或る、フルート吹きの青春   作:ハヤブサ320

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EP.02 ロストマン

 オーディション発表から二週間が経ち、コンクールの練習は更に熱を帯びた。

 

 

 梅雨真っ盛りのこの時期は、隆翔の最も嫌いな季節だ。ジメジメとした気候よりも、氷点下を記録する澄み切った冬の方が隆翔は好きだった。

 

「隆翔、ちょっといいか?」

 

 隆翔を下の名前で呼ぶのは幼馴染みの梓と同級生の塚本秀一だけである。

 秀一はホルンパートで最近実力を上げ、コンクールメンバーにも選ばれていた。

 

「どうした?」

「内藤から伝言なんだけど、今日の練習休むってさ」

「え、マジか。でも学校には来てたんだろ」

「そうなんだよ。まあ、こう雨が続くと調子も崩すよな。俺も体が重いよ」

 

 秀一はそう言うと肩を回す。関節からパキパキと音が鳴った。

 

 

 その時は、そういう日もあるだろうと自分に言い聞かせた。

 しかし、一度感じた違和感を掻き消すことはできなかった。

 

 初心者として一緒に入部してからフルートに打ち込む彼女の姿を見てきた。切磋琢磨して練習に明け暮れ、先日悲願のメンバー入りを果たした戦友とも呼ぶべき彼女に対しては、並々ならぬ情が生まれていた。

 

 

 練習後、梓との下校中に今日のことをそれとなく聞いてみた。女子特有のネットワークというものに、一抹の期待をかけた。

 

「今日さ、内藤が部活を休んだんだけど、何か聞いてる?」

「確かに。秀ちゃん、今日学校で見たけど確かにちょっと調子悪そうだったかも」

「じゃあ、ただの夏風邪か。同じセカンドだから音も合わせたいし、あまり休まれると困るんだよね」

「それは我慢しなよ。今拗らせて本番に支障が出たら元も子もないよ」

 

 

 

 隆翔の予感は杞憂に終わろうとしていた。

 

 二人はなんとなく話が続くと思い、マンションのロビーに留まった。

 内藤の一件による安堵からベンチに腰掛けると、背中合わせで寄りかかっていた梓の背中に頭が当たった。

 

 

 

「あ、でもでも。フルートの藤波先輩って秀ちゃんと同じ三室戸小だったんでしょ。この前のオーディションで先輩が落選したこと、秀ちゃんすごく心配してた」

「まあ、本人も先輩と出られる最後のコンクールって意気込んでたし」

「だよね」

 

 

 隆翔は帰宅中に買ったペットボトルの麦茶を飲んだ。

 

「私にもちょうだい」

 

 梓は隆翔からペットボトルをひったくり、飲み口を付けずに器用に飲み干した。

 健康的な喉が上下に動く様は、少しだけ扇情的だった。

 

「全部飲むなよ」

「ごめんごめん」

 

 おちゃらけながら空になったペットボトルを振って見せ、そのままゴミ箱へ投げ込んだ。

 

 

「あのさ、隆翔は本番に強いタイプ?」

 

 先程とは打って変わって、か細い声が耳元でこだまする。

 覗き込んだ梓の表情は、少しだけ陰を落としていた。

 

「どうだろ。昔出たピアノの発表会とかは緊張したけど普通にやり通せたし、でも吹奏楽は緊張するかも。流石に初めてだし」

 

「そっか……私はね、去年すごく怖かった。一緒に出た久美子も同じ気持ちだったって。あんな大人数の前で演奏することも初めてだったし、舞台があんなに熱いことも知らなくてびっくりした」

 

 

「でも、ちゃんと吹いてたじゃん」

「なんとかね。終わった瞬間は安心して倒れそうだったよ」

「これから初めてステージに立つ人間に言う言葉じゃないな」

「あはは、ごめん」

 

 

 横を向くと、いつの間に振り向いたのか至近距離に梓の顔があった。こいつはこんなに距離感が近かったかと息をのんだ。あと十センチもない距離に梓の唇があった。慌てて顔を正面に向けるが、一度意識した梓との距離感に動悸が止まらない。

 

「よし、帰ろうか」

 

 梓は立ち上がって、エレベーターのボタンを押した。

 

 

     ◇◆◇

 

 

 翌日も内藤は部活を休んだ。

 そして学校も休んでいた。

 風邪を拗らせたなと勘繰り、復帰したら見舞いの品でも寄越そうかと思案していたが、物事は想定外の方向へと進み出した。

 

 

 

 コンクール編成における隆翔の隣、内藤が座るべき座席には落選したはずの藤波が座っていた。

 

「先輩、そこは内藤の席ですよ」

 

 嫌な予感は杞憂ではなかった。事実は分からないが、普通ではないことが起きていることは明白だった。

 

「知らないの? 秀はね、メンバーを辞退したよ。後任に私を指名してね」

 

「……はぁ?」

 

 

 到底、理解が出来なかった。悪い夢でも見ているのだと本気で疑った。

 隆翔の心の中で、何かが崩れる音がした。

 メンバー入りを泣くほど喜んでいたあいつが辞退だと。

 

 

 呆気なく言い放つ藤波の言葉を、隆翔は信用できる筈がなかった。

 周囲もその違和感に気が付いていた。だが、明らかに異様な出来事にもパートの女子たちは首を突っ込もうとしなかった。

 

 なぜなら藤波が最上級生であるからだ。

 頭を過ったのは、内藤と藤波は同じ小学校、交友関係が深い間柄であることだ。

 

 疑問を抱きながらも基礎練習が終わり、各パートでの練習が始まる前に隆翔はリーダーの菱沼を問い詰めた。

 

 

「菱沼先輩、あれは一体どういう事なんですか!」

 

 隆翔は怒り心頭であった。

 菱沼は、隆翔の見たこともない剣幕に気圧されていた。

 

 

