新入部員が入部してはや二週間が経過した。フルートパートには経験者の吉田巧美と初心者の水井陽向の二名が新たに加入し、経験者の吉田は沙里や小田と共に実用的な練習を、水井は二年生の江藤を中心に初心者向けの基礎レッスンを日々こなしている。吉田はともかく、隆翔が勧誘したも同然の水井が練習に付いてこられるか心配の種であったが、全体合奏で指摘されることはあっても、それにめげないメンタルを持ち合わせており安堵した。一歩踏み出すまでの過程は長くとも、歩き出してしまえば大丈夫なタイプの持ち主だった。
しかし、時が経過すれば逃れられないイベントの足音が聞こえてくる。その第一声が高坂の口より発せられた。
「これから、サンライズフェスティバルの楽譜を配ります」
上達への近道など存在しない、マーチングの練習が幕を開けた。
◇◆◇
「間に合うかなあ」
楽譜と共に配られたスケジュール表を見て、隆翔は天を仰いだ。前々から予告されていたことだが、いざ試練を目の前にすると足踏みもしたくなった。その様子を沙里が訝しげに見ていた。
「なにが?」
「俺さ、マーチングってやったことないんだよ」
その言葉を聞いて、沙里はようやく事態を把握した。口元に手を当て苦い表情をしているのは、彼女自身が一年生の時にマーチングの基礎を叩き込まれた経験を思い出したからだろう。五月は徐々に気温が上がる季節。屋外での練習は、涼しい上旬こそ空気の篭り切った音楽室から出た開放感に浸れるが、後半につれ段々と湿気を伴ったじめっとした天気に鬱陶しさを覚えるようになる。サンフェス本番の時期ともなれば、気温三十度を超えるか否かという気温になるはずだ。
「沙里の好きな季節っていつ?」
「えっと、秋とかかな。過ごしやすいし」
「じゃあ嫌いな季節は?」
「冬。冷え性だから寒いのは本当に無理。隆翔くんは?」
「俺は梅雨が一番嫌いなんだ」
「あー……それは分かるかも」
梅雨という単語に、沙里も同じように天を仰いだ。
沙里が気にしていることの一つに、もあっと生えている髪の手入れを挙げている。トリートメントを欠かさないので艶のある髪質を保ってはいるが、その手入れは尋常ではないほど大変なのだそうだ。以前、フルート教室で立華の西条姉妹が沙里の髪を褒めたことに始まったヘアスタイル談義。両方とも肩口で切り揃えられた西条姉妹が、艶のあるサラサラな長髪を持つ沙里を羨んでいた。憧れる二人に対し、良いことばかりじゃないよと諭す沙里は心底参っている様子だった。放っておくと暴発して膨らんでいくから、美容室で定期的にストレートパーマを当てているらしい。しかも梅雨の季節はいつもより早起きしてヘアセットを入念に行っている。それでもロングヘアにこだわるのは、憧れの女優と同じ髪型をキープしたいからだそうだ。ちなみに西条姉妹がボブカットなのは、単にマーチングの邪魔であるからと理由はあっさりしていた。
そんな憎き梅雨の季節は、刻一刻と迫っていた。じめっとした空気に気までやられないよう、メンタルキープには努めなければならない。
「どうするのマーチング。歩いて演奏なんてしたことないでしょ」
「無いよ」
「花音と美音に訊くのは?」
「いや、それよりも良い手本がいる。あとは俺の努力次第」
「それで『間に合うかな』なのね」
いざとなった時のワイルドカード。五月には毎年サンライズフェスティバルがあるという情報も彼女から聞き及んでいたので、その対策は既に打っていた。
放課後、自主練習の休憩時間にスマートフォンの通知が鳴った。メッセージの差出人は、現立華高校吹奏楽部部長、佐々木梓。ワイルドカードの張本人だ。
