太陽公園とは、宇治市近郊にある総合運動公園の総称である。球技場や陸上競技場を有する一大スポーツ公園となっている。音楽好きの間では、京都出身のロックバンドが毎年七月にこの公園で大規模フェスを開催することで有名だ。宇治市民なら一度は利用したことがあるほど大きな公園だろう。
今日、この太陽公園では府内の吹奏楽部が一同に介する「サンライズフェスティバル」が開催される。北宇治は毎年伝統的に参加し、その実力を世間に見せつけてきた。が、当然隆翔は初めての参加である。
早朝の楽器搬入、積み忘れの確認等々の作業指示は幹部である秀一が現場責任者として担った。隆翔も貴重な男子部員として力仕事に駆り出され、寝ぼけていた身体はすっかり覚醒した。
「これで最後」
「よし、全部載ったな。滝先生に伝えてくるから一旦待っててくれ」
「おう」
五月の空は雲を僅かに漂わせながらどこまでも澄み渡っている。とはいえ、数日前に梅雨入りが発表された。この貴重な晴天が今日という日に重なったのは実に運が良い。なんとしても良い日にしたい。同時に、閉塞感と焦燥感に苛まれたこの吹奏楽部が、少しでも前へ前へと進展できればこれ程のことは無いだろう。
楽器を載せたトラックを見送り、学校が用意した大型バスに乗り込む。結局、秀一と共に行動したこともあって隆翔は最後に乗ることとなった。
「樟葉、搬入手伝ってくれてありがとう」
「お安い御用ですよ。部長様」
「何それ。秀一は前の方に座ってて。樟葉は後ろでフルートの子たちが席取ってたよ」
黄前の指示で秀一は顧問の後ろに一人寂しく座ることになった。後部座席から沙里が手を振っている。
「搬入お疲れ様」
「いえいえ。席取っててくれてありがとう」
「なんのなんの」
プシュー、というエアーの排気音がして、部員を乗せた大型バスは太陽公園に向けて出発した。閉塞的な音楽室から飛び出した一向は、興奮からお喋りに興じる生徒がほとんどだ。それはフルートパートの集う後部座席も例外ではなかった。
「今回の順番って北宇治、龍聖、立華なんですね」
「じゃあ立華は観れそうにないかぁ」
「本当に残念です」
「巧美ちゃん、立華の演奏楽しみにしてたもんね」
心残りと言わんばかりに、沙里と吉田は落胆した。レッスン仲間でもある西条姉妹、隆翔にとっては部長として躍動する梓の晴れ舞台を観ることは、まだ当分叶いそうにない。
太陽公園に到着すると、既に到着している学校が色鮮やかな衣装を着飾ってチューニングや隊列の最終確認に勤しんでいる。その中に件の立華高校の姿もあった。水色のマーチング衣装に包まれた集団の中心にいるのは、ポニーテールで気を引き締めた部長の梓だ。
「はーい、立華集合!」
周囲に散っていた部員がササっと梓を囲んだ。満足そうにその様子を窺うと、よく通る声で諸注意と指示を出している。半年前、大阪東照との合同演奏会に不安を吐露した面影は一切感じられない、立派なリーダーの姿がそこにはあった。
全国区の立華はそのネームバリューと、吹奏楽経験者の間で畏敬の念を込めて衣装の色合いを取って称される「水色の悪魔」という渾名もあって注目度はトップクラスだ。当然、こうしたオープンな環境下では衆目に晒される。だからマーチングの大会ともなれば一瞬たりとも気が抜けないと以前梓が誇らしげに言っていた。
「えー、一年生は初めてお客さんの前での演奏です。実際のマーコンほどではないですが、今日の経験を大事にしてください。二、三年生は一年生をしっかりとサポートしてください」
部長らしく声を張り上げる梓。彼女を取り囲む部員は百人をゆうに超える。やがて、「いっちょやりますか!」と目一杯張り上げた梓の声が、円陣の中心から響いた。
「笑顔じゃなければ!」
『立華じゃない!』
「We enjoy‼︎」
『Music‼︎』
「We love!!」
『Music‼︎』
「We are!!」
『RIKKA!!』
