Know that you're strong.──
EP.30 2%
サンライズフェスティバルの練習と共に、コンクールの合奏も本格的にスタートした。課題曲I『スケルツァンド』、自由曲『一年の詩 〜吹奏楽のための』はまごうことなき高難度の曲だ。楽譜が配られてから、まだ一度も全体合奏をしていない。
しかし、サンライズフェスティバルの前週には中間テストが控えている。当然、試験期間の一週間前から学内の部活動は全面休止となる。事前にそれを見越した練習メニューが組まれてはいるが、人の成長速度はそれぞれ異なる。時間の使い方の上手い生徒もいれば、要領の悪い生徒も存在するのが集団というものだ。
天気の良い日はグラウンドに出て、当日の行進と同じ動きをひたすら練習する。マーチングには隊列の指揮を担当するドラムメジャーが存在するが、縦列で行進すると後方に控える低音楽器などは直接視認するのは難しい。強豪校にはサブドラムメジャーというドラムメジャーの補助担当を置くケースも存在するが、そんな贅沢な役職を置くほど北宇治には余裕がない。そのため、奏者は各々の歩幅と高坂のホイッスルなどを頼りにしながら行進するしかなかった。
今日も今日とて高坂の声が轟く。列の挙動に合わせてリアルタイムで飛ぶ指摘は、的確であり部員の成長曲線と迫り来る本番までのスケジュールと照らし合わせる意図がある。それは隆翔も自覚している。だからスパルタにも一切の異論を挟まなかった。しかし、初心者の指導に狙いを定めた高坂に一年生たちは震え上がっている。彼女の設定した高いハードルに見合わなければ、青空の下でただただ怒られるだけだ。そんな青春を目指してここに来た人は皆無だろう。
「見てる人は誰が初心者だとか関係ありません。それを出来ない言い訳にしないで。さっきから何度も何度も同じ指摘を受けてて治っていないのはどういうことですか、ホルンの武川さん」
「は、はい」
「無理なんだったら吹こうとしないで、とにかくちゃんと足を合わせて。じゃないとズレて後ろの子が危ない」
「す、すみません……」
「泣いててもできるようにはならないでしょ。気持ちじゃなくて結果で見せて」
ど正論なのは感情で理解している。それは今名指しで指摘された子もそうだろう。しかし萎縮したメンタルで前を向くことは、心のキャパシティが少ない初心者にとって酷なことだ。
泣き出してしまった一年生に、高坂は深い溜息をつきながら列から出るように指示を出す。クラリネットの一年生にケアされながら木陰に移動する様子を横目に、隆翔はホルンパートの隊列を見渡した。部内でも一定の人数が所属しているホルン。それを束ねるのはクラスメイトの森本美千代だ。本来であればパートの責任者であるパートリーダーの仕事なのだが、高坂の指示を待つだけで固まってしまっていた。だが、それを責任放棄とは思わない。彼女なりに管理する他のパートメンバーも存在する故に致し方がなかった。
「水井さん、大丈夫だから自信を持って歩いてね」
「はいっ。分かりました」
「吉田さんもね」
彼女はコクっと頷いた。隆翔が面倒を見ている一年生二人も高坂の態度に萎縮している。誰だって名指しで注意されたくないが、隆翔にとっては大事な後輩であると共にマーチング初心者同士という絆があった。何かあれば上級生として守る責任があるし、頼まれなくても最後まで面倒を見るつもりだった。
「では最後に通したら昼休みに入ります。十三時からは男女に分かれて衣装の試着を行いますので、遅れないようにお願いします」
『はい!』
先頭に立つ高坂がメジャーバトンを高く掲げる。
「ワン、ツー、スリー、フォッ」
スリーで下げていた楽器を構え、フォーで足を上げる。それと同時にホイッスルが甲高く鳴って、スネアドラムがリズムを刻む。
今回の演奏曲は『オー・プリティ・ウーマン』。ロイ・オービソンが1964年に発表したシングルであり、のちにヴァン・ヘイレン等にもカバーされたトップナンバーだ。
