或る、フルート吹きの青春   作:ハヤブサ320

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EP.26 臆病者の一撃

[3月28日]

 

 鳥羽涼葉への謝罪は、彼女の寛大な心に救われる形で幕引きが為された。器の大きな鳥羽によって許された(・・・・)と形容する方が正しい。隆翔は現実に目を向けるしかない。納得するまでは時間が掛かるだろう。しかし、ともかく形式上は謝罪を受け入れてもらった訳である。

 退店した二人にはそれぞれすべきことがあった。沙里はフルートパートの説得をしに。隆翔はあの日貸してもらったフルートを返却するために、希美と待ち合わせていた。

 

 

「フルート、貸してくれてありがとう」

 

 宇治川の畔、二人の思い出のベンチに座る隆翔と希美。希美の膝の上には愛用のフルートが置いてある。

 

「もう大丈夫なの?」

 

 尋ねる希美の口調は、決して明るいものではなかった。一度でも部活への背信の思いを抱いた彼女だからこそ、現状を正確に察することができる。その言葉の意味も、隆翔は気が付いていた。

 

「大丈夫、と言っても確実性はないけどね」

「そっか……私の時と一緒だね」

 

隆翔はその言葉の意味が分からず首を傾げた。昔の出来事だよ、と前置きして、二年前に希美が再入部した時の出来事をぽつりぽつりと話し始めた。

 

「部活に戻るって決心したきっかけが一昨年の府大会を観たからっていうのは、前に話したよね。悔しくて、一年生の頃に受けた仕打ちがどうしようもなく憎たらしくて、でも、家に帰ってフルートを触ったら、もう気持ちは部活に戻るって決めてた。辞めたときにさ、止めてくれた先輩がいたんだよね。どうせ来年になればコンクール出られんじゃんって。あの時引き留めてくれたことに変な義理を感じちゃって、戻るにもその先輩の許可がないとってめっちゃ意地になってた。低音のパーリーだったし、久美子ちゃんや夏紀にも散々迷惑かけて。でも、すぐには首を縦に振ってくれなかった」

「どうしてですか?」

「私が戻るメリットがないって言われちゃってさ。理由も沢山探したんだけど、結局正しい答えには辿り着かなかった。でも今思えば、先輩の考えも一理あるなって頷ける。あの時、私がどうにかしなきゃいけなかったのは、みぞれとの関係だったの」

 

 隆翔の中で、カチャリとはまる音がした。『リズと青い鳥』をめぐって繰り広げられた、歪に絡み合った二人の関係。今でこそ卒業を迎えたことで落ち着いたが、コンクール前の二人が見せた深い、深い人間の業は、今でも隆翔の心に強く残っている。

 

「結局、その時みぞれと話したのはほとんど一年ぶりで、労うつもりで話し掛けたと思えば逃げられちゃうし、優子にはキレられるし、もう訳分かんなかった。部活戻るのに、こんな難しいことってないよね」

 

 希美は乾いた笑い声をあげた。今だからこそ話せる、彼女の痛み。当事者ですらない隆翔に話せるほどに、希美の中で決着が付いているのだろうか。いや、今でも喉に引っかかった小骨のように消化しきれない思い出として残っているのかもしれない。

 

「みぞれのこと何にも分かってなかった。私にとってみぞれは、ひょこひょこと付いてくる可愛い友達で、一緒に演奏できる仲間で、私が南中で誘ったのもあるけど、みぞれが上手くなっていく過程が凄く嬉しかった。でもみぞれは私に、想像以上に大きな感情を向けてたんだって、あの時やっと気付いた。これはね、私の罪なの」

「……そうかな?」

 

 隆翔は希美が罪と言及したその事に疑問を抱いた。罪、というにはあまりにも希美に救いがない。辞めた人の気持ちは、辞めなかった人には分からないからだ。

 みぞれと希美という友人関係は、互いに向けられる依存度の大小で定義されるであろう。言わずもがな、みぞれは希美が抱えるには大きすぎる感情を向けている。

 

