或る、フルート吹きの青春   作:ハヤブサ320

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EP.23 自閉探索

  ◇回想 中野蕾実◇

 

「涼葉ちゃん、改まって相談ってどうしたの??」

 

 帰り道。合唱部も同じ時間に終わったようで、私はクラスメイトの鳥羽涼葉(とばすずは)ちゃんと一緒に下校していた。その時、相談を持ちかけられた私は駅までの道中にある小さな公園で彼女と向き合った。長髪を後ろに束ねて微笑む涼葉ちゃんは女子から見ても綺麗だと見惚れた。

 満を持して、僅かに頬を赤くしながら相談内容を告白した。

 

「……実は、同じクラスの樟葉くんのことが気になってて」

 

 思わず気持ちが昂って、キャーと叫んでしまった。人の恋路を見ると、甘酸っぱさと瑞々しさにときめいてしまう。私の反応に涼葉ちゃんは羞恥の限界を迎え、両手で顔を隠してしまった。

 

「ごめんごめん。涼葉ちゃんはどうしたいの?」

「いつかは告白したいなって思ってます。ただ、話しかけるきっかけとかが分からなくて……」

 

 告白は片思いのゴールだ。そこに至るまで、いくつもの駆け引きや会話がある。私は恋愛経験はないけど、漫画やドラマの女の子は得てしてそういったイベントを経てカップルになっていった。涼葉ちゃんは才色兼備の体現者だ。しっかり者で、しかも美人で優しい。周りが見えるから他人に手を差し伸べられるし、物腰の柔らかさも相まって男子だけでなく女子からも人気の女の子だ。

 

「でも、なんで私なの?」

「蕾実ちゃんは樟葉くんと同じ部活なんですよね。それで、彼について何か知らないかなって」

「樟葉くんねえ……」

 

 私は頭を捻った。実のところ、彼に関して私が知っていることは少ない。六月にマネージャーとして入部した樟葉くん。中学二年までは吹奏楽部に入っていてフルートを吹いていたそうだ。そのあと、どうして三年間楽器から離れていたのか私は知らなかった。

 そこでふと、彼が部活へ入る直前の出来事を思い出した。あの時、樟葉くんはのぞ先輩を探していた。その過程で私はのぞ先輩が一度退部していることを伝えた。それを聞いた彼の心を痛めた表情がやけに記憶に焼き付いていた。自分のことを話したがらない彼の素性で、その中身に触れた唯一の機会だった。

 

「樟葉くんって、自分のこと喋りたがらないよね。ちょっと話し掛けにくい雰囲気もあるし」

「そんなミステリアスな面も魅力ですよね」

「涼葉ちゃんはしっかりしてるし、きっと大丈夫だよ」

 

 私の励ましに、にこりと表情を崩した。

 

「樟葉くん、沙里と同じフルート教室に通ってるんだよ」

「沙里って、高橋沙里ちゃん?」

「そうそう。確か涼葉ちゃんって一年五組だったよね」

「はい。沙里ちゃんとは同じクラスでした。そっか、フルート一筋なんですね」

 

 語りたがらない故にストイックな一面は伝わりずらい。涼葉ちゃんの知らない情報だったようで、相談された身としては成果を出せたようでホッとした。

 それから私たちは時間の許す限り話し合った。樟葉くんの目から涼葉ちゃんはどう見えているのだろう。こんなに良い子なのだから、少しは好印象だと涼葉ちゃんも浮かばれるのに、と私は願った。

 

 

 

 だからこそ、涼葉ちゃんが告白を弄ばれたと電話が掛かってきた時は耳を疑った。彼女のことを何も知らない樟葉くんのことが、どうしても許せなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[3月21日 午後]

 

 中野の叱責は正しかった。鳥羽涼葉という大切な友人の告白を弄ばれ、不誠実な答えで傷つけた隆翔は糾弾されてしかるべき存在だ。彼女に鳥羽への謝罪の意志も示せぬまま練習は続いていく。中野とは朝の一件以来、話が出来ていなかった。

 午前中は新入生歓迎会の練習に割かれた。三年生不在の中で出来る限りの音の厚みで演奏するのは得てして難しいことだった。

 