『今練習終わったよ! いつものとこで良い?』
『お疲れ。こっちも今から学校出るとこ。ウチの前で待ってて』
「了解!」と犬の警官が敬礼するスタンプに既読を付けて、隆翔は帰宅の準備をした。
住宅街へ下る坂の中腹にあるコンビニでブリックパックのコーヒー牛乳とじゃがりこを買った。じゃがいも好きの梓を買収する訳ではないが、無いよりは有ったほうが良いという判断だ。彼女も部長として活動する上で、多忙の隙間を縫って隆翔とのレッスンに時間を割いてくれた。
自宅のマンションの前には見覚えのあるママチャリが置かれていた。自転車通学の梓は既に到着しているようだ。
「おかえり隆翔!」
ぴょんぴょんと跳ねるポニーテールが特徴の幼馴染みは練習終わりだというのに溌剌としていた。それから梓の自転車に二人乗りをしながら河川敷の練習ポイントへ向かう。中学卒業から時を経て昨年再会し、互いの隙間時間を使ってここでよく練習していた。あれから間も無く一年と、自転車の荷台に感じる体重を意識しながらふと思い出すのだった。
河川敷に到着した二人は制服の上着を自転車に放り投げ、梓はケースからトロンボーンを出して装着した。
「あ、そうだ。後輩にも見せたいから動画撮っていい?」
「えー、別に良いけど先に言って欲しかったなぁ」
「なんで?」
「流石に練習後だからセッティングも甘いし汗だくだし、ちょっと恥ずかしい」
「そう? 十分いつも通りだと思うけど」
「……んん! で、どこから知りたいの?」
「最初からお願いします。用語とかは前に貸してくれた本で覚えたから多分大丈夫だと思う。あとこちら、つまらない物ですが」
と言って、コンビニで買った彼女の好物を進呈する。梓はよかろう、と鼻高々に受け取った。梓の買収には成功した。じゃがりこで。
動画撮影を恥ずかしがった姿はどこへやら、トロンボーンを掲げると、彼女の周りの空気が変わった。
「まずマーチングの基本ね。特にサンフェスはパレードが九割、あとの一割でフィールドドリルをやる学校もあるって感じかな。北宇治は今年、誰が構成担当なの?」
「高坂がメインで、あとは黄前と顧問で取り決めたって言ってた」
「なるほど、じゃあフォワードマーチとマークタイムメインと見て良いかもね。北宇治の良いところは音の粒がはっきりして、とにかく細かいタイミングの正確性が全国トップクラスなところだよね。座奏メインの学校ならではの魅力だよ」
「悪いな。忙しい時に」
「ううん、気にしないで。正直、ウチの初心者連中に教えるより何倍も楽だよ」
そう言ってカラカラと笑い声を上げた。全国トップクラスの実力と名声を持つ立華高校吹奏楽部。その部長に君臨する梓は、百人をゆうに超える部員を束ねる正にマザーシップだ。これが黄前と同じ肩書きと言われれば、その素質にどれほどの差があるだろうか。
「じゃあ、テンハットから合図でホーンズアップ。その場で足踏みしてみて」
フルートを構え、気をつけの姿勢になると、梓の眼光に鋭さが増した。ここから「練習の鬼」の真髄が明かされる。彼女が満足するまで、隆翔は足を動かし続けた。
「うん、初めてにしては悪くないんじゃないかな」
「し、死ぬ……」
ベンチでじゃがりこを頬張りながら、芝生に座り込んだ汗だくの隆翔を見据える。あれからたっぷり一時間、ただひたすらに行進練習をするだけで時間が経過してしまった。
とっくに体力の限界を超えている。大の字になると、三日月が視界の片隅に見えた。隆翔の特訓中、梓は一切の笑顔を見せなかった。逆に、隆翔は梓から顔が硬いと指摘され続けたため、目の下あたりの表情筋が引き攣っていた。ポカリスエットをがぶ飲みすると、失われた体内の水分が補填され幾分か疲労が回復した。