「お、落ち着いて樟葉くん。あれはね、一昨日内藤さんから直接言われたの。私じゃメンバーに見合いませんって。内藤さん、つらそうだった。そんなにプレッシャーに感じていたのかって、私知らなくて……」

 

 

 隆翔は愕然とした。

 本気でそんなことを内藤が思っているのかと。

 あり得る筈がない。メンバーになることを切望して必死に練習に打ち込んでいた彼女を、そんな目で見ていたのか。

 

 オーディション前に触れた彼女の指の硬さを鮮明に思い出す。彼女の功績を思い出すと、悔しさに気が狂いそうになった。

 

 

「分かってあげて?」

「……それは、内藤の気持ちをってことですか?」

「う、うん。そうだよ?」

 

 菱沼との会話は終始歯切れの悪いものとなった。

 しかし、ここで怒りの矛先を菱沼に向けることは間違っている。隆翔もそのことは重々承知していた。

 

「そもそも、内藤が藤波先輩を指名したことは事実なんですか?」

 

 彼女は何も言わず、目を合わせないまま静かに首肯した。

 

「そうですか、すみません時間を取らせてしまって」

 

 その後、隆翔はパート練習には行かなかった。とても練習する気分になれなかった。

 職員室へ行って直接顧問へ訴えようか。しかし証拠が不十分すぎる。何より内藤がどうして辞退したのさえ分からない。

 

 

 自問自答を繰り返しても途方に暮れる。どんな手を打っても後手に回ることが想像できた。

 音楽準備室へ辿り着くと、偶然にも黄前が楽器を持ち出している瞬間だった。

 

「黄前……」

「樟葉、ちょっと来て」

 

 周囲を見渡して隆翔を準備室へ連れ込むと、扉を閉めた。

 

「大丈夫? ひどい顔だよ」

「……ああ、最悪な気分だよ」

 

 開口一番、隆翔に言い放った黄前は隠れるように棚の奥で屈んだ。隆翔もそれに倣った。

 

「……秀ちゃんの件?」

「うん」

 

 胸が騒つく。やはりと言うべきか、黄前も内藤の辞退を気に掛けていた。

 

 

 

「あのね、樟葉。これはここだけの話にして欲しいんだけど」

 

 誰もいない準備室で声を細めた黄前は言葉を続けた。

 

「私ね、この前見ちゃったの。藤波先輩が秀ちゃんを空き教室に連れて行ってた。そこで何を話していたのかは分からないけど、先輩が秀ちゃんに頭を下げていたの。多分、今回の件と関係あるかもしれなくて」

 

 

 意外と驚きもしなかった。黄前が見た光景は隆翔の想像の通りだった。

 

「……それで」

 

 

 自分でも驚くほど低く、無機質な声が出た。その声が黄前を少し怯えさせていた。

 

「えっと、秀ちゃん、なんか凄く慌ててた。藤波先輩と秀ちゃんは仲が良かったでしょ。本人も慕われている先輩にそんなお願いされるとは思ってなかったらしくて……藤波先輩は三年生で、二年生の秀ちゃんはは来年もある。秀ちゃんなら来年もメンバーに入れるから、今年は私に譲ってほしいってことなのかも……」

 

「……内藤はその時、頷いたのか?」

「うん」

 

 冷静に努めていた隆翔は、黄前の肯定によって破綻した。

 

 

 

 

「なんでなんだよ! どうして内藤が諦めなきゃいけないんだ! あいつは滅茶苦茶頑張ってた! その頑張りを、涙を、あの先輩は全部奪ったってのか!」

 

 

「痛い! 樟葉っ、やめて……!」

 

 

 

 隆翔は黄前の襟に掴みかかった。

 黄前はたまたま通り掛かっただけで、何も悪くない。

 しかし、隆翔が最も聞きたくないことが事実として存在していた。

 

 先輩の横暴と内藤への感情が引き金となって、我を忘れるほどの怒りが襲った。

 

「痛い! 痛いよぉ……」

 

 隆翔の握力によって、胸元のリボンが解けてしまっていた。

 烈火の如く怒る隆翔に、黄前は恐怖の念を抱いた。しかし隆翔の耳には、彼女の悲鳴が届いていなかった。

 

 

 突如、準備室の扉がガラリと開いた。

 

「隆翔やめて! 久美子から離れて!」

 

 廊下から飛び出して来た梓によって、隆翔は黄前から引き剥がされた。

 

「落ち着きなって! 久美子が何したっていうのよ」

 

 梓でさえ、これほど怒りに震える隆翔を見たのは初めてだった。驚愕、困惑、それよりも、梓は黄前の身の安全を優先した。

 楽器室にパンッと破裂音が響いた。

 隆翔の頬に、梓の平手打ちが炸裂した。

 

 叩かれた隆翔はようやく正気に戻った。解放された黄前は全身が震え怯えきっていた。癖毛の奥に見えるくりりとした大きな瞳からは、大粒の涙が流れていた。

 

「……黄前、ごめん! お前が悪いことなんて何もないのに」

 

 黄前はやっとの思いで首を横に振ると、そのまま走って準備室を後にした。

 

「隆翔、後で説明してもらうから」

 

 普段、聞いたこともない低い声から、梓が相当怒っていることが理解できた。

 しかし、梓が隆翔に向けたのは失望や非難ではなく、憐れみを込めた悲しい表情だった。

 

 

「久美子、待って!」

 

 走り去る黄前を追って廊下へ消えていった。

 

 

 

 完全にやってしまった。何の罪もない黄前に手を出してしまったことで梓にも嫌われてしまった。

 隆翔はひたすら自責の念に襲われた。

 そして友をを裏切ることへの恐怖を、身をもって痛感した。

 立ち直れる気がしなかった隆翔は、その日は部活を早退した。

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

「あら、早かったのね」

 帰宅した隆翔を待っていたのは母であった。

 