 隆翔の意識には、中学で犯した失敗が強烈に刻まれている。内藤の努力の成果と戦友の晴れ舞台を奪った先輩を許せなかった。その想いだけが暴走して、隆翔は立場を失った。筆舌に尽くしがたい、完膚なきまでの失敗だった。

 それから時が過ぎ、希美への告白が成功した直後に二人の恋愛関係を秘匿した。紛れもなく隆翔自身の心の弱さ故である。付き合っていく以上、希美に迷惑を掛けたくなかった。さもなくば希美の心は簡単に離れてしまうと思っていた。

 今回の失態において鳥羽の想いを踏み躙ったことは事実だ。隆翔もそれは自覚している。昨晩から時間を経るごとに罪悪感が隆翔を蝕んでいった。そして今朝、鳥羽からの報告を受けた中野は隆翔を責め立てた。後悔後先立たずとはこのことだ。人間は失敗する生き物と開き直るのは簡単であるが、傷ついた心が癒えることはないことは、隆翔自身が一番知っている筈だった。

 その時の心情や感情は音に現れやすい。明らかに調子が出ない隆翔の音色を、百戦錬磨の北宇治高校吹奏楽部の面々が見逃すはずが無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[3月22日 夕刻]

 

 ガタゴトと規則的な線路の継ぎ目で揺れる電車の中で、希美は隆翔は並んで座っている。車窓には食卓を照らす家々の灯りが反射していた。

 この日、午前中で練習の終わった隆翔は、希美とのデートに出掛けていた。金欠学生の二人は京都の街をふらふらと歩いた。四月から希美が通う大学の前も通った。今の隆翔には、それだけで満ち足りるほど心に余裕がなかった。

 それでもこの数日で削ってしまったメンタルが、僅かばかり癒えた一日だった。

 

「楽しかったね」

「……はい、俺も楽しかったです」

「ふふ、良かった。あーあ、来週には入学式なのか」

「良いな。俺も、希美さんと一緒に進学したかった……」

 

 希美との年齢差は一年。同じ学校に通っているうちはその感覚は薄かったが、こうして希美が卒業してしまうと、否応なしに意識してしまう。あと一年が異様に長く感じられた。

 

「……ねえ、隆翔くん。最近何かあった?」

 希美は訝しみながら隣に座る隆翔を覗いた。碧眼の奥にある深淵が隆翔を捕捉する。吐いてしまえ楽になれるだろうか。それとも失望されて、もう二度と会うことが出来なくなるか。隆翔は後者の顛末になると予想し、希美から目を逸らした。

「嫌だな、何もないですよ」

「本当に?」

「はい」

「……なら、いいけど」

 

 希美の気配りが温かかったが、同じくらい惨めな思いを抱いていた。

 何ヶ月かかるか判らないが一刻も早く中野たちの信頼を回復しなければならない。でなければ、胸を張って希美の隣に立つ自信がなかった。

 

 宇治川に架かる隠元橋の袂に佇むふたりを、自動車のフロントライトが照らしている。駅からここまで、ふたりの間に会話はなかった。ただ、繋がれた手の温もりだけが存在を確立していた。

 

「ここでいいよ。明日も部活でしょ」

「はい」

「頑張ってね。今日は時間を作ってくれてありがとう」

 

 その言葉はきっと本心だろう。まだ、希美は隆翔の失態を知らない。だからこうして、優しい言葉を掛けてくれる。今、隆翔を支えているのは希美の存在だけであった。

 指が解かれ、名残惜しさの残る左手が春の夜の空気で冷やされる。今日が終われば、また部活がある。パート練習では再び針の筵だろう。しかし部活へ行かないという選択肢は無かった。もう、中学の時と同じ轍を踏んでいる場合ではなかった。

 湿った空気を含んだ強い風が、橋の間を通り抜けていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[3月23日 午前]

 

 この日、隆翔は珍しく朝練に寝坊した。昨晩から発達した低気圧の影響なのか、ともかく奏者に復帰してからこれまで朝寝坊したことが無かった隆翔は、焦りを覚えつつも練習開始の時間までには学校に到着した。

 校舎の中には他の部活の生徒はいなかった。太陽は姿を隠し、照明の点いていない昇降口は不気味なまでに薄暗かった。それを目に留めることも無く、フルートパートの練習している教室へ歩みを進めた。

