◇回想 高橋沙里◇
あの日、彼は心の整理がしたい、と言い残して部を去った。
樟葉隆翔くん。身長が男子の中でも少し高い、スマートな男の子。がさつな印象がある同年代の男子に比べて清潔感がある。男子のフルーティストには今まで出会ったことがなかった。しかし、彼はフルートがよく似合っていた。マイ楽器の手入れも欠かさず、大事にしていることから几帳面な性格だということも分かっていた。
調先輩と希美先輩が引退したと同時に、マネージャーとして活動していた彼が奏者として所属した。なんでも、高坂さんや黄前さんと同じ北中で吹いていたらしい。音楽室では部長になった黄前さん、塚本くん、高坂さんと話している姿があった。そして、いつしか同じ中学の彼らが羨ましく思うようになっていた。
十月、私が通うフルート教室に彼が入会してきた。立華高校の西条姉妹は、彼が立華の部長と幼馴染みであることに意味深な反応を示していた。そして、彼は部活が終われば毎週欠かさず教室に通った。元々ピッコロを吹いていた私は、その座を後輩の山根つみきちゃんに明け渡した。最後の年、最後のコンクールに向けて私はフルートに持ち替えた。今思えば、運命の選択だった。彼はめきめきと頭角を現した。
三月、新入生歓迎会の演奏で、樟葉くんは初めてファースト奏者に任命された。マネージャーとの兼務で多忙の彼にファーストの座が奪われた事には些かショックを覚えた。しかし、その努力を思えば当然のことだった。私は持ち替えたフルートで、彼と主導権を争う様相となってしまった。
どこで歯車が狂ったのだろうか。ストイックに練習する彼のことが気になり始めた時だろうか。それとも、私がピッコロからフルートに持ち替えた時だろうか。彼には恋人がいて、しかもそれは私の敬愛する希美先輩だった。様々な情報が飛び交って、整理するのに苦心した。
隆翔くんが休んだ日、芽衣子と蕾実は逃げたとしきりに彼を責め、責任を果たさない彼に失望していた。しかし私は、彼に秘めた恋人が居たことにがっかりしていたのだ。しかもそれが、希美先輩であったことに。
一緒にアンコンに出た仲だったのに、すっかり過去のことのように言う二人。ここで彼を助けなければ、私はファースト奏者の脅かされずに済む。最後のコンクールでも、私を筆頭にみんなが付いてきてくれる。でも、その選択は私が許さなかった。
誰一人欠かさない。だから私は、連絡先にある敬愛する先輩へ電話を掛けた。
『―――もしもし、希美先輩。お話ししたいことがあります』
◇◆◇
[3月27日 午前]
静謐な校舎の一角、家庭科室に生徒が三人。隆翔と秀一、パートリーダーの高橋沙里による隆翔復帰への本格的な道筋が話し合われていた。しかし、その状況は芳しくない。高坂麗奈の鶴の一声によって、隆翔はマネージャーから降板する可能性が浮上していた。秀一がもたらした情報に、他の二人は沈痛な面持ちとなった。三人が望むのは隆翔の完全復帰だ。その為には、高坂という高い壁を越えなければならなかった。
「隆翔、俺に何か言うことがあるんじゃないのか?」
秀一は指を差しながら隆翔を見ていた。何のことか分からない隆翔は首を傾げた。
「水臭いだろ。なんで彼女出来たこと教えてくれなかったんだよ。色々アドバイスだってしてやるっていうのに」
「いや、何言ってんの? 秀一が黄前に告白するしないの相談を受けてから手解きをしたこと、忘れてんじゃないだろうな?」
「え、そうだったの!?」
沙里は手を口に当てて仰天した。短期間で二つのスキャンダルに遭遇したのであれば当然とも言える。
「正確には付き合ってた、だけどな」
「うっせ」
「……振ったのは、黄前さん?」
「いや、俺が久美子を振ったかもしれないだろ」
図星を突かれた秀一は何も知らない沙里を前に強がった。しかし、残念ながらその思惑はあっさりと看破された。
「無いだろそれは」
「うん。無いね」
「ひでえ!」
「分かるよ。だって塚本くん、黄前さんのことめっちゃ気にしてるじゃん。隠すなら隆翔くん並みに徹底しないと」
秀一はあっけからんと言い放つ沙里の言葉に項垂れた。哀れに思い、良い奴なんだけどな、と付け加えた。
高校の自動販売機に売られている百円のコーヒー牛乳は科学的な甘さだった。ストローを吸って、隆翔は話を軌道修正する。
