高校三年生編(アニメ3期)、始動します。
「もうすぐ到着するからね」
白いワンボックスカーの車窓に新芽を出した茶畑が流れ去る。どこを見ても私の知らない風景。真新しいはずの景色も、いつしかそういうものだろうと達観するようになってから好奇心は雲散霧消してしまった。
「真由、茶畑が綺麗ね」
助手席に座るお母さんが景色を見ながら感傷に浸っている。
「本当だね」
いかにも感動してますよ、と言葉の端を上げてお母さんの言葉に同調する。お母さんは何かと新しいものが好きだ。お父さんの転勤にも進んで協力する。新しい土地に行っても物怖じしないのが長所なのだそうだ。
「新しいお家、どんなところかしら」
「ただのマンションだよ。社宅だから着いたら挨拶回りをしないと。真由はどうする? 部屋で荷解きしててもいいよ」
「ううん。私も付いていくよ」
「そうか」
引っ越しには慣れていた。いや、慣れてしまったと言うべきか。転勤族の父に付いて色々な所に住んだが、窓に映る景色はあまり変わらないというのが正直な感想だ。それでも、車窓から咲き誇る桜は日本のどこにいても変わらなかった。
京都府宇治市。お茶が名産で、十円玉に描かれている平等院があることしか知らない街に、二年間暮らした福岡から転校した。高校最後の一年間をまったく知らない街で過ごすことに不安は拭えない。でも、この誰も私を知らない街で高校生活を終えられるなら本望だ。それに、私には故郷がない。二年間暮らした福岡も、好きではあるけど愛着が生まれたとは自信を持って答えられない。だから、最後くらいは笑って終わりたいと、薄雲で霞んだ青空の下で私は願った。
◇◆◇
三月末に起きた隆翔の休部騒動は決着した。失ったものは山ほどある。これまで積み上げた信頼は瓦解し、優子と夏紀の期待に応えることが出来なかったことへの後ろめたさは隆翔の心を蝕んだ。しかし、騒動の発端となったフルートパートは結束の兆しを見せている。復帰に際して、秀一と共に隆翔を支えたパートリーダーの高橋沙里には返しきれない恩がある。当の本人はリーダーとして当然のことをしたまでと謙虚な姿勢を貫いており、依然として隆翔は彼女には頭が上がらない立場だ。
四月、隆翔たちは三年生に進級した。もう学校には恋人である希美の姿はない。寂しさと共に、最高学年となった事実を噛みしめて通学路の途中にある階段を上る。春の暖かな風に背中を押され、隆翔の高校生活最後の一年の幕が開けた。
恋人の希美は四月に入ってすぐに大学の入学式を迎えていた。桜の舞う校舎の前でピースサインをする希美と、同じ大学へ進学した夏紀と優子も写っていた。リクルートスーツ姿の希美はいつもより大人びた印象があり新鮮であった。
昨晩、希美から送られてきたメッセージには、北宇治とは比較にもならないほど広大な音楽室で先輩達と写る希美の写真が添付されていた。入学してから一週間しか経過していないのに、もうオーケストラサークルへ顔を出したようだ。その行動力には頭が下がるものがある。
「隆翔、おはよう」
昇降口で秀一と合流する。早朝の校舎は朝練のある吹奏楽部の生徒がほとんどで、顔を合わせれば全員知り合いだ。
「おはよ。遅刻しなかったな」
「流石に初日はな。遅れたら高坂に何言われるか」
確かに、と笑い合う。先日の騒動では秀一の説得が無ければもっと拗れていただろう。本人は訳ないという顔をしているが、隆翔は彼への感謝の念が尽きなかった。
「それ、ちゃんと書いたんだよな?」
「いや、まだだ。これから書くつもり」
秀一の手にはオレンジ色の大学ノートが一冊。そこには油性マジックで『幹部ノート』と書かれていた。
【北宇治幹部ノート】
四月 第一水曜日 担当者 黄前久美子
── 今年から幹部は三人だから、意思疎通を図るために交換ノートでも書いとけって優子先輩に言われたけど、今更感があってなんか少し照れちゃうね。ドラムメジャーは去年までなあなあの扱いだったから、今年は部長、副部長が人間関係のフォローをして、ドラムメジャーが音楽の指導に専念できるような環境を用意したいなぁと思っています。色々あって四月からいきなり新体制になったけど、一年間、頑張っていきましょう!──
「律儀だな、あいつ」
「まあ、部長だしな」
黄前から預かった業務連絡には先日の幹部会議で決定した内容が反復されていた。といっても、当然ながら隆翔は参加していない。新年度の幹部は、部長の黄前、副部長の秀一、ドラムメジャーの高坂で構成される。