お馴染みとなっていた円陣に、見守っていた観客から割れんばかりの拍手が沸く。まだ本番まで時間があるというのに、その仕上がり具合は上々に見える。その光景を見届けて、隆翔は本番に向けて最終準備に取り掛かった。
◇◆◇
衣装に着替え、マーチングの最終チェックに取り掛かる。心配していた歩幅と行進間の動作を一年生の水井、吉田と確認する。
「水井さん、この一ヶ月で演奏面がかなり上達したよ。細かいことを言えば色々あるけど、音楽未経験者がここまで吹けるなら上出来だと思う」
「は、はい。ありがとうございます」
「吉田さんも経験者で求められることが多かったと思うけど、高校のレベルに適応できてきてるよ」
「……あの、樟葉先輩って本番前になるといつもこんななんですか?」
「こんなって?」
「なんか、練習の時以上に褒めてくれるっていうか。正直むず痒いです」
吉田の疑問に隆翔から笑みが溢れる。
「そんな特別だとは思ってないよ。ただ、少しでもモチベーションを上げて本番を迎えたいって気持ちはあるかな。それに、二人には吹奏楽を嫌いになってほしくないんだ」
その呟きに二人は首を傾げた。隆翔は言葉を続ける。
「前に高坂が言ってたことを否定する訳じゃないけど、俺は吹奏楽部が音楽の全てじゃないと思ってるし、それこそもっと自由に音楽をして良いと思ってる。やたらと完成度ばかり求めて、まだ対して愛着のない北宇治の伝統だとか、周りの学校に存在感を見せつけるとか、そんな窮屈なことは絶対に言いたくない。だから二人には音楽を、フルートを好きになってほしい。だから、無理に北宇治を好きになる必要はないって思ってるよ」
隆翔がこれまで数々の失敗と挫折を経験、または見聞きしてきたからこそ言える言葉だった。希美は中学で挫折し、北宇治を変えようとして迫害を受け、さらには全国大会出場という夢を断たれた。本人には聞いた訳ではないが、恐らく希美は北宇治にそこまで愛着がないだろう。ただ、濃密な三年間を過ごしたことには変わりない。それは隆翔も同意するところがある。
「二人とも手を前に出して」
「は、はい」
突き出された手を重ねて、エールと勇気の言葉を送った。隆翔が一歩踏み出す勇気を他人からもらったように、今度は隆翔が二人に送る番だった。
「絶対大丈夫。沿道には大勢のお客さんがいて、俺たちの演奏に期待をしてる。足が竦むかもしれない。プレッシャーに目を瞑りたくなるかもしれない。でも、絶対に大丈夫って唱えながら一歩踏み出して。一緒に頑張ろう!」
「はい!」
一年生の二人と最も関わってきたのは隆翔だ。これは紛れもない事実だ。初心者として一から音楽理論を叩き込んできた水井陽向。経験者に向けられる期待感からスランプに陥った吉田巧美。初めて隆翔のもとで歯を食いしばりながら努力してくれた後輩だ。先輩として、彼女たちに結果と達成感を与えてやることが、一番の恩返しだろう。
「なになに? 三人だけでなんか良いことしてる」
「勝手に円陣組まないでよ。ハブられてるみたいじゃん」
「私たちもやろう! 二年生もこっち来て」
一年生二人への訓示を見たパート全員が集ってきた。隆翔を中心に広がる小さな円。その光景に、隆翔は困惑していた。
「誰が声かけする?」
「そりゃ、隆翔くんでしょ」
「いや、なんで俺なんだよ。そこは沙里だろ」
「ううん、隆翔くんがやって。言葉はなんでも良いから」
「卑猥なのはやめてね」
「馬鹿なの? 小田は」
珍しく我を通した沙里に押される形で隆翔が声出しを担当する。しかし、悪い気は一切しなかった。崩壊しかけた三月を経て、四月に一年生を迎えたフルートパートは再び結束した。その再構築の過程で隆翔は逃げなかった。その姿勢をみんなが見ていた。もう誰も隆翔を邪険にするメンバーは存在しない。
「……よし。サンフェス、全力で楽しもう! フルート、ファイッ!」
『オー!』
「続きまして、北宇治高校のみなさんです」
行進のスタートラインに立つ高坂の右手にはマーチングバトンが握られている。スタートの合図を待つ間も背筋は伸び、一瞬たりとも気を抜いたりしない。