「私、みぞれが友達少ないってことも知ってたし、あの子が知り合った人たちも、殆どが私の知ってる人たちだった。隆翔に幻滅されちゃうかもしれないけど、今しか言えないと思うから言うね」

 

 一拍置いて、希美は呼吸を整えながら良く通る声でその言葉を口にした。

 

「私、みぞれっていう存在に優越感を抱いてたの。特に、あの子が私に縋ることに」

「知ってるよ」

「え、知ってたの!?」

 

 意を決して告白したつもりだったが、隆翔は既に承知していることだった。本人は隠せているつもりだったらしい。

 

「でもさ、そんなこと全然罪の意識に囚われること無いんじゃない? 友達よりも上手かったら優越感を感じるし、逆に下手だったら悔しさを噛み締める。ひいては自分の練習姿勢も呪ったりするかもね。自分の友達が上手い人に認められていたら嫉妬もする。そんなこと言ったら、全部飲み込んで高坂の実力を認めた優子先輩なんて、あの時は劣等感の塊だったと思うけど」

 

 自分よりも圧倒的に上手い後輩。優子の我の強さを鑑みても、よく飲み込んだもんだと感心する。南中で希美やみぞれと共に辛酸を舐め、コンクールでは高坂の影に隠れ、全部飲み込んで部長の責務を全うした。隆翔が優子を尊敬するのは、そんな現実を直視してもなお相応しくあろうとした姿勢だった。

 

「……今の、絶対優子には言えないね」

「ほんとに。口滑らせないでよ」

「しないしない」

「本当かなあ……」

 

 顔の前で手を振って応えた希美だったが、前科があるだけに心配の種である。

 不意に、座面に置かれた右手が希美の左手に触れる。ピクッと彼女の手が反応したが、躊躇うことなく手が繋がれた。指の隙間から感じる希美の体温がじんわりと浸透した。まるで、勇気を分け与えてもらっているようだ。

 

「俺、希美と恋人でいるのが誇りだよ。それこそ、どんなことよりも優越感がある」

「それ、人に言わない方がいいよ」

「当たり前だろ」

「ふふ、実は私も一緒」

「……じゃあ、ちょっとは相応しくならいとね。もう行くよ」

 

 繋がれていた手が解けていく。右手にはまだ仄かに希美の体温が残っていた。刹那、ぐっと身体が希美に引き寄せられた。包み込まれるような感覚。首に回された腕は、いつも以上に強い力だった。

 

「……大丈夫、見守ってるから。大好きだよ」

 

 胸元に顔面を押しつけながら愛を囁く。こうした健気さは、恋人期間が半年を迎えても健在だった。愛と勇気をもらったのなら、ちゃんと応えなければならない。隆翔は希美の顔を包み込むように抱き締めた。

 

「ありがと。俺も希美が大好きだよ」

 

 希美の耳許で囁く言葉は、退路を断った決意表明だ。

 

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 

[3月28日 午後 部活前]

 

 

「高坂の説得、どうなった?」

 

 学校に到着した隆翔は事前に打ち合わせた教室で秀一、沙里と合流した。沙里はフルートパートの説得に奔走、首尾良く事を運んだという。対して秀一は、沈痛な面持ちで隆翔に向き合った。

 

「……場合によっては、失敗かもしれない」

「塚本くん、それってどういうこと?」

「高坂曰く、これまで立場が曖昧だったマネージャーをなくして、これまで通りの担当係制に戻したいらしい。マネージャーは、恐らく撤廃される方向になると思う」

 

 幹部ミーティングの結果、秀一の奮戦虚しく高坂の提言はそのまま可決された。元より望み薄ではあった。頭の良い彼女は、きっとそれなりの理由があるに違いない。隆翔憎しの一時の感情で部の行く末を左右する決断は下さないと見ていた。

 