北宇治は伝統的に初心者や一部の木管楽器奏者はステップ担当だった。黄色のポンポンを持ち、謎ステップと呼ばれるステップを刻む。毎年この謎ステップ習得に骨を折るようだが、今年は人数の問題で、オーボエや打楽器、コントラバス以外の初心者は演奏に参加することになっている。そのため、楽器経験がほとんど無い水井さんも例外なくフルートを掲げて演奏しなければならない。完成度を上げる為にやることは山積みだった。
昼休憩を挟んで、疲れを見せていた部員も元気を取り戻しつつあった。この後は予告通り、業者から届いた衣装の試着だ。北宇治の男子部員は隆翔を含めて十四名。対して女子は七十七名もいる。男子はその辺の教室で試着すればいいが、大所帯の女子は音楽室では手狭なので広い多目的室を利用して行われた。
「はーい、じゃあ名前呼ばれた奴から衣装取りに来い。まずちかおから」
「うーい」
「次、隆翔」
「サンキュ」
教卓に置かれた段ボールにはサンライズフェスティバルで着用する衣装が入っている。今年の衣装は明るい緑色のダブルブレスト、肩には黄色のエポーレットが装着された軍服仕様だ。男女とも白のパンツルックであり、上着が明るい分シャツは紺色となっており、それにオレンジ色のネクタイがよく映えていた。
「やっぱ、背が高いやつが着ると様になるな」
一通り着た隆翔に声を掛けたのはサックスの瀧川ちかおだ。身長は男子にしては小柄な方であり、彼のコンプレックスでもあった。
「お前もよく似合ってるよ」
「そうか? 毎年毎年、これが似合うかどうか不安なんだよ」
「そんなに不安なら高久に褒めて貰えばいいんじゃない。自己肯定感上がると思うけど」
「嫌だよ恥ずかしい」
「バカだな。古今東西、恋人は新しい服を着たら見たいもんなんだよ。いいから携帯貸せ、撮ってやるから」
そう言って隆翔はちかおからスマートフォンを引ったくり、ぎこちない姿を写真に納めた。瀧川ちかおは数少ない同級生の男子だ。秀一と含めてこの三人は何かと一緒になることが多い。それ故に絆も深かった。ちかおは隆翔が撮った写真を満更でも無さそうな表情で眺めている。
「てか、お前の写真も撮ってやるよ。傘木先輩に送るだろ?」
「ん、ああそうだな」
「それとも本番までお預けか?」
「いや、希美は当日、オケ部の練習で来れないらしい。よろしく頼むわ」
「えー、希美先輩来れないんですか!」
隆翔の背後で絶望の淵に立たされたような悲鳴が上がる。声の主はアルトサックスの二年生、鈴木靖也だった。ノリが軽くチャラチャラとした印象を持たれ、性格を知る女子から煙たがられている。
「残念ながらね。でも、全国まで行けばどっかで見に来てくれるんじゃないかな」
「そうですか……」
「靖也、あまり樟葉先輩に迷惑かけるなよ。先輩もすみません」
「気にしてないよ」
鈴木を諌めたのはアルトクラリネット担当の北山タイル。真面目で頭も良く、演奏技術も高い。二人とも南中吹奏楽部出身で、北山に関しては部長も務めていた。
「先輩は希美先輩といつから付き合い始めたんですか?」
「おい、靖也!」
「北山、お前も尊敬する先輩のことは気になるだろ」
普段は女子に分のある社会で揉まれている男子達は、こうした空間にならないと安易に恋話もできない。北中時代も同様に同級生から梓との関係を問い詰められることが間々あった。
「去年の八月、関西の後だよ」
「え、そんな前から付き合ってたのに、ずっと秘密にしてたんですか?」
「よくバレなかったな。ある意味すげえよ」
恋人の高久ちえりとメッセージのやりとりを終えたちかおも話に乗ってきた。三月の休部騒動は、隆翔と希美の恋愛関係が発覚したことに端を発していた。それから二ヶ月あまり、当時はこんな話なんか出来そうもなかったのに、時間の経過とは恐ろしい。
「元々俺が入部した時から希美とはよく話してたから、付き合ってからも部内では今まで通りにしようってことでね。今考えたら、秘密である必要なかったんだけどさ」