北宇治の後には龍聖、そして立華が続々とスタートする。誰もが注目する強豪校がひしめく時間帯だけあって、沿道の観客は幾重にも重なっている。立華ほど笑顔に飛び跳ねることはできないし、龍聖ほど腹に響くような美爆音は出せない。それでも強豪校に肩を並べるほどの実績を持ち合わせている北宇治の魅力は、一体なんであろうか。
そんなことを考えていると、高坂のホイッスルが鳴らされた。バトンを掲げ拍取りをしながら、スネアドラムがリズムを刻む。トランペット、ホルン、低音楽器、トロンボーンが音を重ねていく。陽気なメロディを刻みながら、木管楽器が加わった。高坂のバトンの動きを見誤らないよう、隆翔たちは一歩を踏み出した。
フルートは横笛と呼ばれるだけあって右腕を伸ばして演奏する。一定時間吹き続けると、腕に乳酸が溜まって辛くなってくる。一昨年、昨年を経験している沙里は涼しい顔で吹き続けているが、マーチング初心者の隆翔は耐え続けるしかない。隆翔の横には一年生の吉田と水井が並んでいる。当然、二人とも辛そうにしている。隆翔は一瞬だけ二人に視線を送る。吉田と目があった。辛そうにしているが音はブレていない。水井は姿勢こそ崩れていないが音が段々と細くなっていった。観客に視線を送る余裕もない。自分達のことで精一杯だった。
トロンボーンのユニゾンから洗練されたクラリネットの連符が駆け抜けていく。高坂がバトンを高々と投げ、トワリングさせながらキャッチする。沿道から大きな歓声と拍手が送られる。その歓声に、なぜだか自分達が褒められたような気がして悪い気はしなかった。
◇◆◇
会心の本番を終えた北宇治の一行は、閉会まで一時解散となった。
近年の京都は、かつて三強と呼ばれた大阪にも引けを取らないほど強豪校が鎬を削っている。それもあって、太陽公園には学生の親族以外にも多くの吹奏楽ファンが大挙している。隆翔たちが演奏を終えたすぐあと、立華高校の出番となった。片付け中の隆翔たちはその勇姿を見ることは出来なかったが、沿道からの大歓声、一糸乱れぬ壮麗な音色は、とても新体制となって二ヶ月のクオリティとは思えなかった。この音色を作り上げたのが幼馴染みの梓だという事実に不思議な感覚を覚えた。
「隆翔くん。この後何するか決まってる?」
「いや、適当に時間潰そうかと」
「じゃあさ、立華のとこ行かない? 美音と花音もいるだろうし」
沙里の提案に頷いた隆翔は、早速制服に着替えて立華が集うエリアに向かった。水色のマーチング衣装は何処にいても目についた。
「立華のとこへ行くなら私も行きたい。秀一はどうする?」
「じゃ、俺も」
「アタシも行く」
「お前らも来ると目立つだろ。沙里は大丈夫か?」
「……うん、全然大丈夫」
隆翔たちを捕まえた黄前が、秀一と高坂を引き連れてきた。こうも幹部が揃ってしまっては嫌でも目立った。しかも高坂に至ってはドラムメジャーとして先頭に立っていた立場だ。
「見て、北宇治のドラムメジャーだよ」
「うわっ、美人すぎ。スタイル良いなあ」
「立華のとこに向かってない?」
「宣戦布告?」
「何のだよ」
ひそひそと有る事無い事を囁かれ居心地が悪い。この状況を嫌悪する隆翔を沙里が諌めた。
「だから言ったんだよ……」
「まあいいじゃん。強豪に見られるのも悪い気はしないし」
「そういうことじゃない」
隆翔が本当に心配だったのは沙里の立場だった。隆翔の休部騒動で、彼女はマネージャー剥奪の幹部判断に真っ向から反対した。以降は沙里の側からではあるが、幹部、特に黄前と高坂への拭いきれない造反感情を抱いている。ただ、その感情もほとんど隆翔の前でしか見せない上に、パートリーダーという職務の前ではしっかりと二人に相対している。そのひた隠しっぷりには感心していた。
立華の面々は演奏を終え、既に衣装から制服姿に戻っている。比較的自由にしている集団を見渡せる位置に、部長の梓は陣取っていた。
「あずさー、お疲れ」
「あ、隆翔じゃん! ごめんね演奏見れなくて」
「あんだけ順番近いと無理だって。俺だって立華の演奏は見れなかったし」