「そっか。それで、俺は遂に平部員降格か」

「どうだろう。今まで加部先輩と二人で吹部を補佐してくれていたし、庶務的な雑用は担当係に引き継ぐとして、幹部の補佐役として居て欲しかったりする」

「それは副部長として、それとも友人として?」

「両方だ。ただ、高坂はマネージャーの仕事に負われる隆翔の練習姿勢も案じてた。多分、妬みとかで剥奪したい訳じゃないと思う」

「俺の? 今までそんなに大変と思ったことはないけどな」

「それは隆翔くんがおかしいだけだよ。放課後いの一番に楽器の管理して、初心者の子たちの面倒を見て、演奏会の手配や編成なんかも考えてるんでしょ? で、部活が終われば九時までフルート教室。いつ勉強してるの?」

「高橋、こいつは授業中と休みの日にまとめてやるタイプだ」

 

 沙里は何か信じられないモノを見るかのような目線になった。そんなに音楽バカに見えるだろうか。授業中と終わり際に要点だけまとめているだけだと、抗議したくなった。

 

「上手くなるのに、余計なこととか考えないようにしてる」

「ロボットみたい」

「失敬な」

「趣味とかないの?」

「うーん……カメラいじりも好きだし。あとは映画観るのも趣味と言えば趣味かな。この前『ローグ・ワン』観た。あの『スター・ウォーズ』のスピンオフ作品」

「私『スター・ウォーズ』観たことないや……」

「SFは大好物なんだよね。あと、クラシックと邦ロックはよく聴いたりしてる。クラシックは映画音楽にも通ずるし、ロックはたまらんよ。沙里は好きな歌手とかいる?」

「最近はRADWINPSとか、米津玄師かな。『前前前世』から聴くようになったから最近なんだけど、でも今度アルバム出るから超楽しみ」

「今時だな。と言っても、俺もCD持ってる」

「塚本くんの好きなジャンルってジャズなんだっけ。だからトロンボーン?」

「こいつは中学の頃、じゃん負けしてホルンだったんだ」

「え~意外」

「本当はトロンボーンが良かったんだよな。黄前のお姉さんの影響だろ」

「そうなんだ。てか、やっぱ黄前さんなんだね」

「ばっ……揶揄うなよ! つか何で知ってるんだ」

「梓だ」

「はぁ、まったくお前らは……というか、話逸れてるぞ」

「はいはい。ともかく、俺は現状で満足してる。変えてもらう必要も感じてない」

「でもさ、隆翔に負担が掛かってるのは事実だろ。高坂の理由を聞いて、俺も思うところがあったし」

 

 秀一は弁えることができる男だ。大勢を見れば隆翔の復帰を幹部サイドとして支援しているが、高坂の提案も一理あると見出すと頭ごなしに否定しない。副部長として、隆翔以上のマネジメントを発揮していた。高坂がこの提案を出した背景も折り込んで、もう一度思案した。現状を変えたいと思うのは高坂だけでなく、恐らく幹部の総意だろう。沙里もこのままで良いとは言っていなかった。何かを変えるのに、隆翔の立場を差し出すだけなら安いのかもしれない。

 すべてをひっくるめて、幹部と話し合う機会があるのだとしたら、きっと今しかない。

 

「……分かった。これから高坂と話せるか?」

 

 これまで選択肢にあった逃げる姿勢が一向に見えない隆翔に二人はぎょっとした。高坂麗奈を相手して揺るがない信念を貫けるのは、この学年では隆翔だけだ。黄前はまだその辺りが不安視される。黄前は高坂の提案や意見を真っ向から否定出来ない。部を司る役柄として、そこは改善すべき点だろう。秀一が幹部補佐と銘打って隆翔の慰留を奨めたのは、その面もあるかもしれない。

 ともかく、隆翔の行く末を左右するドラムメジャーとの会談が始まろうとしていた。

 

