或る、フルート吹きの青春   作:ハヤブサ320

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EP.21 君は天然色

 底冷えが和らいできた二月中旬、隆翔は相変わらず学校とフルート教室を往来する生活を送っている。

 

 この日、頼まれていたマネージャーの仕事を終えた隆翔は、高坂と廊下を歩いていた。

 窓の外には一本だけ生えている老梅が満開を迎えていた。

 

 

「この曲、ユーフォか?」

「そうよ。久美子」

 

 

 校舎一階の廊下に嫋やかなユーフォニアムの音色が響いている。包摂的で深みと余裕のある音、間違いなく黄前の音であった。

 

 彼女が奏でている曲は、明らかに楽譜ありきで組まれた音楽だ。

 残念ながら隆翔は知らない曲だった。

 

「なんの曲?」

「確か、卒業した先輩から贈られた曲だって言ってたかしら」

「……へえ」

 決して長い曲ではない、しかし不思議と心が温かくなった。

 

 少し開いている窓から音が漏れ出ている。黄前は校舎裏のスペースで個人練習していた。

 ガタガタ、と音を立てて、立て付けの悪い窓を高坂は強引に開け放った。

 

「久美子」

「うわっ、麗奈!?」

 

 黄前は突然の来訪者に驚愕した。立ち上がった勢いで椅子が音を立てて倒れた。

「そんなにびっくりしないで」

「びっくりするよ。何の用?」

「卒部会のプログラム。完成したから確認して」

 

 びっしりと文字が書かれた用紙を黄前が受け取った。黄前の手からは、乾燥対策で塗っているハンドクリームの甘い香りがした。

 

 

 吹奏楽部のイベントは季節関係なく定期的に訪れる。

 つい先日も定期演奏会を終えたばかりで、月末には卒部会、卒業式の演奏、そして間髪入れずに入学式と過密日程である。

 

「うわあ、忘れてた。ありがと麗奈」

「うん。まあ、樟葉と二人で決めたから大丈夫だと思うけど」

「そっか。樟葉もありがとね」

 

 この時期になればどうしても『卒業』の二文字を意識してしまう。当然と言えばそうなのだが、三年生が学校から去ってしまうのは些か切ない気分になる。

 

 走り気味で原稿に目を通す黄前に、隆翔は訊きたいことがあった。

「さっき黄前が吹いてた曲って何?」

「ああ、この曲ね。去年に引退した先輩から贈られたの」

「へえ。確か、合宿でも吹いてたような。メンタルチェックみたいなやつ?」

 当たらず遠からずなのか、隆翔の言葉に微笑んだ。

 

「まあ、そんなとこかな。大切な曲なんだよね、私にとって」

 

 笑みを浮かべながら、金色に塗装されたユーフォニアムを抱き寄せる。

 黄前にとっての特別な存在。その重さは、恋人である希美に重ねることが出来た。

 

 

 

 

 

 そんな希美の高校生活は、あと数日で終わる。

 卒業式は、すぐそこまで迫っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 笑いあり涙ありの卒部会は、和やかな雰囲気で進行していた。

 現部長による先代部長の優子と副部長の夏紀への花束贈呈では、黄前の堪えていた涙が遂に決壊した。喋れなくなった黄前をフォローする秀一は、その貫禄と共に大所帯である吹奏楽部を背負うに足る頼もしさがあった。

 

 

 

 

 卒業生の答辞とも言える三年生による合奏では、大滝詠一の『君は天然色』が演奏された。

 

 この学年は大量退部という苦杯をなめた。

 希美が復帰して、今日まで残ったのは十五名。

 椅子を並べて、同じ曲を演奏していた同級生が次の日にはいなくなっている。筆舌に尽くしがたいことだ。

 隆翔はこの件に対して、適当なことは言えなかった。

 復帰した希美は下げたくもない頭を下げたことだろう。自分たちを無視し、邪険にし、尊厳を破壊した集団にもう一度戻るという心境は、やはり耐えられるものではない。

 