「そうだよね。で、そちらは?」
「はじめまして。フルートパーリーの高橋沙里です」
「ああ! 花音と美音と隆翔がいつも迷惑掛けてます。部長の佐々木梓です、よろしく!」
「う、うん。よろしくね」
出た、と思った。梓のこの初対面にも物怖じしない性格はたまに目にするが、相手を飲み込むきらいがある。実際、沙里は梓の勢いに圧倒されている。
「花音と美音ってどこにいますか?」
「あっち」
「ありがとう。隆翔くん、ちょっと行ってくるね」
「ああ、あとで俺も行く」
沙里は頷いて、西条姉妹のもとへ向かって行った。
「……へえ。隆翔くん、ねえ。随分親しげじゃん」
「普通だろ。俺らだって名前で呼び合ってるじゃねえか」
「そうだけどさ……私たちは付き合い長いから」
「長さは関係あるのか?」
「……うるさい!」
「いってえ!」
梓は不満を剥き出しにして隆翔の脛を蹴った。何が不満なのだろう。その真意を探ろうと梓の顔を確認しようにも、そっぽを向かれてしまい判別できなかった。
「梓ちゃん、久しぶり」
「あ、久美子! それに塚本に麗奈も。ボウリング以来だね!」
「そうね。久しぶり」
少し遅れて、幹部の三人もやってきた。隆翔と梓を含めて、この五人は北中吹奏楽部からの付き合いだ。自然と会話も弾む。話題はもっぱら、今日の演奏についてだった。
「流石立華って感じだな。オーラが違う」
「褒めても何も出ないよ、塚本。北宇治の『オー・プリティ・ウーマン』も良かったってもっぱらの噂だよ。特にドラメがってね」
「そ、そうなの?」
「麗奈照れてる」
「揶揄わないで」
立華の梓と北宇治の幹部が一堂に会するのは半年前のボウリング以来だ。その頃に比べて、梓は一段と部長らしくなった。心に巣食っていた臆病故の視野狭窄と、元来の寂しがり屋な性格はなりを潜めている。そのカリスマ性が蝕まない限り大丈夫だろうというのが隆翔の見立てだった。
百日紅の木陰では沙里が美音、花音と交流しており、二人とも普段の三年生らしくあろうとする仮面を取っ払い、和気藹々としている。そもそも立華高校とは学区も被っている上に、滝が顧問の椅子に座ってから何度か交流がある。だから、北宇治と立華は部員同士でも仲が良かった。
その後は西条姉妹に顔を出し、一年生の吉田も呼んで和やかな時間が流れた。他校の演奏を流し見しつつ、強豪校同士で共感できる話に花が咲いた。
「杏奈先輩、お久しぶりです!」
「みんな、演奏見てたよ」
体育会系らしい張り手のような挨拶の先で、柔らかい声色で後輩と相対する女性が立っている。春らしいカーディガンを纏い、明らかに生徒ではない。大学生だろうか。フライドポテトの髪留めが印象的だが、隆翔はこの人物に心当たりがなかった。
「梓ちゃん、貫禄ついてきたんじゃない?」
「ありがとうございます。杏奈先輩は大学でもトロンボーン吹いてるんですか?」
「ううん、音楽は高校までって決めてたから」
隆翔の傍で、立華OBの先輩と語らう梓。その表情は部長という職から一歩引いた、先輩と後輩の信頼関係から来るものだった。
「ね、隆翔も憶えてない? 橋本杏奈先輩だよ。北中でトロンボーン吹いてた」
パチパチッと細かいフラッシュが視界の端で瞬いた。塞いだ記憶の隅に映る、消せない過去。その中にいた女子の先輩。その昔、トロンボーンパートで梓を可愛がっていた。パズルが少しずつ嵌っていくように、目の前に立つ人の情景が浮かび上がった。
「隆翔って、もしかして樟葉隆翔くん……?」
「……あ、はい。お久しぶりです」
会いたかったかと言われても、百パーセント首を縦には振ることはできない。むしろ割合的には会いたくなかった方に分類される。隆翔にとって、大吉山北中吹奏楽部の一学年上の世代とはそういう存在だ。忘れたい過去、時間、出来事。消えないからこそ永久に開かない入れ物に蓋をして隆翔は再び前を向けるようになった。それが当事者の学年であった杏奈との再会で、否が応にも思い出すしかない状況となっている。彼女を慕っている梓や美音、花音の手前、この再会を邪険にするのも憚られた。