 五日ぶりに顔を合わせた天敵は、仏頂面を隠そうともせずに楽器室の椅子に腰掛けている。三人が到着してから無言の時間が五分ほど経過していた。互いに、どちらが先に話し始めるかで意地を張っていた。高坂の横に立つ黄前が、おろおろと所在なさげに交互に視線を送っている。

 やがて、しびれを切らした高坂が口を割った。

 

「塚本、なんのつもり?」

「話があるのは隆翔だ。俺じゃない」

「そう、話がないなら音楽室に行くけど」

 

 ギィと経年劣化によって生まれた悲鳴を上げ、高坂は立ち上がった。腹を括った隆翔は、高坂の行く道を塞いで行動に出た。

 

「……樟葉」

「高坂、今まで悪かった。今回の一件、俺にすべての原因がある。部内を引っかき回して、しかも沈静化に走ろうとさえしなかった。それに、お前の恋路を蔑むつもりは一切ない」

 

 隆翔は頭をほぼ直角に傾倒した。その場の全員が驚愕していた。犬猿の仲の二人が、遂に和解の道筋を歩むのではないのかと。

 

「俺はお前が嫌いだし、お前も俺が嫌いだ。マネージャーから外したいのは腹いせだとも思っていた。でも、何かを変えなければという幹部の方針に異を唱えるほど、俺もこの部を思っていない訳じゃない。担当係制がどんなものかは知らない。でも部員に自立と連帯性を促すのは悪いことじゃない。それでこの部が成長できるなら、プライドを捨てて、マネージャーを降りるつもりだ」

 

 恥も外聞もない。なんなら、守るプライドすら持ち合わせていない男の背中は、それほど情けなく映るのだろうか。沈黙が楽器室を支配した。

 この状況に、黄前が口を挟んだ。

 

「あのね、樟葉。これは幹部で話し合った結果として受け止めて欲しいんだけど、私たちは別に樟葉からマネージャーという役職を取り上げたい訳でも、ましてや恨みとか、そういうことで誰かを追いやったりは絶対にしないよ。去年、加部ちゃん先輩と樟葉がマネージャーになってくれてかなり助かった部分もある。でも、樟葉が奏者に戻ったら、マネージャーの仕事量と練習を同時にやる必要が出てきた。代替わりしてすぐにでも新体制を考えなきゃいけなかったけど、アンコンの練習が始まって結局樟葉を頼らざるを得なくなった。私も麗奈も秀一も、樟葉が休部したことに否定的な意見は持ってない。むしろ追い詰めたと思ってる。だからごめん」

 

 今度は黄前が部長として頭を下げた。こうなってしまっては、隆翔も幹部の提案を呑まざるを得ない。高坂と黄前。二人の力関係を推し量る上では、隆翔の見込み違いがあったように見えた。これは幾分か修正する必要がありそうだった。

 

「黄前、分かったから頭を上げてくれ」

「……結論は出たようね」

「ああ、俺はマネージャーを降りる。それと引責という形で幹部からも身を引く。あとの処遇はお前らに任せるよ」

 

 隆翔は幹部三人を見回した。吹奏楽部の運営から手を引く。見方によれば全面降伏だ。奔走してくれた秀一と沙里には申し訳が立たない結果となった。しかし、一人だけこの裁定に待ったをかけた。

 

「ちょ、ちょっと待って!」

「何、高橋さん」

「何って。高坂さん、隆翔くんをマネージャーから外したら、これから彼はどうやって信頼を回復したらいいの?」

「どうやってって言われても……」

「確かに部内は乱れたし、うちも大変だったよ。でも、役職まで取り上げる必要って無いと思わない?」

 

 沙里は憤っている。隆翔の説得を聞いてから、彼の部活に対する想いが本物だということを見抜いていた。だからこそ、これまでの信用の積み重ねが何の対価にもなっていないことに納得がいっていなかった。

 隆翔は沙里の憤慨を沈めようとした。

 