「俺らの中で、樟葉先輩は誰かと付き合ってる筈だって話題になってたんですよ。特に吉川先輩たちと仲良かったじゃないですか? だから、あの四人のうちの誰かだろうって」
「どっちかと言えば卓のメンタルが心配だったんだけどな」
「吉川先輩狂だしな」
「失礼だな! 優子先輩は崇高なお方だ」
「じゃあもし樟葉先輩の相手が吉川先輩だったらどうしてたんだよ」
「発狂します!」
トランペットパート二年の貴水卓は優子に首ったけだ。きっかけは知り得ないが、大方あのカリスマ性とファンシーな趣味の二面性に心を打ち砕かれたのかもしれない。実際、彼女は数多くの告白を切り捨ててきた過去を持つ。同じ大学へ行った夏紀ともども、元気にしているだろうか。
「で、先輩はどこまでいったんですか?」
「靖也……」
北山は呆れ果ててツッコミすらしなくなった。さて、本当のことを言えば高校生男子は碌な妄想をしないだろう。とはいえ他人のロマンチックな想像を打ち壊す趣味もないので、ここでは黙秘することにした。
「ご想像にお任せします」
「あ、逃げた。ずるいですよそれは」
「靖也、いい加減にしろ!」
「おーいお前ら、女子の試着が終わったから音楽室戻るぞ」
彼の追求をいなしたところで、タイミング良く秀一から撤収の声がかかった。
良くも悪くも南中出身の奏者は絆が深い。しかもそれは学年を超越している。特に二年生は中学の頃に部長であった希美の薫陶をもろに受けた世代だ。男子では鈴木靖也と北山タイル。女子は同じフルートパートの江藤香奈、トロンボーンの葉加瀬みちる、ホルンの屋敷さなえ、チューバの鈴木美玲などが該当する。彼らを筆頭に、隆翔は段々と二年生に支持基盤が存在していることを自覚し始めていた。
対して北中はどうだろうか。そもそも進学してくる生徒も少ない上に、隆翔と現幹部は秀一という取次役がいなければ会話もまともに成り立たないほど関係が冷え切っている。成り行きがあったとはいえ、先代の幹部が取り決めた首脳陣の一人を切ったという事実は、周囲に与える影響としては存外に重いものだった。
今のところ黄前政権は薄氷の上に成り立っており、高坂が突進すればするほど脆い運営基盤が更に危ういものとなるだろう。
隆翔は思案した。今の幹部ではこの北宇治高校吹奏楽部が難破船になりかねない。黄前は転校してきた実力者である真由に気を取られている。そして、絶対に自分の味方でいてくれる秀一に甘えている。高坂は指導に関して経験者も初心者も関係なしにスパルタ指導を繰り返している。一部には黄前、高坂両者を崇拝する後輩もいるらしいが、大半はサイレントマジョリティであり、彼らは一歩引いて状況を監視をしていた。やはりパートリーダーを束ねるしか方法はないのだろうか。幸い、隆翔の絶大な味方であり幹部に対して疑心を持っている人物がそばにいる。沙里と二人でどこまでこの部を縁の下から支えていけるか。コンクールへの本格的な練習が始まる前に、その決断を迫られていた。
◇◆◇
「すみませーん。黄前部長はいらっしゃいますか?」
あくる日の昼休み、三年三組の教室に青いスカーフの一年生三人が緊張した面持ちで訪れた。黄前に用事があったらしいが、生憎席を外していたため一年生指導係の加藤葉月が受け持った。暫くして三人は取次を済ませ帰って行ったが、加藤は苦い表情をしていた。
「マジかあ……」
「今の子達、低音の一年だよな。なんかあったのか?」
「うん、そうなんだけど。クラリネットのサリーちゃ……義井沙里ちゃんが熱出して学校休んでるみたいで、今日の部活を休ませてほしいっていう伝言だったんだよ」
義井、義井……と考えたところでその人物を特定した。いつだったか、ホルンの一年生を介抱していた背の高い子だ。入部当時から彼女は「サリー」と呼ばれていたため、親友の高橋沙里を「じゃない方のサリー」と弄っていた記憶が蘇った。
「なんで、あの三人も休む必要があるんだ?」