現状、秀一が知っていて沙里が知らなかったということは、高坂の思惑は幹部の域を出ていない。それに高坂自身はこの集会を把握しておらず、すぐに強硬策に出ることは無いと予想できた。正当な理由無く隆翔を降板させたら角が立つ。高坂もそれは百も承知である。
しかし今、隆翔が休部している。逃亡ともとれる動きは、その大義名分が高坂案に拍車を掛けている状態であった。であれば優先順位を考えなくてはならない。
隆翔の復帰にあたって、まずは部内の隆翔に向いている空気を改善すること。
隆翔が休んだ数日間、フルートのファースト奏者が欠席という状態が続いていた。沙里曰く、小田や中野、一年生たちも騒動の渦中であることへの居心地の悪さは感じていた。となれば、同時進行で高坂への対策とパートのケアを行わなければならない。時間の猶予は一切無かった。
「まずは、うちらの事をなんとかしないとね」
「だな。それに関しては誠意を見せるしかないだろうし」
沙里と秀一の意見は合致していた。筋を通すための謝罪。幸い、その相手とのパイプは沙里が持っていた。一年生の頃はクラスメイトだったことが幸いして、危惧すべき障壁も皆無だった。
「……沙里、お願いできるか?」
「うん。任せて」
こうして隆翔の復帰に向けたプロセスの第一弾は、告白を蔑ろにした鳥羽涼葉への謝罪から始まった。
復帰を決心したとはいえ、何もせずに合奏練習に戻っても火に油を注ぐだけだ。部活が始まるまでの一時間。鳥羽への謝罪は沙里の仲介によって決定された。残された問題はパートへの説得と高坂対策だ。
「俺がみんなの前に姿を見せるにしても、今日は難しいだろうな」
「そりゃそうだよな。ただでさえ険悪なのに」
「うーん……じゃあ、芽衣子と蕾実の説得も私がするよ。だけど今日中は多分無理だから、先に鳥羽さんにちゃんと謝ろう?」
「……いいのか?」
「うん、任せて。鳥羽さんには連絡するだけだし。むしろ、二人への説得は私にしか出来ないでしょ?」
「何から何まで申し訳ない」
本当に頼りになるパートリーダーだった。むしろ、ここまで献身的にならねばリーダーとして率いることは不可能なのだろうか。秀一も沙里の有能ぶりに目を見張るものがあった。しかし、彼もまた唯一無二の立場を有している。
「ここでしか話さないから俺が良しとするまで口外しない前提で聞いてほしい。俺は隆翔に恩がある。しかも二つもだ。一つは部長……久美子に告白する上で相談に乗ってくれた時。そして二つ目は久美子に振られた時、俺はこいつにかなり励まされた。しかも隆翔は、一方的な理由で関係を保留した久美子を叱った。それは隆翔にしか出来ないことだった。吉川先輩に副部長を任せられた時、部長が久美子だと知らされた。正直、それを聞いて断ろうとも思った。でも、やっぱり久美子のことが気になって仕方が無かった。それに樟葉隆翔がマネージャーである限り、この四人なら北宇治を任せられるとも言っていた」
淡々と、淀みなく打ち明けた秀一を二人は凝視した。茶化す暇もないほど、秀一が隆翔へ寄せている信頼の大きさが白日の下に晒された。
「俺が部のためにすべきことがはっきりした。先輩たちが残してくれた信頼を簡単に崩すことはできない。だから全力で隆翔を慰留する。その為なら自分が犠牲になっても構わない」
沙里とは異なった次元で、秀一も頼りになる存在だった。普段は高坂を苦手にしている彼も、最大の友人への恩はいつか返したいと思っている。今がその時だった。
「とりあえず、部長を介して高坂へのアプローチは仕掛けてみるつもりさ。あいつも大概北宇治が好きだから、こんな状態で部を放置することには抵抗があると思うぞ」
「……秀一、お前」
隆翔は柄にも無く感動していた。立場が人を変えるのか、それとも持ち前である底抜けの優しさなのか。ただ、間違いなく秀一は人として成長していた。
「お前さ、中学の時も内藤を庇って先輩に物申してただろ。率直にすげえなって思った。部の調和とか、問題を問題にしない空気でみんなが何も言えない状況で、隆翔だけは違ってたしな」
「……カッコつけんな」
「バカ。泣いてる奴に言われたくねえよ」
