或る、フルート吹きの青春   作:ハヤブサ320

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北宇治高校二年生編、開幕。


−追記−
2025.3.8 内容を加筆修正しました。


一章 群青
EP.03 はじめまして?


 五月の京都は、盆地特有の気候が災いして摂氏三十度に届くかどうかという気温を記録する。ついこの間、醍醐寺の桜が満開になったニュースが流れていたが、気が早いものだと隆翔は溜め息を吐いた。

 

 学校へと至る坂道はどこまでも続いているように見えた。登校するだけで残気が減ったような気分になる。

 途中にある公園で学ランを脱いだ隆翔は、小脇に抱えて再び上り坂を歩き始めた。

 

 

 

 中学二年の夏に北中吹奏楽部を退部してから三年の月日が経とうとしていた。

 その後はどの部活動にも所属しないまま北中を卒業し、家から近いという理由で京都府立北宇治高等学校へ進学した。

 

 

 高校二年生、帰宅部。それが現在の隆翔の肩書きだった。

 

 

「イッチニ、イッチニ」

 

 ホイッスルの音と共に、楽器を携えた隊列が規則正しくグラウンドを行進している。

 

 今度の大会はマーチングなのだろうか。朝から全力全開の彼らは、文句も言わず汗を滴らせながら練習に励んでいた。

 

 放課後、特に用もない隆翔はホームルームが終われば真っ直ぐ帰宅している。

 中学の頃は、高校生は精神的にも大人で計画的な人生を順調に歩んでいくのだろうと思っていた。しかし、当時思い描いていた設計図は、客観的に見ても既に破綻していた。

 特にやりたいこともない。自分が無いのであった。

 

 

 

 部活動が活動する時間になると、授業の時間では聞こえてこなかった音が校内を包み込む。キィンと響く金属バットの音、サッカー部の掛け声。そして、すべての喧騒を掻き消すトランペットの強烈なロングトーン。

 

 この音の主人が放つトランペットの音を、隆翔はよく知っている。

 

 隆翔が北宇治高校を選んだに明確な理由はない。ただ、北中に通っていた同級生の多くが南宇治高校を志望した。

 それは隆翔が中学二年の夏に退部した吹奏楽部の部員も例外ではなかった。中学校の担任から北宇治か南宇治かで選択を迫られた時、その要素を無視できたとは言い難かった。

 

 幼馴染みの梓はマーチングの強豪立華高校の推薦を勝ち取った。

 吹奏楽コンクールと双璧を成す全日本マーチングコンテスト。立華高校は何度も全国大会で金賞を獲得してきた。

 

 同じマンションに住んでいた佐々木家は、中学三年の冬に造成地に完成した新興住宅へと引っ越していた。

 隆翔が梓と言葉を交わしたのは、中学の卒業式が最後であった。

「よっ、秀一」

「おお、隆翔」

 

 トロンボーンケースを背負った塚本秀一が人波を避けながら歩み寄る。中学ではホルンを担当していたが、高校ではトロンボーンへ転向した。なんでも、幼い頃に良くして貰った人が吹いていた憧れの楽器であるそうだ。

 

「今日も練習か」

「ほとんど毎日。大会近いし熱が入るのは良いんだけど、こう暑いとな……」

 

 秀一は気怠そうに溜息をつくと、首に掛けたマフラータオルで汗を拭った。

 

「で、最近、黄前とはどうなんだよ」

「ばっかお前! 部活内では秘密にしてんだから大声で言うなよ」

 

 隆翔の揶揄い対して顔を真っ赤にした秀一が距離を詰める。

 黄前久美子は秀一と同様に北宇治へ進学した。中学の頃と同様にユーフォニアムを担当しており、そのキャリアは八年目に突入した。

 そして、高校一年生の冬に秀一と黄前は恋人同士となった。二人の恋愛は黄前の意向によりトップシークレットだったが、告白の時期を巡って悶々としている秀一が隆翔にうっかり口を滑らせたことで、二人の間では周知の事実となった。

 

「でも付き合って四ヶ月も経てばデートくらいはしてんだろ」

「いや、練習が忙しくてそれどころじゃない。最後に二人で出掛けたのも三月にアル・プラザへ買い物に行ったきりだわ」

「なんか、逆にお前ららしい」

「なんだよそれ」

「同じマンションだとそもそも二人きりになりやすいもんな。キスくらいは済ませただろうし」

 

 隆翔の発言には一切の悪気は無かった。高校生ともなれば、恋愛におけるそういう行為は秘密裏に横行しているだろうし、実際に聞き及ぶこともあった。しかし、秀一はじっと黙り込んでしまった。