 隆翔が希美に望んだことはただ一つだ。

 せめて、この北宇治で過ごしたことが今後の足枷になってほしくない。その為なら、どんなことでも尽力すると堅く誓った。

 

 

  『想い出はモノクローム 色を点けてくれ』

 

 

 サビを吹き上げる三年生は、モノクロームとなってしまった部員たちに何を思うのだろうか。

 辞めた部員の気持ちは、その選択をした隆翔にも痛いほど理解出来る。

 紆余曲折あっても、こうして駆け抜けた三年間でそれぞれの道を往くことに肯定的であってほしいと隆翔は祈った。

 

 

 在校生が演奏する曲はコンクール自由曲の『リズと青い鳥』だ。

 演奏経験のない隆翔は指揮に回った。

 

 第三楽章のソロはオーボエを梨々花、フルートを高橋が担当した。

 昨年の卒部会で在校生の指揮を担当したのは希美だったそうだ。その巡り合わせに、どこか運命的なものを感じずにはいられなかった。

 

 

 指揮台からは全員の顔が一望の下に収めることができた。

 みな、刻一刻と迫る三年生の引退に想うところがあるのか、切ない表情で楽器を構えている。何人かは目に涙を浮かべているが、それでも音が上擦ることがない。研ぎ澄まされたタイミングと、確実に捉える音の正確性は滝による指導の賜物である。

 第四楽章も終盤に差し掛かり、いよいよクライマックスを迎えた。

 

 

 隆翔の指示で全員が起立し、黄前が最後の挨拶を切り出した。

 

「三年生の皆さん。皆さんと過ごした時間は掛け替えのない宝物です。私たちは先輩たちの意志を引き継いで、全国金賞を目標に来年も邁進していきます。今日までご指導、ありがとうございました!」

『ありがとうございました!』

 

 号令とともに、卒業生へ最敬礼する。

 すっかり貫禄のついた黄前の言葉に三年生から拍手が沸き起こる。優子と希美は涙を浮かべて手を叩いた。

 

 

 

 

 

 

 三年生が退場し、音楽室は後片付けで騒然としている。

 喧噪を背中に受けながら、隆翔は卒部会で使用した装飾品や備品を片付けに倉庫へ向かった。

 校舎端の倉庫から、賑やかな笑い声が漏れている。遠慮がちに扉を開けると、優子と夏紀、希美とみぞれが佇んでいた。

 

「指揮お疲れ様」

「ありがとうございます」

「様になってたわよ」

「なんか去年を思い出したよね」

 

 

 四人は口々に隆翔を労った。

 先程の演奏で涙を浮かべていた優子と希美の目尻は、擦ったのか赤くなっていた。

「先輩たちはどうされたんですか?」

「うーん、黄昏れてただけかな」

 夏紀は開いていた窓から腕を投げ出した。

 

 

「ここに来るのも最後か」

「色々あったわね」

 

 アンサンブルコンテスト校内予選前に、希美と隆翔に不和が生じた。その時、優子と夏紀によって仲裁された場所だった。そして、この四人にとっては濃密な時間を過ごした思い出が染みついていた。

 

 

「私が初めて音大行かないって言ったのもここだったよ」

 

 

 突如呟いた希美の言葉に、みぞれ以外の三人が振り返った。

 優子は希美なんぞには目も暮れず、みぞれの様子を慎重に見極めている。

 

「希美、アンタそれはどうなのよ」

「そうよ! 時と場合ってのがあるでしょう」

 

 夏紀は呆れ、優子は憤慨している。

 当の本人は二人の態度に驚くも、自分の言葉を顧みたのか「やばっ」と言って口許を抑えた。

 しかし、みぞれの言葉は無味乾燥であった。

 

「別に、気にしてない」

「そうなんですか?」

「うん、音大に行けるのも、今日まで楽器を吹いていたのも、全部希美がいたから。だから、私は気にしない」

 

