或る、フルート吹きの青春   作:ハヤブサ320

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EP.28 転校生 -Stereoman-

 新入生歓迎コンサートは盛況のまま幕を下ろした。星野源『恋』の演奏はその話題性と独特なダンスが流行した観点から大いにウケており、隆翔の初ファースト奏者としての演奏も滞りなく終えることができた。今回のイベントのMCは秀一が担当した。二月に開催した定期演奏会から引き続きの大役だったが、どうしてかこの人選が上手くハマり、男女共々彼のマイクパフォーマンスの虜となっていた。元々は高坂によるMCの可能性もあったが、仏頂面で懇々と音楽話が繰り広げられることを鑑みれば妥当な人選だろう。女子からの黄色い歓声に鼻を伸ばしていた秀一に、黄前は強めの肘鉄を制裁として喰らわせた。

 

 そんなこんなで仮入部期間の一週間はあっという間に過ぎていった。フルートパートには日替わりであらゆる一年生が見学に来ていた。フルートは目立つ上に木管楽器では花形だ。北宇治のフルート奏者がそれに当て嵌まるかと言えば首を傾げたくなるが、お淑やかな印象を抱いてやってくる生徒が多かった。

 高坂が作成した練習メニューは見事なものだった。初心者向けのメニューには、実際に使用する教本以上の気遣いが為されており、木管畑ではない高坂の見識の深さを垣間見ることになった。どんな初心者でも一ヶ月あれば簡単な曲くらいは吹けるのではないだろうか。それを全パート分。クオリティも含めて、商才がある人ならばインセンティブを見出すかもしれないが、高坂が首を縦に振るとは思えなかった。

 そして仮入部期間終了の日、音楽室は急激な人口増加に伴って幾分か室温が上昇していた。心なしか酸素濃度も薄い気がする。何せ、この空間には今日までに入部を希望した一年生から最高学年の三年生まで約九十名がひしめいている。オーボエの剣崎梨々花と共に一年生指導係に就任したチューバの加藤葉月は「すごい人数だね!」と鼻息を荒くしていた。

 青いスカーフを纏った一年生の姿は昨年の卒業生に重なって見える。しかし、彼女たちの表情は不安と緊張に染まっていた。そんな空気を切り裂くように、黄前が号令を掛けた。

 

「はい、ちゅーもーく」

 

 パンパンと手を叩きながら黄前は場の空気を自分に持ってきた。

 

「今日、みなさんは吹奏楽部に入部を希望しているということでこの教室に来てくれたんだと思います。こうして新しい仲間が部に加わるというのはとても嬉しいです。自己紹介が遅れましたが、私は部長の黄前久美子です。これから一年、よろしくお願いします」

 

 頭を下げた黄前に、一年生から拍手が送られる。一年生の総数は二十四名。突出した人数の二年生が四十三名、三年生が一年生と同数の二十四名。合計九十一名が今年度の北宇治高校吹奏楽部のメンバーだ。

 

「吹部の顧問は滝先生です。顧問の挨拶は楽器決めの後に行います。今日、この場にいる皆さんの中には吹奏楽の知識がない子も多いと思うので、まず各楽器の説明から始めます」

 

 打ち合わせ通り、黄前から隆翔に目で合図が送られる。楽器紹介の前に、まずは簡単なクイズを出すそうだ。隆翔はクラスメイトでもあるホルンの森本美千代と共に前へ出た。

 

「吹奏楽で使われる楽器を大まかに分けると、金管、木管、打楽器、弦楽器の四種類になります。では皆さんに質問です。今、前に出てきてもらった二人が持っている楽器はフルートとホルンです。この楽器は金管、木管のどちらだと思いますか? 金管楽器だと思う人」

 

 この問いかけにパラパラと数人が手を上げる。同じ質問が北中吹奏楽部の体験入部でもあったことを思い出す。黄前はそれに倣ったのかもしれない。手を挙げた一年生の一人を指名し、どうして金管楽器だと思ったのかを問うた。

