[3月26日 午前]
この日、希美に全てを告げようと電話を掛けた隆翔は、逆に希美から逢瀬の約束を持ちかけられた。電話を切った隆翔は一瞬の放心の後にベッドから飛び出した。希美を待たせるわけにはいかない。ボサボサの髪をワックスで誤魔化し、最低限彼女に幻滅されないような服に着替えて隆翔は家を出た。もうすぐ四月とは言え、寒風が肌を刺した。
希美は付き合い始めた日に二人で入ったファストフード店の前で待っていた。デニムのジャケットにベージュのフレアスカートを纏った希美は、大学生だと疑いようもない容姿であった。美容院に行ったのだろうか。ポニーテールは解かれて金色のメッシュが綺麗な黒髪に映えており、大人らしさを一層際立たせていた。
「お待たせしました」
「ううん、今来たとこ。じゃあ行こっか」
「え、どこに?」
希美は隆翔の手を引いてファストフード店から離れていく。
「うち。今日、お父さんとお母さんいないんだ」
希美の家は待ち合わせ場所からそう遠くなかった。築年数は十五年ほどの一軒家で、玄関前にはマーガレットとクレマチスが植えられている。
突然の傘木家来訪となった隆翔は、両親が不在だと公言されているとはいえ緊張から借りてきた猫のように固まっていた。そんな隆翔に構うことなく、希美はずんずんと歩みを進めた。
「初めて来る家って結構緊張しますよね」
「そう?」
「逆に希美さんは緊張しないんですか?」
「うーん、多分緊張するかも。隆翔くん家だったら」
リビングに通された隆翔はソファに座って希美を待った。ダイニングキッチンから漂う紅茶の薫りが鼻孔をくすぐった。
「お待たせ。紅茶で良かった?」
「はい。ありがとうございます」
ティーカップはよく温められていて、一口啜るとダージリンの柔らかな渋みと酸味が口の中に広がった。それだけで冷え切った隆翔の心が癒やされた。一息ついた二人の間に無言の時間が流れる。希美の家。学校やデートでしか知らない恋人が、普段どんな生活をしているのか。希美から家に誘われたことで彼女の知らない一面を知る機会に恵まれた。
カチャリと希美がカップを置いて、沈黙が破られた。
「ねえ、何かあったでしょ」
ドキリと心臓が弾んだ。希美が隆翔に向ける意識は、目を見ずとも察知できた。情けなさが相まって、頭がやけに重く感じた。
「……相談、してほしかった」
「ですよね……」
希美は先刻承知であった。誰に、どのタイミングで齎されたか気にはなったが、今、希美はその言葉を欲していない。そのことは隆翔でも理解できた。
「全部、俺の所為なんです――」
それから、鳥羽の告白から休部するまでの全ての経緯を包み隠さず口にした。その間、希美は沈黙を貫いた。希美と恋人同士になってから隆翔は常に受け身だった。年上だから気も遣った。付き合い始めてから最初の数ヶ月は希美の受験を優先した。恋人らしいスキンシップはあったものの、二人きりの時間が多く取れるほどの余裕もない。
人目を気にした隆翔の提案を希美は受け入れた。隆翔にとって、いわば契約のようなものだった。二人の関係が白日の下に明らかになったとき、隆翔は自分に自信を取り戻している筈だった。今日、この場に自分がいることに大きな違和感を覚えていた。本来ならば傘木家の敷居を跨ぐ資格の無い自分が、リビングのソファに座っている。隆翔はすべてを話し、希美に別れを告げて立ち去るつもりであった。
隆翔の独白を聞いた希美はふう、と息を吐いた。隆翔と目を合わせぬまま、ゆっくりと話し始めた。
「……実はね、沙里ちゃんから連絡があったんだ。部内で隆翔くんに関する噂が流れて、もう三日も部活に来てないって」
カップを口に運んで、唇を湿らせる。その仕草が妙に艶めかしくて目が離せなかった。
「みんな隆翔のことを誤解してる。中学で部活を一度辞めてることを言い訳にせずにこんなに頑張ってるのに、一度間違ったからって曝し者にして。私の好きな北宇治は……そんな薄情なところじゃない」
希美は沈痛な表情を浮かべながら隆翔を庇った。ただ幻滅される覚悟を持っていた隆翔は、希美の態度が信じられなかった。
「……でも、俺の所為だから、みんなはそれに幻滅して――」