「立華って、いつもこんな感じなのか」
「そんな訳ないじゃん」
「だよな、流石に……」
「隆翔は泣かないだけ偉いと思うよ」
「泣く子が出るほどなのかよ」
梓、練習で泣く子嫌いそうだもんな、と独りごちる。
「失礼な。泣いたら出来るようになるのって諭すだけだよ」
「いや、それはもうパワハラなんだよ」
「今っぽい言葉使うね」
マーチング全国金賞クラスの練習はそれに裏付けされた厳しさがあるということ。そのネームバリューは背負うに余りある。
「休憩終わり。さっきと同じとこをもう一回ね。時々ゴメハが保てなくなってるから、そこ注意して」
「……はい」
それから梓の鬼の施しを受けた。どれだけ練習してもお手本として見せられる全国クラスのキレは尋常ではなく、見入っただけで参考にできるほど隆翔にマーチングの技術は身に付いていなかった。それでも終わった頃には梓でも見られるくらいにはなったようだった。
普段の運動不足が祟って自転車を漕ぐ足が重い。明日は確実に筋肉痛に悩まされるはずだ。しかし、マーチング自体が未経験だった隆翔にとって、その道のスペシャリストである梓の直接レッスンは有意義な時間となった。時間は九時を回ったところ。さっきから腹の虫が泣き喚いている。
「梓、今日夕飯は?」
「お母さん遅いから、帰りになんか買っていくつもり」
「じゃあ食べに行こうぜ」
そうして、二人は黄檗駅近くの町中華に腰を据えた。二人が幼い頃からあるこの店は、小学校の同級生の両親が営んでいる馴染みの店だった。
「腹減ったなー」
「懐かしいね、このお店」
「辛いものがいいな。俺、豚キムチ炒飯定食にしよ」
「じゃがいもは……」
「ある訳ないだろ」
「だよね。じゃあ、青椒肉絲定食かな」
店内は昔と変わらず、メニューは手書きで書かれており、厨房には同級生の母親が給仕をしていた。
「そういえば、梓はドラムメジャーなのか?」
「ううん、ドラメは別の人がやってる。私はあくまで部長だから」
「そうなんだ……」
隆翔は梓と会っていない数ヶ月で起きた出来事をどう話すか悩んでいた。梓は、まだ隆翔がマネージャー兼奏者として活動しているものだと思っている。しかし、隆翔の余計な振る舞いによって発生した騒動の一端を梓に伝えて何になるのか分からなかった。
「美音と花音は元気か?」
「普通に鬱陶しいくらい元気だけど、てか毎週会ってるでしょ?」
「まあ、そうだけどさ」
「なに? なんか言いたげだけど」
世間話が下手すぎると自嘲した。結果的に梓は隆翔の悩み事に行き着いてしまった。仕方がないので、意を決してカミングアウトすることにした。
「言ってなかったけど、俺、マネージャーやめたんだ」
「……え、どうして?」
「一回、メンタルやられちゃってさ。それで数日部活休んだんだけど、それで結構混乱させちゃって引責って形でマネージャー辞めたんだ」
「それ、久美子たちが決めたの?」
隆翔は頷いた。
梓にとって、黄前は親友だ。その親友が幼馴染みに下した処置に、心底信じられないといった表情を浮かべている。
「でも、あんまり後悔してなくてさ。卒業した先輩も奏者がマネージャーなんて演奏に集中出来なくなるから廃止させたかったらしくて、その意向を汲んだ形になったんだけど……」
「……何したらいいか分からないんだ」
「うん」
沈黙が流れる。厨房から鍋で野菜を炒める音とワイドショーの笑い声だけが聞こえる。梓の応援は心強かった。北宇治よりも結果と伝統がのしかかる立華高校の部長として過ごす彼女は、同級生皆の憧れであり希望だ。そんな人に期待を懸けられた結果、こうして役職を剥奪された現状だ。情けなさと遣る瀬なさが同居し、自嘲気味に笑った。