秀一は壁にノートを押し付けると、黄前の一文に添えるようにペンを走らせた。
──目指せ、部員百人!(塚本)──
「今頃書いてるの?」
心臓が飛び出るほど驚きつつ後ろを振り向くと、冷ややかな視線を二人へと送るドラムメジャー、高坂麗奈の姿があった。
「いたのか高坂、びっくりした……」
「五分遅刻。それに、部員は多けりゃいいってもんじゃないでしょ」
「いいだろ別に!」
「ミーティング始まるわよ」
高坂はフンッとこちらを一瞥し、音楽室へと入っていった。三年生になってもその態度に変化はない。
早朝の教室に新三年生が集結した。部活の運営は昨年の秋から黄前を筆頭に行ってきた。しかし、三年生という肩書きには否応無しに責任感が求められる。希美もこんな面持ちだったのかなと思いながら、隆翔は後方の席に着いた。どことなく漂う緊張感の正体を探りながら、黄前の号令によって最後の一年が幕を開けた。
「それでは三年生会議を始めたいと思います」
ピアノの前に進み出た部長の黄前は、手元の資料に目を通しながら会議を進行していく。部長に就任してはや半年。やはり、こうした場はまだ慣れないようだ。
「まず今後の予定です。プリントを配布するので確認してください」
黄前の指示で副部長の秀一がプリントを列ごとに配っていく。プリントを受け取った隆翔は、今後のスケジュールがびっしりと書かれた欄に目を移した。
「今日は今後についての確認をざっくりとやります。えー、今日から新学期ということで、吹奏楽部も色々と忙しくなります。四月は校外での演奏会が二件と、前々から予定されてました新入生歓迎コンサートが予定されてます。各自準備をしっかりと行ってください」
「はい」
「あと、明日からの一週間、早速一年生の仮入部期間が始まります。無理な勧誘はダメだけど、興味がありそうな子には積極的に声をかけてあげてください。正式な楽器は入部日に決めますが、実力のある子やマイ楽器を持っている子は優先的にそのパートに配属します。各パートの希望人数も把握しておきたいので、楽器の数を確認して私まで伝えてください」
「次にドラムメジャーからの連絡です」
そう言って、高坂は黄前の隣に立ち並んだ。先々への不安を醸し出す黄前と対照的に威風堂々とした佇まいが印象的だ。今年も変わらず、隆翔の天敵としてそこに君臨するであろう。当の隆翔は返り討ちにする気満々であった。
「今年から基礎合奏の練習メニューを一新したので、そちらの楽譜も明日の放課後練習時に配ります。パートリーダーの人は取りに来るよう、お願いします。初心者用の練習メニューも用意していますので、もしも体験入部の期間から熱心に練習したがる初心者の子がいたら渡してもらって大丈夫です」
はい、と先ほどよりも強めの返事が音楽室に響いた。「他、何かあったっけ」と首を傾げた黄前に秀一が耳打ちする。彼の言葉を聞いた黄前は思い出したかのように言葉を切り出した。
「あっ、それと、今日の放課後、臨時ミーティングをやりますので最初は音楽室に集合してください。二年生には後ほど私から伝える予定です。では、朝のミーティングを終わります。ありがとうございました」
『ありがとうございました』
会議を終えた一部の三年生は、クラス分けが掲示されている昇降口へ向かった。隆翔も例外なく、胸の高鳴りを隠し切れていない他の男子達と共に足を運んだ。
北宇治高校では、高坂などが在籍する特進クラス以外の六つのクラスは毎年クラス替えが行われる。特進クラス所属の友人はクラス替えという毎年恒例のイベントを羨んでいたが、隆翔としては一年おきにリセットされる関係を面倒に思っていた。
昇降口前の掲示板で、隆翔は自分の名前を探す。か行は前半に名前が集中しているからすぐ目についた。三年三組、出席番号十三番。それが隆翔が一年間過ごしていくクラスだ。
「おーい、樟葉!」
「久しぶりね」
掲示板を眺めている隆翔に話し掛けたのは、艶がかったロングヘアと大きな瞳が特徴の北浜由佳里と、隆翔よりも背丈の低い滝井倫也だった。二人は一年生のクラスが同じであり、特に北浜とは出席番号が近いこともあって何度か話す機会があった。滝井は数少ない元北中出身者であり、秀一と共に貴重な同級生でもあった。
「二人とも久しぶり。何組になった?」