「沙里、良いんだ」

「諦めちゃダメだよ……」

「高橋さん、これは幹部の決定事項よ」

「……そうやって、彼が中学で追い詰められた時も手を差し伸べなかったんでしょ!」

 

 沙里の口から思わぬ言葉が飛び出し、空気が凍り付いた。高坂は沙里から目を逸らし、黄前はあからさまに動揺した。少なくとも、この二人は隆翔が退部する間際には傍観に回った。故に彼をスケープゴートとして無意識に処理していた。吹部を追放された「気の毒な奴」として。

 

「図星なの?」

「……その通りよ」

「酷すぎるよ……ごめん、ちょっと耐えられない」

「高橋さん!」

 

 沙里は黄前の制止を振り切って楽器室から出ていった。沈痛、という言葉で表現するにはあまりにも苦しい時間だった。間もなく部活が始まる。騒動の収束を、そこで訴えなければならない。ただ、今後の行く末に大きな不安要素として爪痕が残された。

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 全体練習前のミーティングで、隆翔はこれまでの顛末を部員全員に謝罪した。そして事前に秀一が復帰の報告をした上で、新体制の発表がされた。マネージャーに負担が掛かっている現状を打開する。そして、全国へ行くための布石として部の総員が再度運営に関わっていく案で妥結された。

 隆翔の謝罪は概ね受け入れられた。指揮台からは一人ひとりの表情が見て取れた。引責からマネージャーを降りたと聞いて目を見開く者もいたが、殆どの部員は納得しているようだった。ただ一人、隆翔の正面に座る彼女を置いては。

 

 長かった一日の練習が解散になり、各自で居残り練習の時間となった。結局パート練習になっても、彼女には整理を付けるための時間はなく、事務的な会話で済まされてしまった。職員室の前に立った隆翔は、沙里への申し訳なさで包まれたどんよりとした空気を肺から吐き出した。これから、復帰の報告と役職の辞任を含めた顧問との面談が待っていた。

 

「失礼します!」

 

 春休み中というのもあって、職員室で作業する先生は少ない。その一角で、滝はイヤホンを付けながらノートパソコンと向き合っていた。

 

「来たか、こっちへ来い」

 

 滝より先に隆翔の姿を認めた副顧問の松本が、衝立の奥にある面談用のスペースへ呼び立てた。

 

「滝先生」

「は、はい!」

「樟葉が来てますよ」

「あ、ああ。全然気付かずにすみません」

「い、いえ」

 

 来ましたよ、ではなく来てますよと敢えて伝えたのだろうか。明らかに威圧感のある対応だった。先生同士の上下関係が垣間見えて、冷や汗が一筋垂れた。

 隆翔は、滝と松本と向かい合うようにソファに腰掛けた。

 

「練習お疲れ様でした」

「はい、先生もお疲れ様です」

「それと、しばらく休んでいたようですが、体調の方は大丈夫ですか?」

「はい。体調は万全です。自業自得ですが、自分の弱さと向き合えたと思っています」

「状況は黄前さんから伺っています。それでですが、やはり貴方の負担となってしまったのは、顧問として至らなかったと自覚しています」

「いえ、部活は充実していますし、今回の一件も完全に自分のせいなんで……」

「大丈夫ですよ。貴方が戻ってきた以上、これまで通り練習を続けるつもりです。マネージャーは……残念ながら廃止せざるを得ないでしょうが」

「……ですよね」

 

 滝は手元にある書類に目を通した。そこに書かれている内容は、隆翔が入部する以前に組織されていた担当係の編成表だ。高坂の発案で先代の組織図を引用し、今の部員を割り振った形だ。当然、新入部員が入れば再度組み直される。

 

「先程いただいた編成表です。暫定のものと聞いていますが、ここにはあなたの名前がありません」

「……しばらくは、新体制に任せようと思いまして。復帰したところで、僕を快く迎えてくれるとは思えません。なので、一時的に休暇をいただいた、みたいな感じです。いずれは幹部を補佐する立場としてしゅうい……副部長が取り計らってくれるそうです」