 最近、隆翔は最終下校時刻の十九時以降に帰路についていた。現在の時刻は十七時。母が不思議がるのも無理はなかった。

 

「うん、今日は早めにあがってきた」

 

 早退の言い訳を考えてみたが、脳内で整理できる心境でもなかった。隆翔は無理矢理誤魔化すと、そのまま自室へ逃げるように入っていった。

 

 

 

「何やってんだ俺は……」

 

 

 明日も練習がある。黄前へ謝れないまま、呑気に楽器を吹けるとは到底思えなかった。

 

 謝罪のシミュレーションを脳内で繰り出すも、怯え震えていた彼女の表情が想起されるばかりだ。

 ベッドに突っ伏したまま悔悟の念に駆られていると、廊下から心配した母が声を掛けてきた。

 

「隆翔、具合でも悪いの?」

「……大丈夫」

 

 父が単身赴任で家を空ける中、母と共にこの家を守らなければならない。責任感にも似た感情が邪魔をして、こんな情けない姿を見せたくはなかった。

 

「……そう。ちょっとお遣いを頼みたいんだけど、良いかしら」

 

 母はスーパーへの買い物を依頼した。このまま家の中にいても鬱屈としてしまうだろう。隆翔は気分転換がてらと快諾した。

 

 

 

「行ってくるよ」

「あら、まだ制服脱いでなかったの?」

「うん、このまま行ってくる」

「そう、じゃあお願いね。買って来て欲しいものはメッセージに送っておくから」

 

 母からお金を受け取ってマンションを出る。

 夏も本気を出してきた。隆翔を照らす西日は昼間の姿よりも厳しく感じた。

 スーパーへの道は、北中への通学路と被っていた。そのため下校中の北中生とすれ違う。着替えが億劫だからと制服で来たことを少しばかり後悔した。

 

 途中の交差点で、反対側に見覚えのある白いケースを背負った小柄な女子生徒が立っていた。

 

 

「……梓」

 

「あ、隆翔!」

 

 

 向こうも隆翔の姿に驚いたのか、大きな声を出して指を差した。

 横断歩道の信号が青になると、梓がこちらに駆け出してくる。先ほどの狼藉から何時間も経っていない。隆翔からしたら、この場で出会ってしまうことは望んでいないことだった。

 

「部活サボったでしょ。いけないんだ」

「……梓、あのさ」

「あ、久美子なら大丈夫だよ。もう怒ってないって」

 

 梓は隆翔が懸念として抱えていたことを、あっけからんに伝えてきた。

 

「そうか……。良かった」

 

 安堵の溜息と共に、強張っていた体が弛緩して思わずその場にしゃがみ込んだ。

 

「明日、謝るの手伝ってあげるからさ、ちゃんと部活来なよ」

「ありがとう。恩に着るよ」

「良いってこと。で、こんなとこで何してるの?」

「ああ。母さんに頼まれてそこのスーパーに買い物」

「ふーん。偉いね」

「梓は、今日お母さんいるの?」

「今日も遅いって」

 

 梓の母はバリバリのキャリアウーマンで、女手一つで梓を育てている。そんな梓の母と隆翔の母は旧知の仲であった。

 幼い梓を一人で留守番させられない時期は、隆翔の家で預かっていた。それ故に、梓は樟葉家を慕っていた。

 

「うちで夕飯たべる?」

「え、いいの?」

「ちょっと母さんに聞いてみる」

 

 

 その場でメールを打ち込んだが、返答は電話で掛かってきた。

 

 

「もしもし」

『あなた今梓ちゃんと一緒にいるの?』

「隣にいるよ」

『ちょっと代わりなさい』

 

 

 隆翔は梓に携帯を寄越して電話を代わった。

 どんな内容の会話かは分からないが、テンションの高い母の声とその上を行く梓の声からするに、かなり歓迎しているようだった。

 それから待つこと数分。母と梓の通話は終了し、買い出しを始めた。

 

「おばさん、テンション高いね」

「そりゃ梓を娘のように可愛がってたからな」

「何それ。じゃあ、私は隆翔の妹なの?」

 

 ぷっと吹き出すと、梓はありもしない話を宣った。

 

「梓が一度でも俺を兄だと思って接したことがあったか?」

「ううん、一回も無いよ」

 

 隆翔は呆れて肩を竦めた。それを見た梓はカラカラと笑う。

 

 

 

 確かに梓は周囲に甘えることをあまりして来なかった。しかし、隆翔の記憶の中には一度だけ梓が我儘を言った記憶がった。

 何年も前のことだ。梓はきっと覚えていないだろう。

 

 買い出しを終えてマンションへ着くと、梓は着替えと荷物を置きに一度部屋に帰った。

 この日の夕食は海老とじゃがいもが入ったグラタンだった。玄関を跨いだ時から空腹を刺激する香りが充満していた。梓が来ると分かってから、彼女の好物であるじゃがいも料理に方向転換したのだとか。

 

 料理とはそんな簡単に応用が効くのかと隆翔は驚いた。

 

 中学で吹奏楽部へ入部してからはお互いに忙しく、梓が樟葉家へ来ることは無くなった。梓と久しぶりに再会した母も、成長した彼女の姿に驚くと共に、昔日の面影が預かっていた幼少期を思い出すようだった。

 こんなに賑やかな食卓は久方振りで、隆翔の冷え切っていた心に穏やかな温もりが灯った。

 

 

 今日は様々なことが起きた一日だった。ただの中学二年生が抱えるには重すぎる内藤の一件に、我を忘れるほどの怒りが噴出したこと。黄前を傷つけてしまった罪。そして、いつしか忘れていた幼馴染みがもたらす温もり。

「また明日」と言ってくれる梓の存在が、今の隆翔には支えとなっていた。

 

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 

 翌日、朝練に参加した梓と隆翔は、真っ先に低音パートが練習する教室を訪れた。

 隆翔を目にした黄前は明らかに萎縮した。それでも、梓の助力で歩み寄った隆翔は、黄前に誠意を持って頭を下げた。

 当初は狼狽していた黄前も、隆翔の姿勢を受け入れた。

 