「言って欲しかったな」
「ごめん。でも梓は部長職で忙しいだろうと思って、言えなかった」
「それでも、相談くらいは乗れたと思う」
隆翔は顔を上げられなかった。どんなに状況が変わったって、全ては後の祭りだ。自分の知らないところで隆翔が追い詰められていた事態と、頼ってもらえなかったという失望感に梓は落胆した。
「心配してくれてありがとな。そう言ってもらえただけ救われた」
「……そう」
不満な表情を隠そうともせず彼女はぶっきらぼうに返事をした。
久方振りに食べた中華料理は、変わらない味への懐かしさがミックスされ大変美味だった。食べ終わった頃には、梓の顔には笑顔が戻っていた。
◇◆◇
梓との個人練習の翌日、隆翔は秀一からとある相談を持ち掛けられた。住む場所も違う二人が帰路を共にすること自体が珍しく、学校で話せない内容ということは察知できた。
「隆翔に自由曲を選んでもらいたいんだ」
「……なんで?」
「実は三日前、滝先生から幹部だけに今年の自由曲をどの曲にするかっていう相談を受けてさ、この三曲のうち、どれが良いか決めてくれと頼まれた」
秀一はスマートフォン上の音楽データと曲目のメモを隆翔に見せた。『蜻蛉奇譚』『雨夜の月』『一年の詩 ~吹奏楽のための』。吹奏楽楽曲に疎いからか、隆翔はどれも知らない曲だった。
「秀一はどれにした?」
「最初は直感だったけど、北宇治の勢力パターンだったり、強みを活かせる曲を考えたら、これしかないと思ったよ」
そう言いながら、メモに書かれているうちの一曲を指差した。
「で、どうして俺に打ち明けたんだ? この情報、幹部で止められてるんだろ」
「もし幹部外の部員に共有するなら全員に開示すること、と滝先生に厳命されてる」
「いや、何考えてんだよ。そしたら尚更俺に伝えちゃだめだろ。俺はもう幹部でも幹部補佐でも無いぞ」
「だとしても、俺はお前に関わっていてほしいんだよ。実際、隆翔の献身性はみんなが知ってる。後輩への面倒見も良い。あんなことが無くて、一年から吹部にいたなら部長になっていたかもしれない。俺はそれくらいの奴だと思ってる」
秀一の言葉には表と裏がない。それが彼の長所であった。副部長に就任してから、いや、黄前と付き合い始めたあたりから粗雑な一面が克服されたように見受けられる。彼なりにどんな立場でも相応しくあろうという意識の表れが成長に繋がったのだろう。秀一は、隆翔が最も信頼を置く人物だ。吹奏楽部員だからではなく、最も長い友人として。そんな彼から最大限の賛辞を受けた。こうなっては、得てしまった情報に対して無視を決め込むことは出来ない。この問答に対する駆け引きは、隆翔が彼の相談を受けた時点で勝敗が決していた。
「それに、あまり久美子に頼りすぎるのも良くないしな」
「それとこれに何の関係が?」
「ま、一度別れてる身だからさ。無意識に意地張って、それが態度にも出てたんだろうな。お陰で高坂から釘を刺されたわ」
「それは、相当だな……」
事、この二人の恋愛関係においては高坂も一枚噛んでいた。むしろ隆翔以上に進展を気にしていたと後から聞いていた。その恋愛脳の一面をもう少し前面に出せば慕う後輩も増えるだろうけど、高坂としてはカリスマ性というブランドイメージに傷がつくのは看過できないのかもしれない。
「そんでもって、お前の音楽センスは高坂に匹敵すると思ってる」
「褒めてねえだろ。あいつと一緒にすんな」
「まあまあ。だからこそ、この三曲のどれがウチに相応しいか隆翔の意見を聞かせてくれよ」
