或る、フルート吹きの青春   作:ハヤブサ320

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北宇治高校吹奏楽部全体を巻き込む擾乱の十日間が幕を開けます。


五章 騒擾
EP.22 失態


[3月20日 午後]

 

 長かった高校二年生も今日で終わる。

 この日、修了式と諸連絡のみを控えている校内は、明日から始まる春休みを待ちわびる生徒の興奮で占められていた。隆翔のクラスも例外ではなく、大学受験への対策に本腰を入れる前の最後の長期休暇に期待する声で騒がしかった。

 

 

「明日から春休みですね」

 

 喧噪の中でも凜とした通る声で隆翔に話し掛けたのは、隆翔の隣に佇むクラスメイトの鳥羽涼葉(とばすずは)だ。

 

「そうだな」

「樟葉くんは春休みに何かご予定はありますか?」

「毎日部活、あとフルート教室を週二で入れてる」

「かなり忙しいんですね……」

「それなりにな。まあ、望んでやってることだけど、遊ぶ暇は無さそうだ」

「そうですか……」

 

 鳥羽はどこか物悲しそうに呟くが、すぐにいつもの明るい表情に戻っていた。

 

 

 隆翔と鳥羽はこの一年間クラスメイトであったが、さして会話が弾んだことはない。事務的で、互いを友人と呼ぶには空虚な関係性だった。しかし数日前、隆翔の日直の仕事を鳥羽が手助けをしたことで一気に距離が縮まった。些細な出来事であったが、二人の間に会話が生まれるようになった。

 

 彼女は合唱部だった。音楽を奏でる者同士の波長が合っていたのだろう。その上、鳥羽は同じパートの中野蕾実と仲が良かった。二人は出席番号が近く、淑やかで静かな性格という共通性があった。

 

「部活中にフルートの音が気になるようになりました。これは蕾美ちゃんかな、それとも樟葉くんかな、とか」

「そんな目に見えて分かるようなもんでもないでしょ」

「そうでもないですよ。なんか、太そうな音は樟葉くんかなって思ってます」

 

 ふはっと笑みが零れた。鳥羽も面白い冗談を言う。

 盛り上がってきたところで、中野が会話に加わってきた。

 

「二人ともおはよう」

「蕾実ちゃん、おはようございます」

「おはよう」

 

 丁寧な所作でお辞儀をした鳥羽の横髪がはらりと垂れる。それを手で押さえながら耳に架けた。

 

「何の話をしてるの?」

「樟葉くんと蕾実ちゃんの音を聞き分けられるかって話ですよ」

「えー、難しいんじゃないかな」

「中野の音は俺よりも細いらしいぞ」

「えー、それどういう意味?」

「繊細ってことなのかも。蕾実ちゃんらしい音ですよね」

「そうだといいな。私も樟葉くんみたいにファーストを任せられるようになりたいな」

 

 吹奏楽部は四月に新入生歓迎の演奏をする。

 その演奏曲、星野源の『恋』では、隆翔の修行が実って遂にファーストを任せられた。

 入部して一年も経っていない隆翔が、それまで吹奏楽部を支えていた高橋や小田、中野を差し置いてファーストを吹くことに抵抗はあったが、三人は急成長を遂げていた隆翔を正当に評価した。

 アンサンブルコンテストから三ヶ月。希美の夢を託された隆翔は、上達への努力を怠るつもりはなかった。

 

「ファーストって?」

「えっと、同じ楽器でも高音や低音を主旋律にする担当があるんだけど、ファーストが高音メインの譜面なんだよ」

「そう。セカンドやサードが劣ってるってことじゃないんだけどな」

「あ、なるほど。合唱で言うところのソプラノやアルトみたいな感じなんですね」

「そういうこと」

 

 得心した鳥羽の笑顔に、隆翔の顔が綻んだ。

 

「樟葉くん、凄いですね」

「……そうでもないよ」

 