ズズッと鼻水を啜った隆翔は、秀一が寄せる信頼の大きさを噛みしめている。お前がいなければ副部長は務まらない。これ以上の褒め殺しがあるだろうか。ずっと暑苦しい展開を見せつけられていた沙里も柔らかい眼差しで二人を見つめていた。
「方針は決まったね」
「だな。高坂が動くまで時間は無いだろうし、出来る限りのことをしよう」
「うん!」
機は熟した。ここに、隆翔復帰の策謀が秘密裏に決行されることとなった。
◇◆◇
[3月28日 午前]
鳥羽と対峙する当日、その場所は彼女の自宅から程近いファストフード店となった。
沙里の協力によって実現した、最初で最後となるであろう機会だ。
鳥羽は優しい。その優しさに甘えるようでは本当の解決には至らない。隆翔と沙里は店内で到着を待った。あと数分で彼女はここへくる手筈となっている。このあと、午後から吹奏楽部は練習がある。その為隆翔と沙里は制服で待ち合わせた。
昨日、秀一と沙里に取った態度は見栄では無かった。しかし、刻一刻とその時間が迫るにつれ、隆翔は落ち着きが無くなっていた。頻りに店外を眺めるその様子を、沙里は呆れながら見た。
「もうちょっと落ち着いたら?」
「でも、ここで躓いたらって思うと……」
「大丈夫だって。誠心誠意、ちゃんと謝れば許してくれるよ」
「……根拠は?」
「そんなもの無いよ」
隆翔の心境を知ってか知らずか、あっけからんと言い放った。隆翔は溜息を漏らすしかなかった。良い機会だから、この場で沙里に伺いたいことを言ってみた。
「もし、もしも沙里が鳥羽の立場だったとして、今回みたいなことをされたらどうする?」
「そうだね……とりあえずビンタしてから、社会的にやっちゃう? みたいな」
「……お前だけは敵に回さないようにするよ」
沙里はケラケラと笑って、上品にケチャップをディップしたポテトを口に放り込んだ。あくまで明朗に応えていたが、その瞳は一切笑っていない。それと同じタイミングで、自動ドアから待ち人が登場した。
「腹括って。ほら、鳥羽さん来たよ」
隆翔の前にちょこんと佇む鳥羽は、ここに来てから一度も視線を合わしていない。彼女の前には、テイクアウト用のカップに入った紅茶が置かれている。背筋をスラリと伸ばしつつも、視線はカップを見つめていた。
腹は既に括った。次のステップへ行くために、隆翔は正しい選択を続けなければならない。小さく深呼吸をした隆翔は、テーブルに打ち付ける勢いで頭を下げた。
「鳥羽、俺はお前にした取り返しの無いことをずっと悔いている。沙里を介さないと謝れない現状が情けなくて仕方が無い」
息を飲む音が耳に届いた。隆翔は頭を上げることなく言葉を繋いだ。
「告白をはぐらかして、本当にごめん。失望させるようなことを言って、本当にごめん」
沈黙。鳥羽と仲介役の沙里も言葉を発せなかった。
鳥羽の指がぎゅっと強く絡まる。言葉を選んでいるようだ。やがて、俯いた彼女から小さな声が漏れた。
「樟葉くん、私が貴方にその気があること、気付いていましたよね」
「………」
今度は隆翔が息を飲んだ。おっとりとした性格の彼女からは想像も出来ないほどの洞察力だ。沈黙が答えだと悟ったのか、俯き顔をゆっくり上げた。今にも泣きそうな顔をして、潤んだ瞳が痛々しく揺れていた。
「やっぱり。どうしてちゃんと振ってくれなかったんですか……?」
声が震えている。沙里からの連絡とその決断、自宅ここまでの道程、そして隆翔の謝罪を受け止めた瞬間、いくつもの乗り越えるべき恐怖に真っ向から立ち向かってその言葉を発したのだ。
「……今、俺には付き合ってる人がいる。尊敬してる先輩だ。でも、俺は臆病だからその先輩が俺によって貶されたり、蔑視されることが怖かった。だから友達にも、クラスメイトにも部活の仲間にも教えていなかった。はは、とんだチキン野郎だよな、本当」
揺らいでいた瞳から、ガラス玉が一筋こぼれ落ちた。それを見せまいと、カーディガンの袖で涙を拭った。繊細な肌を強引に拭ったからか、頬が赤くなってしまっている。
「……バカですね。本当、最低」
「……自覚はしてる」
「当たり前です。でも、そんな臆病者を好きになった私にも落ち度はあります」
溜息の先に、諦めに近い虚しさが滲んでいた。
「鳥羽さん」
これまで二人の様子を静観していた沙里が真剣な眼差しで鳥羽に声を掛けた。