 

「思いっきり金属でできてるので、むしろこれが金管じゃないならなんだろうって」

「そうやって勘違いしてる子はとても多いです。私も楽器を始めるまでは金管楽器というのは金属でできている楽器だって思っていました。でも、実は違うんです」

 

 今度は高坂を呼び寄せる。彼女は持っていたトランペットから銀色のマウスピースを引き抜いた。

 

「金管楽器は唇の振動によって音を鳴らす楽器です。このマウスピースというパーツを唇に当ててぶるぶると振動させることで、楽器の先端、ベルと呼ばれるところから音を出します。逆に、木管楽器はそれ以外の振動で音を出します。穴から息を吹き込んで音を鳴らすものです。フルートなんかはこれに当てはまります。また、リードと呼ばれる薄片を咥えて鳴らすものもあり、クラリネットやサックスが該当します」

 

 情報量の多い紹介にも一年生たちは興味津々に聞いていた。今年は楽器経験者よりも吹奏楽未経験者の割合が高い。立華のような私立強豪校は元から憧れて入部する子が多いと言っていたが、公立校の北宇治はそうではない。基本的に県内の中学校から進学してくるケースが大半である。

 

「吹奏楽部にはたくさんの種類の楽器があります。今日ここに来てくれた人の中には、既にどの楽器をやりたいか決めている子も、まったく何も決めていない子もいると思います。特に初心者の子はわからない楽器も多いと思うので、これから代表者に各楽器の説明をお願いしたいと思います。まずは聞いて、その後で希望の楽器を決めてください」

「はい!」

「北宇治は人数が多いので、みんながみんな希望通りの楽器に慣れる訳ではないです。でも、希望以外の楽器になっても音楽を作る一員になることには変わりないので、頑張ってほしいと思っています。それでは、まずはトランペットの紹介からです。どうぞ」

 

 黄前の指示に高坂が一歩足を踏み出す。その容姿端麗な姿を見た一年生から感嘆の溜息が漏れたことに、隆翔は苦笑するしかなかった。美人なのは認めるが、噛みつかれたら碌でもないことを隆翔自身が最も自覚しているからである。

 

「ドラムメジャー兼トランペットパートリーダーの高坂麗奈です。ドラムメジャーとは本来、歩きながら演奏するマーチングバンドの指揮者を指します。北宇治では演奏会の指揮や、全体合奏の基礎練習の指導を行います」

 

 一通り自己紹介を済ませた高坂はトランペットを構える。ベルが一年生へと向けられたと同時にけたたましい音を鳴らした。高坂が基礎練習で奏でる練習曲だ。一曲の中で低音から高音域までを統べるその音は一瞬で一年生を虜にした。

 

「このように、トランペットは金管楽器の中でも最高音域を持っている楽器です。華やかな音色と高音は、良くも悪くも目立ちます。自分の演奏をみんなに聞かせたいという、気の強い人にぴったりな楽器だと思います。もちろん、アタシも気が強い方です」

 

 最後の一言に在校生から笑いが起きる。高坂の口元が微かに緩んだ。

 

「アタシは自分が優しい先輩だとは言いません。厳しいことも言うと思います。ただ、絶対にみんなを上へ連れていくという自信があります。一緒に頑張ってみたいと思う人は、ぜひトランペットを希望してください。以上です」

 

 高坂の言葉は真っ直ぐ芯が通っている。その力強さに心を動かされた一年生部員も少なからずいるようだ。掴みは完璧。この勢いに乗じるように、どんどんと楽器が紹介されていった。

 

「次にパーカッションの人、お願いします」

「はーい」

 

 楽器室からずるずると運ばれてきたのはマリンバだ。木製の音板の下に金色の共鳴パイプがずらりと並ぶ。マリンバの前にいるのが、パートリーダーの井上順菜。毛糸でぐるぐる巻きにしたマレットを持っているのが釜屋つばめだ。

 