「私たち、二人とも三組だよ」
「じゃあ、俺と一緒だな。またよろしく」
「よろしくな、樟葉!」
「よろしく」
滝井に背中をバシンと叩かれ、肺の空気が放出される。細身だがバドミントンの選手であり腕っ節は昔から強い。普段はおちゃらけて見える滝井だが、中学の頃に個人種目で一度だけ関西大会まで出場した実力者だ。その横で呆れるように溜息を漏らす北浜は、昨年の秋から生徒会副会長として活動している。成績優秀、容姿端麗、性格と物腰の柔らかい高坂のような印象がある。生徒会副会長という肩書き故に人望も厚く人気者だ。彼女の周囲には常に人が集まっていた。
「担任、誰だっけ?」
「松本先生」
「うげっ、軍曹先生じゃん! 俺あの人ニガテなんだよなあ……」
地球温暖化を促進させそうな程の笑顔を見せていた滝井に、一転して氷河期が訪れた。松本は普段でもあの厳しい態度を崩さない。つまり生徒一同にとって、彼女は軍曹の一面しか持ち合わせていないのだ。ただ感極まるとティッシュを箱で抱えて号泣するので、そのギャップを知らないのでは仕方がない。今年、もしかしたら卒業式で見られるかもしれない。
「言うほど悪くないというか、むしろ良い先生だと思うけど」
「確かに。担当じゃないのに生徒会を気にかけてくれるしラッキーよ」
「お前らは接点あるから慣れてるだけだろ。特に吹部は」
「あと意外と涙脆い」
「それは初耳よ」
隆翔の言葉に二人の口元が緩んだ。鬼の目にも涙ということわざがこれほど似合う人もいない。
「そういえば気になったんだけど、うちのクラスって吹部の人多くない?」
「え、そうなの」
「気付かなかった? 同じ部活なのに」
「北浜、諦めろ。こいつは呆れるほど他人に興味が無いぞ」
「人聞きの悪いことを言うな。半分事実だけど」
「えぇ、一年の頃もそんな感じだったっけ……」
「……正直に言えば、二年のクラスメイトは全員言える自信がない」
隆翔の告白に二人は「嘘だろ」と言わんばかりに引いている。他人に興味がないと言えば、半分嘘になる。興味がないのではない。人と深く関わることで被る痛みが怖いだけなのだ。
北浜の進言通り、三年三組には吹奏楽部員が隆翔を含めて九人も所属している。クラスの四分の一が同じ部の生徒なのだ。しかも、クラス名簿には三月の事件で関わった小田や、部長の黄前も存在していた。それにしたって多い。
「あと、樟葉の一個後ろの人って知ってる?」
「なんて名前?」
「えっと確か……くろえ、まゆって読むのかな。女子っぽい名前ね」
「いや、俺は知らねえぞ」
「同じく」
「じゃあ、転校生かな」
「マジ!?」
滝井がその話題に食いついた。ミーハーかよと内心で呆れながら、この受験シーズン真っ只中に転校してくる彼か彼女のことを憐れんだ。どういう事情か知らないが大変なことには変わりないだろう。
「ほんと男子って……」
「主語がでかい。滝井と一緒にするな」
「失礼だな樟葉。女子の転校生でときめかないなんて、お前は枯れてんのか?」
「枯れてないわ!」
「あー、いいよなお前は。昔から周りに女子が沢山いたもんな。あの佐々木梓と幼馴染みだって聞いた時は友達やめてやろうかと思った」
そんなに良いものでもない、という言葉は喉元まで出かかって飲み込んだ。誰だって隣の芝は青い。中学三年生の夏、当時同じクラスだった滝井は、夏休み明けの始業式でバドミントンの府大会優勝を果たした功を表彰されていた。当時、退部後でただの帰宅部だった隆翔は、壇上で誇らしげに微笑む彼に羨望の視線を向けていた。吹奏楽部では前年府大会銀賞という決して自慢できないような結果だった。しかし、その年は念願かなって金賞を獲得した。残念ながら関西大会に届かなかったことは風の噂で聴いたことだ。滝井はそんな鬱屈とした吹奏楽部とは対照的に一人だけ突き抜けた結果を北中にもたらした。あとは女子からちやほやされたいというあからさまな態度さえ改まれば、決して声の掛からない容姿ではないのだ。
「滝井は声がでかいからな」
「どういう意味だコラ」
「泰然さを持ちなさいって樟葉は言ってるのよ。そんなあからさまな態度だから誰からも脈が無いのよ」
「うっ、北浜の正論パンチはきっついな……」
北浜の追撃に滝井は遂に白旗を挙げた。そもそも、理論攻めで彼女に勝とうという公算は無謀である。物腰と態度は誰に対しても柔らかいが、ひとたび論争となれば順序立てた完璧な理論武装の前に敗北が約束されている。北浜由佳里とは、そういう人物だ。