「看病したいからだって。……確かにおかしいかも」
「あまり大事にしない方がいい気がする。黄前には上手く伝えろよ」
「まさか、退部するんじゃあるまいし」
「それもそうか」
加藤は一笑に付したが、退部と聞いて嫌な想像が脳裏に過った。希美が吹奏楽部を一度去った理由は、上級生の練習態度を改めようとして発生した人権の剥奪であった。それは経緯は違えど北中でも隆翔を発端として発生した。しかし、今回はただの病欠だ。親が仕事か何かで不在なら、友達として看病してやりたいという気持ちも頷ける。きっとそうだろうと自己解決した後、隆翔は午後の授業の準備に取り掛かった。
放課後はパート練習に時間が割かれた。来週は中間テスト期間のため部活はお休み。その週末にはサンライズフェスティバルが控えている。時間の猶予は一切なかった。
「ワン、ツー、スリー、フォッ」
校舎裏のスペースで沙里がリズムを刻む。パート全員でいま出来ることを全うする。沙里の提案と行動力には頭が下がる思いだ。一年生二人も荒削りではあるものの、先輩に付いてこれる程度まで実力が追い付いていた。
事件は夕刻に差し掛かろうかという時間に発生した。外での練習を終え教室に戻るタイミングで、昇降口から一年生指導係の加藤と梨々花、その後ろから黄前が現れた。
「お疲れ〜。三人ともどこに行くの?」
「高橋さんお疲れ様。今日休んだサリーちゃんのお見舞いにね」
「あー、今日休んでんだっけ。大変だと思うけど、よろしくね」
コクっと二人は大きく頷いた。
「それで、部長も今日は帰るの?」
「えっ」
僅かに棘のある沙里の質問に黄前は驚嘆した。加藤と梨々花の二人と共に行動しているのだから、当然黄前も義井の見舞いの筈だ。しかし、それでも沙里は敢えて問いただした。その行動が何を意味するか、既に理解をしているから。
「私もサリーちゃんのお見舞いだよ。やっぱり心配だし、前から一年生は気になってたから」
「でも、お見舞いだけなら一年生指導係の二人だけで良いんじゃないの」
「いや、低音の三人も一気に休んでるとなると、ちょっと心配で」
黄前は沙里の追及に視線を逸らした。職権濫用も疑われるシーンで、この見舞いには明かせない目的があると言っているようなものである。
「……そうなんだ。義井さんをよろしくね」
「う、うん! それは勿論」
沙里はそれ以上の追及を避けた。リーダーである以上、立場は違うが責任問題という面では同じ課題に取り組んでいる。沙里は敢えて何も伝えなかった。何も忠告しなかった。
「黄前、分かってると思うけど、腹括れよ」
沙里が伝えなかった通告を隆翔が引き継いだ。今の黄前が理解できるかどうかは置いといても、頭の片隅には引っ掛かるだろう。
三人を見送ったあと、沙里と隆翔は二人きりとなった。
「隆翔くんって優しいよね」
「そうか?」
「『腹を括れ』なんて、私の思惑に気付きなよって言ってるようなものだよ。自覚あるのかな、部長は」
「あったら見舞いになんて行かないだろ。一年生指導係を決めたのはあいつら幹部だ。どういう事情であれ、あの二人に任せきれないと判断したか、それとも何かしらの不安要素があって同行したか、だろうな」
「何かしらって?」
「例えば、今日休んだ連中が退部を仄めかした、とか」
この場には沙里と隆翔の二人きりだが、話の内容が内容なのでトーンを下げた。誰が聞き耳を立ててるか分からない。「退部」とは部内では禁句に近い言葉だ。易々と口にして良いものではない。
「笑えないだろ?」
「……義井さん、高坂さんに責められた武川さんをケアしてた時も、あの子凄くつらそうにしてた。限界だったのかな」
「緊張感を持って練習するのは良いことだけど、高坂みたいに追い詰めるような指導しか出来ないのはいただけないな。特に今回の場合、ちゃんと出来ている子が参っちゃった訳だし」