「私たちはパーカッションパートです。打楽器を担当するセクションと説明されることが多いですが、スティックを使うもの以外の楽器、トライアングルやタンバリン、シンバルとかそういうのもひっくるめて扱うなんでも屋みたいなパートです。楽譜を見てなんだこの楽器! って存在を初めて知る楽器を演奏することもありますが、そこが面白かったりします。今日皆さんに聞いてもらうのは、マリンバの演奏です。彼女は北宇治で一番上手いマリンバ奏者です」

「順菜ちゃん、その言い方は私にプレッシャーが……」

「つばめは凄いから大丈夫。それにたくさん練習してきたでしょ」

「そうだけど……」

「それでは、聞いていただきます。曲は『フロントライン 〜青春の響き〜』冒頭です」

 

 つばめがその場で頭を下げる。両手にそれぞれ二本のマレットを持ち、音板を凝視する。独特な丸いレンズが蛍光灯を反射し、最初のフレーズを打ち鳴らした。

 オクターヴを交互に行き来し、マレットが音板の上でダンスを踊るように飛び跳ねる。軽やかなメロディーの中には陽気、陰気、静と動を支配しながらひとつの空間を作り上げていく。

 高校で吹奏楽を始めた釜屋つばめは、これまで一度もコンクールメンバーになったことがない。B編成「チームもなか」の一員として加藤と共に縁の下の力持ちであった。そんな彼女が覚醒したのはアンサンブルコンテストだった。練習中にどんな確変が起きたのかは知らないが、ユーフォニアムの黄前との掛け合いで響いた音には少なからず衝撃を受けた。小日向夢のトランペットと共に印象に残っているのは彼女のマリンバだった。凄まじい集中力と正確性に裏付けられた演奏に、当時体育館で聴いた光景がフラッシュバックした。

 演奏を終えたつばめに惜しみない拍手が送られる。「お姉ちゃんすごい!」と比較的背の高い一年生女子が歓声を上げた。妹だろうか。なるほど顔立ちがよく似ている。

 

「こんなふうに、北宇治には凄い子がたくさんいます。そして一年生のみんなも私たちと練習していたらこんなふうに凄い奏者になれます。私たちと一緒に頑張ってくれる子、募集中です。金管や木管だけが花形じゃないことを証明します! ぜひ、お待ちしてます」

 

 パーカスの紹介も一年生の反応は上々だった。井上順菜。今年は北中出身者で固められた幹部も、何かが違っていたら彼女が吹奏楽部の部長だった線も否定できない。そんなカリスマ性を秘めていた。

 そして、何人かが紹介し終えた段階で、フルートの順番が回ってきた。沙里と共に前に出てきたのはピッコロの山根つみき。今年から沙里の跡を継いでピッコロ担当になった二年生だ。彼女は映画、特に邦画が大好きであり、洋画好きの隆翔と互いに情報交換をしていた。

 

「フルートパートリーダーの高橋沙里です。先ほどのクイズでもあったように、この楽器は木管楽器です。フルートは明るく澄んだ音色が特徴の楽器です。原理はリコーダーと同じです。横の山根さんが持っているのはピッコロと言って、一オクターヴ高い音色が特徴です。では、ここで一曲演奏してみます」

 

 スッと構えた沙里のフルートから奏でられた曲は、新入生歓迎コンサートでも演奏された星野源の『恋』だ。しかも、隆翔が担当したファーストの譜面であった。隆翔も膨大な時間を使ってこの曲を練習した。休部期間もあったが満足のいく完成度だった。それをいとも簡単に完コピしている。ショックとも違うこのもやもやとした感情は、自身の技術不足に喘ぐ焦りから来るものだった。

 

「皆さんも歓迎コンサートで聴いたと思いますが『恋』を演奏しました。このようにお淑やかさの印象がある楽器ですが、このパートには樟葉隆翔くんという男子も所属しており、彼もかなり上手いです。女子だけでなく男子部員も募集していますので、少しでも興味のある子はぜひフルートパートへ来てみてください! 以上です」

 