 教室の前に立つと、中から談笑する声が聞こえた。みんなの前ではつとめていつも通りに。もし中野と二人きりになるチャンスがあったら、鳥羽への謝罪を申し入れるつもりだ。事態は芳しくなくとも自分から動かねば何も解決しないことは、中学の一件から学んだことだった。

 一度深呼吸して、教室のドアを開けた。

 

「おはよ――」

「え、樟葉先輩が!?」

 

 扉を開けた隆翔の耳に飛び込んだのは、江藤香奈の驚嘆の声だった。

 視界がぐらりと歪んだ。自分がいない場所で、自分の話をされることの違和感。危機感を覚えた五感がサイレンを鳴らした。

 

「……あ」

「お、おはようございます」

 

 教室の中には、一年生の三人が膝を突き合わせて話に花を咲かせていた。一年生の江藤と平石が、隆翔に気が付いてとまどい気味に挨拶を返した。隆翔は顔が引き攣りつつも、おはようと返すことで精一杯だった。

 

 どうして俺の名前を出したの、と訊くことは出来なかった。その一言を発する判断は、既にヒビの入った心が良しとしなかった。とはいえ練習は始まってしまう。隆翔はフルートを組み立て、ゆっくり息を通してフルートを温めていく。

 

「ね、香奈ちゃん聞いてよ」

「え~、私?」

「大丈夫だって。樟葉先輩、優しいから」

 

 三人がひそひそと何かを話している。話の主題までは聞こえなかったが、チラチラとこちらの様子を伺う江藤と目が合った。何処か余所余所しいしい彼女たち。何かを訊きたそうに交互に隆翔を見る。その光景が神経を逆撫でしているようで不快だった。

 

「あ、あの……!」

 意を決したように、三人の中央に座っていた平石が口を開いた。

「ホルンの先輩から聞いたんですけど、樟葉先輩って誰かと付き合ってるんですか?」

 

 他の教室から流れてくる楽器の音。てんでバラバラに不協和音の響きが学校を占拠していた。しかし、この時の隆翔にはそんな音すらも聞こえなくなるほど視界と聴覚が遠のいた。誰に聞いた、どうして知っている、どこから漏れた。感情の器から溢れ出した呪詛の類いが、隆翔の視界を覆った。泥水のように迫り上がった危機意識が、噂や陰口という苦手意識の扉を破壊しようとする。

 こうならないように気を付けていた筈だった。学生同士の恋愛は、いまその時間に生きる者達の特権だ。希美という隆翔には勿体ない程の美少女。彼女と過ごす高校生活は短かった。しかも、彼女と過ごす時間をもっと贅沢に、それこそ隠し事を強要させるなんて、もっての外だったのではないか。その時にもっと心を強く持てたら良かったのに、希美が卒業してしまった今、後の祭りであった。

 

「樟葉先輩?」

「……本当、これだから嫌なんだよ」

 

 一年生の三人は唐突に威圧的な反応になった隆翔に困惑している。静かに怒りながらも、逆鱗に触れたことを自覚し萎縮した。

 隆翔は舌打ちをしながら不愉快さを隠そうともせずに立ち上がった。椅子がけたたましい音を立てて倒れる。三人とも隆翔の剣幕にすっかり怯えていた。隆翔は言葉を紡ぐことなく、ただ後輩を睨んでいた。

 そんな緊張感漂う空気の中で同期三人が教室に入ってきた。

 ただならぬ気配を察知した小田が、怒髪天の隆翔に尋ねた。

 

「何があったの?」

「……なんでもない」

「この状況を何でも無いって言うには無理があるでしょ」

 

 隆翔は小田を無視してフルートを組み立てた。中野は三人に歩み寄って慰めている。

 隆翔を完全に敵視するような空気が充満している。この場に自分が居ては分が悪い。そう判断した隆翔は楽器と楽譜を持って、一足先に音楽室へ向かおうとした。

 しかしその行動を許さない小田は、教室から出ようとする隆翔の前に立ち塞がった。

 

「樟葉、逃げるの」

「だから、何のことだよ」

「すっとぼけないで。事の顛末は全部蕾実から聞いてるの。ちょっと顔貸して」

 