 

 彼女がじっと見つめる先には隆翔の姿があった。

 

「樟葉くんは、どうしてまたやろうと思ったの?」

「な、何をですか?」

「フルート」

 

 逃がさない、とばかりにみぞれの視線が突き刺してくる。

 隆翔は荷物を足元に置くと、みぞれの横に立った。

 

「……希美先輩が誘ってくれたからです」

「それだけ?」

「いえ、今思えば、フルートが好きだからまた吹こうと思ったのかもしれません」

 

 

 みぞれは小さく「そっか」と呟いた。

 みぞれは変わった。少なくとも、この言葉はみぞれ自身に落とし込もうという意図があった。

 

 会話を黙って聞いていた夏紀が希美に向き合った。

 

 

「私、希美に謝らないといけない」

「どうしたの突然」

 

 流石の希美も驚いている。対する夏紀は、つま先で床をトントンと叩いている。

 

 

「希美が辞めたのは、私のせいなんだよ」

 

「……夏紀」

 それは夏紀の贖罪だった。

 

「詳しく聞かせてください」

 

 隆翔の言葉に夏紀は頷いた。

 

 一年生のオーディションのあと、三年生との軋轢に嫌気が差していた希美から、夏紀は相談を受けていた。当時の顧問の方針と訣別した南中出身者は迫害を受けていた。夏紀は彼女たちの気持ちを完全に理解していた訳ではなかった。故に、希美を自分の言葉で縛ることはできずに、希美のしたいようにすればいい、と助言した。

 

「希美自身のした選択が正しいって言葉、ずっと喉元に引っかかってた。今更で本当にごめん。なんでもっと、希美に寄り添わなかったんだろうって。そしたら今年のコンクールだって……」

「夏紀、それは違うよ」

 

 まくし立てる夏紀を、希美が否定した。

 

「もしあそこで辞めていなかったら、私は部長か副部長だったかもしれない。それは否定しない。でも、あの時の選択を後悔したことは一度もないよ」

「気休めはいいよ」

「気休めじゃないよ。私は南中の部長としてやってこれたけど、北宇治でも同じように出来たかといえば嘘になる。私は結果を残せなかった。でも、優子は結果を残した。それは紛れもなく、夏紀がいたからなんだよ」

 微笑みをたたえた希美を、夏紀は直視できなかった。

 そんな夏紀を見て、希美は「天邪鬼だなあ」と苦笑した。

「私が復帰するときに、あすか先輩と話を通してくれたでしょ。それで十分だよ。それ以上に、夏紀は私の味方でいてくれたじゃん」

 狭い倉庫に、夏紀の深い溜息が響いた。

 

「ほんと、お人好し」

「誰かに似てね」

 

 二人は歯を見せて大きく笑った。先程までの重苦しい空気は春風に乗って飛んでしまった。今、五人の中には飛び去った過去と、未来への福音が約束された。

 

 

 

 それから、隆翔は四人の語らいを邪魔しまいと片付けに戻った。

 希美は、今日はみんなと帰ると言って鞄を肩に掛けた。

 

 

 階段を降りる四人の背中を目で追う。

 同級生とは、かくあるものだ。隆翔にも同じ釜の飯を食った同級生がいる。奇しくも、希美と同じ三人だ。うち一人は部長であり、もう一人は副部長、そしてドラムメジャーだ。

 隆翔は、一度その三人と袂を別つことになった。今もその溝が埋まったかと言えばそうではないだろう。

 いつかは、あの様にさりげなく語らう時間が来るのだろうか。そんな霧がかった視界を藻掻くような未来を想像した。

 

「ね、今だから言えることない?」

「何よ突然」

「だってさ。もう卒業だし」

「じゃあ、私から」

「みぞれ?」

「合宿で優子の顔に落書きしたの、私」

「嘘でしょ!? あれインク取れなくて大変だったんだから」

「水性ペンじゃん」

「そういう問題じゃない!」

「ちなみにその時の写真これね」

「ちょっと希美、なんで撮ってるのよ!」

「みぞれの犯行現場までしっかり写ってるじゃん」

「消しなさいよ、もう!」

 