 隆翔が望んだ男子部員への思いも口にして、沙里のフルート紹介が終わった。注文以上の内容に、それまで感じていた曇りがかった気分を吹き飛ばすように盛大な拍手を送った。

 その後、サックス、クラリネット、ダブルリードパートの紹介を経て楽器紹介は終了した。早速楽器決めとなり、わらわらと一年生が希望楽器の前に集団を作った。

 その昔、北中でも入部した一年生に対して楽器決めが行われた。それまでピアノしか演奏経験のなかった隆翔はどの楽器にするか苦慮していた。どれも魅力的に映った。ただ、自分に見合うのか分からなかった。そこで泣きついたのが既にマイ楽器を所持し、トロンボーンパート入りが決まっていた梓であった。彼女のチョイスで選ばれた楽器こそ、今信念を持って演奏しているフルートだった。

 

「あの、フルートパートはこちらでしょうか!」

 

 鋭い矢のような声で現実に戻される。隆翔の目の前に立っていたのは青髪のベリーショート、特徴的な吊り目をパチクリさせながら勇気を出して先輩に話しかけたようだった。

 

「いらっしゃい。そう、ここがフルートパートだよ」

 

 目に見えて上がっていた一年生を、中野が諌めるよう優しく話しかけた。女子にしては高身長で、スレンダーな体型がスタイルの良さを際立たせている。

 

「お名前は?」

「吉田巧美です。西中でフルート吹いてました」

「お、経験者」

「マイ楽器は持ってる?」

「はいっ!」

 

 早速、一年生第一号がやってきた。西中吹奏楽部出身、名前を吉田巧美といった。

 

「……あの、高橋先輩と樟葉先輩はいらっしゃいますか?」

「樟葉は俺だけど、高橋はあっちにいるから呼んで来るよ」

 

 一年生がなんだろうと考える。二学年下ともなると、隆翔と接点のある人は心当たりがない。

 

「沙里、ご指名だぞ」

「なになに?」

「あの、お二人って水谷先生の教室に通ってらっしゃいますよね。私、中学の部で先生にお世話になってまして……」

「マジか」

「えー!」

 

 二人が驚くのも無理はない。この吉田巧美は、沙里と隆翔の通っているフルート教室の受講生だった。吉田がこの二人を指名したのも、講師の水谷から聞き及んでいたからだろう。話が通じたとみて、吉田は初めて安堵の表情を浮かべた。

 

「改めまして、これから一年間よろしくお願いします」

 

 頭を深くまで下げ、一同に礼儀よくお辞儀をした。緊張しいだが礼節は正しい。親の躾もそうだが、水谷の塾生は受講中の態度、姿勢は厳しく見られている。その成果かもしれなかった。

 パートも決まったので、さっそくピアノの前に鎮座する黄前に報告しに向かった。いきなり現れた経験者の一年生。これは幸先が良い。さっきまで不安げだった江藤も安心していた。

 

「良かったですね、いきなり経験者ですよ」

「うん。まさかこんなに上手くいくとは思わなかった」

 

 世知辛い話になるが、公立校である北宇治は貸し出せる楽器に限りがある。楽器は大きくなればなるほど金額は高くなり、置いておける数も少ない。実際、コントラバスは二つしかなく、在校生の川島緑輝と月永求が使用しているため、今年は希望者がいてもコントラバスには配置できない。その点、フルートは人気であるが吹奏楽の中では比較的値が張らないという利点がある。現在貸し出せるフルートは、昨年のパートリーダーである井上調が返却したので二本となっている。新入部員の吉田はマイ楽器所持者だったので貸出本数は変わらないが、それを見越してもあと一人か二人が受け入れ人数的に限度である。

 吉田がメンバーに加わってからは、何人か見学に訪れただけでパートメンバーは現れなかった。他のパートに目を配ると、トランペットパートには一年生が殺到していた。

 

「さすがトランペット。あそこだけは毎年別格に人が集まるよね」

「いや本当、あやかりたいね」

 