「高坂さん、あまりに理想が高すぎるよ。立華や龍聖に負けたくないって気持ちは分かる。でも完成度としては既に去年を上回ってるんだから、あんなに目くじらを立てなくても良いのに。まだ入部して一ヶ月の初心者相手に……」
理想が高いというより、これまで高坂は自分を高めるために他人の為に時間を割いた機会が無いのではないだろうか。北中でも北宇治でも彼女は孤高を極め、自身で設定した高いハードルを超えようと努力していた。だからドラムメジャーになっても、部員個人の成長曲線に沿うことよりも集団の結果を追い求める。たとえ、その過程で脱落者が何人出ようとも。
自分に負けたり逃げたいという感情を軽蔑するのは簡単だが、抱いてしまった人間は少しでも安らぎある方向へ進みたがるものだ。強さは時に残酷にも牙を剥く。それを隆翔は熟知していた。
沈痛な表情になってしまったからか、沙里は話を変えようと突飛な行動に出た。
「隆翔くんはちゃんと陽向ちゃんを見てて偉いよ」
「なんだよ突然」
「一年生、特に初心者の陽向ちゃんを一番見てるのは隆翔くんだもん。お陰でパーリーの仕事に専念できるし、ほんと助かってる」
「水井さんは俺が勧誘したようなものだし、面倒見るのは当然だろ」
「それでも。その責任感の強さは、素直に尊敬するな」
まるで子供をあやす様に頭を撫でる沙里は、普段の明るさとも違う、優しい笑みを零していた。フルートパートのムードメーカーかつ大黒柱の沙里が、最近は苦心しながら後輩の指導にあたっている。それにリーダーという立場もある。皆の前では気が張っていても、親友の間柄である隆翔の前ではリラックスしているようだった。
「沙里のことは俺が支える。人の強さも弱さも知ってる沙里なら必要ないと思うけどな」
「心強いね」
「ははっ、まあ、あまり気張りすぎるなよ」
「ありがと、隆翔くん」
◇◆◇
結局、辞めるだなんだと騒がれた一年生たちは、翌日嘘のように復帰した。黄前が見舞った場で何を吹き込んだのかは隆翔の預かり知らぬところだ。ともあれ、吹奏楽部では騒動の火種があったという痕跡は雲散霧消しており、それが逆に不気味だった。
フルート教室では、主にコンクールの課題曲、自由曲と毎度向き合っている。高校の部では一年生の吉田も同じ時間のレッスンを受けている。沙里が塾のため参加日数を減らしたこともあって、吉田と二人で帰ることも少なくなかった。
「はぁ……」
「大丈夫か?」
「いや、あの……オーディションのことで」
「今日も苦戦してたな」
「はい……」
この日のレッスンで、吉田はソロパート、主に第四楽章をメインに吹いていた。表現力が最も求められることで、心の奥行きをどれだけ見せられるかが勝負になるだろう。講師の水谷も同じようなことを指導していた。
吉田の長所はその正確性。譜面に描かれた指示は常に的確に守っている。ただ、譜読みで必要な読解力までは身についていなかった。沈痛な溜息が、吉田から留まることはなく吐き続けられている。
「打ち込んだ機械みたいな演奏だって怒られました。それじゃダメなのは分かってるんですけど、曲の背景とか、必要な情報みたいなものが全然見えてこなくて……」
「喜怒哀楽とか感情の共感性、ってとこかな」
「はい」
難しい設問だ。こればかりは奏者の経験則に偏ってしまう。
今のフルートパートを隆翔なりに序列付けすると、筆頭に沙里と隆翔と小田。次点で経験者の吉田と江藤。三年生の中野と二年の平石はそこに一枚ほど落ちる。初心者の水井はまだ戦力とは言えない。そこにピッコロ担当の山根が入ってくる。五十五人制のコンクールでフルートに割り振られる人数は決して多くない。ピッコロも含めて六人が関の山だと思っていた。
この想定が滝の求める演奏に当てはまるなら、吉田はなんとしても戦力に加えたいところだった。一度しかないオーディション。譜面から迸る木管、特にクラリネットとフルートはこの曲の要石と言っても過言ではない。だからこそ、いま彼女が抱えているスランプは想定外の事態だった。そんな彼女への労いと期待を込めて、自動販売機のボタンを二度押した。