「許してほしいとは言わない。私だってこんな最低なことされたら、一生許さないと思う。でも、樟葉くんの謝罪は受け止めてほしいの。じゃないと、彼はこれから、前を向いて歩けない」
「……うん」
「樟葉くんの言葉に嘘はないよ。それは認めて欲しいんだ」
厳しくも愛のある言葉だった。沙里の助言は鳥羽の心も救い、隆翔の立場をも救った。やがて三人を取り巻く雰囲気は徐々に融和していった。
「樟葉くん、あなたの謝罪は受け止めます。もう泣かないし、あなたを困らせるようなことも言いません。でも……」
言葉を切った鳥羽は、胸にぎゅっと手を当てた。堪えながらも絞り出そうとする痛々しさに言葉が出なかった。
「でもね、こうやってちゃんと謝れる人だから……好きになって良かった。ありがとう、樟葉くん……」
最後の言葉が何度も頭の中で反響する。感謝されることはひとつも無い。隆翔はあまりの衝撃で言葉を掛ける暇もなかった。その向かい側には、既に誰も座っていなかった。
◇◆◇
同時刻、秀一は自宅があるマンションのロビーで黄前を待っていた。臨時で幹部ミーティングが行われる為、今日は午後の部活がある時刻よりも前倒しして登校するからだ。秀一は黄前と同じマンションに暮らしている。住んでいるフロアは違えど、六年間同じ学び舎で過ごしたからこそ、いつしか当たり前のような距離感でいた。去年、その距離感に変化が生まれた。恋愛関係にあった二人の間に恥じらいと愛おしさが加わった。いや、その感情さえも当たり前の日常に隠れたものであったのかもしれない。別れた今、それも過去のものとなっていた。別れを切り出した黄前は秀一へのいたたまれなさに敢えて距離を置くようになった。一緒に通学するのも、今や川向こうに住んでいる高坂となっている。
ともかく、秀一は黄前に話さなければならないことがあった。昨日、秀一は沙里と共に隆翔の復帰に関する暗躍に奔走している。高坂が一方的に切り出したマネージャー権限の剥奪。その真意を探る上で黄前との意見を統一させることは喫緊の課題であった。
エレベーターホールから黄前が姿を現した。まだ春の微睡みに眠気を払い切れていない顔をしているが、ロビーに佇む秀一を目撃すると漏れ出る欠伸を噛み殺した。
「……何、してるの?」
「お、来たか」
「来たか、じゃないでしょ。せっかく時間ズラして登校してるっていうのに」
「なんで?」
「なんでって、そりゃ……」
本音なんて言えやしない。自分から振っといて、どの面下げて一緒に登校しろというのか。黄前としては、まだ秀一の隣に立つ自信が持てずに居た。
秀一は黄前が言い淀んだ姿に小さく溜息を吐いた。行こうぜ、と黄前に声を掛けて二人はあじろぎの道を歩き始めた。
「なんで一緒に行こうと思ったの?」
「なんでって、お前に話さなきゃいけないことがあるんだ」
「話したいこと?」
「ああ、隆翔のことだ」
「……やっぱりね」
秀一から隆翔の名前が出ると、彼女の声のトーンがあからさまに下がった。
「あいつ、今日から部活に戻るってよ」
「……そうなの!? でも、そんなこと聞いてない」
「そりゃそうだろ。隆翔の復帰に賛成してるのは俺と高橋くらいだし」
「そうなんだ」
部長なのに何も知らないことがショックだった。隆翔が相談した相手は中立の立場で居続けなければならない部長より秀一とパートリーダーの沙里であったことに些かの不満が募っていた。
「そこで部長に相談なんだけど、高坂の件に反対してくれないか?」
「麗奈のって……ああ、マネージャーの話?」
「そうだ。あいつはあのまま、隆翔をマネージャーから外すつもりなんだろ?」
「……うん。詳しいことは聞けていないけど、大方そうなるんじゃないかな。でも無理だよ。麗奈は本気だよ」
「だからこその部長権限じゃねえのか? 去年と同じ結果にならない為に色々と変えていかなきゃいけない。俺にだってその気持ちは分かる。だけどドラムメジャーに全権がある訳じゃない。このまま高坂の意見を通すなんてことは絶対にしちゃダメだ」
秀一は珍しく本気で黄前に迫った。それだけ譲れないことであることは、彼女でも理解できた。しかし、あくまで部長は中立でなければならない。双方の意見を集約し、よりよい意見に昇華させることが自分の役目であると自負していた。