 貸出用のトランペットに列が形成されている。どうやら、マウスピースを付けて音を鳴らせた人を優先に採用しているらしい。隆翔は以前、梓のトロンボーンを吹かせてもらったことがある。当然、初めて息を通した時はスカッと空気が通り抜けただけだった。唇を震わせるという動作は、思いの外難しい。何度か試してようやく音を出せたが、やはり弱く情けない音しか出なかった。初心者みんながいきなり音を出せるなんてことは無い。音を鳴らせたらセンスがあると言っても良い。

 トランペットの横には何人かの二年生が屯っており、脱落した一年生を自パートへあの手この手を使って勧誘していた。

 ふと、隆翔が目をやった先で所在なさげにキョロキョロと周囲を眺めている女子が目に入った。吉田とは対照的に低身長でふっくらとした体型をしており、髪を緑色のカチューシャで纏めている。周りでは着々と楽器が決まっていく中で、彼女だけが周囲から逸れてしまったようだった。普段なら周りの出方を伺う隆翔だが、なぜかこの時に限っては放っておけなかった。

 

「平石、悪いけどあの子連れてきて」

「あのカチューシャの子ですか?」

「そう。お願いできる?」

「了解です!」

 

 平石は可愛らしい敬礼をしたのち、その女の子に声を掛けに行った。らしくないと思ったのか、隆翔の指示に小田は疑問を覚えたようだ。

 

「どういう風の吹き回し?」

「なんか、放っておけなくなった」

「どういうこと?」

「俺もさ、昔あの子みたいに楽器が決められなくて、友達に勧められてフルートパートに入ったんだよ。それを思い出した」

 

 小田は納得したのか、ふーんと呟いた。そして、カチューシャの子がやってきた。いきなり見ず知らずの先輩から呼び出されたこともあり不安一色という表情だ。平石はどんな言葉で彼女をここに連れてきたのだろうか。

 

「……あの、私をお呼びですか」

「ごめんねいきなり。もしかして、まだ楽器が決まってないのかなって思って」

「それは、はい……」

 

 その反応を見て、この子が初心者であることを一瞬で見抜いた。

 

「あのさ、フルート吹いてみない?」

「フ、フルート、ですか……」

 

 彼女の前に差し出された銀色の横笛。初心者の子でも一度は目にしたことがあるはずだ。沙里の紹介がどれほど印象に残っているかは分からないが、今この場で印象に残ってくれたらそれで良い。

 歓迎するなら、やはりこれをしなければならないだろう。マイ楽器を構えた隆翔が奏でた曲は、かつて自分をこの楽器に引き合わせてくれた時に奏でられた曲だ。喧騒に掻き乱されないように、ノイズの隙間を探しながら最初の一音を放った。一瞬にして音楽室は隆翔の音で支配された。一年生を選抜していたトランペットも、試しにと叩かれていたティンパニーも隆翔のフルートの音色によって静止した。ただ一人のためにと催されたリサイタルが、気付けば音楽室に跋扈する九十名を虜にしていた。全員を前にして演奏するというのはメンタルの強さも求められるが、意外にも気分が良い。かつて『リズと青い鳥』でコンクールを統べた希美も同じ気持ちだったのかもしれない。あの先輩の名前はなんだったろう。消したい記憶の底にあった彼女の『ホール・ニュー・ワールド』が、今、間違いなく隆翔を震い立たせていた。

 夢中で吹いていた。そして、たった一人の観客は感激したのか拍手を送っていた。黄前の報告から帰ってきた吉田も、隆翔の演奏を聴き入っていたようだ。

 

「感動しました……!」

「そんなに良かった?」

「はい。私も、先輩くらい吹けるようになるでしょうか?」

 

 再び不安げな表情になるその子の肩を、ポンと優しく叩いた沙里がフォローする。

 

「大丈夫! 私たちと練習すれば、すぐにでも上達できるよ」

 

 沙里の言葉に決心がついたようだ。彼女は背筋を正して隆翔たちに居直った。

 