「もう大丈夫だから」

「ほんと、ごめんな」

「うん。梓ちゃんもありがとう」

「良いって、良いって。まさかの隆翔がキレキャラだったらどうしたもんかと思ったけどね」

「いや、洒落になってないから、それ」

 

 こんな状況で冗談を言える胆力こそ、梓が獲得した社交性なのだろうか。隆翔もいつかは真似ることが出来るようになるのだろうか。

 

「でもさ、秀ちゃんの件、どうするの?」

「根本的には、何も解決できてない。でも、明らかに藤波先輩は黒だ」

 

 黄前の証言が本当ならば、顧問などに相談すべき事案だろう。

 隆翔は藤波の横暴を確信していたが、梓にはいくつか懸念していることがあった。

 

「確かに久美子の言うことが本当なら、藤波先輩の行いはダメなことだよ。でもさ、隆翔はそれを顧問にそのまま伝えるの?」

「当たり前だ。黄前がその現場を見ていたんだ。充分証拠になるだろ」

「やめた方がいいと思うけど」

 

 

 壁に寄りかかった梓は、隆翔の発言を真っ向から否定した。

 三人の間に緊張が走る。

 

「……どう言うことだ」

 

「それを明かしたところで、久美子はどうなると思う? 隆翔は知らないと思うけど、久美子はね、去年のコンクール前に三年生たちに嫌がらせを受けたんだよ」

 

「ちょっと、梓ちゃん……」

「私は久美子が同じ目に遭うのは見たくない。それは分かって」

 

 いつになく強い口調で隆翔を牽制した。

 梓の言う通り、隆翔の考えは浅はかだった。隆翔自身が傷つくのは良いが、このままでは証言者の黄前は矢面に立たされ、先輩からの厳しい視線に曝されるだろう。

 

 

 

「じゃあ、誰が内藤を庇えるんだよ……」

 

 

 

 隆翔は唇を噛み締めた。このままではあまりに惨めだ。

 

 梓の黄前を想う気持ちも理解できる。この女子社会の吹部で、一年生が上級生から陰湿に扱われ針の筵になる辛さは想像を絶するものであろう。

 

 それでも隆翔の信念として、内藤を都合の良い生贄で終わらせることだけは絶対に避けたかった。

 

 

 

     ◆

 

 

 

 その日も状況は変わらず、依然として隆翔の隣に座ったのは藤波だった。彼女のフルートも決して悪くはない。しかし抑揚やロングトーンの透明度、音域の高さごとに発生するブレの少なさで判断すれば、努力を積み重ねてきた内藤には及んでいない。

 元々同じセカンドの奏者として研鑽を積んできた隆翔と内藤の相性と比較しても、悲しいことにその差は歴然としていた。時間が経過する程、合わない合奏にストレスは溜まる一方だった。

 

 顧問が藤波を落とした理由は、向上する北中の演奏に技術が見合っていないからと総合的に判断したからである。

 音楽を奏でることは他人を貶め、優劣を競うことではない。しかし、本気で全国を狙えるメンバーが揃ったこの世代で、それは欺瞞に過ぎない。目の前にチャンスが転がっていれば、獲りに行かずしてなんとする。

 

 内藤が辞退したことは既に他のパートへも情報が伝達していた。まだ内藤が隆翔の隣で演奏していた頃、北中の演奏は磨けば光る原石のような可能性を秘めていた。内藤の辞退は確かに不可解だったが、それを指摘する者は一人もおらず、皆如何にに波風を立てず本番を迎えることに注力した。

 しかし、不和の発生源であるフルートパートの雰囲気は言及するのも憚れるほど悲惨なものとなっていた。

 

 

 

「もう一回、やってみようか」

 

 重苦しい空気の中で最初に口を開く損な役回りは、いつもリーダーの菱沼だった。

 

 

 すると突然、渦中の藤波が菱沼の言葉に割って入ってきた。

 

「っていうかさあ、樟葉のテンポが速すぎるんだよ。正直合わせ辛いんだよね」

 

 藤波の不満は隆翔へ向けられた。

 

「俺は先生の指示通りに吹いているつもりですけど」

 

 隆翔は努めて冷静に返答した。癪に障る物言いだったが、ここで怒っては全てが水泡に帰す。

 藤波の言う違和感とは『ウィリアム・テル』第四部、クライマックスにかけてのヴィヴァーチェであった。

 

「大体、クライマックスなんて目立ってナンボでしょ。村上さんだってさ、一年生でファーストになれたからって遠慮してんじゃないの。いつでも変わってあげるよ」

 

 突然矛先を向けられた村上は驚いて硬直した。普段から口数の少ない彼女であったが、自分よりも実力の低い奏者から頓珍漢な指摘を受けて、なんと言えば良いのか分からなくなっていたのだ。まさに正気を疑う出来事だった。

 

 後輩でさえ演奏を崩壊させかねない事態を理解しているのに、この人は三年間何をやってきたのだろうか。

 たまらず隆翔は口を開いた。

 

「……先輩、俺たちは譜面記号や先生から振られた指示に従って演奏しているんです。合奏ともなれば目立つ役、目立たせる役があって初めて曲は完成します。違いますか?」

「でもさ、このままやっても歯切れが悪いだけじゃん。あんたの実力が足りてないんだよ」

「そもそも、この第四部は金管がメインなんですよ。そこは理解してますよね」

 

「アンタ、先輩を馬鹿にしてんの?」

 

「してません。初歩的な擦り合わせです」

 

 藤波のフラストレーションの正体は、内藤の代わりに入った途端に演奏の質が落ちたことだった。しかし、自尊心が高い彼女はそれを認めるわけにはいかなかった。

 隆翔は隆翔で、藤波の面の皮の厚さにフラストレーションが溜まっていた。

 