 なぜか、鳥羽の賞賛が照れ臭かった。

 単純に良い奴だというのが、隆翔が鳥羽に下した評価だ。しかし、こうして時間を気にせずに話が出来る関係も、今日で最後かと思うと一抹の寂しさがあった。

 四月になり、三年生ではクラス替えが行われる。そうなれば今と同じクラスになる確率は低かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 修了式を終え、教室では成績表が配布され一喜一憂する時間が訪れた。

 隆翔の成績は、五段階評価で全ての教科が四以上取るというのが常であった。とはいえ、特筆してトップ成績を治めるような教科はなく、むしろ自分らしくもあると思っていた。

 

 三年生になれば大学受験への競争がスタートする。隆翔は現状の序列を維持することを中心に据え、身の程に合った偏差値の大学へと進学を希望していた。

 いくつか候補がある中で、希美たちが受験した私立大学は隆翔の志望校候補であった。

 隆翔の得意な文系学科の選択肢が広く、サークル活動にも活発だという情報は希美との会話で得ていたし、何より希美が音楽を続けたいと言ったことで、高校では為し得なかった希美と隆翔の共演が叶う可能性が高いと見ていた。その為にすべきことは現時点で山積みであった。

 

 

 

 その後、春休みと新学年の諸連絡を受け下校となった。

 部活のある生徒は順次それぞれの部室へ向かう。隆翔はこの後、幹部によるミーティングがあるため視聴覚室へ行かねばならなかった。

 

 

 教科書の入ってない学生バッグとフルートケースを持って足早に教室を出る隆翔を、鳥羽が呼び止めた。

 

「樟葉くん」

「なに?」

「このあと、少しお時間よろしいですか?」

 

 教室の時計に目を配る。現在は十一時二十分。十二時開始のミーティングまで時間は残されていた。

 

「少しなら大丈夫だよ。何の用?」

 

 ミーティング前に吹きたかった欲望を抑え、用事を伺った。鳥羽はもじもじと指の腹を擦り合わせ言い淀んでいる。しばらくその様子を見守っていると、あのっ、と食い気味に口を開いた。

 

「人気のないところで話したいんですけど……」

 

 その声は僅かながら強い意志を孕んでいた。揺れる髪の毛からはヘアオイルの甘い香りが漂っている。

 

「分かった」

 

 隆翔の了承を得ると、ほっと胸をなで下ろした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 北宇治高校には、人気の無い場所がいくつかある。鳥羽の後を追う形で到着した校舎一階の体育館への連絡通路も、その場所に該当する。

 

 外は雨が降っていた。今日の天気は三月も中旬だと言うのに、夜から雪の予報であった。

 太陽の届かない連絡通路は薄暗く、長い前髪の先にある鳥羽の表情を確認するのは難しい。

 

 既に自主練に励む吹奏楽部員が基礎練習をこなしている。各楽器ばらばらに奏でる不協和音が、その不気味さを助長していた。

 

 

「……さむ」

 

 隆翔は冷えた手に吐息を吹きかけた。自宅から持ってきたカイロを擦るが、既に冷たくなっていた。

 

 

「この辺でいいですか?」

「……うん」

 

 意を決した鳥羽が、隆翔と相対した。

 薄暗い廊下に、女子と二人きり。隆翔でなければ色々期待をしてしまう展開だろう。

 

「……えっと、あの」

 

 

 

 どこか上擦った声に焦点の合わない視線。明らかに動揺しているか、言葉を選んでいるような雰囲気であった。

 鳥羽は、女子にしては高い身長に、ゆったりとした長髪。如何にも淑女という容姿をしていた。男子十人寄れば八人は好意を持つであろう。

 

 言い淀む鳥羽を、隆翔は急かしたりしない。

 学年の登校最終日、さらに女子から人気のない場所へ誘われている状況を、隆翔が察しない筈がなかった。

 

 

「突然でごめんなさい。あの、樟葉くんは今付き合ってる人とかいますか?」

 