 

 校内に響く優子の悲痛な叫び声がこだまするのも、あと数日で終わってしまうのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「卒業証書、授与」

 三月一日。遂に卒業式を迎えた。

 二年生以下の吹奏楽部は、卒業式での演奏を控えていたため参加した。

 

 卒業生を迎える際に演奏した曲はE・エルガー作曲『行進曲「威風堂々」第一番』だ。隆翔が大好きな曲であり、その演奏をもって希美たちを送り出すことが出来るならば、本望であった。

 

 

 

 

「傘木希美」

「はい!」

 

 

 

 体育館に溌剌とした声が響いた。

 吹奏楽部は体育館の一番後ろに陣取っている。遠目からでも、キュッと縛ったポニーテールが壇上で揺れた。

 

 希美の胸元には白いコサージュが配われている。

 彼女の北宇治高校生活が今終わろうとしている。隆翔は希美の姿を目に焼き付けた。

 

 

 

「先輩、今日までお世話になりました!」

 

 パートリーダーの高橋沙里は、前リーダーの井上調と希美に謝意を述べた。

 それに続き、小田と中野、ついで一年生たちも頭を下げる。その様子を、隆翔は離れた場所で見守っていた。

 

 

 所々で、涙を啜る音がこだましている。

 みな、口々に別れを惜しんでいた。

 トランペットパートでは、優子や友恵を惜しんで号泣に暮れる一年生の姿もある。高坂は涙こそ見せなかったがその瞳には寂寞の想いがあった。

 

 

「お別れだと思うと寂しくて……」

「大袈裟だなあ」

 目を潤ませて夏紀に縋る黄前は、今でこそ部長という権限を忘れて一人の先輩との別れを惜しんでいた。

 

 思えば、黄前は中学の頃、先輩というものに恵まれなかった。一年生からコンクールメンバーに抜擢された彼女は、当時の三年生から妬み、恨みを買った。それまで仲睦まじく接していた先輩から僻みを言われ、無視をされた。孤立した黄前に手を差し伸べたのが、梓だった。

 

 少なくとも夏紀がそのような先輩であったことは、これまでの交流からしても有り得ないことだ。夏紀と、黄前に曲をプレゼントしたという昨年の三年生も、黄前という存在を認めていた。そして、黄前に居場所と部長としての地位を与えたのだと、隆翔は逡巡した。

 

 

 人目も憚らずに号泣する梨々花は、みぞれからハンカチを手渡されている。当のみぞれは慈しむかのような微笑みを向けている。

 遠目から隆翔と共に様子を見ていた秀一も、自分の楽器の先輩を送りに行くようだ。

「隆翔、ちょっとトロンボーンのとこ行ってくるわ」

「おう」

「お前も行かなくていいのか?」

 誰の、とは言わなかった。

「ちゃんと行くよ」

「そっか」

 

 

 

 秀一を見送った隆翔の元に、トランペットパートから加部友恵が駆け寄ってきた。

 

「友恵先輩、ご卒業おめでとうございます」

「ありがとう。樟葉くんにはお世話になりました」

「いえ、俺は何もしてませんよ。でも、寂しくなりますね」

 

 加部友恵との交流は、隆翔が吹奏楽部へ入部する直前に遡る。

 副顧問の松本から一度会ってみろと言われたことがきっかけであり、友恵はまだ奏者として活動していた。

 自ら進んでマネージャーになろうとする隆翔と、顎関節症という持病を慮って断腸の思いでマネージャーに転身する友恵の対比に胸が苦しくなることもあった。しかし、友恵はマネージャーとして活動する隆翔を歓迎した。そして、奏者として復帰する助力をも約束した。

 