教室に着いて、これから一年間世話になる机に腰掛ける。隆翔の一つ後ろの席は、案の定空席となっていた。
◇◆◇
放課後、音楽室に集結した新二、三年生は、黒板に貼られた一枚の模造紙に注目していた。隆翔がマネージャーから退いた今、部の業務分担に関する取り決めは白紙のままだった。今朝のミーティングでも話していたように、これから部長より、今後の方針についての説明が行われる。
左右を見渡した黄前は、一度首肯してからミーティングが始まった。
「みなさん集まりましたか。では、これより部内ミーティングを行います。今日からみなさん新学年として活動していきます。そして、明日から一年生の仮入部期間が始まります。ご存じの人もいると思いますが、この部活では一年前まで部の活動における担当係が存在していました。しかし、昨年はマネージャーという役職が偶然にも誕生し、以降マネージャーはその仕事を一手に引き受けて皆さんのサポートを行ってきました。しかし、今年度からそのマネージャーはいません。マネージャーがいないから、全国大会に行けなかったというのは、私は不本意だと思っています。そして何かを変えていきたいとも思っています。だから、今年度からは担当係制度を復活し、皆さんの手で、この部活を運営していきたいと思っています。これについて、何か質問はありますでしょうか」
黄前の提言に異を唱えるような挙手はない。そもそもマネージャーという偶発的な存在が出てくるまでは誰もが何かしらの業務分担に携わっていた。それ故、今回の草案に使用したのは昨年の業務分担表である。学年が変わり、幹部や一年生指導係などの人選には変更が加えられているが、それ以外は殆どが昨年度を参考にしている。今この場でその組織図を経験していないのは隆翔だけだった。
ちなみに、隆翔はこの件における元凶であるため、現幹部から係への参入を断られていた。黄前曰く、これまで半年以上あらゆる仕事を受け持っていた隆翔がいると、再始動した組織においてマネージャー依存体質が抜けないから、と高坂と相談した上で決定したそうだ。
どこまでも不遇な扱いを受ける隆翔に沙里が憤懣な思いを募らせたのは言うまでもない。そんな自分のために怒ってくれる沙里の存在は、日に日に大きくなっていた。
「では、そのように進めていきたいと思います。各分担につきましては黒板前に掲示していますので、各自確認してください」
「部長、一つよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「これから入部する一年生はどのように振り分けるんですか?」
「仮入部期間が終了次第、各係に振り分けるような形を取ります。当然、本人たちの意向も出来る限り汲み取っていくつもりです」
当然だが、高校生になって間も無い一年生はそうした負担を出来る限り減らして、まずは環境に慣れてもらうところからスタートする。喫緊の懸念事項として示唆された新入部員の人数もそうだが、現時点での部員総数は約六十名。六割以上を二年生が占める。どれだけ実力のある一年生が入部するかにもよるが、今年のコンクールで五十五人の枠に入る二年生は半分居れば良い方、というのは、何とも悩ましい問題である。とはいえ、新入部員による新陳代謝を望まねば全国金賞の目標に到達するのは難しい。かつて弱小校だったこの学校にスーパールーキーの高坂が入部したように、上手い一年生というのは良い意味でも悪い意味でも集団に影響を植え付ける。つまり、どの世代にも競争意識が芽生えるのだ。
「他にありますか……無いようなので、臨時ミーティングを終了します」
「パートリーダーはアタシのところまで来てください。先ほど伝えた資料を渡します」
黄前の号令に蜘蛛の子を散らしたように各部員が練習場所へと移動する。直近のイベントは隆翔が初めてファースト奏者を務める新入生歓迎コンサートだ。いつもの個人練習場所へ向かいながら、演奏する譜面を脳内でイメージした。
◇◆◇