「……分かりました。でしたら私から特に言うことはありません。編成もこれで大丈夫でしょう」

「ありがとうございます」

 

 隆翔の謝意に滝は柔和な表情を浮かべた。対して、松本は厳格な顔つきで隆翔に話し掛けた。

 

「松本先生はいかがですか」

 

 隣に座る松本へ編成表を手渡すと、彼女は一瞬目を通してから、再び隆翔へ目を留めた。

 

「樟葉、本当にこれで良いんだな。後悔はしていないか?」

「……はい」

「本来なら、顧問が間に入って対処すべき事案のはず。部活の、どんな役職であれまだ高校生だ。お前が強い責任感で動いていることは認めるが、それでも堪えきれないこともあるだろう。そういう生徒を見てきたからな……」

 

 松本の瞳に映るは、きっと三年前の苦い記憶なのだろう。希美たち南中出身の一年生による大量退部。部活を預かる身として、何も思わない筈がない。それに、隆翔が希美と交際している噂も顧問の耳には入っているはずだ。当事者だった松本が、その因果を意識しないはずがない。

 

「松本先生、大丈夫だと思いますよ。私が最初に生徒達に伝えた自主性の尊重。見方によれば自由主義的な謳い文句に見えますが、もう前を向いています。変革によって生まれる痛みと向き合うことの必要性、それを理解しているから樟葉くんはここにいます。そうですよね、樟葉くん?」

 

「はい」

「そうか……。ならば私から言うことはない。だが、今後は何かあれば大人を頼れ。今回は丸く収まったが、そうならない時もある。生徒だけに背負わせるのは、本来望ましいことではないからな」

「ありがとうございます。信頼に応えられるよう、頑張ります」

 

 全てに納得していないかもしれない。滝の謳う自主性という言葉に嘘偽りはないはず。この状況下での二人の表情を推し量るには、まだ隆翔は青すぎた。

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

「やっぱりここにいた」

 

 自主練習のあと、この日はフルート教室が待っている。普段から用事がなければ二人で中書島のフルート教室まで一緒に向かっている。そういう時は、決まって駐輪場で待ち合わせていた。

 

「……何?」

 

 隆翔を認めると、子供のように不貞腐れ始めた。

 

「しょうがないな。何か飲む?」

「……いらない」

「はいはい」

 

 とは言いつつも、微糖の缶コーヒーを抜き取った後に自動販売機の下段に並ぶ紙パックのいちごオレのボタンを押した。これまでの恩と比べれば、ジュース程度では到底足りない。ただ今できる最大限の労いが、これくらいしか思いつかなかった。

 

「ほらよ」

「いらないって言ったじゃん」

「喉渇いただろ。ちょっとあそこで話そうぜ」

 

 学校へ繋がる階段を降りて、横断歩道を渡った先にある公園。隆翔と沙里は白いライトに照らされたベンチに並んで座った。

 

「……結局、高坂さんの思惑通りになっちゃったね」

「だな。沙里には申し訳ないと思ってる」

「そう思ってるなら、なんで自分からマネージャーを辞めるなんて言ったの。本当にそれがベストだと思った?」

 

 まくし立てるような責めの文句が隆翔を襲った。分かってはいたが、それだけ沙里は隆翔の復帰に本気で協力してくれていた。気圧されながらも、彼女の言及には温かみがあった。

 隆翔は返答に悩んだ。これがあの場におけるベターな選択だった。もし固持すれば、高坂への謝罪はまかり通らず、隆翔の復帰は大いに後退したであろう。秀一は高坂と黄前が提示した案を捨てきれなかった。それ自体は副部長として選択を誤ってはいないし、彼が裏切った事実でもない。だが結局、沙里の想いとは裏腹に幹部の意見を飲まざるを得ない状況となった。

 