 それが、当時の隆翔にとってどれほどの救いになったか、恐らく彼女は最後まで理解できないだろう。

 

 

「夢のことも、ありがとう」

「それもですよ。小日向は先輩に首ったけじゃないですか」

「本当にね。すっかり懐かれちゃって、さっきもお手紙を貰っちゃった。読んだら泣いちゃうかも」

「もう、あいつはマネージャーになろうとは言わないと思います。奏者としての自覚を植え付けた友恵先輩のお陰です」

「そうだと良いんだけど」

 

 

 他の一年生と笑い合う小日向を瞳を細めて見守る。さしずめ、巣立ちを寂しがる親のようだった。

 

 トランペット一年生の小日向夢は自己評価が絶望的に低いという欠点があった。

 その欠点が如実に現れたのは、コンクール直前であった。友恵に対してマネージャーに転身したいと進言したのだ。友恵は当然、これを拒否した。

 どんな思いをして友恵がマネージャーに転身したのか、彼女は知らなかった。

 結局、黄前と隆翔を説得しろという条件を彼女はクリアできなかった。

 

 小日向夢の自己評価を下げた出来事がある。

 彼女が北中吹奏楽部三年生で迎えた最後のコンクールで、トランペットソロを盛大に外したのだ。それ以来、衆目に晒される状況がトラウマになった。昨年のコンクールでは、いつも掛けている度の強いメガネを外して演奏に挑んだ。観客の視線が気にならないからだと本人は言っていた。

 なかなかにスリリングな対策を取ったものだと当時の隆翔は苦笑したが、状況が好転する一手ではなかった。

 

 そんな小日向夢に転機が訪れたのは、三年生が引退する演奏会の直前だった。

 最後の全体練習で、友恵は奏者全員に向けて感謝の言葉を送った。そして、最後に友恵が最も気に掛けた小日向に向けて檄を飛ばした。

 ミスが怖い。観客の目が怖い。ポツリポツリと語る小日向に味方すると、友恵は約束した。

 以来、彼女が演奏会でメガネを外すことは無くなった。最近ではネガティブな言動も慎んでいるようだ。

 

 今年、もし加部友恵がいなかったらどうなっていただろうか。

 想像するだけでも恐ろしいが、彼女は自己研鑽と後輩育成、中でも黄前を部長資格のある部員に底上げすることには多くの時間を使っていたように思える。

 

 

 

 隆翔は友恵にあることを聞いてみたかった。

「友恵先輩は、マネージャーという立場についてどう思いますか?」

「何、突然」

「いえ、ただの興味本位なんですけど」

 

 言葉の真意を咀嚼しながら、友恵は真面目に考えた。

 

「誰にも言わない?」

「言いません」

「分かった。仕方ないから真面目に答えてあげる。はっきり言ってこんな立場、奏者ならやっちゃだめだよ」

 

 忌憚のない意見だった。普段、茶目っ気のある友恵からは想像も出来ないような鋭い声に、隆翔はゴクリと唾を飲んだ。

 

「私みたいなレアケースは、来年以降も出てほしくない。みんな等しくコンクール出場を目指して必死に練習してほしいし、みんながステージで演奏しなきゃいけないよ」

「友恵先輩……」

 

「だから、最後の私の宿題は君だったんだよ」

 

「俺ですか?」

「そう。だからアンコンの演奏を聴いた時、心残りだったことがやっと叶ったんだ。そもそも、君は最初から奏者として復帰するつもりだったから夢ほど心配してなかったんだけどね」

「なんだ、俺も手のかかる後輩だったんですか」

「そうだよ」

 

 友恵の笑い声に釣られて、隆翔も吹き出して笑った。

 ふと、友恵が隆翔に耳打ちした。

「希美のこと、幸せにしてあげてね」

「……はい」

「よし、それでこそ男だ!」

 背中をバシンと叩いた友恵の張り手は、ジンジンと滲んだ。

 

 

 