 鳥羽から好意の視線を受けていたことは、少なからず自覚していた。

 思い出すのはちょうど一年前。秀一から、黄前に告白する旨の相談を受けた。当時、恋愛経験のない隆翔に相談すること自体がナンセンスだと思っていたが、吹奏楽部の連中に相談する訳にもいかず、彼の知り合いの中で口の堅さでは右に出る者のいない隆翔に白羽の矢が立った。それから、告白のシチュエーションなど数々の想定を立てた。

 

 女子から二人きりでと言われれば高確率で告白イベントであろう。

 隆翔は吹奏楽部の部員を始め、クラスメイトにも希美と交際中であることを公言していない。隆翔自身がそうしたかったのもあるが、学年も異なり、卒業した三年生と交際していることを公言する機会も無かった。

 

 それ故に隆翔はこの判断のもたらす影響を楽観視していた。

 

 

「いや、いないけど」

「そっか……」

 

 

 鳥羽の安堵した表情に心臓がチクリと痛んだ。それでも、無意識的に希美との恋仲が発覚することを恐れた。仮に、自身が針の筵になったとして、それを希美が望んでいなかったとしてもだ。

 鳥羽の視線が鋭く隆翔を貫いて、彼女の本心に触れた。

 

 

「……樟葉隆翔くん、ずっと好きでした。良かったら、私の恋人になってくれませんか?」

 

 彼女は顔を真っ赤にして、瞳を強く瞑っていた。

 

 

 一世一代の告白と言うのであろうか。思いの強さには精神的なエネルギーを感じる。

 告白とは勇気のいる行為だ。以前の隆翔がそうであったように、彼女も心臓が破裂しそうな程緊張している。

 大方、新たなカップルが組まれる期間は決まって長期休みの直前か、クリスマスやバレンタインなどイベントであることが多い。今回の場合も、春休みが明ければ三年生のクラス替えが控えている。希美も、卒業直前に何人かの男子から告白を受けたと報告があった。

 クラスが別々になって気軽に会えなくなる前に告白するのは、ある種当然のことだった。

 

 とはいえ、答えは決まっていた。

 まさか自分が断る立場の人間になるなど誰が想像しただろうか。告白された経験値のある希美に、この状況でどう声を掛けるべきなのか事前に聞いておけば良かったと隆翔は後悔した。

 

 

 

「……ごめん。君とは付き合えない」

 

 

 鳥羽の表情は、一転して絶望に染まった。

 彼女は潔い。だから断るからこそ、この告白を喜んだりはしない。浮かれたりすれば、鳥羽に対して失礼に当たるだろう。

 抑えきれない涙は瞳から溢れる。ふと、関西大会後に希美に差し出したハンカチを思い出した。しかし、この時の隆翔に同じような振る舞いをするつもりもなかった。

 

 鳥羽は涙を強引に拭って、震えた声を絞り出した。

 

「そっか……ごめんなさい」

「いや、こちらこそ」

「……どうしてダメなのか、訊いてもいいですか?」

 

 

 隆翔は押し黙った。

 鳥羽の告白を断った理由は、紛れもなく希美という恋人がいるからである。鳥羽は希美の存在を知らない。隆翔の恋人は別の部活の、接点のない卒業した先輩。希美のことを明らかにせずとも、恋人がいるから断ったと言えばそれで済む話しだった。

 

 しかし、隆翔は判断を誤った。

 これ以上プライベート明かす必要はないと結論付けた。鳥羽とは所詮、二言三言話す程度の関係なのだ。おいそれと自分のテリトリーに足を踏み入れて欲しくない。

 故に隆翔は開き直った。

 

「聞いてどうするんだ?」

「……え?」

「それに、言う必要もないんじゃないのか。告白は嬉しかった。それに、鳥羽にダメなところはないと思うし、俺が単純に恋愛欲は無い。それだけじゃダメなのか?」

 

 自分で言っていて冷酷だと思った。嘘八百を並べて隆翔は鳥羽を退けようとした。

 情けなくも、これ以上の追求は隆翔が嫌がった。

 