「だからって、それで隆翔の人生を否定していいはずがないよ!」
希美の叫びがリビングを震撼した。そして目の下を赤くしながら、再び隆翔に向き直った。
「つらかったら逃げてもいいよ。私もそうだったから。でも、隆翔は間違ってもちゃんと向き合ってる。他人がどんなに隆翔を悪く言っても、私は隆翔の努力を知ってるから」
ぽろり、と頬を伝った水滴。一粒、また一粒と滴り落ちたそれは、いままで流れてこなかった涙であった。
すっと、背中にあてられる隆翔よりも小さな掌。温もりが洋服越しに伝わった。
「女々しくてすみません」
「そんなことないよ」
「……また、部活に戻っても良いんでしょうか」
「もちろん。ダメって言われたら久美子ちゃんを問い詰める」
「それは、あいつに効きそうですね」
ふっと笑いが零れた。希美は両手でそっと隆翔の頬を包むと顔を寄せた。透き通るような碧眼が、隆翔の眼前に広がった。
「私は隆翔がどんなに情けなくてもカッコ悪くても、ずっと好きだから」
『人は理由もなく一緒には居ない』というみぞれの言葉を唐突に思い出した。その言葉の真意を測るならば、希美が隆翔のそばに居続ける理由は、隆翔を無償の愛で包んでいるからだ。希美を自身の契約で縛っている。そんな思い上がりを恥ずかしく思った。思い返してみれば当然だった。隆翔が希美を愛するように、希美もまた隆翔を愛で包んでいる。盲目も良いところだと自嘲するしかなかった。
そうだ、と思い出したように手を叩いた希美は、隆翔を部屋へ誘った。
「見せたい物があるから、先に私の部屋に行ってて」
希美は隆翔の手を取って階段まで案内して、片付けのためにリビングへと戻っていった
一歩一歩、傘木家の階段を上がる。後ろめたいことは何も無いのに、悪いことをしている気分だ。
二階廊下の突き当たりが希美だった。
カチャリとドアを開けると黄色調の内装が広がった。棚には少女漫画と希美のフルートケースが収納しており、既に卒業式で役目を終えた北宇治の制服は、クリーニング済みの透明カバーが掛けられていた。
ここが希美の部屋かと単純な感動が勝っていた。部屋は実に女の子らしく、ごちゃごちゃとしていない。物が散乱していることが嫌いなのだろうかと思ったが、あまりにも片付けられており、唐突に呼んだにしては生活感が乏しかった。
若干の居心地の悪さを覚えたその時、音も立てずに背後に人影が現れた。
「……希美さん?」
しかし言葉を交わさぬまま、希美が隆翔の背中に抱きついた。体温が直接伝わってくる。柔らかく、それでいて女性特有の凹凸ある肢体の存在感が直に伝わってくる。
「ちょ、危ない……!」
背後から押されるがまま、二人はベッドに倒れ込んだ。クッションがボフンと音を立ててふたりの体重をいなし、反動で濃密な希美の香りが鼻腔を通り抜けた。
「嗅がないで」
「……嗅いでません」
「嘘つき」
顔面からベッドに倒れた隆翔としては仕方の無いことであるが、背中に顔を埋めた希美から抗議の声が上がった。もぞもぞとうごめく背中がむず痒い。希美の体温や息遣いと、存在感のある双丘が直接的に伝わってくる。ベッドで俯せになる隆翔にこれでもかと押し当てていた。
巻き付いていた腕の力が緩んだ隙に身体を捩り希美と相対する。慣れないことをした希美は顔を真っ赤だった。それでも顔を合わせるのは恥ずかしいのか、今度は隆翔の胸に顔を押しつけた。
腕を希美の背中に回して、苦しくない程度の力加減で抱き締める。
愛おしい、と直感が訴えていた。希美の可憐さは誰よりも知っている自信があった。それこそ、優子や夏紀、みぞれよりも。しかし、今目の前にしている彼女は、まだ隆翔の知り得ぬ姿だった。
胸に顔を押しつけたまま、希美の自信なさげな声が響いた。
「……隆翔のこと、ちゃんと支えたい」
「もう、十分支えてもらってますよ」
希美は隆翔の胸の中で左右に頭を振る。
「だって、隆翔は私の夢を背負ってくれたんだもん。だから私には隆翔を支える義務があるよ」
視界は希美の髪によって囲われた。希美が隆翔を押し倒した様相になんら変わりない。
要は、そういうことだ。
見せたいものというのも、この部屋に誘うための口実に過ぎない。