 ガタン、と椅子が後ろに倒れる音が教室に響く。先に怒りを露わにしたのは藤波だった。

 

 

「アンタさあ。そうやって協調性のない言葉で強がったって、誰もアンタの演奏を認めたりしないわよ。このパートで一番下手なのは、どう考えたって樟葉、アンタなんだからね」

 

 

 頭上から睨みつける藤波を、隆翔は鼻であしらった。その態度が引き金となって、藤波は完全にキレてしまった。

 

 

「メンバーに選ばれた程度で浮ついてんじゃ無いわよ! 下手くそなくせにイキがってんじゃねえ!」

 

 絶叫した藤波は隆翔の譜面台を蹴り飛ばした。

 金属のぶつかる音が、フロアに響いた。

 ここまで感情を抑えてきた隆翔だったが、その音がゴングとなって熱を押し上げた。

 

「協調性が無いのはどっちだ! 後輩を否定して自分を律しない。そんな恥ずかしい奴に俺の演奏をとやかく言われる筋合いはねえ!」

 

 

 怒りで狭まる視界の端で、菱沼が狼狽している。リーダーの彼女は優しい。しかしたまに見せる優柔不断な性格では藤波の愚行を抑えきれなかった。

 

 譜面台が倒れる音を聞いた他のパートの部員が廊下で聞き耳を立てている。その中には、梓と黄前の姿があった。

 

「俺は、俺たちは来る日も来る日も、まじめに練習していただけだ。内藤は肺活量を鍛えるために毎朝ランニングをしていた。運指を滑らかにするために運動部がするようなトレーニングもやっていた。フルートを奨めてくれた藤波先輩と一緒に吹きたいから、毎日毎日夜遅くまで残って練習していたんだ。それをアンタは、自分が目立ちたいからと彼女の努力を奪った。違うか!」

 

 

 怒りのエネルギーが乗った絶叫で教室中がビリビリと震撼した。

 藤波は一瞬ぎょっとした表情を浮かべたが、すぐに平静を取り戻した。

 

「それ、秀に聞いたの?」

 

 

 衝動的に吐き出た言葉を理解した時には手遅れだった。

 

 黄前が偶然立ち会ってしまった藤波と内藤の密会現場。しかし、事前に梓からの牽制があったため、その事実を隠す必要があった。

 

 

 しかし、今となっては後の祭りでしかない。廊下で見守っていた梓は、あちゃーと頭を抱えていた。

 

「まさか、私が秀を唆してメンバー譲ってもらったって本気で思ってんの。アンタがどんな練習をしてたかなんて知らないけどさ、気に入らない事を自分の妄想で貶めようとするなんて、人としてどうかしてると思うよ」

 

 返す言葉がなかった。彼女が如何に卑劣な輩でも、彼が事実を証明できることは一つもなかった。飛車角落ちどころか、隆翔の玉は既に彼女の手中に収まっていた。

 

 それからのフルートパートは藤波の独壇場となった。演奏技術は低くても部内でのカーストは高いからこそ、反旗を翻した隆翔を徹底的にいじめ抜いた。

 

 パートリーダーの菱沼も藤波に強く出られてしまってはその空気を変えることはできなかった。

 コンクールまでの二週間は地獄の日々であった。合奏練習では隔たりの出来てしまったフルートパートに顧問の指摘が集中し、フラストレーションが溜まった先輩のストレス解消として惨めな思いが続く日々だった。

 

 隆翔と会話を交わせば、藤波に付いている部員から目をつけられる。

 伝染した空気に押されて、誰一人として隆翔に手を伸ばす生徒は居なかった。

 

 

 

 

『あいつ、先輩を差し置いてAに選ばれたからって調子に乗り過ぎ』

 

『井の中の蛙、身の程知らず』

 

『内藤さんが辞退したのだって、体調不良なんでしょ。その気持ちすら分かってやれないなんてね』

 

 

 

 

 他の部員と擦れ違う度に、根も葉もない噂や因縁をつけられた。

 吹奏楽部で女子に目を付けられた男子の行く末は凄惨なものだった。

 譜面を紛失し、何度も顧問に頭を下げた。

 それでも両親から貰ったフルートだけは肌身離さず持ち歩いて、手をつけられる被害を防いだ。

 

 引き裂かれるような思いで部活に通ったのは、隆翔の意地だった。

 こうなっては内藤を引き戻すのは殆ど不可能であった。その上、部活内での肩身は狭くなる一方だった。

 

 合奏は好きだった。一人では奏でられない音楽を、大勢で作り上げる瞬間は生き甲斐だった。

 こうなってしまっては全てが無駄になった。

 

 隆翔はやり切れない感情を、新品の譜面にぶつけることしか出来なかった。

 

 

 

「隆翔」

 

 人目を避けて隆翔が自主練に使用する場所に梓が現れた。

 

「どうした梓。あまり俺に話し掛けない方がいいぞ。何言われるか分からないだろ」

「でも、今は誰もいないから。一緒に帰らない?」

 

 幼馴染みである梓にも藤波の手は及んでいた。毎日一緒に登下校していることを詰られ、隆翔と付き合っているのではないかと謂れのない噂を流布されていた。

 

 梓にも危害が及んでしまったことに申し訳なくなった隆翔は、彼女と校内での関わりを絶っていた。

 

 

 

「本当にごめんな」

「謝らないでよ。私、本当に大丈夫だから」

 

 渦中の隆翔を気遣い、いつもの様に笑顔を浮かべる。

 あらぬ噂を立てられていても、コミュニケーション能力の高い梓は先輩達に対して臆する事なく上手に立ち回っていた。

 

 

「でも、藤波先輩が加わったことで先生も苦労してるみたい。やっぱり技術が足りないんだよ。誰も言わないけど」

 

 