放課後、夜の帳が下りはじめる時間帯に差し掛かった。今日のミーティングで明かされた新体制。幹部の三名以外は文字通りまったく新しい組織編成で一年生を迎えると発表した。そもそも、この事態を招いたのは隆翔の休部に始まる騒動が発端である。その結果、隆翔の仕事はほとんど無くなってしまった。それまで下校時間ギリギリまで居残ることがほとんどだったが、その時間をフルート教室への準備や勉強の時間に充てられる。災い転じて福と成す、とまではいかないが、負担が減ることに越したことはない。空虚感を覚えつつも率直に安堵していた。
放課後、部活以外のほとんどの生徒は下校している。昇降口まで歩いていたその時、隆翔の前からこつこつと足音が聞こえてきた。この時間に校舎に残っているのは図書館で勉強していた生徒か、大半が吹奏楽部員のはずだ。足音の方向に注意を向けた。
しばらくすると、階段の先からブロンズのロングヘアーを靡かせた女子生徒が現れた。しかし見慣れた北宇治の茶色のセーラー服ではなく、紺色のセーラー服に白いタイを纏っている。明らかに外部の学生だった。そして、見紛うはずがない。腕には白銀のユーフォニアムが存在感を放っている。まるで夢を見ているようだった。少なくとも校舎内で展開されるには現実離れし過ぎている。ブロンズの髪の彼女は、隆翔を視界に捉えると微笑を浮かべながら会釈した。隆翔も釣られてぺこりと頭を下げる。彼女は明らかに不審である。隆翔は警戒を解かず、かと言って面倒事に巻き込まれるのも嫌なので、彼女には声を掛けずその場を立ち去ろうとした。そんな隆翔の思惑に反して、女子生徒から「あの」と声を掛けられた。
「もしかして、吹奏楽部の人ですか?」
「そう、だけど……」
柔和で透き通るような声、というのが第一印象だった。ヘアスタイルや彼女のフォルムから、丸みを帯びた柔らかさがあった。女子生徒はどこかを目指している訳でもなさそうだ。どちらかと言えば、迷子と形容する方が相応しい。
「ああ、良かった! この辺で楽器吹けるような所知りませんか?」
楽器? ああ、ユーフォニアムをか。突然話し掛けられたことで慌ててしまったが、その行動に納得がいった。
「迷子?」
「ううん、そうじゃないんだけど」
「というか、君、誰?」
「あ、ごめんなさい! えっと、転校してきたばっかりで制服も前の学校のだし。不審に思ったよね……」
「いや、そういう事情なら、まあ」
「そう言ってもらえて良かった。転校の手続きとか色々あって遅くなっちゃったんだけど、この校舎から見える夕焼けが凄く綺麗でどうしても吹きたくなっちゃったの」
「そうなんだ。うーむ、楽器を吹けるところね……」
隆翔は思案した。吹奏楽部の練習場所は音楽室か空き教室だ。しかし、この時間ともなれば大方施錠されているだろう。廊下の窓から外を眺める。視線を上方に移すと、あるではないか、お誂え向きの場所が。
「あそこなんてどう?」
隆翔が指し示した場所は校舎四階にある渡り廊下だ。かつて、希美がみぞれの演奏に打ちひしがれて項垂れていた場所だった。
隆翔の指先を追って、彼女は視線を外に寄越す。
「あの、校舎と校舎の間?」
「そう。今なら誰も使ってないし、両側の校舎に音が反響して吹いてて気持ちいいんだよね」
その言葉に彼女の表情はパアッと明るくなった。転校してすぐ、慣れない地理に知らない生徒達。相当不安だっただろうと隆翔は推察した。物腰の柔らかさと礼節のある所作から行き届いた教育の一端を垣間見た。気付けば、話し掛けられた際に放っていた警戒を解いていた。
「教えてくれてありがとうございます」
「もうすぐ完全下校時間だから、あまり遅くなるなよ」
彼女は再び丁寧なお辞儀を隆翔に見せ、渡り廊下へ向かうために階段を上がっていった。昇降口へ向かう途中で隆翔は今朝、北浜と滝井が話していた転校生のことを思い出した。きっとあの子が黒江真由だ、と。
校舎に響き渡るユーフォニアムの音色。先程の亜麻色の髪の女子生徒だろう。ゆったりとした音が心地よく耳を通り抜ける。黄前にも引けを取らない技術と完成度だ。太く、それでいて落ち着いた旋律が奏でられてゆく。夕闇に染まる校舎に彼女の『ムーンライト・セレナーデ』が溶け込んでいた。
そのとき邂逅した生徒の正体は、翌日あっけなく明かされた。松本に促されて教室に入ってきた謎の転校生。当然ながら見慣れぬ紺のセーラー服に白いスカーフ。服装だけなら印象は暗めだが、美しい亜麻色のロングヘアーと龍泉洞のように透き通った水色の瞳がそのイメージを相殺した。彼女を見れば、十人いれば十人が振り返るだろう。それほどまでに整った容姿の美少女だった。男子だけでなく女子でさえもその美貌に溜息を漏らしていた。