 

「……嘘でしょ。今時珍しいよ。そんなプラトニックな恋愛」

「うっさいわ、ほっとけ」

 

 あまりに進展の遅い二人の前途を祈った。

 とは言え、秀一の相談には良く乗っていたが隆翔も恋愛経験は全く無い。

 

「じゃ、練習行ってくるわ」

「おー、頑張れよ」

「隆翔も、いつでも戻って良いんだぞ」

「……それは、無いかな」

「そっか」

 

 別れ際に秀一は隆翔の吹部復帰を勧めてきた。今までもこうした勧誘は何度かあったが、隆翔はすべて固辞していた。

 

 

「ちょっと、退いてくれる?」

 

 

 背後から語気の強い声が隆翔を襲う。

 隆翔を見かけ機嫌を損ねたその声の主は、先程の強烈なロングトーンを放っていたトランペットの高坂麗奈だった。

 高坂は隆翔を追い抜くと、睨みつけるように一瞥してグラウンドへ歩いて行った。

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 中学二年の秋、隆翔と高坂の間でとある確執が生まれていた。

 部活に明け暮れていた中学一年の夏休みと比べて、退部した後の夏休みは時間が有り余って仕方がなかった。日本に一時帰国した父の実家である広島へ遊びに行ったり、卒業以来疎遠だった小学校の友人たちと交流したりと、ぽっかりと空いた穴を埋めるように予定を詰め込んだ。

 

 隆翔が辞めた後も吹奏楽部は変わらず活動を続けた。時折、遊び帰りの隆翔と部活帰りの梓が遭遇しては、互いに気不味い雰囲気を味わうこともあった。

 

 

 

 

 

 そんな夏休みも明けた九月の始業式に事件は起きた。

 

 

「樟葉、ちょっといい?」

 

 隆翔を呼び止めたのはトランペット担当の高坂麗奈だ。

 二人はこれまで同じ吹奏楽部の同級生として活動していたが、パートが異なっていたことと、彼女の人を寄せ付けない雰囲気から今まで一言も言葉を交わしたことはなかった。

 

 下校する隆翔を廊下で待ち伏せていた高坂は、どこへも行かせまいといった雰囲気で仁王立ちしている。そして十センチ以上はある身長差にも怯まず、隆翔を全力で睨みつけていた。

 

 絶対に話を聞いてはいけない。あまり信じたことがない直感がそう叫んでいた。知らぬ振りをして、高坂を振り払おうとした。

 

「……ちょっと、待ちなさいって言ってんの」

 

 高坂は横をすり抜けようとした隆翔の腕を器用に捕まえた。華奢にも見える体だが、その予想を裏切る握力で隆翔の腕を握った。

 隆翔は観念して両手を頭上に上げた。

 

「分かった、分かった。そんなに睨むなって」

「睨んでないわよ」

「睨んでるよ。蛇か」

「失礼ね」

 

 フン、と鼻を鳴らすとあからさまに不機嫌になった。

 

「すぐ終わるからついてきて」

 

 高坂に連れてこられた場所は美術室前の廊下。ここから先は突き当たりになっていて、授業以外ではほとんどの北中生が近寄らない。つまり、人目もなければ逃げ場はどこにもなかった。

 

「単刀直入に聞くわね。どうして吹部、辞めたの」

 

 物怖じしない性格なのか、腕っ節では絶対に勝れないであろう隆翔を相手にしても勝ち気に隆翔を睨んでいる。

 その態度に隆翔もいい加減うんざりしていた。

 

「……高坂には関係ない」

「関係ある。少なくとも、これからのアタシたちには」

「意味が分からない。告白なら先に断っとく」

「フン、バカ言わないで」

 

 無論、そうではないことは隆翔でさえ承知だ。高坂はそんなジョークを美脚一閃で一蹴した。いよいよ隆翔には『アタシたち』が誰を指すのか皆目見当が付かなくなった。

 

「アンタの噂は耳にしてる。先輩に楯突いて無視されたとか、使えない呼ばわりしたとか」

 

 突如、心臓がドクンと強く弾んだ。退部した日から今日まで、部活とは無理矢理切り離した生活をしていた。心の奥底に鍵をかけて仕舞い込んだトラウマを、高坂はいとも簡単にほじくり返してきたのだ。

 隆翔は何も言い返さなかった。高坂の言葉には事実と反する部分もあった。しかし、今の隆翔には関わる必要のないことだった。

 そんな思いを知らない高坂は、無遠慮に伝えるべき言葉を羅列した。

 