「それは麗奈の意見を聞いてみないことには判断出来ない。部長として、片方の意見だけが通るなんてことは認められない。今は結論を急かさないで」
「……あいつはマネージャー、降りる気ないぞ」
「それも聞いてみなきゃ分からない。でも正直、今は樟葉と麗奈は同じ空間に置きたくない」
暗く、どこまでも低い声だった。黄前は中学からの因縁である隆翔と高坂の冷え切った関係に辟易していた。互いに顔を合わせれば鼻で嘲り、意見が合わなければなじり合うような関係は決して健全とは言えない。付き合わされる方はたまったもんじゃない。二人がなぜ同じ環境にいるのか。その理由は意外にも似通っており、隆翔は希美のため、そして高坂は想いを寄せる顧問のためにだった。
黄前の内心では、秀一には部長としてではなく、一人の幼馴染みとしての姿で見て欲しいと思っていた。しかし、望むだけ滑稽である。秀一を振った張本人がそんなふんわり甘い理想を夢見る事はお門違いも甚だしいのだ。
「切り捨てるのか?」
「そうは言ってない!」
「そう言ってるのと同じなんだよ! 高坂がドラムメジャーで居続けるということは、隆翔は同じ幹部と一線を引いた扱いをしなきゃいけないってことだろ。隆翔に全責任を押しつけるつもりなら、俺は副部長を降りる」
「……っ! バカ言わないでよ」
「………」
「……本気、なの?」
聞くまでもないことだ。徹頭徹尾、秀一は本気を貫く姿勢だ。たとえ黄前が秀一を手放す気がなくても、秀一から離別するであろう。そんな悲観的な未来を、黄前は直視出来なかった。
「……麗奈に反対は出来ないかも。でも、やるだけやってみる。だから、だから……」
二度と副部長を辞めるなんて言わないで。その言葉の先は掠れて声に出なかった。
◇◆◇
◇回想 高坂麗奈◇
「加部先輩、二年間、大変お世話になりました」
「こちらこそだよ。ダメダメな先輩でごめんね」
「いえ、そんなことは……」
卒部会のあと、パートごとに三年生への惜別の言葉が所々で繰り広がられている。高坂麗奈は、パートの先輩でありマネージャーの加部友恵を前に恐縮していた。トランペットが吹けなくなる。そんな想像に耽れば恐怖で足が竦む。トランペットは高坂の命であり、生きる目的でもある。顎関節症は奏者にとっての致命傷だ。彼女はプロ奏者の父からそれとなく病名やそうならないような対策を聞き及んでいた。しかし、実際に病に犯された人を前にした高坂は、何の言葉も掛けることが出来なかった。
高坂の受けた印象に対して、友恵はどこまでも明るかった。
楽器が吹けないから部活から退く。受験生だし、部活に残る理由がない。それでも彼女は臨時職のマネージャーに転向した。その献身性には尊敬すべき姿が見えた。奏者としての友恵は高校からトランペット奏者になった初心者であり、これまでの二年間で一度もコンクールの出場がない。高坂が入学する前の年は分からないが、これまでの二年間はオーディションで実力順にコンクール出場者が決まっていた。編成に組み込めるトランペットの人数は多くても六人前後。いずれも経験者や実力者が独占している。最後の年だった去年、着実に実力を伸ばした彼女は三年生だからという温情ではなく、彼女自身の力でメンバーに入るだろうと優子を始め誰もが思っていた。しかし、オーディション直前でその夢は潰えた。
高坂は友恵に掛ける言葉を悩んでいた。慰めはもっての外。だから、今言うべきなのは感謝だろう。
「先輩がいたから、小日向さんは自信を持って演奏していると思います。他の一年生も……」
「あはは、やっぱりそう思うよね。うん、だって結構苦心したもん。特に夢には」
「アンコン、私たちの演奏はどうでした?」
「……最高だったよ。夢をファーストに置いた高坂の采配は間違ってなかったよ」
友恵の賞賛が、高坂の胸に弾けた。その温かさが細い身体に染み渡る。だからこそ、彼女はこの先輩が好きだった。だから、きっとこの質問にも忌憚のない意見を言ってくれると確信していた。
「良かった……。あと、もう一つ訊いても良いですか?」
「うん?」
「マネージャーのことです」
「……隆翔くんのことね」
「はい……」
間接的な言葉はいらない。隆翔がこのままマネージャーと奏者を兼任することが最良なことなのか、最も彼を近くで見てきた友恵の言葉に期待した。