昨日持っていた白銀のユーフォニアムは彼女の私物だった。当然、彼女は吹奏楽部員ではないし、この学校で管理しているユーフォニアムはすべて黄金色だ。あの重さの楽器を持ってわざわざ学校までの坂を上っていたとすれば、この子は見た目によらず豪快な一面を兼ね備えているのかもしれない。
「黒江真由と言います。福岡から来ました。三年生ということもあり友達が出来るか不安でしたが、みなさんと仲良く出来ればいいなと思っています」
明朗な声とふんわりした雰囲気を醸しながら、クラスメイトから盛大な拍手をもって迎え入れられた。特に男子。黒江真由と名乗った転校生は、促されるまま空席であった隆翔の一つ後ろに着席した。擦れ違いざまに隆翔と目が合った。既に昨日会った生徒であることはバレている。
「昨日はありがとう。同じクラスで嬉しいな」
囁くように背後からそのような言葉を掛けられる。心臓が口から飛び出そうになった。この気遣いも彼女生来の気質なのだろう。しかし、無反応では印象が悪い。担任の動向を横目で見つつ背後を振り返った。
「よろしく。あの担任、マジで私語には厳しいからあとで自己紹介するよ」
隆翔の言葉に満足したのか、気丈に塗りたくった影に見え隠れしていた不安は一掃されたようだった。
転入生の紹介という一大イベントを終えた朝礼は、本来の本題ともいえる進路調査に移っていた。元々二年生の中盤からやんわりと進路に関する話題は上がってきていた。しかし今は三年生。最高学年であると共に受験生となった。当然、避けては通れない。松本は手に持っていた用紙を前列から配っていく。
「お前たちが高校を出た後、どんな将来を送るかの重要な調査だ。大学へ進むも良し、就職する者もいるだろう。今自分が何者になるか分からない者もいると思う。今思い描いている将来とは違う未来が待っているかもしれない。ただし、今この場で人生を決めろとは言わない。どんな三年生を送り、どんな自分になりたいかを客観的に見ることが重要だ。週末に回収するので、必ず親御さんにも一度目を通してもらうように」
理路整然とした松本の口調には誰も逆らえまい。迫り来る現実に頭を抱える生徒もいたが、三年生はもう既に高校生活からの脱皮をしなければならない時期に片足を踏み入れている。
休み時間にもなると、早速後ろの席の転校生はクラスメイトに囲まれていた。特に隆翔の席の周囲には吹奏楽部員が勢揃いしている。ユーフォニアムを持参していたということは、十中八九吹奏楽部へ入部するだろう。
低音パートの加藤葉月が持ち前の明るさでフランクに真由に話し掛けている。自己紹介の後、なぜか釜屋つばめの紹介もしていた。自分で言わんのかいと内心つっこみをいれたが、引っ込み思案の彼女はペコペコと会釈を繰り返していた。
「葉月ちゃんにつばめちゃんね。うん、覚えた」
「はいはい! 緑のことも覚えて欲しいな」
「ああ、さっきサファイアって呼ばれてた……」
「その呼び方は禁止です! 緑のことはみどりって呼んでください」
口許でバツ印を作る川島に少々気圧されている。隆翔の前に座る北浜や、少しでもお近づきになりたい男子生徒が順繰りに自己紹介をしている。喧噪が激しくなってきたので、隆翔は外の空気を吸いにベランダへと繰り出した。
春の陽気に包まれているだけあって、校舎の中よりも快適だった。花粉症持ちには気の毒ではあるが、眼下に広がる宇治市内の至る所で満開の桜が点在していた。
◇◆◇
「おはよう」
『おはようございます!』
放課後、パート練習の教室には二年生となった三人が既に膝を突き合わせている。あの事件があって、後輩三人にはつらい思いをさせた隆翔だったが、逆に後輩たちから詮索した非礼の謝罪を受けた。それ以来両者の関係性は融和し、江藤香奈に関しては憧れの的であった希美と恋人関係にある隆翔に対して一目置いていた。
「今日から仮入部期間が始まりますね!」
「そうだね。誰か入りそうな後輩とかっている?」
「南中でクラやってた後輩が北宇治に来てくれたんですよ。吹部に入るって言ってました」
「本当? それは心強いね」