ともすれば、隆翔も希美の覚悟に見合うだけの男らしさを見せねばならない。
「……希美」
ビクッと肩が弾む。
体勢を整えて、希美の顔に手を添える。
彼女の美しい碧眼が大きく見開かれ、体温がふたりを溶かしていく。
希美の指が隆翔のダウンシャツのボタンを一つずつ外していく。
それと同じくして、希美の上着に手をかける。
シャツをまくると希美の締まった上半身が露わになり、たわわな果実を支える水色のブラジャーが視界に入った。レースが施された可愛らしいデザインが爽やかな希美によく似合っていた。
「……恥ずかしい」
「よく似合ってる」
腕を胸の前に回して恥じらった。
これまでのこと、これからのふたり。同じようで違う関係性が、ふたりを大人にしていく。
「今の俺には、希美がいれば十分だよ」
「……ありがとう、隆翔」
自然と顔が近づき、唇が触れあった。
いつものような触れ合うだけのキスではなく、もっと深くお互いを知るために長い時間を掛けたキスだった。
◇◆◇
目を開けると、見慣れぬ部屋の一角が映った。
まどろみに霞む思考を振り払って隆翔は起き上がった。ベッドの反対側には愛しの恋人が静かに寝息を立てながら眠っている。
初めての交わりを終え、慣れないことへの疲労感から意識を手放していた。隆翔が目を覚ました時には、最後に時計を見てから二時間が経過していた。
初めて見る希美の寝顔は無邪気さと安らかさを孕んでいた。
「……俺が護るよ」
守ってあげたい。この感情は理屈じゃない。男としての本能がそう叫んでいる。
頬をなぞる。きめ細かい絹のような肌だった。
親と観た洋画などでセックスシーンは何度も目にしてきた。その行為の意味を知ってからは思春期特有の羞恥心が勝っていたが、文脈を少しずつ理解した上で自ずと愛し合う者同士がする当たり前の行為だと認識するようになっていた。しかし、それも自分とは縁遠いはずの行為だった。
恋愛経験のなかった隆翔もこの一年で大きく前進した。希美との関係を深めていく上で、いずれは自分もあの映画のような行為に走ることになるだろうと踏んでいた。
それがまさか、この瞬間になろうとは想像すらしていなかった。
「うーん……」
隆翔の目覚めから僅かに遅れて希美の目が覚めた。
布団を被ってはいるが、伸びをしたことで自他共に認める見事な胸は半分ほど露わになっている。今更ながら、希美のためを想って視線を逸らした。
「ひゃっ……!」
はだけかけた布団を頭から被って、羞恥に悶えている。ようやく現実に戻ってきた希美を温かい目で見守った。
やがて、布団から顔だけ覗かせて抗議の視線を送ってきた。
「……なんで隆翔はシャツ着てるの?」
「なんでって、寒かったから」
「ずるい。私だけ恥ずかしいじゃん」
「もうちょっとそのままでもいいよ」
「何言ってんの!」
ボフンッ、と枕が飛んできた。
当然ながら互いに初めてだった。我に返れば羞恥が襲ってくるのは仕方が無いことだ。
布団からのそのそと出てきた一糸纏わぬ姿だった希美は、行為の最中で脱ぎ捨てられた下着を拾って目にも止まらぬ早さで着用した。
外は雲間から照らす夕焼けに染まっていた。
いくら希美の両親が不在とはいえ、こんな状況を見られたらどんな鉄槌が下るかも分からない。痕跡を残さないよう後片付けに勤しんだ。
「あのさ、希美」
「なに?」
「……明日から部活行くよ」
「……そっか」
「うん」
掃除中、ふたりが交わした会話はそれだけだった。
それで十分だった。
「ありがとう。希美の大事な物を貰っちゃった」
「……恥ずかしいこと言わないで、アホ」
「ごめんごめん」
すっかり吹っ切れた隆翔と、まだ慣れていない希美のコントラストが傘木家の玄関に花開く。隆翔が希美に抱いていた恐れは解消した。憧れの気持ちは変わらず持ち続けているが、その間柄は良い方向に変化を遂げている。希美は隆翔を、隆翔は希美を対等の存在として認識し始めた。
隆翔の手には紺色のフルートケースが握られている。この後向かう場所に最も必要な持ち物であり、それを借りるのは河川敷で希美に吹かせて見せた『韃靼人の踊り』以来である。