 実際に、この編成における懸念点はフルートの統率が取れていないことだった。顧問は指揮台に立ちながら妥協点を探って試行錯誤している。

 顧問は藤波の成長に期待したが、パート練習で見る限り本人には届いているとは思えなかった。

 

 

 コンクールまで一週間と迫り、学校は明日から夏休みに突入する。

 内藤は登校するようになったが、部へ復帰を促す計画が破綻した今、隆翔が彼女に掛ける言葉は見当たらなかった。

 

 隆翔には、ある思惑があった。

 コンクールが終わったとて、部内では変わらず肩身の狭い思いをするだろう。フルートは好きだった。そして音楽も好きだった。ただ、吹奏楽部を、部活動を好きでいることが難しくなってきていた。

 

 

「隆翔は悪くないよ。キレやすいのは欠点だと思うけど、隆翔は自分のためじゃなくて、秀ちゃんのために怒ったんだよね」

 

 俯きながらもこくりと頷く。その通りであった。

 

「私さ、コンクール楽しみだよ。隆翔と、二年のみんなと吹けるし、どんな結果でもいいから合奏できる機会を楽しみたい」

 

 部内の雰囲気がどんなに悪くても、梓は常に前向きだった。

 来年の部長は彼女かもしれない。どんな状況でも自分の演奏の軸を見失わない姿勢は、近しい立場で見守る隆翔の誇りとなっていた。

 

 二人のマンションに辿り着き、隆翔は別れ際に秘めていた心の内を洩らした。

 

「梓、いつか絶対に全国行けよ」

 

 隆翔の言葉に梓は何か言いたげだったが、その言葉を待つことなく隆翔は玄関の扉を閉めた。

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 コンクール当日は、早朝から雨が降っていた。

 前日のうちにトラックに搬入した楽器たちを、会場に着いてから一気に搬入する。その際、専ら男子が率先して重い打楽器や低音楽器を運んでいく。

 

 

「隆翔、そっち持つぞ」

「助かる」

 

 

 一匹狼の隆翔に声を掛けたのはホルンの塚本秀一だった。

 隆翔が部内での立場を失っても秀一は隆翔の友人であり続けた。吹部男子は少数派だ。だからこそ、横の繋がりはおいそれと失われるものではなかった。

 

「顔色悪いんじゃないか?」

「ただの寝不足、大丈夫だよ」

「そうか」

 

 ティンパニを並べると、一呼吸置いて秀一が話し始めた。

 

「あの時さ、お前が人のために怒れるって知ってちょっと見直したよ。久美子を泣かした時はかなり驚いたけどな」

 

 

 秀一は黄前と小学生の頃からの幼馴染だった。住んでいるマンションが一緒で、二人が金管楽器を始めた時期も近かった。

 

 

「正直、緊張で手汗が止まらん」

「おいおい、楽器落としたりするなよ」

「心配すんなって」

 

 

 こうして軽口を叩き合うのも、本番への緊張を誤魔化す為なのだと、隆翔は察した。

 誰の目から見ても秀一は優しく、真面目だ。

 

「今日、頑張ろうな」

「ああ、黄前に良いところ見せるんだろ」

「は、はぁ⁉︎ 馬鹿お前、そういうんじゃないからな!」

「あははは」

 

 秀一は真っ赤な顔で否定しているが、漏れでている彼女への恋心を知らないのは、きっと黄前本人だけだろう。

 

 

 

 

 北中の出番は午後の部の一番手だ。

 この日は皮肉なことに、コンディションが良好だった。

 昨晩、丁寧に手入れを施した隆翔のフルートは、会場の照明を反射させて輝いていた。

 

 先日、梓に今日を持って退部する意志を打ち明けた。彼女以外にはまだ誰にも打ち明けていない。

 隆翔の鞄には、学校へ帰ったら顧問へ提出する退部届が入っていた。

 

 梓の表情を押し図ることはできなかった。驚きはしていなかったように見えたが、困惑の先にある本当の感情までは隆翔に読み取ることはできなかった。

 

 

 どうせ今日で最後なのだから、隆翔は両親から貰ったこのフルートで後悔無く吹き切りたい。せめて綺麗に終わりたいと願った。

 

 

 

 

 

 

 

 ステージへの扉が開く。

 先日、梓が初めてステージに立った時に竦んでしまったと呟いたことを思い出した。その感情を、この瞬間に理解した。

 隆翔は裸の譜面とフルートを抱えて舞台への一歩を踏み出した。

 

 スポットライトに照らされた空間は、空調が効いているにも関わらず確かな熱を持っている。

 ピアノの発表会とは違う。誰かと作り上げる音楽に興じる楽しさと、表裏一体に存在する脆さがあると痛感した。

 

 

 

 

 奏者よりも一段高い指揮台に顧問が上がった。そして指揮棒(タクト)が振り下ろされた瞬間、何百回と合わせた課題曲の一音目が響いた。

 

 

 

 隆翔の最初で最後となるコンクールが始まった。

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 北中の出番が終わった頃には、朝から降り続いていた雨はすっかり止んでいた。

 

 梓は外の空気を吸いたいからと隆翔を誘って、会場の外に出てきていた。

 

 

「はああああ。疲れたぁ」

 

 

 

 噴水の前まで来た二人は大きく伸びをした。ガチガチに緊張していた体が、パキポキと悲鳴を上げる。

 

 

「ま、こんなもんでしょ、今の北中(ウチら)は!」

 

 

 吐き出した言葉には、表も裏も無かった。もし誰かが聞いていたらと内心ハラハラしたが、幸い隆翔と梓以外の北中生は誰も居なかった。

 

 北中の演奏は、同情の余地がないほど未完成だった。金賞を獲得した昨年の演奏と比較しても明らかに劣っており、それは指揮棒を収めた時の顧問の表情を見れば明らかだった。

 

 

 

