え?」

「ああ、ごめん、ひとりごと。フルートに出会って今日までさ、楽しいこともあったけど、やっぱり悔しいことの連続だったなって。中学最後のコンクールが府大会で終わってから、なにくそって想いで北宇治に来て、結局逃げて、ずっとやせ我慢してた。フルートで何かを変えたいって思いながら、ずっと我慢してた」

 希美の独白は続く。

 ああ、みぞれに打ち負かされた時と同じだ。その表情に影が落ちた。

 

「この前の関西大会でダメ金に終わった瞬間、我慢の糸がぷっつり切れちゃったんだ。一瞬悔しがって、ちょっとだけ涙が出てすぐ引っ込んじゃった。隆翔くん、私以上に泣くんだもん」

「あ、あれは先輩が泣かせたんですよ!」

 観客席で希美が隆翔に伝えた言葉がフラッシュバックした。

 あの言葉に見合うような恩を返せたとは、露ほども思っていない。

「あはは、恥ずかしがってるのも可愛いよ」

 そして希美からスッと笑顔が消えた。

 

「……もし、あの時の結果が違ってたらさ、もしかしたら隆翔くんと付き合ってなかったかも」

「それは、どうしてですか?」

「多分、満たされちゃうからかな。もちろん、今は隆翔くんと付き合えて良かったし、あの時の判断は間違ってなかったと思うよ」

 ブルっと身体が震えた。

 冷えた汗が体の内側から不快感と共に噴き出した。

 

 希美の言葉には説得力があった。全国へまっしぐらだった希美を支えていたのは、紛れもなく反骨心だった。

 全国大会出場によって欠けたピースが揃ったら、河川敷での一幕は存在していなかったかもしれない。

 

 隆翔がいま幸せだと思える時間は、希美が為し得なかった想いの上に成り立っていた。

 初めて受け止めた彼女の事情。

 長く伸びた二人分の影法師。その中から、自分だけに見せた恋人の涙を思い出して隆翔は俯いた。

 

 

 

 

「来年、君が全国に行くんだよ」

 

 

 

 

 静かな意志を持った言葉が、夕闇に響いた。

「私は行けなかったから、隆翔くんに託すよ、全国金賞の夢」

 

 

 ゴクリと唾を呑んだ。

 

 希美は笑顔だった。けれども、その優しい笑みの下には、中学と高校の六年間で積み上がった無念と、遣る瀬なさが見えた。

 心を許すという行為の重さを、隆翔はこの時初めて痛感した。

 

 死が二人を別つまでなんて、嘘みたいな言葉だと思っていた。

 それも今は信じても良いと思う。二人が出会う前の傷を互いに見せ合って、これからも歩んでいけると確信できた。

 

「先輩の意志は俺が継ぎます」

 

「……ありがとう」

 影を見せていた希美は、既にいつも通りの笑顔に戻っていた。

 

 

     ◇◆◇

 

 

 アンサンブルコンテスト校内予選当日。

 演奏は体育館で行われる。この日も例外なく、朝練には全員が集まって最後の音合わせを行っている。

 受験勉強に追われる三年生も、今日に限っては体育館で後輩たちの演奏を聴きに来る。希美たちの代は、人数が少ないからこそお互いの絆が強い。そして、各パートで最高学年として支えてきた実績は、後輩たちに多大なる影響を与えた。

 

 今日の校内予選は翌年一月に行われるアンサンブルコンテスト本選出場を懸けた予選でもあるが、演奏を見に来る先輩への感謝の想いも確かにあった。

 フルートパートが練習する教室には、メンバーが揃って基礎練習を熟している。

 パートリーダーでファースト奏者の高橋沙里、セカンドの小田芽衣子、サードを隆翔と共に吹く中野蕾美。実力も実績もある最高学年四人で組むフルート四重奏には隙が無い。

 

 今回、この四人で吹く『はなのゆくえ』はフルート四重奏のために作られた曲だ。美しくも儚い花の自然美を、抑揚と幅広い音程を表現している。可憐さの裏に潜む短い生涯の中で、次世代に継いでいく花の運命が譜面に描かれている。

 ファーストの高橋が主旋律を吹けば、小田が裏で複雑なスコアを紡ぐ。小田は背が高く、息の続きにくい高音も、繊細さが求められる低音もカバーできる。そして中野と隆翔が、二人の旋律を下支えする。

 

 

 最後の練習が終わり、各グループが体育館へ移動する時刻となった。

 リーダーの高橋が三人に語りかけた。

「いよいよ本番だね。今日までずっと四人で練習してきたけど、正直、これ以上無いってクオリティになってると思う」

 メンバーの瞳に、期待と昂揚が映る。高橋は更に続ける。

「芽衣子と蕾美とはこれまでずっと一緒に演奏してきて、こんなにもシンパシーを感じたのは初めてだった。そして、新たにこのパートに加わってくれた樟葉くん。マネージャーとしてメンバー集めだったり、部員全員へのサポートをしながら必ず練習にも顔を出してくれて、私たちも本当に助かってる。樟葉くんが来てくれて、音に深みが増した気がします」