「アタシ、全国に行きたいの。だからアンタに来年を見据えた上でまた復部して貰わないと困るのよ。フルートは内藤さんとアンタが抜けたからアタシたちの代がいない。来年一年生が入ってきても音に厚さが足りないの」

 

 分かるでしょ、と一呼吸置いた。

 

「内藤さんはもう既に他の部活に入ったって言ってたし、アンタだけでも戻ってくれると助かるんだけど」

 

 自分勝手も甚だしい。高坂が女子でなかったら、隆翔はその場で張り倒していた。喉の奥から湧き上がる嫌悪感を飲み込みながら、隆翔は平和的な解決を模索した。

 

「悪いけど、もう部活はやらないって決めたから」

 

 高坂の態度は一貫して『吹部にいる私たちのため』であって、隆翔個人の事情には一切の配慮がなかった。

 自分が望んだような返答でなかったからか、高坂は更に高圧的な態度で隆翔を見やった。

 

「アンタの事情はよく知らないわよ。でも先輩と揉めて、立場が無くなったから辞めますっていうのは、逃げてるだけなんじゃない?」

 

 高坂の煽りを受けても、情熱を失った隆翔は響かない。そうすることが最も波風を立てないと知っていたからだ。

 しかし、本当の退部理由を高坂が知らないのは当然だった。なぜなら、内藤の一件と隆翔の真実を知っているのは梓と秀一だけだからだ。それなら仕方ないと諦観を溜息に乗せて地べたに吐き出した。

 

「悪い、帰るわ」

 

 余計な争いを避けるべく、出来るだけ彼女から距離を取って拒絶する。

 

「ちょっと待ちなさいよ! 話はまだ終わってないでしょ」

「終わったんだよ。全国だかなんだか知らないけど、お前みたいな不快な奴に誰が付いてくるんだよ」

「……もう一度言ってみなさいよ」

「お前、友達いないだろ。部活でも孤高を気取ってたもんな。痛いんだよ、そういうの」

 

 売り言葉に買い言葉だった。隆翔は既に怒り心頭であり、その煽りを受けた高坂も激高した。折角の整った顔が、般若のように歪んでいた。

 

「友達いるとかいないとか、そんなの関係ないでしょ! 私はただ、全国目指して部活したいからって……」

「だから、それがお前のエゴだって言ってんだよ。お前は贅沢だ。そんなに引き留めたければ、もっと必死で口説いてみろよ!」

 

 ふつふつと沸く怒りが、隆翔の呼吸を浅くしていた。

 高坂を恨んでいるわけではなかった。しかし彼女に、隆翔の失望が分かるはずがない。孤高であるが故に誰よりも上手く、向上心があるからこそ、リタイアした隆翔とは相容れないのだ。

 

 高坂は呆然と隆翔を見るしか出来なかった。育ちの良さが溢れている彼女は、人格を否定された経験なんて無いのだろう。その表情から、ショックを受けていることが見て取れた。

 啜り泣く声が廊下に響く。高坂は目を真っ赤に腫らして涙を流していた。

 

「……もういい!」

 

 隆翔を復部させられなかった遣る瀬なさか、それとも涙を見られたことの恥ずかしさなのか。高坂は片手で顔を覆いながら踵を返して立ち去った。

 

 

 

 翌年の夏、高坂、黄前、秀一、梓が三年生で挑んだコンクールは府大会で二年ぶりの金賞を獲得した。しかし、関西大会へと駒を進めることは出来なかった。

 

 北宇治高校吹奏楽部は隆翔が入学する前年までの約十年間、コンクールでは府大会での銀賞や銅賞に甘んじてきた。それが昨年、何かしらの確変があり全国大会へ進出した。結果は銅賞であったが、この快挙を受けて全体朝礼の際に表彰式があった。

 

 

 

 グラウンドでは整然とした規則正しい隊列が、部長と思われる生徒に叱咤を受けながら行進している。誰に頼まれる訳でもなく繰り広げられる自発的な行動の末、得られる一瞬の栄光とは一体何なのか。

 

 部活動に入っているから偉いのではない。学生の本分は勉学であるのだから、本来費やすべきエネルギーの使用用途を間違えてはならないと自問自答した。

 

 吹奏楽コンクールなんて所詮は他人の善し悪しによる判断で色が決まる。頑張った先に確実な成果がある保証なんてどこにも無い。

 高校二年生ともなれば、貴重な時間で何をすべきかは自ずと判断できるようになる。時間対効果を加味した時点で、どちらが空虚であるかなんて明白なのだ。

 だからこそ隆翔はもう間違えたくはなかった。

 彼らを見て、羨む気持ちは絶対に持ちたく無かった。

 