 

 鳥羽は長い前髪で表情を隠していた。暗がりもあって、前髪の先で刺すような視線を送っていた。やがて厚い曇よりも暗い声で、隆翔を罵った。

 

「馬鹿にしないで……」

「え?」

「馬鹿にしないでよ! だって、言えないこと無いじゃない……私のこと、樟葉くんは好きじゃないんですよね。それならそうとはっきり言ってください!」

 

 狭い空間に鳥羽の慟哭が響いた。

 怒りに震え、瞳には涙を蓄えている。

 彼女の怒りは振られたからではない。隆翔の煮え切らない態度が鳥羽自身を傷つけた。それ以上でも以下でもなかった。

 純粋な怒りをぶつけられた隆翔は困惑した。しかも、隆翔は普段のお淑やかさに甘え、性格を過信していた。

 

 

「……ごめん」

「謝らないでください。謝るくらいなら、ちゃんと理由を聞かせてください」

 

 

 鳥羽の声が強くなる。そのまっすぐな視線が隆翔を着実に追い詰める。

 こうなってしまったのは、ひとえに選択を誤ったからだと隆翔は後悔した。もっと鳥羽が簡単に引き下がってくれる言葉があったはずだ。そう誘導できなかった時点で、この一連の告白劇で鳥羽が激怒することもなかった。

 彼女は賢かった。隆翔が理由を告げられない何かがあることを既に見抜いている。鳥羽は一世一代の告白を蔑ろにされたことを、到底許せる筈がなかった。そして、隆翔もまた、恋愛事情を秘匿するというポリシーを貫いてしまった。

 

 

 

 もう、希美のことを隠して鳥羽を説得する術は残されていなかった。

 最後に教室で時計を見てから三十分は経った。もうすぐミーティングが始まってしまう。事態は風雲急を要した。ここで鳥羽を説得している時間は無い。

 隆翔は、ごめんと一言だけ呟いて鳥羽を睨んだ。我ながら最低だと自嘲した。

 こちらにも事情がある、と察してほしかった。

 

 隆翔に睨まれた鳥羽は、それを拒絶と受け取った。どれだけ言っても取り付く島もない。鳥羽は隆翔のことを誠実で賢いと思っていた。しかし、それは外見だけで、彼の本性は狡猾で、嘘つきで、不誠実だった。

 

「……分かりました。時間を取らせてごめんなさい」

 

 失望した鳥羽はこれ以上は時間の無駄と判断し、隆翔を擦り抜けて校舎の中に入っていった。

 

 数分前まで鳥羽の慟哭が支配していた空間に、不気味なほどの静寂が訪れた。

 これで良かった。鳥羽には悪いことをしたが、彼女と希美を天秤にかけるなら断然希美に重きを置く。

 罪悪感がじくじくと隆翔を蝕んでいたが、その痛みに隆翔は蓋をした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「樟葉、話聞いてる?」

 

 時間通りに始まったミーティングの最中も、隆翔は先程の告白で集中出来ずにいた。

 黄前と秀一は心配そうに見つめ、隆翔に声を掛けた高坂は訝しむ表情で隆翔を睨んでいた。

「……ん、ああ、ごめん。なんだっけ」

「マネージャーにも関わる話よ。集中して」

「……ごめん」

 

 こんなことじゃダメだ。一旦忘れるんだ。隆翔は一呼吸置いて、気持ちを切り替えた。

 

「ま、隆翔にも色々あるんだろ。例えば成績表のこととか」

「言ってろ、秀一」

「今は関係ないでしょ。秀一も樟葉もいい加減にして」

 

 

 溜息を漏らした高坂は続けるわよ、と言ってホワイトボードに来年度の練習方針を羅列していった。

 四月の新入部員を迎えたあと、五月にはサンライズフェスティバルがある。そこを超えたら、他の部活の応援演奏を除けば八月のコンクールまで練習、練習、そして練習だ。

 