強豪南中出身の江藤が言うのだから本当のことだろう。世代的に希美や優子、みぞれと直接の交わりは無い初めての世代だ。隆翔の世代にもいなことはないが、南中出身者という一大勢力は無視できない。今まで出会った奏者は一定の実力を保有している。希美や優子の影響を直接受けていない世代だとしても、フルートの江藤香奈、トロンボーンの葉加瀬みちる、クラリネットの北山タイルなどに代表されるコンクールメンバー経験者はその威厳を遺憾無く発揮してくれるだろう。
「なんだ、樟葉もう来てたんだ」
「みんなおはよう」
『おはようございます!』
続いて教室には小田と中野が到着した。隆翔と同じく三年生となった彼女らも、僅かばかり大人びた雰囲気を醸している。小田は春休み終盤に矯正を掛けたのか、緑がかったロングヘアの先端がくるっとカールしていた。そう、佇んでいれば彼女は美人なのだ。
「芽衣子先輩、今日も綺麗ですね」
「本当? じゃあ、もっとオーラ出しちゃおうかな」
「きゃー!」
後輩からの褒め言葉に気分が良くなった小田はくねくねと変なポーズで応えている。そんな光景に呆れながら、隆翔は黙々とフルートのチューニングを繰り返した。その様子を見ていた中野蕾実が隆翔のもとにやってきた。
「樟葉くん、おはよう」
「おはよう」
「涼葉ちゃんにちゃんと謝ったんだね。さっき聞いたら、もう怒ってないって」
「そうか……」
「でも、前みたいに話せるまではもう少し時間が必要かも、だって」
「分かった。ありがとな、話してくれて」
鳥羽涼葉から告白を受けてから長いようでまだ二週間程度しか経過していない。沙里の仲介で鳥羽への謝罪は済ませたが、それで心の傷が癒えた訳ではない。すべて隆翔が原因で起きたことだ。最後まで責任を取らねば、あの騒動で隆翔に助力してくれた人々に面目が立たないだろう。
「セーフ! 間に合った……」
「沙里先輩、おはようございます!」
「おはよう~。担任に捕まっちゃって話してたらこんな時間だよ」
息を切らしながら教室に入ってきたのはパートリーダーの高橋沙里だ。明朗な性格は希美に共通するところがあり、本人も目標に据えている。三月の騒動で、沙里は秀一と共に隆翔の復帰に奔走した。結果的には沙里の協力も虚しく、隆翔はマネージャーを剥奪される運びとなった。彼女は最後まで幹部、特に黄前と高坂に抵抗していた。そのことも相まって現在では互いに名前で呼び合うほど距離が接近していた。
「沙里おはよう。初っ端からばたついてんな」
「隆翔くんおはよ。そうだ、うちらの教室に通ってる子、北宇治に入学したって話聞いてる?」
「特には。中学生クラスとは活動時間が違うから分からないな」
隆翔と沙里は中書島にある音楽教室に通う仲である。元プロ奏者の水谷理恵子というフルーティストが開講しており、フルート以外にもクラリネットやオーボエなど京都府南部の木管楽器奏者がこぞって入会している。北宇治では隆翔と沙里が通っているのみだが、立華高校の西条花音、美音姉妹も同教室に通っている。
「誰か一人くらい来そうな気がするね。今度、理恵子先生に確認してみるよ」
「明日の夜は練習来れそう?」
「明日は塾なの。隆翔くんは塾、行ってないの?」
「行った方が良いのかな。親には特に何も言われてないけどさ」
「ええ⁉︎ 羨ましい。私なんて親に言われるがままだよ。だからフルート教室の日も減らさなきゃいけなくて……」
「大変だな。でも、受験に向けては避けて通れなさそうだよ」
「勉強か練習か。言われなくても分かってるんだけど、身体が付いて来ないよ」
「パーリー、ちょっとは手伝えると思うから遠慮なく言ってくれ」
「助かります……!」
沙里はぐったりしながら隆翔の労いを受け取った。
受験という現実がヒタヒタと忍び寄っている。隆翔の進路希望としては希美が通う私立大学を視野に入れており、今の学力をキープ出来れば良い結果を得られるかもしれない。今年は土日に大学模試が何件か入っている。そこで良い判定を得られたら、周囲と自分に与える安心感は盤石だと考えていた。
「そういえば、明日の楽器紹介は誰が担当するんだ?」
「あ、そう言えば決めてなかった!」
「安泰なのは沙里、ビジュアルなら小田、奇を衒うなら俺になるのかな」
「奇を衒う?」
「俺が出れば男子部員が来るかもしれない」
隆翔の冗談半分な狙いに女子部員、特に小田から抗議の意味を込めた視線が送られる。
「……私はやらないから」
「なんでだよ。パーリー命令ならやらなきゃ駄目だぞ」
「沙里、お願い……!」
「あ、ずるい!」