「マネージャーを取られる謂れはなかったよ。負担に思っていないと言えば嘘になるけど、せっかく任された仕事で、ちょうど馴染んできた頃合いだった。でも、いらないと言われちゃったら従う他ないでしょ」

「……そんなこと、ないと思う。正直、黄前さんと高坂さんには不信感しか感じてない。こんな責任を押しつけるようなことして、隆翔くんだけが惨めだよ」

 

 沙里は悔しさを隠そうともせず、声はどんどんと尻すぼみになった。こんなにも寄り添ってくれる友達がいる。こんなにも味方になってくれる人がいる。彼女の伝える言葉は常に実直だった。現に、その性格に何度も救われた。伝えたい言葉に慎重さを求める隆翔には無い才能だ。そして、その実直さは希美に通ずるものがあった。

 

「本当、隆翔くんは臆病だよ。他人を守りたい気持ちは理解できるけど、そこに自分がいないんだもの」

「ははっ、その通り。とんだチキン野郎だよ」

「でも、人前で頭を下げられるのも、自分で責任を取ったのも、きっとうちの部では隆翔くんしか出来ないだろうな。やり方は乱暴だけど、そうやって足掻いてる姿は……良いと思う」

「なんか歯切れが悪いな」

「う、うるさい!」

「あ、それと一個聞きたかったんだけど、北中での俺の話は希美に訊いたんだろ」

 

 うっ、と沙里が声を詰まらせた。どうやら図星らしい。

 

「……うん。希美先輩に伝えた時に」

「そうか……情けない話だ」

「そんなことない! 最初はあんなこと信じられなかった。でも、どうして部活を休むほど追い詰めちゃったのかって考えたら思い当たる節もあって。それに、先輩を相手取って同級生を守ろうとしたのは、隆翔くんらしいなって思ったよ」

 

 希美はどうやら、事の顛末をすべて話したようだ。彼女らしい行動だ。ただ復帰を目的としても今回の二の舞を招き入れるだけだ。だからこそ、キーパーソンたる沙里に隆翔の過去というジャブを打ったのだ。私の恋人をこれ以上傷つけることは許さない、と。

 苦みの中に仄かな甘みが口に広がる。沙里は希美の説得に骨を折ったことだろう。

 

「希美先輩は、多分怒ってたと思う。あの人と隆翔くんはあまりにも境遇が似ていて、そこに波長が合ったのかなとも思うし、隆翔くんをどこまでも信頼してるんだよ。だから……二人は凄く、お似合いだよ」

 

 唇を噛みながら、沙里は最後の言葉を絞り出した。そして隆翔は今頃彼女の気持ちに気が付いたのだ。掛ける言葉がない。特に謝罪の言葉を掛けるのは愚の骨頂である。諦めようとしている人の背中を斬りつけることは、人でなしのすることだ。口をついて出た言葉は、隆翔の残酷な優しさだった。

 

「信頼してるよ。沙里のことは」

「……ありがと」

 

 

 

 

 言葉に頼りすぎても難題は解決しない。隆翔の恋人が希美であった事実をどう解釈したかは、沙里にしか分からない。それを表に出すか否かは彼女の判断に委ねられた。沙里は大筋を飲み込んで、今回隆翔の復帰に協力した。沙里の立場によっては、隆翔は吹奏楽部を退かなければならなかったかもしれない。だから、隆翔が沙里に送る最大限の労いは、掛け値の無い信頼なのだ。

 隆翔と沙里、部内ではトップクラスのフルーティストだ。希美たち三年生の意志を継いだ二人は、いよいよ高校生最後の一年を迎える。目指す目標は全国大会金賞。昨年度とは異なる体制となった北宇治高校吹奏楽部は、マネージャー撤廃という余波を残しながら新入生を迎える。新しい季節の先には、稲妻を轟かす春雷の如き波乱を予感させた。

 

 

 

【つづく】




これにて高校二年生編は終幕です。

次回からは高校三年生編に突入します。
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