「貸してくれてありがとう」
「ううん。今の隆翔には必要かなって思っただけ。大事に吹いてくれるって信じてるから」
『ラヴ』の意味が恋と愛で表現されるのならば、恋の先にあるのが愛だと、この時の二人は確信していた。奏者としてマイ楽器を他人に貸すことは余程の事が無い限りありえない。希美の精神とも言えるフルートを借りた隆翔は吹奏楽へ背信する退路を自ら断った。だからこそ隆翔は進まねばならなかった。
◇◆◇
京阪電車で隆翔はこれからのことを考えていた。
このあと、フルート教室で高橋沙里と顔を合わせることになるだろう。今回の一件で最も迷惑を被ったのは彼女だ。それでも、隆翔を吹奏楽部に戻そうとその身を捧げていた。頭が上がらないと同時に、何があっても最後までメンバーを見捨てない彼女をパートリーダーに推した先輩二人の慧眼に感服した。
部活に戻るにあたって、明らかに障壁となるのは高坂麗奈の存在だった。隆翔が休部していた数日間、隆翔がいない状況下で高坂ならば何かしらの措置を立てるだろうと仮定した。幸い、高橋は肯定的な立場にいる。中野と小田への説得にはどうしても彼女の力を借りなければならないだろう。
もう一度吹奏楽と向き合う力を与えられた意味を考えた。ただ戻るだけでは何も成長しない。それでは中学の頃に逆戻りだ。自身に向けられた失望を挽回すること。それは、新入部員を迎えるにあたっての最低条件でもあった。
「……樟葉くん!」
「久しぶり……」
「心配したよ、もう来ないんじゃないかって……」
フルート教室に現れた隆翔を高橋は好意的に出迎えた。
休部した事実は変えられない。軟弱だった精神を多少は咎められるだろうと覚悟していた隆翔は拍子抜けした。
「ごめん。今回のこと、お前に一番迷惑を掛けた」
「そんな、迷惑だなんて……」
「あと、先輩に伝えてくれたのも凄くありがたかった。高橋がいなきゃ、今日来られなかったと思う」
「もう大丈夫なの?」
「うん。明日から部活に戻ろうと思ってる」
「そっか……でも、やっぱり樟葉くんを戻したのはのぞ先輩なんだね。ちょっと悔しいな」
笑顔の裏に、眉を顰めて悔しがる姿があった。
「でも、高橋には高橋の役割があったと思う。俺が言うのもなんだけど」
「あははっ。そうだといいな」
それから講師の水谷指導のもとで、ブランクを取り戻すために三時間ほど集中して演奏した。最愛の人のフルートは馴染みが無いはずなのに、自分の相棒の様に吹きやすかった。
夜、帰宅した隆翔は明日からの対策を講じた。
高坂への説得、中野と小田へのアプローチはそれぞれ同時進行で手を打たねばならない。明日は午後からの練習だ。隆翔は学校へ乗り込む前に二人の人物に会うことにしていた。
◇◆◇
[3月27日]
翌日、部活が始まるよりも早い時間に集合をかけた隆翔は、家庭科室で二人を待った。
数分後、ガラリと扉が開かれた。最初に現れたのは昨日も会ったパートリーダー、高橋沙里だ。
「おはよう、樟葉くん」
「おはよう。悪いなこんな早くに」
「ううん、頼ってくれて嬉しい」
鞄とフルートケースを置いて、隆翔の隣に座った。トレードマークとも言える赤いヘアピンが今日は付いていなかった。
「あいつももうすぐ来るよ」
「……あのさ、お互いに付き合いも長いし、名前で呼ばない?」
「へ? ま、まあ高橋が良いなら大丈夫だけど」
「むー…」
「さ、沙里……」
「えへへ。また今日よろしくね、隆翔くん」
「よろしくな」
そんな遣り取りをしている内に秀一が到着した。
神妙な面持ちで扉を開けた秀一は、隆翔の顔を見た途端に破顔した。
「隆翔……」
「秀一、心配かけてごめんな」
「本当だよ。また辞めるかと……」
「改めてこの一週間、迷惑をかけて申し訳なかった。結論から言って部活には戻るつもりだ。でもこのまま戻ってもパートの雰囲気は改善しない。沙里も、それは同じ気持ちだろ?」
「うん」
確固たる意志を持って、沙里は頷いた。
「秀一、高坂はなんか言ってたか?」
「……まあ、言ってることには言ってるんだが」
言い淀む秀一は、一拍逡巡してから打ち明けた。
「お前のマネージャー権限、剥奪する気でいるらしい」
【つづく】