     ◆

 

 

 

 スマートフォンに届いたメッセージには『三年の教室に来て』と書かれていた。

 階段を上がって、指定された教室に辿り着く。

 登校日ではない上に、このフロアを行き来する三年生は卒業した。故に、誰とも出会うことはなかった。

 

「希美先輩」

 

 ポニーテールがひらりと舞って、隆翔に連絡を送った張本人が振り返った。

 右手にはフルートパートで贈ったフラワーブーケを手にしている。希美が好きな、白とピンクのカーネーションで構成されている。

 

「良かった、来てくれて」

「当たり前じゃないですか」

「だって、随分と友恵と仲良さそうにしてたから」

「……見てたんですか?」

「目に入っただけだよ。何を耳打ちされたのかなって」

 

 どこかぶっきらぼうな口調。希美は嫉妬心を顕にした。

 

「というか、友恵先輩に相談してたんですね」

「……うん。友恵は信頼してたし、隆翔くんとも仲が良かったから」

 

 バツの悪そうな表情で目を伏せた。

 

「そういうことですか。さっき耳打ちされたのがそのことだったんで、正直驚きました」

「黙っててごめんね」

 

 隆翔は頭を横に振る。隆翔と同じように、希美にも相応の悩み事だったのだ。

 

「そうだ、卒業おめでとうございます」

「ありがとう。もう先輩じゃなくなるのか」

「じゃあこれからは『希美さん』って呼びますね」

「なんか距離感があるね。もう呼び捨てでも良いんだよ?」

 

 ブーケと卒業証書の入った筒を机に置くと、隆翔の元に近寄った。

 

「じ、じゃあ、呼んでみます」

「……うん」

「の、希美……」

 

 刹那、希美の頬が紅潮した。

 隆翔の顔も、燃えるように熱かった。

 

「やっぱまだ無理そうです」

「そ、そうだね! 出来たらでいいよ、うん」

 

 慣れない呼び方に二人は狼狽した。

 しかし、呼んだ隆翔も呼ばれた希美も新たな関係の進展を予感していた。

 

 

 

「スカーフあげちゃったんですか?」

「うん。沙里ちゃんが欲しがったから。もしかして欲しかった?」

「いや、それで良いですよ」

「じゃあ、一緒に写真取らない?」

 

 希美はスマートフォンをインカメラにして、肩を寄せた。

 ふわりと香るトリートメントの匂いが鼻をくすぐる。

 

 背景には『卒業おめでとう』とチョークで大きく書かれた黒板。その周囲には、卒業生の寄せ書きでびっしり埋められていた。

 

 

「はい、チーズ」

 

 

 カシャリと電子音が響いた。

 

 卒業するのに、あまり悲しそうにしていない希美の表情は明るかった。

 一体何度目のツーショットだろうか。それでも、今日、この写真は特別に思えた。

 

 

「私の制服姿、もう見納めだよ」

「え、捨てちゃうんですか?」

「いつかはね」

「なんか、勿体無いですね。捨てる前にもう一度だけ着てほしいですよ。二人きりの時に」

「……隆翔くんってさあ、時々変態になるよね」

「まあ、男なんで」

「否定しないんかい!」

「別に、そういうプレイを期待してる訳じゃないですよ」

「プレイとか言うな!」

 

 抗議の意味を籠めて、隆翔の肩をポカポカと殴っている。

 

「もう、ムード台無し……」

「あはは、すみません」

「てか、ぼちぼち行かないと。優子たちと一緒に帰るんだった」

「俺もそろそろ音楽室行かないとです」

「じゃあ、ここでお別れ。またね」

 

 希美が抱える花束や卒業証書。人望の厚い希美は、それ以外にも色々と貰っただろう。

 それと同じように、隆翔も希美から抱えきれないほどのプレゼントを貰った。

 

 

 

 