 責任感の強い小田は隆翔に負けず劣らずの剣幕で威嚇した。後輩の前では本題に入らず、場所を変えるだけの手心はあった。最もその後のことは保証されないだろうが。

 心配そうに見守る一年生を、リーダーの高橋が気に掛けた。

 

「さ、三人は先に練習しててね」

「……はい」

 

 そうして空き教室に連れてこられた隆翔は高橋、小田、中野の三人に囲まれた。表情から察するに、聞き手は小田と中野になるだろう。高橋は敵対する三人をおろおろと見回している。

 ピシャンと扉を閉めた小田が早速と言わんばかりに口を開いた。

 

「さっき、一年生の子たちと何があったの?」

 

 女子の中では背の高い小田が隆翔に迫る。尤も身長だけで言えば隆翔よりも低いが、すらりとした体格の彼女は凜として芯のある威圧感が存在した。隆翔は苛立っていた。血液が動脈を流れる速度が体感できるほど頭に血が昇っている。このまま何も無ければクールダウン出来るというのに、目の前に立つ二人はそれを許してはくれないようだった。

 

「別に、何もない」

「そう? その割には外からも聞こえる声で怒鳴ってたみたいだけど」

「……だから、別に何もないって」

「後輩相手に情けないと思わないの?」

 

 苛立ちが声に表れた。睨み合いが続く小田と隆翔の間に割って入るように、中野が一言呟いた。

 

「樟葉くん知らないの?」

「何が?」

「昨日吹部の子が見たんだって。のぞ先輩と一緒に歩いてたって噂。しかも手を繋ぎながら」

「え、のぞ先輩が樟葉の彼女ってこと?」

「そうなの!?」

 

 とぼけたような口調の中野に、高橋は本当に知らなかったような反応を見せた。平石が隆翔に訊いた噂の正体は、昨日希美とデートしていた光景だった。

 

「で、その事実確認されて後輩に怒った。ごめん、それはダサすぎるでしょ」

「あと訊きたいんだけど、涼葉ちゃんに聞かれたとき、なんで嘘吐いたの?」

 

 目の前で繰り広げられる罰ゲームに、視界が段々と狭まる。精神的なダメージは計り知れない。こうした事態を避けたいが為に隠し通してきた希美との恋愛事情が、正にいま、看破されようとしていた。

 中野以外の二人は鳥羽の告白における顛末を知らなかっただけに、小田はその成り行きの情けなさに失笑した。高橋はどう反応して良いか分からない様子だった。二人は隆翔の中学時代を知らない。故に無意識に追い打ちを掛けていた。

 

「うわ、ダサすぎる。本当に最低」

「信じらんない。涼葉ちゃんにも言うからね。実は樟葉にはずっと彼女がいたって」

「てかのぞ先輩、どうして樟葉なんかに……」

「弱みを握られてたとか?」

「どんなよ」

 

 小田と中野は好き勝手に隆翔を責め立て、先輩である希美を遠回しに愚弄した。勝手に進む地獄の経過に、口がカラカラになるほど乾いていた。

 歯止めの掛からない状況に危機感を覚えた高橋が真剣な眼差しで二人を制した。

 

「二人とも、その辺にして」

「分かってるよ。それに、別に隠すことじゃなくない?」

「……それはお前らが決めることじゃないだろ」

「そうだけどさ、一年生怖がらせてその上自分の我が儘を通そうなんて、ちょっと虫が良すぎると思うけど」

「……部活のこととプライベートは関係ないだろ」

「じゃあ樟葉には今のパートの雰囲気、なんとか出来る? うちらは自分でメンタルケアすればいいよ。でもね、一年の相談事に責任を負うのはパートリーダーの沙里なんだよ」

「……ちょっと芽衣子」

 

 誰とも視線を合わせていなかった隆翔が高橋を見た。普段は溌剌として、パートのムードメイカーの役割も担う彼女が所在なさげに目を泳がせていた。フルートパートのリーダーとしての自覚か、組織内の衝突は望まないだろう。そもそも、吹奏楽部のヒエラルキーとして、女子と対等に渡り合うなど到底不可能なことは隆翔自身が身をもって学んでいた筈だった。

 

「……ごめん、高橋」

「ううん、大丈夫だよ」

 