「一年四組の水井陽向です。初心者ですが、よろしくお願いします」

 

 

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 

 

 全ての楽器決めが終わった頃には、音楽室に西日が差している。今は黄前が練習の諸注意を説明していた。

 

「では次に──」

「遅くなってすみません」

 

 黄前の声を遮り音楽室の扉が開いた。職員会議を終えたらしき滝が室内へ足を踏み入れる。滝が姿を見せた瞬間、教室のあちこちで興奮を抑えたような吐息がこぼれた。「本物だ」という一年生の言葉が彼の人気度を表している。滝は黄前ミーティングの進捗を訊いて、自己紹介に移った。

 

「私は顧問の滝昇です。担当教科は音楽ですので皆さんの授業を受け持つこともあると思います。これからよろしくお願いしますね」

 

 微笑む滝に声を弾ませて返事をする一年生。これから暴かれる彼の本当の姿を見てどう思うのか、今から楽しみであり、哀れに思えた。

 

「では黄前さん、続けてください」

「あ、はい。それでは、今年一年間の部内方針についてです。北宇治では、毎年夏から始まる全日本吹奏楽コンクールに向けての練習がメインとなります。北宇治は一昨年が全国大会銅賞、去年は関西大会金賞でした」

 

 一年生はその輝かしい戦績に目を輝かせている。しかし、去年より以前を知る二、三年生は苦い過去がフラッシュバックしているのか、唇を噛み締める生徒が何人かいる。隆翔とて、去年の悔しさを忘れたわけではない。去年の八月、ロームシアターの会場での慟哭と悲嘆は忘れるにはあまりに残酷であった。何より、愛する恋人の涙の熱は、今でも隆翔の皮膚を焼いたまま傷跡として残っている。

 

「北宇治高校では毎年、活動の目標を自分たちで決めることにしています。コンクールで良い結果を出そうと思うとそれ相応の練習量が求められますし、本当に全国行くんだぞっていう覚悟が求められます。逆に、結果を求めずに楽しみたいという考え方も、部活として正しいあり方だと思います」

 

 ただ、とそこで黄前は一度言葉を区切る

 

「吹奏楽は一人じゃできません。みんなの目指している方向がバラバラだと、誰かの努力が誰かのせいで台なしになってしまう、なんてことになるときがあります。大事な時間をせっかくの部活に充てているのに、そんなふうになるのはとても悲しいことだし、私は嫌だなって思います。だからこそ、多数決によって目標を決めようと思います」

 

 多数決。民主主義の根幹でもあるそれは、決定事項に参画させる強制力がある。そして、多数派は「嫌ならやめたら良い」という大義名分を得る。運営を誤れば多数が少数を追い詰めてしまうだろう。だからこそ、多数派は少数派に手を差し伸べなければならない。黄前にその調整力があるだろうか。そして、明らかに脱落者に手を差し伸べる気のなさそうな人物は、真っ直ぐ黄前を見つめていた。

 

「では多数決を取ります」

 

 カンカンとチョークで黒板いっぱいに文字が書かれている。

 

「上を目指さず楽しい部活生活を送るか、それとも、これを目指すか」

 

 黒板には、彼女らしい若干丸みを帯びた字体で『全国大会金賞』と書かれていた。隆翔が挙げるのがどちらかは既に決まっている。しかし、右も左も分からずに音楽室の敷居を跨いだ一年生は、既に決まりきっている選択肢を強要させることは憚られた。同調圧力が場を支配する。この感覚は、隆翔が数週間前に実際に浴びていたものと変わらない。

 黄前の顔には「どうか全員が賛成と言ってくれ」と書かれている。お前も変わったな、と隆翔は黒板の前で強権を発動させる彼女を睨んだ。

 

「全国大会金賞を目標に頑張りたいと思う人」

 