 率直に褒められた隆翔はむず痒さに口もとが綻んだ。

 正直、元から所属していた三人の仲は既に完成されていた。隆翔が参加することによって、この関係に水を差すのではないかと今日まで慎重に携わってきた。

 ただ、高橋の一言によって隆翔は受け入れられた。

 隆翔にとってフルートパートに居場所が出来たことは、精神的に救われた。

 

「今日、調先輩が聴きに来てくれるし、希美先輩も私たちの演奏を聴いてくれる。二人にはたくさんお世話になったよね。だから、私はこの演奏を聴いてもらって恩返しがしたい。もう大丈夫だって思って欲しい」

「私もだよ」

 三年生へ見せる成長の証。そして、最高学年に上がることの覚悟がその言葉には乗っている。小田も同意し、中野は胸の前で拳を作りながら大きく頷いた。

 

 高橋が差し出した手のひらに小田と中野が重ねる。隆翔もそれに続いた。

「みんなで良い演奏をしよう!」

 高橋の号令に三人も「おー!」と鼓舞した。

 いよいよ、アンサンブルコンテスト校内予選が開幕する。

 

 

 

 今回の校内予選には全十四組が参加する。

 その中から本選へ出場できるのは一組だけだ。この狭き門を突破できたグループは、北宇治高校代表の看板を背負うことになる。

 本選へ出場するグループの審査は滝の希望により部員自身が担う。主観や好みを排除して客観的に音楽を見極める能力が求められる。正直、難易度はかなり高い。

 しかし、それが滝の狙いなのだろう。音楽を聴く耳を育成する。それは自分自身の音楽観を醸成し、いずれは仲間に還元される。

 良い合奏というのは、仲間の音を聴くところから始まるのだ。

 

 審査には部員投票と一般投票の二種類が存在する。今回の校内予選には引退した三年生や一般の観客も見に来ている。観客には入場の際に配られた投票用紙に三組まで選択する権限が与えられている。

 そして、今回の予選で最も重要なのが部員投票だ。

 これは部員のみが投票でき、それぞれのアンサンブルを聴いた上で投票するシステムである。この部員投票の集計結果で一位を獲得したグループが、本選に出場できる権利を持つ。一般投票と異なり、情や人気に左右されないような仕組みとなっている。

 二パターンの投票システムを提案したのは部長の黄前だった。滝の求めた意見を他の幹部二人に提案し、それぞれの案を採用した。部長になってから日が浅くとも、黄前の持つ管理、調整能力は精度を上げている気がする。優子もそのマネジメント力を買って、新部長に据えたのだろう。

 

 フルート四重奏の出番は全体の七番目。一つ後ろには、希美たちの管楽五重奏が控えている。

 演奏会を円滑に進めるため、一つ前の演奏の際には舞台袖に待機しなければならない。

 舞台へ上がる直前、フルート四重奏の次に演奏する希美と目が合った。

 言葉は交わさなかった。ただ、隆翔にとってはそれで十分だった。

 

「プログラム七番、フルート四重奏。曲は『はなのゆくえ』です」

 

 天幕が上がり、スポットライトに照らされる。

 隆翔にとって、この瞬間に懐かしさを覚えた。

 舞台に上がる。それは中学二年のコンクール以来であった。

 あの熱量も、観客の人数も府大会の比にならない。しかし、隆翔の血を滾らせるには十分であった。

 指揮者のいないアンサンブル。すべてのタイミングは高橋の仕草と音で決まる。

 四人のアイコンタクトが交わって、最初の一音を管に吹き込んだ。

 

 

     ◇◆◇

 

 

 三年ぶりの舞台上での演奏は、隆翔に確かな感覚を覚えさせた。

 まだ心臓がバクバクと弾み、熱気と興奮から身体が汗ばんでいる。

 演奏は楽しい。音楽って最高だ。

 不思議と緊張はしなかった。高橋と小田の音を確実に拾いながら、タイミングを計って遅滞なく演奏に加わる。

 ああ、忘れていた。合奏はこうでなくちゃ。

 

 会場の拍手が四人を包み込む。三人とも達成感に満ちあふれた笑顔だ。自分も笑顔でいられているだろうか。今は、すべてを五分間の演奏に懸けた疲労感で自分に気を遣う余裕がなかった。

 テキパキと舞台の入れ替えをしなければならない。なぜなら、次は隆翔が最も聴きたかった本命、管楽五重奏なのだ。

 

「続きまして、プログラム八番、管楽五重奏。曲は『フラワー・クラウン』です」

 

 四人が持ち場の席に着いたと同時にアナウンスが鳴った。

 左を向くと、隣に座る高橋が舞台上を感慨深そうに眺めていた。

「私、今日一番の楽しみなんだ」

「……俺もだ」

 隆翔の反応に、高橋は満足そうに微笑んだ。

 