「アタシは、樟葉がマネージャーで居続けることに反対です。加部先輩を見ていて思いました。マネージャーは居てくれたら確かに有り難い。先輩はそういう働きを樟葉と共にしていました。でも、それは奏者という柵みが無いから出来得ることだと思います。樟葉の練習時間を奪っているのはマネージャーの仕事があるからです。せっかく上手いんだから、もっと貪欲に練習してほしい。今は、何かに怯えながら時間を浪費している様に見えて仕方が無いんです」
「うーん……。まあ、確かにマネージャーしながら奏者をする理由はないよね。でもさ、彼は私と違って頭が良いよ。時間の使い方云々は奏者それぞれの練習方法があるから一概に言えないけどさ、もし高坂が隆翔くんを説得するなら、練習姿勢の否定から入っちゃダメだよ」
友恵の忠告に高坂はうっ、とたじろいだ。これまでの隆翔との対話姿勢は常にどちらかが喧嘩腰に近かった。これではチームワークなんて夢のまた夢だ。彼女にとって耳の痛い話になっていた。
「ど、どうしてそれを……」
「うーん、情報漏洩は出来ません」
口許でバツ印を作って秘密を守った。ただし、高坂は情報の出所について思い当たる節があった。このあと、その親友は高坂から詰問されることになった。
「でもさ、私も思ってたよ」
「え?」
「隆翔くんが奏者に戻れるのか、正直夢よりも心配してた。ホラ、彼の過去ってかなり悲惨だったらしいし。いじめみたいなことも受けたって黄前ちゃんから聞いた。それでも戻ってきたのは、かなり勇気のいることだったんじゃないかな?」
「そう、なんでしょうか……」
「うん、きっとそうだよ。だから、どんなことがあってもきっと彼は辞めない。最後まで全うするような気がする。それでも、マネージャー兼任は嫌?」
「そんな風に言われたら、はっきり言えません」
「わはは、それじゃあ仕方ないな。卒業するまでに隆翔くんにはそれとなく伝えてみるよ。でも、決断するのは本人だし、この問題の着地は一筋縄ではいかないと思うよ。なぜなら、隆翔くんだからね」
この時、友恵の脳裏に浮かんだ隆翔の人物像には、彼における希美という存在の大きさを語っていた。友恵は隆翔が希美と恋人同士になったことに驚愕と一抹の寂しさを覚えていた。彼が中学でフルートを一時的に辞めたときも、吹奏楽部に入部したときも、みぞれの演奏が彩りを持ったときも、常に彼は希美を傍で支えていた。黄前がかの先輩の音をトレースするかのように、彼の音は、希美の音に酷似している。それだけの想いの強さを止められる勇気を、友恵は持ち合わせていない。
「高坂、私は貴女ほど上手い奏者は知らない。香織先輩をも超えるトランペッターは早々現れないとも思ってた。でも、高坂は私たちの想像以上だった。きっと高坂ならみんなを導くことができるよ。だから、仲間を信じてね。部長と副部長を同じ中学出身者で固めたのは、ただの仲良しこよしが目的じゃないよ。優子も夏紀も、最良の人事をしたし、特にドラメは高坂しか適任な人がいない。一人じゃないからね。そこは勘違いしないで」
「……はい、分かってます」
「本当かなあ」
真面目な表情から一転しておどけた友恵は可笑しくなって笑った。つられて高坂も笑みが漏れた。
◇◆◇
無人の音楽室。まだ合奏形態にされていない教室で、高坂はピアノの前に座って思案していた。友恵の助言の直後、隆翔は吹奏楽部とは関係の無い所で問題を起こした。その出来事は巡り巡って吹奏楽部にまで波及し、同級生を始め下級生にまで噂は蔓延。彼の信頼は失墜し、現在、部内の雰囲気は最悪と言っても良いような状況だ。この責任を必ず追及せねばならない。そこで、これまでの半年間で抱いていた懸念を払拭しようと、マネージャー役職の廃止と担当係制度の復活を提言した。とはいえ、まだ幹部間でしかその話は出ていない。四月になれば新入生が続々と入部するだろう。新体制を迎えるにあたっては少なくとも今月中には形にしなければならない。人事再編成は風雲急を要した。今日にも黄前と秀一を説得して、顧問の滝を通じて部員全員に伝達するつもりだ。
ポーンとミの音が音楽室にこだまする。ピアノは良い。調律された鍵盤は正確に理想とする音を吐き出す。その音が紡がれて一つの音楽になる。志望校である音大試験の必修だから弾くのではない。音楽を楽しむために弾くピアノが大好きであった。