 彼女の問いかけに部員の手が一斉に上がった。目指すのは当然だ。しかし、隆翔は部のため、顧問のため、学校のために目指すのではない。既に八十名以上が手を挙げているだろう。しかし、隆翔は精一杯の抵抗を込めて最後に手を挙げることにしていた。女子だらけの空間で、身長百七十五センチメートルの隆翔は特に目立つ。

 

「……隆翔くん?」

 

 横で手を挙げている沙里から不安の声が寄せられる。高坂は怪訝な表情を露わにして周囲に隠そうともしない。黄前の視線が隆翔に注がれる。隆翔は彼女に目で問いかけた。

「いずれお前が奈落に落とされようとも、その覚悟はできているな」と。

 

 ほとんどが手を挙げたのを確認して、隆翔は左手を高々と天井に挙げた。これで九十名、部長を除いて全員が全国大会金賞を目指すこととなった。黄前は胸に手を当て、そっと息を吐いた。

 

「で、では満場一致で、今年の北宇治高校吹奏楽部は全国大会金賞を目標とします」

 

 あからさまに安堵の声を漏らした黄前を秀一が嗜め、再度居直った。

 

「えっと、全国で金賞を獲ることは決して楽なことではありません。でも、えっと……」

「では、あとは私からお話ししても良いですか?」

 

 話の終着点が見えなくなった黄前を、滝が助け舟を出した。

 

「部長も言っていた通り、全国金を獲ることは容易ではありません。ですが皆さんは今日、いま目指すと決めたんです。そのことを忘れないでください」

 

 滝の言葉に、各々が気を引き締めた。

 隆翔が目指すのは全国大会金賞ではない。その先にある希美の笑顔。そして、彼女たち卒業生へ向けた敵討ちだ。隆翔を救い、拾ってくれた先輩たちへの恩返しに他ならない。目指す場所は同じだが、手段や目的は誰とも同じではない。これは、一世一代の大勝負であった。

 滝は手をパンと叩いて手を開いた。彼が最も伝えたい言葉の前にする癖だ。

 

 

 

「新入部員の皆さん、北宇治高校吹奏楽部へようこそ」

 

 

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 

 

 滝の訓示をもってパート練習へと移った。新入生を気に掛けるのは一旦沙里に任せて、隆翔は先程依頼された仕事に移った。

 視線の先にいる誰とも違う制服を纏った彼女は、さっそく後輩たちから物珍しそうに声を掛けられている。なんにせよ、新しい仲間を受け入れる姿勢でいてくれることは有難い。彼女的にもその方が良いに決まってる。

 

「黒江、おまたせ」

「樟葉くん。ごめんね、忙しいのに」

「いや、その為に時間取ってもらってるから気にしないで」

 

 彼女は遠慮がちに隆翔の後ろにぴったりと付いてきている。可愛さと可憐さを兼ね備えている十七歳はあまりいないだろう。北宇治のものではない制服も相まって彼女は完全に浮いていた。緩やかな曲線を描くような体躯に、可憐でおっとりとした雰囲気。スタイルで言えば高坂麗奈に匹敵するだろうが、優しい人当たりはそれとは正反対だ。後輩から特に人気が出そうだと隆翔は思った。

 

「楽器は……って、確かユーフォ持ってたもんな」

「うん、出来ればユーフォがいいかなって」

「黒江のユーフォってマイ楽器だよね。ここで貸してるユーフォは全部金色だからさ」

「そうだよ。中学の時、お母さんに買ってもらったの。引越しが多いから、他の学校行ってもユーフォが吹けるようにって」

「へえ、良いお母さんじゃん」

「まあ、こっそり調べて値段見たときはびっくりしちゃったけどね」

 

 真由は家族のことを褒められ、照れ臭そうに笑った。

 昨日、邂逅した際に持っていた白銀のユーフォニアムはやはり個人所有の楽器だった。真由が驚くのも無理はない。隆翔が両親から買い与えてもらったフルートは十数万円。真由の持つユーフォニアムが黄前と同型の色違いならば、値段は隆翔のフルートの四倍から五倍は下らないだろう。