ビジュアル要員で矢面に立たされることを嫌がった小田は、沙里に回避を懇願した。この光景に沙里と二年生三人は若干呆れている。先輩の威厳などあったものではない。
「はあ、仕方ないな。楽器紹介は私がやるよ」
「いいのか、沙里?」
「うん。一応リーダーだし、別に苦手じゃないからね。いざとなったら希美先輩の完コピで乗り切るよ」
こうして一週間後の楽器紹介はパートリーダーの沙里に決定した。アンサンブルコンテストからずっと先頭に立ち続けてきた彼女は、名実ともにフルートパートの大黒柱であった。技術、人望、人柄、すべてにおいて右に出るものはいない。一度空中分解しかけたこのパートをなんとか繋いだのも沙里だった。その実績もあり、決して独善的でない彼女の方針は船のマストのような存在であった。
◇◆◇
「へえ、転校生が来たんだ」
希美ははにかみながら隆翔の報告を聞いている。
住宅街の中に密やかに佇む神社は、以前より隆翔と希美の密会ポイントであった。繁茂する木々の奥に鳥居があり、竜頭の手水舎からは冷たい水が注がれている。馬の銅像が目を惹くその神社には、かつての祭礼で神馬という馬が奉納されたと掛札に記されている。
春らしい温かみのある色合いのタートルネックセーターに、デニムのミニスカート。上着にはスプリングコートという装いは、お洒落な希美らしいチョイスだった。
「女子?」
「うん」
「可愛い?」
「可愛いんじゃない」
「……私よりも?」
じっと紫色の瞳が隆翔を捉えた。苦笑が漏れそうになるが、そうはさせまいと口許に力を込めた。
「希美が一番かわいいな」
「あっ、バカにしてるでしょ!」
「してないしてない」
揶揄っていることがバレるといつもこうなる。ポカポカと背中を叩く希美を軽くあしらう。
隆翔の休部を経て、二人は互いの傷を舐め合うような接し方を改めた。隆翔が部活に復帰する日、お互いが相応しくありたいと願いながら、寄り添うように愛を紡いでいこうと誓い合った。この一年間は高校生と大学生の恋人同士だ。会う時間はかなり減るし、隆翔の多忙さも相まって容易に時間を作れないかもしれない。二人とも自覚をしているから、殊更この貴重な時間が愛おしかった。
「大学はどんな感じ?」
「楽しいよ。でも、高校よりも自由な時間が多くて戸惑っちゃうな。先輩とか見てると、その時間に課題だったりサークル活動をしてるんだと思う」
「サークルには入った?」
「オーケストラサークルの見学には行ったけど、今度はフルートを持って行くつもり。でも、多分そこになるかな。先輩たちも優しいし、何よりフルートも吹けるし」
希美の長所は、何でも飛び込んでみることが出来る胆力があることだ。屈託のない笑顔がその証左である。まだ入学して一週間、多くの一回生は不安を覚えている時期に希美は未来へ光明を見出している。中学、高校で誰よりも惨憺を舐めたからこそ、大学では自由に飛び回ってほしいという願いは高望みではないはずだ。
「隆翔は進路どうするの?」
「今のところ、希美と同じ大学にしようかと」
「え、そうなの」
「うん。希美が先輩だったら心強いじゃん。それに、まだ希美とフルートでユニゾンしたことないから」
希美はきょとんとした。隆翔としては十分すぎる理由のつもりだった。
「そっかあ……。志望理由が私だなんて、随分と邪だね」
「ひっどいなあ、こっちは真剣なんだけど」
「冗談だよ。嘘でも嬉しい」
「嘘じゃない、よっ」
「ひゃっ! どこ触ってんの変態!」
希美のセーター越しに脇腹を突いてみせると、希美はバネのように跳ね上がりながら隆翔から距離を置いた。
希美と羽根を伸ばして演奏したいという願いは日に日に大きくなっている。こんな感じで、いつかは空間に気を遣わず戯れ合いたいと願うほどに。
彼女の通う向日美大学は関西地区でも比較的新しい大学だ。それ故に学内の自由度は高く、校舎も綺麗だと評判だ。何校か滑り止めで受験することはあっても余程のことがない限り同校への進学を希望していた。
「今年、全国行けそう?」
「まだ分からない。けど、絶対に行ってみせる」
「ふふ、強気だね」
希美は隆翔が全国を目指す理由を知っている。それが側から見れば歪んだ理由だとしても、希美は心の底から応援していた。
「私に見せてよ。隆翔が全国金賞を獲るところ」
隆翔の背中で受けたのは、紛れもなく彼が生きる理由であった。
【つづく】