 

 高坂はホワイトボードに昨年のコンクールに纏わるスケジュールを羅列した。

 

「始業式のあと、新入生の体験入部があって、それが終わればサンフェスの練習に入らなきゃ間に合わない」

「謎ステップの練習もあるもんね」

「というか、隆翔は大丈夫なのか? ゴメハやったことないだろ」

「ないよ。この前、ちょっと梓に教わった程度」

「今のうちに身体に叩き込んでおくことね」

 

 五メートル八歩。先日、梓との自主練でサンライズフェスティバルの話を求めたときに熱弁された言葉だった。

 北宇治は立華のように理路整然とした行進と完璧な演奏を求められる訳ではない。そう逃げるのは簡単だ。妥協を許さないドラムメジャーの機嫌を損ねないためにも、隆翔の当分の課題はマーチングへの練習だった。

 

 マーチングを二度経験している隆翔以外の三人の心配事は別のことへと向けられていた。

 

「新入部員がどれだけ入ってくるかだよな」

「あーそっか……」

「大丈夫でしょ。今年の一年生の人数を考えたら、層は厚くなると思う」

「滝先生目当てに入ってくる部員がいるかもだしな」

 

 高坂の鋭い視線が茶化した隆翔を睨む。教室の温度が二、三度下がったような気配と共に、高坂が苛立ちの声を上げた。

 

「……今は滝先生関係ないでしょ」

「いや、大いに関係あるんじゃないの?」

「だからって、アンタに茶化されるのが一番腹が立つ」

 

 隆翔と高坂麗奈。二人の関係は以前から良好とは言えなかった。

 それでも何の因果か、今はお互いに吹奏楽部を支える立場にいる。それから表だって喧嘩をすることもなかった。彼女が高飛車になることがないように抑止力として隆翔の存在が確立していたが、諸刃の剣だった。

 

 

「れ、麗奈、落ち着いて……」

「久美子は黙ってて。前から樟葉の貶すような言動が本当に嫌だった。吹部一丸で全国を目指さなきゃいけないのに、一人だけ冷めたような態度だったし。やる気ないなら私たちの邪魔をしないでくれる?」

 

 

 竜の逆鱗に触れたような容赦の無い糾弾が隆翔を襲った。とはいえ、隆翔自身も奏者復帰以降、出来ることをしている自負があった。ファーストに選ばれたことがその最たる結果だ。

 

 

 会議は紛糾しかけていた。

 高坂に制された黄前は目を白黒として固まってしまった。高坂のことが苦手な秀一も、火中の栗を拾いたくないのか二人の様子を見守っていた。

 激高する高坂と対照的に、隆翔は冷静だった。

 

「そうか。滝先生のことを悪く言ったつもりは無いんだ。申し訳ない」

「……本当にそう思ってる?」

「俺だって去年の結果には思うところがあるんだ。少なくとも、吹部の目指すところは共有しているつもりだ。それに――」

「……それに?」

「人の恋路を邪魔する奴は碌でもないしな」

 

 それは効くかどうか五分五分の、隆翔の意趣返しだった。

 隆翔の言葉の意味を理解した高坂は、急激に顔を赤くして憤怒に染まった。

 

「アンタねえ……!」

「そこまで! 樟葉はこれ以上喋らないで。麗奈も座って」

 

 二人の間に立った黄前は、確たる意志を持って仲裁に入った。高坂は冷静さを取り戻した。

 

 

 

「塚本」

「ヒッ、なんでしょうか……」

 

 怒りの収まらない高坂から名前を呼ばれた秀一は、完全に蛇に睨まれた蛙だった。

 

「あとで話があるから」

「……はい」

 

 隆翔に高坂の恋路をばらしたのは秀一だ。そこを一瞬で看破した高坂は、有無を言わさずに秀一を従えた。隆翔は心の中でご愁傷様と秀一に手を合わせた。

 

 