ふと、思い出したことがある。中学一年生の合唱コンクールで、あるクラスの発表でのピアニストの演奏が妙に耳に付いた。その曲は詩人、谷川俊太郎が作詞したことでも有名な『未来へ』だった。そこで弾いていたピアニストが隆翔だった。
高坂は自身のクラスでピアノの演奏を任されていた。彼女は単に他にピアノを弾ける人がいなかった故の消去法で選出された。当時、トランペットへの自信が確信に変わり始めた時期だった。もっと上手くなりたいと翼を広げた。ピアノもまた同じだった。自分の理想に近い演奏をするために、一切の妥協無く練習した。自分以上に上手いピアニストはいないだろうという自負は、若気の至りとも言えよう。しかし、自分よりも楽しそうに鍵盤を叩く樟葉隆翔の姿が目に焼き付いた。彼の演奏に触発されたのか、合唱は熱を帯び、異様な雰囲気が会場を支配したまま、彼のクラスはそのまま学年優勝を勝ち取った。そう、高坂は隆翔を吹奏楽部員ではなく、ピアノが上手い一介の同級生として認識していた。
このまま一曲弾いてしまおうかと思った矢先、音楽室の扉が開かれた。入ってきたのは二人、黄前と秀一であった。隆翔の処遇を断ずる、臨時幹部ミーティングが始まった。
まず、秀一は会議の前段で隆翔が復帰する旨の報告をした。高坂の反応はあくまで予想通り、といったものであった。そして会議は本題に突入した。
「で、高坂は撤回するつもり無いのか?」
「無論よ」
開口一番、提言を撤回するよう秀一が促したが、高坂の反応は冷徹であった。
「マネージャーを撤廃して何になる」
「樟葉は責任を取るべきよ。新入生も入ってくるタイミングだし、去年からの変革をしないとコンクールでは金賞は獲れない。それは分かって」
「承服できないな。隆翔がいたから助かっていたことだってあっただろう。アンコンの時だって、裏であいつの働きがあったから幹部は助かっていたじゃないか。それを否定するのはおかしいだろう」
「否定している訳じゃない。それに、今回の件とアンコンは別問題でしょ」
「同じだろ。それに、奏者兼マネージャーはあいつが模索して得た立場だ。副部長という立場としても、マネージャー権限の剥奪を幹部の決定事項として伝えることは出来ない」
互いに譲らない応酬を黄前はじっと眺めていた。隆翔の処遇に関して、厳しめな判断を下す高坂の感情も理解できる。ただ、この時の黄前はマネージャー剥奪という判断に至った経緯が分からなかった。
「ねえ、麗奈はどうしてそこまでマネージャーを撤廃したがるの? 私たち、麗奈の考えをまだ聞いてないよ。何か理由があるんでしょ?」
二者間の折衷、特に感情的になっている相手ほど黄前の長所が活きた。高坂は一度溜息を
吐いてから、卒部会で友恵と話した内容を二人に告げた。そもそもがマネージャーという特殊な役職は吹奏楽部に合わない。運動部ほどのサポートが必要かと言えばそうでは無いので、もっと部員に必要な仕事を振り分けても差し支えない、というのが高坂の考えだった。実際、彼らが一年生の時はマネージャーという立場の人間はいなかった。
先程の応酬と打って変わって、二人は高坂の提案を黙って聞いた。感情的になりやすい高坂にしては論理的であった。依然、隆翔へは辛辣な言葉を並べていたが、役職が演奏への負担となっている事実と多忙である現状の改善が急務であること。そして来年度、新体制において役職の再編成を要求した。
黄前は思案した。秀一も隆翔の負担軽減という案には一考の余地があった。マネージャーは謂わば便利屋の側面が強い。部員のマネジメントより楽器の整理、演奏会でのとりまとめ、外部講師やOBの対応など多岐に渡る雑用を請け負ってきた。そもそもの成立が偶然の産物であり、先代部長の優子や夏紀は友恵の境遇と献身に甘える形で首を縦に振った。そして友恵と隆翔の二人三脚によるマネージャーが始まった。元々あった担当係制は機能していたものの、奏者の負担を軽減させる目的で奔走していた友恵の計らいによって、実質的に殆どの仕事が二人に振られていた。時限的な問題と認識しながらも、優子と夏紀では解決することが出来ずに代替わりしてしまった。