「まだ引き受けるとは言ってないんだが……」
「やるだろ?」
「……はあ、仕方ない。やるよ」
「流石、話が早い」
無駄に強かな態度が腹立たしい。
隆翔は秀一の依頼を引き受けた。北宇治の強みと合致し、皆の心を一つに出来る自由曲。黄前と高坂はどれを選ぶのだろうか。
「とりあえず、秀一がこの曲にした理由を聴かせてくれ」
帰宅した隆翔は、秀一から貰い受けたデータをパソコンにダウンロードした。ヘッドホンを装着して、ふと怖い想像をした。これまで自由曲は滝の独断によって決められていた。コンクールの曲決めは、今年一年を占うと言っても過言ではない。そんな重すぎる選択を、あの三人は自覚しているのだろうか。
じっとりと纏わりつく嫌な想像を振り切って、一曲目の『雨夜の月』を再生した。
幻想的な、しっとりとした音色とチューバ、バスドラムが繰り出す低音のコントラスト。湖面に浮かぶ月をイメージさせる第三楽章。自然の優美さ、儚さ、残酷さ。最終楽章にかけてのユーフォニアムのシンコペーションが、後を追ってユニゾンするトランペットの強さに負けない強みがある。木管楽器、特にフルートは見せ場が多く心が沸き立つ。これは、完璧に決まれば最高に格好良い。
続いて『蜻蛉奇譚』。洋風な曲調の『雨夜の月』に比べ、どこか「和」の雰囲気を持つ。和音が前面に出る日本音楽を高校の吹奏楽で演奏するのは珍しい。トランペットの見せ場が多く、金管楽器出身の滝が力を入れそうな楽曲だ。それだけではない。クラリネットのソリに代表されるような、個の力に頼る箇所が多いように思える。アンサンブルコンテストで全国大会へと駒を進めたクラリネットの強みを惜しげもなく使っていく魂胆なのだろう。蜻蛉とは、生命の儚さのものの例えによく使用される。隆翔たちがアンサンブルコンテストで演奏した『はなのゆくえ』も同じようなテーマであった。生半可な技術力では情けない演奏になりそうだ。
最後のトラック、『一年の詩 〜吹奏楽のための』。戸川ヒデアキという作曲家には心当たりがない。インターネットで検索すると、彼の個人サイトに辿り着いた。どうも新進気鋭の作曲家であるらしい。この曲は父と過ごした一年を描いている、と作曲者自ら紹介している。四楽章からなる合奏曲。耳に飛び込んだ一音目はクラリネットだったが、それとユニゾンするフルートに驚かされた。これは、フルートソリがある曲だ。昨年のコンクール自由曲『リズと青い鳥』がフラッシュバックする。関西大会の舞台で見せた希美の威風堂々たる演奏。オーボエとの掛け合い。誰がどう評価しても、あの演奏以上に素晴らしいソロは無い。あの時の希美が見た、感じた景色を追体験できるかもしれない。隆翔はあまりの衝撃に、第一楽章だけ何度も繰り返し再生した。
この曲は各楽章が四季をテーマにしている。クラリネットのゆったりとした旋律とフルートソリの掛け合いから始まる春、第一楽章。速いパッセージを刻むスネアドラムに先導されるような夏、第二楽章。そしてトランペットとユーフォニアムのソリが織りなす切なさを孕んだ秋、第三楽章。これまでの三楽章で駆け抜けた一年を振り返り、凄まじい勢いと鬼のような連符、苛烈なパーカッション、鳴り続けるマリンバ、膨れ上がったイメージを包括して次の春へ希望を見い出すフレーズを残し、最後に残ったフルートソロが曲を締める冬、第四楽章。
曲を最後まで聴いた隆翔は、ヘッドホンを投げ出してベッドに飛び込んだ。迅る心臓を抑えきれない。どの曲も良かった。演奏するに不足なし。ただ、最後に聴いた『一年の詩』は、全ての印象を掻っ攫ってしまうほどの衝撃を受けた。秀一がこの曲を選んだ理由も頷ける。これをやりたい。今までのフルートで培った技術を、全部この曲にぶつけたい。