 結局、お互いに頭を冷やせという部長命令によってミーティングは解散となった。

 鳥羽の告白と高坂の激高。今日は確実に女難の相が出ている。

 

 女子社会の掟である女子の機嫌を損ねないという鉄則を破った隆翔は、これ以上の災難が降りかからないことを祈った。

 

 

 

 

 

 

 

 

[3月21日 午前]

 

 

 起き抜けに届いたメッセージは、隆翔を戦々恐々とさせた。

 送り主は中野蕾実。文面には『今日、話があります』とだけ書かれていた。それだけで何のことか分からない隆翔ではない。

 偏頭痛がした。

 昨日の女難の相はまだ治まっていないようだった。

 

 

 

 

 

 

 こそこそと気配を消して校舎に入った。

 しかし昇降口で上履きに履き替えた瞬間、唐突に腕を捕まれた。

 

「うおっ!」

 

 驚嘆して振り向けば、そこには同じパートの中野が立っていた。女子らしい華奢な腕が、逃がさないと言わんばかりに強く握った。

 

「おはよう。どうして隠れるの?」

 

 その表情はいつもの温和な感情を醸し出すような柔らかなものではなく、見たこともない程機嫌を損ねていた。

 連れてこられたのは家庭科室。一階の人通りが少ないこの場所は、春休みに入ったことにより更にしんと静まりかえっていた。

 

 

 

「単刀直入に聞くね。昨日、涼葉ちゃんに告白されたでしょ」

 

 やはりその話か。顔が引き攣る感触があった。

 

「私、涼葉ちゃんに相談されてたの。樟葉くんに告白したいからって」

「告白はされた。そんで振った。でも、それで中野が俺を責める権利はないはずだ」

 

 普段温厚な中野の表情が強張った。

 隆翔を見る瞳は、明らかに軽蔑の意志を孕んでいた。

 

「昨日の夜、涼葉ちゃんから泣きながら電話があったんだよ、振られちゃったって。そしたら樟葉くんが弄んだって言うんだもん。有り得ないよ、人の告白をそういう風に扱うなんて!」

 

 頭がくらっとした。中野から隆翔に向けて怒りの矢が四方八方から射られている。

 見たこともないほどに怒りを露わにした彼女に圧倒された。裏返せば、中野は鳥羽に対して隆翔が想像できない程誠実なのだ。

 

 これ以上誤魔化すことは不可能だった。そもそも最初に鳥羽へ誤魔化しを打った次点で飛車角落ちなのだった。

 

 

 

「鳥羽には悪いことをしたと思ってるよ。偽ることを言ったのは本当だ。反省してる」

「……謝るのは私じゃないよ」

 

 まるで取り付く島がない。

 中野の役割は鳥羽に代わって、隆翔の不誠実を糾弾することだ。半年ほど前、隆翔が合宿で黄前に放ったような言葉が、今はそのまま自分の身に降りかかっている。

 

 

 カミングアウトには躊躇いがあった。それでもこれ以上嘘を重ねるわけにもいかなかった。

 

「鳥羽の告白を断ったのは他に好きな人がいるからなんだ。鳥羽の気持ちは嬉しかったけど、自分の気持ちを裏切ることはできない」

 

 警戒を解かない中野は表情を変えずに聞いていた。

 

「ふーん。それって部内?」

「……それは、勘弁してくれ」

「そう、分かった。本当は昨日涼葉ちゃんに言って欲しかったけど、私から言っておくから」

「……すまない」

 

 それじゃ、と言って中野は教室から出た。

 ここに来てから十分と経っていない。それなのに、途轍もないカロリーを消費した。

 

 素直に練習教室へ行くような余裕はなかった。

 自動販売機から清涼飲料水を買い、傍のベンチに座ってこれまでを振り返った。

 

 明らかに良くない状況を生み出していた。

 そして、それは間違いなく隆翔の精神を蝕んでいた。

 ヒタヒタと冷たい足音を立てて、地獄が隆翔を包囲していた。

 

 

 

 

【つづく】

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