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 

 翌日は雨だった。

 山を切り拓いて造成したこの学校のグラウンドは水捌けが悪く、屋外活動がメインの部活動は中止になるか、屋内でのトレーニングメニューとなる。

 

 吹奏楽部も例外ではなくこの日のマーチング練習は中止だ。休み時間に秀一が荒天の空を指差してガッツポーズしたのが目に入った。

 

 

 

 この日の六限は音楽の授業だった。

 北宇治の選択授業は音楽と美術の二科目。隆翔は美術に関心はなく、好成績を治められる分野で鑑みれば、必然的に音楽を選ぶこととなった。

 音楽の担任は若い男性教諭。名前を滝昇(たきのぼる)と言った。

 

 

「自分で奏でる音楽とは、その表現力、音に乗せる感情、特に合唱においては身体全体を使って相手に届けたいメッセージを歌に込めます。肩の力を抜いて、お腹の下まで深く息を使って、頭の後ろからパーンッと歌声を放つイメージで。では、私の伴奏に合わせて最初からお願いします」

 

 滝の指導は論理的かつ直喩的である。音という形のない存在を、高校生にもイメージが付きやすくなるように伝える技術があった。

 彼は昨年の春に北宇治高校へ赴任し、産休で空いた吹奏楽部顧問のポストに着任した。それからの活躍は前述した通り、北宇治を全国大会まで押し上げた。

 長身でメガネを掛けた姿は女子からの人気も高い。そして荒廃した部を立て直す指導力も持ち合わせるカリスマ性があった。

 

「日直の方、今日使用したノートを確認したいので職員室まで持ってきてください。今日は……樟葉くんでしたか。よろしくお願いします」

「……はい」

 

 滝は教諭日誌から目を離して隆翔を確認すると柔和な笑みを浮かべた。

 

 

 

「はぁ、億劫なり、億劫なりと」

 

 ホームルームの後、クラスメイト四十人分のノートを職員室まで届ける。一冊のノートも重なればかなり重い。バランスを崩して床に撒いてしまわぬように、隆翔は慎重に階段を下りた。

 

「わざわざ届けていただきありがとうございます」

「いえ、日直なので」

「皆さん真面目に授業を受けていただいて助かってますよ。サボらずノートもちゃんと取ってくれているようですし」

 

 それは先生の女子人気が凄いからですよ、とは言えなかった。

 

「それでは失礼します」

「ああ、樟葉くん。ちょっとお話したいことがあるのですが、少しお時間よろしいですか?」

 

 帰宅しようと背を向けたその時、滝は隆翔を引き留めた。

 

「何でしょうか」

 

 隆翔が感じた違和感、特に嫌な予感が的中した。

 

「いえ、大した話ではありません。先月からの授業で気になったのですが、樟葉くんは以前、何か音楽をやっていましたか?」

 

 突然音楽歴を看破された隆翔は面食らった。

 

「小学生の頃、ピアノ教室に通っていました」

「やはりそうでしたか。授業で私の言葉をすぐに理解して合唱に取り組んでいますから下地があると思っていました」

 

 胸の奥がチクリと騒ついたが、隆翔は滝に正解でも不正解でもない事実を伝えた。

 

「まあ、一応四年間やっていたので。もう忘れていますけど」

 

 滝はメガネのレンズを丁寧に拭いて掛け直した。

 

「そうですか。すみません、余計な時間を取らせてしまいました」

「いえ、大丈夫です。それでは」

「はい。雨なので気をつけて帰ってください」

 

 滝の言葉に、正直に答えることが出来なかった。

 中学の頃の話を持ち出せば、間違いなく話が発展してしまうだろう。悲しみを掘り起こす必要はない。今の出来事は単なる貰い事故だと、自分に言い聞かせた。

 

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 

 隆翔は学生鞄を取りに自分の教室へ入ると、全員下校したはずのガランとした教室で、一人の女子生徒が窓際を向いて座っていた。

 

 顔までは判別出来なかったが見紛うはずがない。三年前に隆翔が手離した楽器を、大事そうに抱えて佇んでいる。

 

 女子生徒は隆翔に気が付いていない。隆翔もまた、彼女から目が離せなくなっていた。

 その子はリッププレートを口元へ添え、管にゆっくりと息を吹き込んだ。

 

 

 後日、これから起こる光景を隆翔は生涯忘れないと誓った。雲の切れ間から差し込む初夏の陽光が、まるでスポットライトのように彼女を照らした。

 