 希美と出会って北宇治で過ごした一年はあっという間に過ぎた。夏に二人の関係が進展して希美は私立大学に受験し、隆翔は奏者に復帰した。

 大切なものが戻ってきた。そして、大切な人が出来た。

 

 あと一年、隆翔は希美の忘れ物と一緒にこの部で邁進していく。

 

 

 

 

 

 

 窓の外を見ると、午前中は快晴だった空を雲が覆い、小雨が降り始めた。

 吹奏楽部十五名の卒業生に手向けられた餞別の雨だろうか。

『すべてが整うと雨が降る』とは、誰の格言だったろうか。

 希美とその仲間達にほどほどの栄光があらんことを。そう念じずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 希美の卒業式から一週間が経過した。

 

 二年生以下在校生は、今日まで学年末試験が行われた。

 当然、その期間の部活動は禁止されている。それも昨日までの話であり、今日から部活が解禁される。

 隆翔もご多分に漏れず、テスト期間はフルートを吹いていない。

 

 この日のメニューは、テスト期間で鈍った腕を取り戻す日になりそうだった。

 

 

 

 

 隆翔は日直の仕事として、担任から授業ノートを職員室に持っていかねばならない。

 クラス四十人分の冊子はかなりの重さになっている。持って行くこと自体は苦ではないが、億劫であることは変わりなかった。思わず溜息が漏れた。

 

「少し持ちましょうか?」

 

 ノートを傍目に溜息を吐いた様子を見て、隆翔に話し掛けらる者がいた。

 彼女の名前は鳥羽涼葉(とばすずは)。隆翔のクラスメイトにして合唱部部員だ。物腰が柔らかく、誰に対しても敬語なのは彼女の性分だった。

 コントラバスの川島緑輝を彷彿とさせる天然パーマが、照明に照らされて艶めいている。

 

「マジ? 助かるよ」

 

 思わぬ助太刀に隆翔は断る理由がなかった。

 女子に半分持たせるのは気が引けたので、十冊ほど持ってもらう。

 

 

 

「このあと部活?」

「はい。テスト期間で全然歌ってなかったから、基礎練習地獄でしょうね」

 

 

 合唱部で鍛えたのか、鳥羽の喉仏はくっきりと上下に動いている。

 

 

「吹部も今日は基礎メニューかな。あとは部活紹介の練習とか」

「もしかして、最近聴こえてた『恋』ってそれですか?」

「そうだよ」

「私、あの曲好きなんですよ」

 

 そうなんだ、と隆翔は相槌を打った。

 隆翔が鳥羽に持っている印象は薄い。

 

 一年生の頃は別のクラスだったし、二年生でクラスメイトになっても会話は少なかった。一度だけ席替えで隣同士になっていた。それでも他愛のない日常会話のみであった。

 鳥羽は中野蕾美と仲が良かった。むしろその印象が強い。

 

 

「卒業式の日も練習だったんですよね」

「そうなんだよ。式で演奏したらその後すぐ練習」

「流石、全国行くだけありますね」

 

 俺は行ったことないけど、とは言わなかった。

 

「合唱部はゆるいですから、学校が休みの日に部活があるのも夏休みくらいですね」

「むしろ、休日って何してんの?」

「色々ですね。買い物行ったり、カラオケとか」

「合唱部のカラオケってなんか凄そう」

「今度確かめてみます?」

「……考えとく」

 

 

 会話が弾んでいるうちに、職員室に到着した。

 中まで来てもらう必要もないので、鳥羽が持っているノートを預かった。

 

 

「手伝ってくれてありがとう」

「いえ、大したことじゃありません。部活、頑張ってください」

「鳥羽もね」

「はい。では、また明日」

 

 

 鳥羽が鼻歌を歌いながら階段を降りていった。それを見送って、隆翔は職員室の扉を開いた。

 

「失礼します」

 

 

 

【続く】




また一万字近く書いてしまった……。

次回は幕間の物語となります。

−追記−
2025.3.20 EP.04まで内容を加筆修正しました。
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