それから夕食後も何度か音源を繰り返し聴いたが、隆翔の意志は揺らがなかった。
翌日、学校の調理室で借りた音源を秀一に返却した。それと同時に、隆翔は自らの意志を表明した。
「俺は『一年の詩』をやりたい」
「くっ、ふはははは!」
「なんだよ気持ち悪いな」
「いや、悪い悪い。俺の予想通りすぎてさ」
大真面目な態度で向き合ったというのに、秀一は腹を抱えて笑った。予想通りという言葉に、やはり最初から秀一の掌の上だったのだと溜息を吐いた。
「でも、隆翔の意志を確認できて良かった。希望通りに行くかは部長と高坂次第だけど、お前の選抜理由も含めて上手く伝えてみるさ」
「ああ、頼んだ」
「曲発表まではくれぐれも内密に。間違っても練習でソロなんか吹くなよ」
「分かってるって」
こうして、突然舞い込んだ自由曲の選抜を無事終えることができた。皆よりも先に聴いてしまったことに罪悪感を覚えない訳ではない。譜面はないが、昨晩何度も聴いたテーマフレーズを簡単に忘れることは出来そうもなかった。
もし『一年の詩』が正式決定したら、オーディションではフルートソロも選抜対象となる筈だ。昨年通りの日程で進むならコンクールメンバーを決めるオーディションは六月上旬から中旬にかけて。実力順ならば隆翔か沙里か小田か。南中で希美の薫陶を受けた江藤、今年入った期待の新星、吉田も候補に上がってくる。滝がどのような編成を組むか定かではないが、フルートは現状、あまりにも激戦区だ。そして気がかりなことはもう一つ、ユーフォニアムのソロメンバーだ。超高校級の強豪校から来た転校生。まだ一ヶ月程度しか関わりはないが、真由の技術は黄前に匹敵する。その差は殆どないと見ても良い。現部長が突如現れた転校生にソロを奪われるというシチュエーションが起きたとして、実力主義を標榜する黄前はその意志を貫けるかどうか。心配の種はそこらじゅうに存在した。
◇◆◇
マーチングはチーム競技だ。一人が良くても周りがダメならそれは上手いとは言わない。放課後の練習はほとんどがグラウンドか、雨が降れば体育館でひたすら行進練習が行われる。一歩六十二・五センチ、五メートルで八歩。通称「ゴメハ」と呼ばれる歩幅の単位だ。これが揃って初めて綺麗な隊列が形成される。
フルートパートの新入部員である吉田と水井。この二人と隆翔は今回のサンライズフェスティバルでマーチングの初陣を飾る。成り行きで育成担当となった小田から、事前にこの歩幅の意識付けをするため日常生活ではゴメハを守って歩くことを強要されていた。歩く速度と歩幅の大きな隆翔はその対応に苦心した。
「樟葉先輩、あの動画、もう一回見せてもらってもいいですか?」
「いいよ」
「ありがとうございます。陽向ちゃん、ここは前足に重心を置くんじゃなくて、多分左右に振れながら歩くんだと思う」
「えっと、じゃあ前に前にって感じじゃないんだね」
「そうなんですか、先輩」
「多分ね。この子が言うには、楽器を持つ腕が下がらないように重心は高く維持するってことなんだと思う」
「な、なるほど……」
あの動画とは、この前の梓との練習中に隆翔が彼女の見本を撮ったものだ。そもそも、初歩的な歩き方で苦戦するようでは全体練習に突入した途端、高坂の厳しい指摘と追及に苛まれることになる。隆翔は意にも返さないが、一年生である彼女たちは別だ。だからこうして涼しい校舎裏で練習しているのだ。
「ちょっと休憩しよう」
『はい!』
「水井さん、だいぶ形になってきたよ」