 気丈に振る舞う高橋は眉を顰めながら笑顔を見せた。惨めに強がるならば潔く謝るのが筋というものだ。まったく情けない姿を晒している。強情を張って、隆翔は結果的に追い詰められていた。

 結果は最初から決まっていた。隆翔に勝ち目なんてものは存在せず、これまで自己中心的に行動していたツケを払わされているのだ。希美との恋愛事情を隠し通してきた先輩たちは、海よりも深い懐で二人を見守っていてくれた。その大きすぎた恩と優しさの反動は、それまで経験したこともない程隆翔を追い詰め、理想と現実の乖離を感じずには居られなかった。

 その後、時計に目をやった高橋の言葉でこの状況は一旦収束した。

「三人とも合奏練習だよ。教室戻ろう?」

 

 

 音楽室に踏み入れた途端、刺すような視線が向けられた。隆翔が元フルートのエースで人望の厚い希美の恋人だったという事実は、既に全部員へと周知されてしまっていた。密やかな声が八方から耳に入ってくる。どれもネガティブな内容であり、事実に混じた虚妄までもが噂の本流に乗って流れていた。

 

「マジ、傘木先輩と?」

「確かに距離近かったけど、まさか本当に付き合ってるなんて」

「希美先輩を追いかけて吹部に入ったらしいよ」

「隠していたことも希美先輩に強要したって。ひどいよね」

「マネージャー権限を濫用して先輩の練習に付きっきりだったんだって」

「先輩かわいそう……」

 

 好き勝手に蔓延する言葉が突き刺さる。気分は最悪だった。合奏は、みんなの意志が統一しなければ良い演奏にはならない。隆翔という不安分子を抱えたままの吹奏楽部は揺らいでいた。そして隆翔もまた正常な精神状態ではない。熱が出たときのような塩分濃度の高く冷たい汗が背中から滲んでいた。

 騒然とする音楽室の空気を切り裂くように、指揮台に上がった高坂が手を叩いた。

 

「今日は滝先生が不在なので私が指揮を担当します。まずはチューニングB♭。クラからどうぞ」

 クラリネットパートリーダーの高久ちえりを筆頭に、木管、金管、打楽器の音が合っていく。隆翔も同じようにリッププレートから息を吹き込んだ。しかし、初心者以来一度として間違ったことのないチューニングで、いつものシ♭ではない音が管から飛びだしていた。

 明確に求めていない音が聞こえたことで、高坂は即座にチューニングを止めた。音が合っていないどころではない。その根源が自分自身であることが信じられなかった。余計な雑念が心を掻き乱していた。

 

「いま音間違えた人、正直に挙手してください」

 

 そう言いつつも、高坂の視線は隆翔を捉えていた。いつだったか後輩の間で恐れられている、合奏中の高坂による正論パンチの時間だ。当てられた人は完膚なきまでの正論で詰められることで有名だった。

 黙っていても仕方が無いので、隆翔は右手を挙げた。高坂は一度息を吐いて、冷徹な視線を向けた。

 

「初心者みたいなミスをしないで」

「………」

「アンタと話すことはないわ。やる気無いなら出てって」

 

 隆翔の存在をぴしゃりと否定した高坂の言動に音楽室は動揺した。懇々とアドバイスに徹する彼女らしからぬ態度であった。隆翔は先日のミーティング中の出来事を思い出した。確実に先日の件を根に持っている。二人の間に流れる沈黙。約七十人の部員は、その様子を固唾を呑んで見守っている。少しでも関わればとばっちりを喰らうことは、勘弁すべきことだった。

 

「樟葉は今、練習の足を引っ張ってることを分かってる?」

 自覚はあるので、一度だけ頷いた。

 

「アンタ一人に割いてる時間が勿体ないの。自分のメンタルケアも出来ない奏者は、北宇治にはいらない」

「麗奈!」

 

 高坂の言葉は留まるところを知らず隆翔を責め立てた。黄前は部長として高坂の言動を止めに入ったが、それも根本的な解決とはならない。

 そろそろ潮時かもしれないと、嫌な決断が頭を過った。この状況下で隆翔を擁護する部員はいないだろう。秀一でさえも、状況の行く末を見守っている。高橋はパートリーダーとして、高坂の言葉に思うところがあるようだった。