『ウィリアム・テル−序曲−』の第四部は別名「アレグロ・ヴィヴァーチェ」と呼ばれる。つまり、活発に、テンポは走るように、音は踊るようにメリハリ良く出さなければならない。その中でも、日頃の鬱憤を晴らすかのように隆翔は自由に飛んで跳ねた。大舞台で最高のコンディションの中で、それはあまりに楽しくなって仕方なかった。飛ばしていた隆翔の演奏は、ファーストを吹く菱沼と村上を食い兼ねない程だった。

 

 

 一方、内藤からポジションを奪った藤波は不甲斐ないミスを連発し、音は裏返り、指揮を見落とすなど散々な有様であった。舞台袖で藤波が菱沼に庇われながら涙を流している姿には、同情の余地がなかった。

 

 逆に会心の演奏をした隆翔は完全に燃え尽きた。今まで辛酸を嘗めてまで参加したコンクールが楽しかったからである。

 今日のこの感情は、今日まで頑張ってきたことへの神様からの贈り物だ。

 

 

「いい演奏だったよ。やっぱり梓のトロンボーンは一級品だな」

「でしょ。コンクールの先輩として、隆翔を支えなきゃいけませんもの」

「何だそれ」

 

 

 胸を張って先輩風を吹かせた梓が可笑しくて、思わず吹き出した。

 それを見た梓も、腹の底から声を出して笑った。

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 何も知らない太陽が、完璧な晴天で二人を照らしていた。

 

 

 会場に戻った二人は着席して他校の演奏を聴いていた。

 プログラムは後半に差し掛かり、前回の関西大会進出校である南中の出番だった。

 隆翔はパンフレットに目を通す。

 

 

 南中の自由曲は『イーゴリ公 韃靼人の踊り』だ。

 

 課題曲が終わり、一拍の静寂を経てゆったりとした旋律から管楽器の前奏が響く。

 最初の一音で、会場の空気が変わった。

 隆翔が感じたことも無いような領域の演奏が、目の前で繰り広げられていた。

 

 吹き抜けるオーボエの音色。悲壮と歓喜の狭間に揺れるワルツを踊っているかのような息遣い。前奏ではオーボエとフルートが奏でるソロの掛け合いが始まる。

 隆翔は呼吸を忘れるほど、南中のフルートが奏でる旋律に聴き惚れていた。ゾクゾクした。中学生が奏でるクオリティではなかった。

 

 第二部に入ると、その演奏は更に熱を帯びる。

 吹奏楽用に編曲された譜面はヴァイオリンのパートをフルートやクラリネットなどの木管楽器と一部の金管楽器が担当していた。

 

 

 高音とリズム隊が織りなす最高の見せ場を前に、ソロを担当していたフルートの生徒は笑みを浮かべている。今、この瞬間が最高に楽しいと訴えている。

 

 彼女の指は滑らかにキイを弾いている。一小節吹く度にそのポニーテールが踊った。

 

 

 隣に座る梓も、その隣の黄前も、前の席でお喋りに興じていた先輩や後輩も、南中の演奏の虜になっていた。

 

 その中でも隆翔は今までの価値観が全てひっくり返ってしまうかのような衝撃を受けていた。もう関西とか全国とか、この演奏の前には些細な問題だった。

 

 

 隆翔はフルートの女子生徒から目が離せなくなっていた。この会場の中で、彼女より上手いフルートは存在しない。それは事実だ。

 

 

 フィナーレを迎え、今日一番の拍手が南中を包んだ。

 粗がないと言えば嘘になる。コンクールの演奏としては、関西大会への切符を掴めるか当落線上だろう。

 

 ただし、それ以上に観客への影響は計り知れず、その答えが割れんばかりの拍手なのだ。

 音楽に携わる最後の瞬間に、この演奏を受け止める事が出来た事実を隆翔は幸運だと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結果発表の時刻となった。

 例年、壇上に張り出される形で各校へ贈られる金、銀、銅賞が発表される。

 

 各学校の生徒が騒然とする中で、丸められていた紙が審査員の手によって開かれた。

 

 その瞬間、会場中から一斉に歓声を上がった。

 皆一斉に自分の学校を探す。そして、校名の隣に記された結果を目の当たりにした。

 

 

 

 

[銀賞 大吉山北中学校]

 

 

 

 

 隆翔は銀賞という結果に、不思議と納得していた。

 

 周りの北中の生徒は結果が至らなかったことに涙する者、俯く者、金賞を獲得した学校を讃える者と三者三様であった。

 

 

「……嘘でしょ、まだ府大会だよ」

 

 

 歓声の中に聞こえた、絶望感の籠った呟き。その声は背後に着座している南中のものだった。

 その結果は銀賞。北中と同じく、府大会で姿を消すことになった。

 

 

 会場の空気を一変させた演奏でも、粗を突かれたらコンクールでは上に行けない。南中は関西大会への連続出場を逃した上に、ダメ金すらも届かない銀賞という評価を下されたのである。

 

 北中同様に暗澹とした空気に包まれ、ポニーテールのあの子は涙を溢し俯いていた。

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 北中に戻ってきた隆翔は、片付けを終えたその足で職員室へ向かった。そして退部届を顧問に提出した。

 隆翔には悔いも未練も残っていなかった。

 

 

 職員室を出て、昇降口へ向かう階段を下りる最中、パートリーダーの菱沼とばったり遭遇した。

 

 

「コンクールお疲れ様」

「先輩もお疲れ様でした」

 

 

 律儀な先輩だ。こんな時間まで残っているということは、きっと見かけた部員に労いの言葉を掛けていたのだろう。

 

 

「残念、だったね」

「はい。でも、これが僕らの精一杯だったんですよ」

「うん、そう思う……」

 

 

 菱沼は言葉を言い淀んでいた。

 しばらく二人の間を沈黙が支配してから、菱沼は口を開いた。

 

 

「ごめんなさい。樟葉くん」

 

「……何がですか?」

 

 

 