 公立高校の北宇治でマイ楽器を所有している生徒は少ない。それに、過去の先輩達も含めて自分の楽器を持っている人は総じて上手いという印象があった。

 

「じゃあ前の学校でも吹奏楽を?」

「うん。福岡の清良女子って学校なんだけど、知ってる?」

「……ごめん、知らないな」

「そ、そうだよね。こっちだとマイナーだもんね」

 

 校名を明かせば話が膨らむと思ったのか、見込み違いに真由は落ち込んでしまった。

 黒江真由は福岡県の清良女子高等学校から転入した。清良女子は吹奏楽の強豪校であり、立華と並んで全国に名が知れ渡っている。北宇治が全国へ進出した年、隆翔は吹奏楽部に入っていない。その上昨年は関西止まりだった。故に隆翔はその校名を知る由もない。後から説明してくれた黄前にはその無知さを呆れられ、川島緑輝の懇切丁寧かつ情熱的な解説は彼女のきゃんきゃんとした声質も相まってしばらく耳に残り続けた。

 

「そういえば、黒江は福岡から来たのに全然方言が無いんだな」

「うん。両親が標準語で、福岡には二年間しか居なかったし、その前も色んな場所に住んでたから。えっと、これまで北海道、秋田、群馬、東京、静岡、和歌山、山口……あたりに住んでたよ」

「大変だな。せっかく出来た友達とも離れ離れになっちゃうし」

「そうでもないよ。全国どこに行っても顔見知りがいるし、大人になって自由に動けるようになったらまた会えるかもって思えるから。それに、私嬉しいんだ」

「何が?」

「みんなと音楽が出来て」

 

 その言葉は本心だろう。真由は心底楽しそうに語っていた。

 

「俺も合奏は好きだよ。だからフルートに出会って良かった。コンクールで全国目指して練習するのも楽しいしさ」

「……やっぱり、目標は全国大会なんだね」

「そうだね。去年は関西までしか進めなかったし、尚更その思いは強いのかな」

「そうなんだ」

 

 真由はどこまで本気なのだろうか。三年生という恐ろしく中途半端な時期に転校し、あまつさえ飛び込んだのは全国大会の雪辱を果たさんと躍起になっている吹奏楽部。彼女のポリシー次第ではあるが、この環境に適合できるか隆翔は心配していた。

 

「黒江はそれでいいのか?」

「全国を目指すほどの厳しい練習でもってことだよね。うん、それなら大丈夫。清良の練習もかなり厳しかったから」

「そっか。それなら良かった」

「入部してから思ってたのと違うってなって辞めるのも勿体ないかなって。ちゃんとこの学校の事も調べてきて、ここだったら楽しく演奏出来そうって思ったの」

「ユーフォが好きなんだな」

「うーん、というよりも、私、合奏が好きだから」

 

 合奏が好き、という言葉には色々な想いが込められているのだろう。馴染みの土地のない、まさに「故郷」という言葉がない真由が縋れるのは、どこにいたかではなく誰といたか。そこで何をしていたのかという記憶が、いずれ大人になった時に鮮烈なイメージを生むのかもしれない。そうした意味では、北宇治という概念を好きになってもらいたいという黄前の願いとは真逆の立ち位置にいる。

 黒江真由と黄前久美子。同じ楽器かつ並び立つほどの技量を持っているこの二人が起こすハレーションは、この部をどこに導いていくのだろうか。

 それから二人は練習場所や大まかなスケジュールをおさらいして、楽器室に彼女のユーフォニアムを取りに行った後で解散となった。このあとはそれぞれの練習場所でのパート練習であった。

 

「丁寧にありがとう。また何かあったら聞いても良いかな」

「もちろん。同じ教室なんだし、気兼ねなくどうぞ」

 

 快諾した隆翔に安心感を覚えたのか、淀みのない笑顔を浮かべた。

 新入りは特に面倒を見てやらねばならない。一年前、希美が隆翔を気に掛けてくれたように、今度は隆翔が真由にその態度を示す番だった。

 

 

 

【つづく】

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