しかし、今は状況が違う。友恵は卒業し、隆翔はフルート奏者に復帰した。高坂の想定では、この時点でマネージャーという役職は無くなる筈だった。しかし、黄前政権発足時の不安定な期間とアンサンブルコンテストが重なったことにより、現幹部三人も隆翔をマネージャーとして慰留させたのだった。
「そもそも、マネージャーという曖昧な言葉がいけなかった。もっと仕事を限定させないと、演奏はよくならないでしょ」
「その考えは分かった。ただ、隆翔が首を縦に振るかといえば微妙だな」
「どういうこと?」
「隆翔は今、自分の信頼を取り戻そうとしている。今頃鳥羽さんに頭を下げてる頃だろうよ。この後の部活に来ると言っていたし、高坂の提言の実態を知らない。大体、お前はいつも情報が一方的なんだよ」
「樟葉に漏らしたのはアンタでしょ。アタシの所為にしないで」
「まあまあ、二人とも」
「……とりあえず、あいつが登校したら俺が今の話を伝えるから、二人は改善案を考えてくれ、早急に」
結局、高坂の提言を半ば受け入れる形でミーティングは終了した。黄前は新たに噴出した問題に頭が痛くなったが、今日の会議が小田原評定にならずに済んだことに一先ず安堵した。
◇◆◇
フルートパートは沙里の判断を待っていた。隆翔と対峙した小田と中野には、どんよりとした現状をどうにか出来る程のカリスマ性は持ち合わせていない。結果的に隆翔は戻ってくるであろうと予測し、この状況を飲み込むことが出来るか、自分との対話を迫られている。沙里が隆翔の復帰に尽力していることは知っていた。その結果、その事実と、排除に動いてしまった自分たちの浅はかさに自己嫌悪を繰り返した。
この日は春の陽気に包まれていた。しかし二人を取り巻く空気は重く、湿り気を帯びたように沈んでいる。
「沙里から連絡はあった?」
「……うん。今日、樟葉が復帰するって」
「そっか……」
口数は少なかった。なんにせよ、一度彼を退かせてしまった原因は自分たちでもある。その責任を感じないほど薄情ではないし、一度アンサンブルで組んだ以上、のっぴきならぬ縁も感じていた。隆翔の復帰の報に内心では安堵していた。これで休部の後退部、などということになれば寝覚めが悪い。それに、空いた席の痕跡は簡単には消えない。後ろめたさを抱えながら過ごすには、一年は長すぎる。
高身長の小田は、頭一つ分低い中野を見下ろして問うた。
「蕾実は樟葉のこと、許せる?」
「……分からない。けど、涼葉ちゃんが許したのなら、私が怒ってる意味もないよね」
「ま、確かに」
正直、ここまでの誠意が彼にあったことは想定外だった。確かに筋を通した上で復帰しないのならば、隆翔の立場は更に厳しいものになっただろう。しかし、彼は最短ルートで、最良の結果で信頼回復に努めていた。
部活が始まる前、きっと沙里から隆翔の件に関してパート全員へ報告がある。少なくとも上級生である二人は動揺しないよう心に留め置く必要があった。そして復帰する彼を迎え入れてやろうと、心を同じくした。
◇◆◇
[3月28日 午後]
時計の針が一時を回った頃、隆翔は一人音楽室の前で立っている。中では秀一が現状を改めるべく部員を説得している最中だ。しんとした空間で、彼の声だけが聞こえてくる。隆翔は改めて良い友を持ったと心の底から思っていた。北中吹奏楽部を退部してからも、彼との縁だけは切れなかった。女子社会の中で、部を訣別した人間と仲良くしていることは悪い印象を与え兼ねない。それでも躓いた隆翔を見捨てなかったのは、他ならぬ彼の優しさに改めて敬意を表した。
音楽室の扉が開かれた。
「隆翔、こっちへ」
「ああ、ありがとう」
この感謝は今日まで継続してくれた友情と、それを手放さなかった過去の自分への手向けだった。あとは吹奏楽部を支配する空気と隆翔自身の闘いだった。希美が一度敗れた、強大で形のない空気。まるで地獄だ。だからなんだ。今、挑むべき地獄に一切の不足はない。希美の仇を討つのは自分だ。その一撃を加えるべく、隆翔は歩みを進めた。
【つづく】
この連載も投稿開始してから一年が経過しました。ここまで書けたのはひとえに読者のみなさまあってのことです。厚く御礼申し上げます。
また、感想、誤字報告、評価等々誠に恐れ入ります。どうぞこれからも拙作をお読みいただけると幸いです。