 やがて、ライトが五人を照らす。

 主旋律のトランペットを吹く優子とフルートの希美を囲うように、両サイドにユーフォニアムの夏紀、ファゴットの籠手山駿河、アルトサックスの細野暖奈が並ぶ。

 優子の一音目を支えるように、夏紀が伴奏する。

 一小節遅れて、希美のフルートが体育館に響き渡った。

 

 思わず、息を呑んだ。

 この四人で何百回も合奏したからこそ理解できてしまう技術の差。

 自然な抑揚、他の楽器を邪魔しない滑らかな音色。ブレスもまったくぶれない。

 まったくもって敵わない。そう思わせる程に、希美のフルートは圧倒的だ。恐らくこの会場に集っているフルート奏者が束でかかっても、希美の音には勝てない。

 希美の音は、殆ど独学で学び、数々の挫折を経験した末に辿り着いた音色なのだ。

 しかしそれでも全国の舞台には辿り着けなかった。

 コンクールで重要視する評価される音楽と、心に残る音楽の価値の対比。隆翔はこれまで、さして思考する機会はなかった。しかし、目の前で繰り広げられる希美の音は、紛れもなく評価される音楽の呪縛から解放された音だ。

 

 希美はこれまで、評価を求められるコンクールで高みを目指していた。自分に厳しく、人を導く才に恵まれた。だから希美は人に慕われる。しかし導く力に甘えてしまった瞬間、それが彼女のやせ我慢であると看破することは不可能なのだ。

 昨日、夕闇越しに見た希美の冥い深淵は、今までの我慢によって立ち現れた本音だろう。

 怖かった。出会ってから初めて、希美が怖いと思った。

 率いてる立場では、部員の前には絶対に表層に出ない。だから高橋や小田などの後輩たちは希美に率いられてここまで来たのだ。

 

 希美との邂逅を想起しながら演奏を聴いているが、五人は誰よりも楽しそうに演奏している。特に受験という忍耐のイベントを経た三年生の三人は、これまでの憑き物が取れたように弾んでいる。

 心臓がきゅっと締め付けられる。

 最後の瞬間なんだ。

 もうしばらくは、希美が演奏している姿を見ることはないだろう。

 隆翔の心に焼き付く情景には、最愛の希美が躍動するフルートの音色が彩った。

 

 

     ◇◆◇

 

 

「結局、お互いに予選敗退か」

 心を通わせあった河川敷で隆翔と希美が佇んでいる。

 隆翔は夕焼けが好きではなかった。

 中学での退部後に帰宅部となった隆翔の道中を容赦なく照らしていた。そんな惨めな記憶が思い出される。

「しょうがないよ。クラリネット四重奏、上手かったもん」

 しかし、それも希美と出会うまでである。希美との邂逅には、この真っ赤な夕焼けは切っても切り離せない。

 

 北宇治高校吹奏楽部初の試みであるアンサンブルコンテスト。その代表を選考する校内予選は、二年生四人で編成されたクラリネット四重奏が、演奏曲『革命家』を提げて府大会への参加権を得た。

「久美子ちゃんのとこも良かったよね。サブカル的で、格好良かった」

「『フロントライン』でしたっけ。確かに、一般投票で一位になるくらいには印象的でした」

「もう、本当に素直じゃない」

「だって、幹部三人は結局同じグループだったんですよ。なんかハブられた気分です。秀一なんて、組めなかったら拾ってやるなんて言っといて」

「はいはい、拗ねないの」

 みっともなく拗ねる隆翔の頭を希美が乱暴に撫でた。

「大丈夫、隆翔くんも格好良かったよ。フルート三人娘とちゃんと合奏してたもん」

「そうだと良いですけど」

 

 十二月の川縁は鋭い寒風が容赦なく頬を突き刺す。

 その度に希美は顔をマフラーで覆い隠した。

「今日はこれを渡したかったんです」

 隆翔は傍に抱えていたスクールバッグの中から紙袋を取り出した。可愛らしくリボンまであしらわれている。

 その姿を希美は不思議そうに見ていた。

「ハッピーバースデー、希美先輩。すみません当日じゃなくて」

「え、覚えててくれたの! 開けていい?」

 どうぞ、と隆翔は希美に手渡した。

 校内予選と同じ週の十二月三日は希美の誕生日だった。

 ゴソゴソと中身を取り出した希美は、瞬時にそれが何かを言い当てた。

「フルートクロスだ! しかも三枚も」

 希美へのプレゼントは消耗品のクロスだった。

 繊細な管を傷つけないために専用のクロスは目が細かい。

 もちろん希美も使っている。彼女のパーソナルカラーである薄桃色のクロスは年季が入っていた。そして、希美は大学でもフルートを吹くと決断した。

 色々と悩みもしたが、結局はその決意が決め手だった。

「嬉しいな。ありがとう!」

「たくさん使ってください」

「うん、帰ったら交換するね」

 ニカっと花開いた笑顔は、隆翔にこれ以上ない充足感を与えた。

 

 

【つづく】




アンコン編はこれにて完結です。

そして、物語は三年生編へと続きます。
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