 隆翔は敢えて知らぬ振りをした。性格が悪いと思われるのは百も承知だったが、退部届が受理された今、先輩たちに気を遣う必要性は皆無であった。

 

「翠のこと……何も出来なくて、ごめんなさい」

 

 行儀の良い姿勢で菱沼は深く頭を下げた。

 その責任感の強さが痛々しかった。

 

 

「二回」

「え……?」

 

「二回です。僕がスコアを紛失した回数です」

 

 

 菱沼は何も言葉を発さなかった。きっと知らなかったのだろう。

 

 

「一度目は『ウィリアム・テル』のスコアだけでした。でも二度目は譜面のファイルごと失くしました。流石にショックでしたよ。初めての合奏から全部綴じてありましたから」

 

 

 菱沼は顔を真っ青にしながら、隆翔の言葉を黙って聞いていた。

 

 奏者にとって、楽譜は楽器の次に大切な物だった。練習で指示されること、気付き、一緒に吹く仲間との連携、そして互いに書き合った心震えるメッセージ。隆翔のスコアファイルは既にどこかに捨てられ、その全てが灰塵に帰しているだろう。

 

「でも、もう良いんです」

「……良くないよ」

 

「良いんですよ。だって、明日から部活来ませんから」

「……え?」

「先ほど提出してきましたから。退部届」

 

 

 菱沼にとって思いもよらぬ行動だったのだろう。顔面蒼白のまま、絶句していた。

 

「今までお世話になりました」

 

 隆翔も礼を以て菱沼に頭を下げ、下駄箱へ歩みを進めた。

 

「後悔してないの……?」

 

 その言葉に隆翔は振り返り、一言こう伝えた。

 

 

 

「先輩には関係のないことです」

 

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 

 学校の門を出る頃には十六時を回っていた。

 隆翔は校内で禁止のスマートフォンを起動してメッセージアプリを開いた。

 

 羅列する友人たちの名前の中から、既に帰宅した幼馴染みのアカウントを選択した。

 彼女には直接伝えたかった。

 

 隆翔からの呼び出しに応じた梓は、自宅近くを流れる宇治川の畔にあるベンチに座った。

 二人の間を川のせせらぎとひぐらしの鳴き声が響いていた。

 

 

「コンクールお疲れ様。なんて言ったらいいのかな。良い演奏だったよ」

「ありがとう。梓の音もちゃんと聞こえたよ」

「本当? えへへ、嬉しいな」

 

 梓は照れ臭そうに笑った。

 隆翔は一呼吸置いて、本題に切り込んだ。

 

 

「退部届、出してきたよ」

 

 

 隆翔の一言に、梓の表情からは笑みが消えた。

「そっか」と呟くと項垂れた。そして堰を切ったように彼女の瞳からは大粒の涙が溢れた。両手で顔を覆いながら嗚咽が漏れ出していた。

 

 

 隆翔はそんな梓の頭を撫でることしか出来なかった。

 

「そんなに泣くなって。梓がフルートを紹介してくれなかったら、今までこんなに楽しく演奏出来てなかったんだよ」

「それでも! 楽譜を捨てられて、いじめられて……私、私は……!」

 

 梓は顔を上げることが出来なかった。

 ただひたすら「ごめんね、ごめんね」と隆翔に謝っていた。

 

 黄前が再び先輩からいじめられることは避けたいと、強い意志で隆翔に訴えた姿を思い出した。梓は黄前を守り切った。それは誇るべきことだった。

 

「私、間違えてた。秀ちゃんを守る隆翔を否定した。隆翔に協力して自分が傷つくのが怖かった。最低な女だよ……」

 

 自分自身のこれまでの行いを全て蔑み、自己否定を繰り返していた。梓もまた、この空気の被害者なのだ。

 

 もし内藤が復帰していたら、状況はどう変わっていただろう。少なくとも結果は金賞だったかもしれない。あわよくば悲願の関西大会進出となっていたのかもしれない。

 ただし、既に意味のない妄想であった。

 

 内藤は隆翔が退部を決断した数日前に退部届を提出していた。コンクール前に波風を立てたくないと彼女なりの気遣いだった。

 更に隆翔の退部届を目にした顧問は、次期三年生のフルート奏者が誰一人いなくなることに危機感を覚え、必死に引き留めた。

 しかし、隆翔の思いは変わらなかった。これ以上、傷ついた自分を無視することは出来なかった。

 

 

「泣くなよ梓。来年はきっと関西に行けるよ」

「ちがうよ。隆翔が辞めなきゃいけない状況になったことが悔しいの……」

 

 それから、梓はひとしきり泣いた。

 隆翔は小柄な体格の梓に体を預けながら、この二年間を振り返った。

 

 

 梓と歩んだ北中での二年間。何度か挫折も味わったが、それでも皆と音楽を作り上げる時間は隆翔の生き甲斐だった。めきめきと頭角を現す梓とは対照的に、隆翔は才能に恵まれているとは言い難かった。

 

 その中で出会った内藤秀という存在が隆翔の救いであった。日を追うごとに上手くなる彼女に追いつきたくて、朝から晩まで吹き続けた。

 オーディションで二人一緒に内定した瞬間は今でも目に焼き付いている。自分が選ばれたことよりも、内藤の努力が実ったことが何より嬉しかった。

 

 しかし、その時間はあっけなく終わった。望んだ結末とは程遠く、隆翔と内藤は志半ばで羽根をもがれてしまった。梓は隆翔がいつかまたフルートを手にすることを望んでいる。しかし、当の隆翔にその意志は無かった。

 

 帰宅した隆翔は、役目を終えたフルートケースを押入れの奥に仕舞った。次に隆翔のフルートが日の目を見るのはいつになるだろう。そんなことを考えても切なくなる一方だった。

 

 想像を振り払って、隆翔はベッドに飛び込んで泥のように眠った。

 

 

 

【つづく】




−追記−
2025.3.8 内容を加筆修正しました。
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