「本当ですか。まだ腕を上げるとぷるぷる震えちゃうんですけど」
「大丈夫だって。楽譜とコンテが配られてからまだ日が経ってないのに、動きもしっかり覚えてて偉いよ」
「そうならいいんですが……」
水井陽向は中学校では手芸部だった。高校で吹奏楽部に入るまで経験した楽器は小学生の頃にリコーダーとグロッケンに触れた程度。専門的な音楽知識や経験はほとんど無かった。
運動が苦手と言っていた水井は、屋外メインのマーチング練習にもよく付いてきている。ただ、熱中症にだけは気を付けて欲しいので、練習場所は日陰、こまめな休憩と水分補給を徹底していた。もう一人の一年生である吉田は、隆翔が共有した梓の動画を凝視している。彼女は吸収が早く、勉強熱心だった。
「樟葉先輩って中学からフルートやってらっしゃったんですよね。どうして吹奏楽部に入ろうと思ったんですか?」
「俺、元々小学生の時にピアノ習ってたんだよ。だから、せっかくやるなら知ってる音楽関係の部活に入りたかったんだ。その時、その動画に映ってる幼馴染みが吹奏楽部に勧誘してくれてさ」
「え、この人、先輩の幼馴染みなんですか⁉︎」
「あれ、言ってなかったっけ?」
「聞いてません! まさか、あの立華高校の部長さんと幼馴染みだなんて……」
動画を眺めていた吉田が驚愕のあまり顔を上げた。
「巧美ちゃん、立華高校……だっけ、演奏聴いたことあるの?」
「うん。去年、一度だけ。だからこの動画の人の演奏も覚えてます」
だからか、と隆翔は思った。吉田が梓の動画を眺めている時、その瞳には憧れとも似た眼差しが存在していた。
「受験のとき、立華は目指さなかったの?」
「あ、はい。推薦枠も無かったので一般で。普通に落ちました」
校舎裏にどんよりとした居た堪れなさが走った。まだ受験から数ヶ月。彼女は中学からの経験者と共に、外部講師に師事するほどの実力者だ。当然立華を受験したのも強い憧れがあったからに違いない。今その話題に触れるのは、あまりに無神経であったと猛省した。
「ごめんなさい。この話題、触れてほしくなかったよね」
「い、いえ! 実際に勉強が足りなかったのは事実ですし、気にしないでください」
「もし、勉強で分からないことがあったら相談してね。高校の勉強って、どうしても難しくなるし、補習で吹けなくなるの絶対嫌でしょ。手遅れになる前に言ってほしい」
「はい! ありがとうございます」
嫌なことを思い出させてしまった罪滅ぼしだ。一年生の勉強を見るくらいなら大した負担にはならない。学生の本分は部活ではなく勉強だ。それが疎かになれば肝心の部活にも影響する。三年生ともなれば後輩の面倒を見ることも役割のうちに入ってくる。今後は試験前に後輩諸氏を気にかけることも必要になってくるだろう。このあと、その件を沙里に相談することにした。
「じゃあ、そろそろ練習再開しようか。明日は雨っぽいから体育館練習だろうし、出来ることは今日の内にやっちゃおうね」
『はい!』
翌日は予報通り雨天となり体育館での練習となった。一セクションごとの隊列の確認とカラーガード隊の振付練習、残りの時間は演奏練習に割かれた。
「ちゃんと周りをよく見て。身体まっすぐ。針谷さん、右と左の足が逆。視線真っ直ぐ。初心者だからって出来ない理由にはなりません。集中して!」
高坂の声が矢のように飛ぶ。学年関係なく、気になるところがあれば容赦なくリアルタイムで指摘される。
「樟葉、背中が曲がって腕が下がってる。三年生がそれだと示しが付かないでしょ!」
分かっとるわい! と心の中で反論する。合奏練習での滝による粘着質な集中砲火も精神的に参るが、対照的に高坂の発破はかなり直接的だ。