「北宇治に行ってたんだね」
「はい。でも、仕方ないっすよ。合同演奏会のことは俺も知りませんでしたし、復帰したのも去年の夏だったんで」
「そうだったんだ……」
「先輩が立華に受かったお陰で梓が推薦貰えたんですから、幼馴染みのよしみで感謝してますよ」
「そんなことないよ。私は全然、梓ちゃんが凄いんだよ」
当時のことは話さない。臭い物に蓋をするように、旧知の先輩という立場で接している。杏奈の態度を見ても、当時の出来事はあまり思い出したくないように思えたのだ。
しばしの沈黙。杏奈が何を言い出そうとしているのか、隆翔は奥歯を噛みしめて待つしかできなかった。やがて、彼女は言葉を震わせながら隆翔と向き合った。
「……あの、正直に言ってほしいの。私たちのこと、恨んでる?」
「ええ」
「た、隆翔……?」
そう聞かれたら、恨んでいると答えるしかない。嘘をついても良かったが、なんとなくそうはしたくなかった。怒りの矛先は自分ではなく、切磋琢磨してきた同期を蔑ろにされたことに向けられている。それを腫れ物に触れないよう見て見ぬ振りを貫いた先輩、同級生、後輩たち。あの世代の北中吹奏楽部出身者は、そんな呪いを抱きながらこれまで過ごしてきた。
名前も忘れた先輩に付けられた醜い傷跡が蚯蚓腫れのように疼きだす。杏奈の目は泳いでいる。覚悟を持って聞いてきたと思ったが、隆翔の見込み違いだったようだ。
「……っ! そうだよね、何当たり前のこと聞いてんだろ」
「橋本先輩、勘違いしないでください。俺に謝って、自分だけすっきりしようなんて思わないでくださいね」
あの時、大勢の部員に裏切られた。先輩も、同期も、後輩も関係ない。あの時北中で起きてしまった出来事を心から悔やんでくれたのは梓だけだった。彼女の尽力がなければ、当時のフルートパート同期の内藤秀と再会することもなかった。
杏奈の大きな瞳が揺れている。彼女とて、中学最後のコンクールを府大会銀賞という不甲斐ない結果で終えて悔しさを味わった。その反動もあって立華に進んで青春をトロンボーンに捧げたのだろう。そして努力の末にマーチングで全国の舞台を踏んだ。認めてやらねばならないし、隆翔に杏奈の努力を否定する資格はない。
梓の不安そうな表情が目に映る。そんな顔をされては、こちらが折れざるを得ない。
「でも、今はなんとも思ってないですよ。なので恨みはしましたけど怒ってはいません」
「……え、どうして?」
「先輩もしっかり悩んでくれたみたいですし。何より、俺は今が楽しいので。正直、いつまでも北中の記憶に縛られるのはだるいんですよ」
呆気に取られる梓と杏奈。暴利な要求でもされると思われていたのなら心外だ。それに、隆翔の呪いを祓ってくれたのは当時を知らなかった希美だ。だから希美を慕ったし、好きにもなった。そして今は恋人という立場から隆翔を見守ってくれている。これで過去の諍いを引き合いに出してしまうのは器が大きいとは言えない。釣り合いが取れないことはしない。それが隆翔のポリシーだった。
「じゃあその代わり、コンクールでは立華と北宇治、両方を応援してください。俺らも精一杯演奏するんで」
「う、うん! それはもちろんだよ!」
ぶんぶんと顔を縦に振って杏奈は応えた。梓の目の前で、当時を水に流したように見せるのは初めてだ。これで少しでも梓の中にある蟠りが解消できれば何よりだった。
希美ほどではないが、この人も良い笑顔をする。そして人柄も。梓が慕うのも頷けた。
こうして隆翔のマーチング初体験となったサンライズフェスティバルは無事に終了した。北中の先輩、橋本杏奈との再会というイレギュラーはあったが、それもまた思い出である。
北宇治高校吹奏楽部はいよいよ本格的にコンクールへ舵を取り始める。そして一カ月もすれば泣いても笑っても最後のオーディションが待っている。希美が夢見た全国の舞台を目指す戦いの火蓋は、すでに切って落とされていた。
【つづく】