「先輩って、メンタル強いですよね」
「まあ、昔から色々あったからね。はい、これ」
「あ、いただきます。吹部に入ったのも去年って聞きました。二年生からなのに、もうファーストを任せられるまでになったのは、何か秘訣があるんですか?」
「無いと言えば嘘になるけど……」
強いて言えば、隆翔は運が良かった。希美という存在、パートの門戸を開けてくれた同期、フルート教室を紹介してくれたピアノの恩師。隆翔が今日まで演奏できたのは、数えきれない人々の助力とタイミング、運に恵まれたからである。
「お願いします。どうやってメンタルを維持できるのか、教えてください」
吉田の懇願を無碍にするのは簡単だ。しかしそれでは、先輩としての威厳も、隆翔自身を育ててくれた人への信頼も失墜してしまう。少し考えて、隆翔のアイデンティティを少しだけ教えることにした。
「後輩にこんなこと言うのは恥ずかしいんだけどさ、俺も失敗ばっかりだったよ」
「そうなんですか?」
「うん。上手くいかないことが殆ど。今でこそ多少はマシになったけど、水谷先生にはこってり絞られてきたし、滝先生には名指しで注意される日が続いたり、彼女の演奏には一生追いつけないって自分を責めたり」
「先輩、彼女居たんですね」
「あ、聞いてなかった感じか。今の忘れて」
「無理です」
「……ま、それは置いといて。とにかく、それで上手くなるには近道は無いんだって気付けたんだ。背伸びしても身の丈に合わなかったり、後ろを向いた瞬間目標を見失ったり。でも、そんな苦しい時間の中にも嬉しいこともあってね」
暗い話に首を垂れていた吉田が、ハッと頭を上げた。
「実は、ファーストになれたのって君たちの歓迎コンサートが初めてだったんだ」
「そうなんですか!?」
「そうだよ。滝先生から指名されたときは自分の成長を感じられたし、たまには良いこともあるんだなって前を向く原動力にもなった。でもさ、そういう出来事って日々の何パーセントくらいだと思う?」
「さあ、三十パーセントくらいですか?」
「あはは、それくらいあったら良いよね。打率にしたらもう首位打者だね」
「……野球で例えないでください。知らないので」
「ごめんごめん。まあ個人差はあるだろうけど、大体二パーセントくらいだと思ってるよ」
「二パーセント! 少なすぎませんか?」
「少なく見るか多く見るかは、吉田のこれから次第だよ」
本当に伝えたいのはこの言葉だった。もちろん、成長度合いでパーセンテージは変わってくる。吉田はまだ成長過程だ。伸び代も多いだろう。今は伸び悩んでいても、着実に力をつけていけば北宇治のエースとなれる素質を持っている。
二パーセントという数字は完全に隆翔の主観だ。人によっては十や二十と感じる人もいるだろうし、それを否定するつもりもない。ただ、中学二年で部活を辞めた後、隆翔はゼロパーセントだった。それに比べたら、二パーセントは希望が持てる数字だった。
「自分の強さも弱さも知って、どんどん上手くなって、吉田ならいつかエースになれると信じてるよ」
「樟葉先輩……」
「オーディションもサンフェスも頑張ろうね」
「……はい!」
憑き物が取れた吉田の表情を見て、辛い過去も悪いことだけではないと思えた。
ゆっくりだが、着実に京都には夏の足音が聞こえてきている。三室戸寺の紫陽花はいよいよ満開を迎え、近所の和菓子屋には若鮎や水無月が並ぶようになった。中間テストを終えた北宇治高校吹奏楽部は、いよいよ週末にサンライズフェスティバルを迎える。完成度は昨年以上だと皆の士気も高い。コンクールとは違って優劣を付けられることもない。ましてや、初心者に競うことを説くイベントでもない。まずは演奏を楽しむこと。そして観ている人に演奏を楽しませることを念頭に、直属の一年生を導いた。
梅雨入りも控える中、着々と最後に詰め込み練習が行われる。数々の障壁を乗り越えながら太陽公園の丘を越える準備は整っていった。
【つづく】