 瞳を閉じながら、主旋律をなぞるようにゆったりと奏でられる。ひとりの奏者と、ひとりの観客。二人だけの演奏会。

 名も知らぬ生徒が奏でた音楽は、逆撫でされ眠ろうとしていた隆翔の心に温もりを与えた。

 知らぬ筈がない。三年前の夏、すべてを諦めた隆翔に響いたあのフルートの音だった。

 

 

 

 

「……韃靼人」

 

 

 

 

 隆翔の体は硬直していた。演奏、音への向き合い方、今まで隆翔が出会ったどのフルート奏者よりも圧倒的に上手い。

 

 中学二年の京都府吹奏楽コンクール。南中は圧巻の演奏をした。しかし結果は銀賞であった。確かに客観的に聴いても一部の楽器に粗さが目立ち、そこが足を引っ張った結果なのだろう。それでも隆翔の記憶に残ったのは、踊るように、歌うように奏でるあの姿なのだ。

 

 先程、職員室で聞かされた滝の言葉が甦る。

 コンクールでの評価と、誰かの記憶に残る音楽は必ずしも比例しない。

 

 その言葉がいとも簡単に証明されてしまったことに、隆翔は溜飲を飲んだ。

 

 

 

 彼女の背丈は一六〇センチメートル程だろうか。背筋の伸びた背中と、降り注ぐ陽光と舞うようにポニーテールが踊っていた。

『韃靼人の踊り』の前奏を吹き終えた彼女は、小さくよし、と呟いて後ろを振り返った。

 

 

「……えっ、嘘⁉︎」

 

 突然現れたギャラリーに仰天した彼女は慄き、両手で顔を覆った。指の隙間から紅潮する頬が見えた。

 

 

「い、いつから見てたの?」

「最初から……」

 

 嘘でしょ、と彼女は頭を抱えて蹲み込んだ。

 胸元で結ばれている青色のリボンを見るに、フルートの彼女は三年生の先輩だった。

 警戒されていると察知した隆翔は、出来る限り平静を装って話し掛けた。

 

「お上手ですね、フルート」

「……あ、ありがとう」

「こっそり聴いちゃってすみません。昔聴いたことがあった音だったので、つい」

「そうなの? まあ、よく吹いてるからそれなのかも」

 

 

 彼女は少しずつ警戒を解いて隆翔と向き合った。

 あの頃よりも彼女は背丈も伸びているように見える。あどけなさの残っていた中学生は、この三年の月日ですっかり垢抜け、大人の女性に一歩ずつ近づいていた。

 

 

「フルート、好きなんですね」

 

 

 あまりにも真っ直ぐな言葉に、自分でも信じられなかった。その気持ちが通じたのか、彼女は笑みを浮かべた。

 

「うん、大好き。もうずっとこのフルートで吹いているの。私の宝物……」

 

 暖かな感動がじんわりと隆翔の胸に広がっていた。彼女がフルートを愛おしそうに撫でる所作は隆翔の心を容易く揺さぶった。

 

 

「君、何年生? 名前はなんて言うの?」

「二年です。樟葉隆翔と言います」

 

 彼女はすっかり警戒を解いて、フレンドリーに話し掛けた。隆翔もその姿勢に呼応した。

 

「樟葉くんね。私は三年の傘木希美。君、吹部にいたっけ?」

「いえ、帰宅部です」

 

 かさきのぞみ、と噛み締めるように心の中で反芻した。

 

「そうなの? じゃあなんでこの曲を知ってたの」

「昔聴いたことがありまして。だから懐かしいなって」

 

 一度心を許せば会話は続く。傘木希美と名乗る彼女は、隆翔が思っていたよりもパーソナルスペースが近い。しかし、決して土足で踏み入ってこない心地良さがあった。

 

「のぞ先輩いますか? あれ、樟葉くん?」

 

 隆翔の背後から二人の会話に分け入ったのは、同じクラスの中野蕾実だった。彼女もまた吹奏楽部員である。

 突然のクラスメイトの登場。中野は隆翔を不思議な物を見るような目で一瞥すると、隆翔の前に出て希美に話しかけた。

 

「のぞ先輩、パート練始めるって調先輩が怒ってますよ」

「げ、もうそんな時間⁉︎」

 

 彼女は慌てながらピンク色の腕時計を見ると、「急げ急げ」と中野の背を押しながら教室を後にした。

 希美は別れ際に隆翔へ視線を送ると「またね」と呟いた。

 

 

 

 

 

『運命』なんて恥ずかしい言葉を口にするのは、ベートーヴェンを語る時しかないと思っていた。

 しかし隆翔は、その言葉を許容してしまう程の出会いを経験した。

彼女の何気ない「またね」という言葉でさえ、隆翔を昂らせるには充分だった。

 

 

【つづく】

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