 

「久美子、どうして止めるの?」

「麗奈の気持ちは分かるよ。こんな状況、誰も望んでいないし早くなんとかしなきゃって思ってる。でも、麗奈がそうして樟葉を責めても何も解決しないと思う」

「責めてない。ただ、樟葉の意識が低いって話をしてるだけ」

 

 こうなってしまっては自分を曲げる高坂でないことは、これまでの長い付き合いが証明している。衆目に晒されながら彼女と一戦交えるのは得策ではない。高坂麗奈との諍いは経験上、一度火が点けばどちらかが引くまで収まることは無い。それを知らない幹部陣ではない。

 

 すっかり譜面で厚くなった楽譜ファイルを閉じて椅子から立つと、高坂の虹彩を深淵からじっと睨んだ。練習を止めたことへの詫びに一礼し、隆翔は音楽室を出た。

 この場を治めるためには三十六計逃げるに如かず。

 高坂麗奈と、北宇治高校吹奏楽部から。

 

 

 

 

 

「隆翔!」

 帰宅する隆翔を秀一が捕捉した。その後ろには高橋もいる。

 

「これから、どうするつもりだ」

「……悪かったよ。ちょっと心の整理がしたいんだ。だから今日は帰る。じゃあな」

 

「ねえ樟葉くん。辞めない、よね?」

 

 背を向けた隆翔に向けて、その声は揺れていた。高橋なりの責任感がそうさせている。

 隆翔は振り返ることなく二人に宣言した。

 

「辞めないよ、フルートは」

 

 本当に、碌でもない人生だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[3月26日]

 

 次の日も、その次の日も隆翔は部活を休んだ。そろそろ行かなければ、本格的に排除されてしまう。マネージャーだって辞めさせられるかもしれない。思い起こしてみても、すべて自分が悪い。後悔後先立たず。すべては自分が言ってしまった嘘が招いたことだった。

 目覚めと同時に襲ってきた頭痛と耳鳴りは部活への拒否反応だ。音楽が好き、フルートが好き、でも吹奏楽部は嫌い。あの時から何も変わっていない自分が情けなかった。潜在する傷が癒えることは無い。今回の件でそれが明らかになり、隆翔は落胆した。洗面台の鏡に映る自分の顔。疑雲猜霧の空気が隆翔を包んでから眠れなくなっていた。目の下に出来た隈を撫でながら、小さく溜息を吐いた。

 

 それから再度ベッドへ身体を投げ出して目を瞑っていたら、そのまま寝入っていたようだ。最後に意識があってから気が付けば二時間以上が経過している。意識がはっきりしてくると、腹の虫から抗議の声が上がった。

 隆翔が作れるレパートリーは精々インスタントラーメンが関の山だが、今日に限ってはその在庫すら切らしていた。外には曇が厚く垂れ込め、灰色の景色が広がっていた。わざわざ食事のためだけに外出するのも億劫で隆翔はもう一度ベッドに身体を投げ出した。思考を巡らせるほど、後悔は尽きない。音楽室から出た瞬間の、背後から突き刺さる視線の痛み、噂に晒される立場の弱さ。元を辿ってみても、やはり鳥羽の告白からしっかりと向き合っていればみんなの信頼を裏切ることも無かった。

 吹部で男子部員が生き残る術は、女子から信頼されることだ。北中での出来事がフラッシュバックする。あんな思いはもう沢山だった筈なのに、またしても判断を誤ってしまった。気落ちしても仕方がなかった。

 

 これでは余りに情けなく、希美にも会わせる顔が無かった。会って事の顛末を話せば、きっと失望するだろう。もう永遠に会うことも無くなる。

 そうなりたくは無かった。しかし、そうせざるを得ない程に希美が愛おしかった。きっと別れることが出来れば、希美は幸せになれる。

 今の隆翔に物事を肯定的に見る力は残っていなかったが、それだけは伝えなければと通話ボタンを押した。

 

『もしもし』

 

 三回ほど鳴ったコール音のあとで快活な声が頭に反響した。

 ああ、別れたくないな。未練がましい想いがじわりと滲んだ。

 

「先輩、あの――」

『ちょうど良かった! ね、今から会えない?』

「……え?」

 

 

 

【つづく】




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