規則的なホイッスルの音とメガホンを介しての檄は一時間ほど続いた。隆翔が直接指導した一年生の二人はしんどそうになりながらも最後まで付いてきた。それだけでも賞賛に値する。あとでしっかり褒めてあげることにした。
体育館ではバレーボール部とスペースを分け合って限られたスペースで練習している。現在、一年生の初心者とカラーガードの練習時間だ。北宇治のフラッグは赤、青、黄で彩られた疾走感のあるデザインが特徴的であり、当日は演奏できないコントラバスの川島を筆頭に、ダブルリード、クラリネット、一部のパーカッションパートのメンバーで編成されている。
六限が体育だった隆翔は、汗の染み込んだ体操着から通気性の良いトレーニングウェアに着替えていた。代謝が良いのも考えものだ。この季節は特に気を遣った。
体育館のキャットウォークでは真由と黄前が下級生の練習を眺めている。部長の役割は全体を俯瞰して練習の進捗を管理すること。一昨年、去年とマーチングを経験しているからこそ肌感覚で分かるのだろう。そして、真由はマーチングでも好成績を収める清良女子出身だ。何を話しているかは分からないが、そのノウハウを生かさない手はないからこそ、忌憚のない意見を聞いていたのかもしれない。清良の黒いジャージは公立校の芋っぽいデザインの中ではより一層映えて見えた。
◇◆◇
それから数日後、定例のミーティングで遂にコンクール曲の発表がされた。同時に、八月のコンクールまでの大まかなスケジュールが公表された。
課題曲は一番、江藤大介作曲『スケルツァンド』、自由曲は隆翔の思惑通り『一年の詩 〜吹奏楽のための』に決定した。
「サンフェスの翌日からは、本格的にコンクールの練習に入ります。合奏できるレベルにまで、各自練習しておいてください」
『はい!』
「ソロは自由曲の冒頭にクラリネット、フルート、中盤でマリンバ、コントラバスのリレー式ソロ、後半にユーフォニアムとトランペットのソリがあります。各奏者はオーディション時に決定します」
「ソロ……」と呟きを漏らしたのは隣に座る沙里だ。彼女も隆翔と同じだ。三年生、最後のコンクールを並々ならぬ思いで挑むに違いない。この瞬間、A編成五十五人の選抜メンバーをめぐる争いの火蓋は切って落とされた。
「他に何かありますか?」
ピアノ横に立つ高坂がスッと手を挙げる。その表情は、まさにこれから戦場に赴く様相をしていた。
「率直に言います。北宇治の演奏は上手い。だけど上手いだけでは全国金は獲れません。なぜなら上を目指す学校はどこも上手いからです。」
そう言い切って、高坂は人差し指を掲げた。その指先は、ある一点のみを見つめていた。
「北宇治は一番を目指しましょう。高校生にしては上手だね、という評価では満足しません。今の自分に満足するんじゃなくて、さらに上をいく未来の自分を追いかけてください。アタシはこの一年、ドラムメジャーとして皆さんのサポートに全力を注ぐことを約束します。全国大会金賞、獲りに行きましょう!」
高らかに宣言した彼女は、まるでドラクロワの絵画に出てくる自由の女神のように気高く、自信に満ち溢れている。全国金賞という目標の前に倒れた数々の骸の上に立ち、満を持して一歩を踏み出したのだ。その高尚さに自然と拍手が沸き起こった。
この時は楽観的だった。正々堂々とオーディションに挑んで、実力の上で勝利を得る。そして、確たる自信と技術を武器に三度のコンクールで金賞を獲得するのだと。しかし事態は隆翔の預かり知らぬ方向に進むこととなる。混迷の五月を経て、不安と疑心が驟雨のように降り注ぐ六月へと突入していくのだった。
【つづく】