或る、フルート吹きの青春   作:ハヤブサ320

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あがた祭りです。
地味にいちばん描きたかった回かも。


EP.33 朝顔

 校舎に響き渡るユーフォニアムのデュエット。

『一年の詩』の第三楽章、トランペットとユーフォニアムのソリの掛け合いが、二人のユーフォニアムの音色で彩られる。黄前と久石の戯れかと思ったが、隆翔の脳裏に焼きついた記憶がそれを否定した。

 トランペットのパートを吹くのは恐らく真由だろう。『ムーンライト・セレナーデ』で聴いた質感がそこには存在しており、心のどこかで彼女の音を確信する自分がいた。

 黄前が投げかけた音をテニスのラリーのように丁寧に打ち返す黒江の旋律。柔らかく、綺麗で、芯のある音色。トランペットが吹くはずの音なのに、ユーフォニアムで吹かれても違和感を感じさせない。曲の情景に溶け込んだ上品な音が響き渡っていた。

 

 黄前だけでは、この空気を出せない。これが全国金賞常連の清良の音か、と隆翔は溜飲を下げた。

 感情の昂りは良い演奏を生み出す。真由はきっと楽しかったのだろう。

 

 偶然聴いたこの演奏に、隆翔は心の底から高揚した。

 黒江真由の音なら、きっと高みを目指せると。

 

 

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 

 

 大会ごとのオーディションという大きな衝撃が部内を駆け巡ったが、三日と経たないうちに部員から不満の声は聞こえなくなった。しかし、これは納得とは程遠いような時限式の爆弾を抱えたようなものと、幹部以外の誰もが抱いていた。

 

 そんな状況でも、学生にとっての年に一度のイベントが差し迫っている。

 オーディションの不満はその浮ついた空気に掻き消された。

 

「みんなが言ってるあがた祭りって、この辺りだとそんなに有名なの?」

「ここ以外はどうか知らないけど、宇治市民にとってはかなり馴染み深いお祭りだよ。私、毎年行ってる」

 

 かつて隆翔が使用していた個人練習スペースは、今のところは真由が使っている。オーディションに消極的な真由をいかに本気にさせるかという暗躍を決意してから、隆翔は怪しまれない程度に真由との接触を続けていた。今日はそこにパーカッションパートでクラスメイトの釜屋つばめが訪れていた。

 

「みんな一緒に行く人を募ってて、そういうのってなんか良いなって。でも、久美子ちゃんを誘ったらやんわり断られちゃった。もう行く人が決まってるんだって」

「そういえば、久美子ちゃんっていつも誰と行ってるんだろ。去年も一昨年も女子のグループには参加してなかったよ」

「そうなんだ。お祭り、あんまり好きじゃないのかな」

 

 その件については、黄前と秀一の関係が露呈するから口を噤んだ。思い起こせば秀一がビニール傘でぶっ叩かれていたのも去年の話だ。時の流れは恐ろしく速い。

 

「じゃあ、私と行かない?」

「え、いいの?」

「うん、勿論だよ。真由ちゃんが良ければ、後輩たちも誘って」

「嬉しい。つばめちゃんありがとう」

 

 転校して初めての学校外で遊ぶ約束なのか、真由の表情はぱあっと明るくなった。そして、真由は思いついたように隆翔へ視線を向けた。

 

「ねえ、樟葉くんも一緒にどう?」

「あー、俺はもう先約があって。ごめんな」

「希美先輩?」

「うん」

「希美先輩って誰?」

「去年卒業したウチの先輩。そんで、樟葉の彼女さん」

「えっ、樟葉くんって付き合ってたる人いたの⁉︎」

 

 真由は手を口に当てて仰天した。今日はコロコロと表情が変わって面白い。

 

「部内じゃ有名だよ。もう長いんだっけ?」

「もうすぐ九ヶ月」

「なんか、そういうのって素敵だね」

「黒江だって告白とかされてんじゃないの? モテそうじゃん」

「うーん、確かに何度かされたけど……私、付き合うとかよくわからなくて」

 

 真由が転校してきて二ヶ月。隆翔は冗談半分で訊いたが、本当に告白されているとは思わなかった。人の恋路に首を突っ込む気は無いが、のらりくらりと躱しそうな真由の態度にこれから告白しようと胸を弾ませる男子諸兄に心の中で手を合わせた。

 

「ああ、分かるな。恋愛観っていうのかな。そういうのって距離感もそうだけど分からないよね」

「うん。そんな感じ」

 

 不意に、カシャッとシャッター音が鳴った。真由の首から吊り下げられているカメラ。見た目もかなり古く、平成初期のものに見えた。

 

「それ黒江の?」

「うん。お父さんが昔使ってたのを譲ってもらったの?」

「デジカメじゃないよね。フィルムかな」

「うん、よく分かったね。カメラ好きなの?」

「まあ、撮るのはね。そうだ、二人を撮ってあげようか、釜屋とのツーショで」

「…………うん、ありがと」

 

 隆翔の気遣いに明らかな葛藤を見せた。拒絶する心と、断って気分を害されるのも不本意だと言わんばかりに。

 

「……おっと、時間だ」

「今日、面談なんだ。いってらっしゃい」

「サンキュ」

 

 丁度いいタイミングでスマートフォンのアラームが鳴った。今日は午後いっぱいを使って二者面談が行われている。その約束の時間が訪れた。

 二人に別れを告げ、隆翔は静謐な廊下を早歩きで進んだ。目的地の三年三組は扉が開かれており、中では既に担任の松本がスタンバイしていた。

 

 

「樟葉は向日美大学が第一志望だったな」

「はい」

 

 三年生の進路相談は全部で三回行われ、今回が一回目だ。進路希望の聞き取り自体は二年生から行われてきたが、個人の志望校が明確になってくるのはこの面談からだ。

 松本は少々威圧感を湛えつつも高校生を一人の人間として向き合ってくれている。ちょうど一年前、ほとんど初対面だった隆翔を入部できるようアプローチをかけてくれたのが松本だ。それ以来、隆翔はこの先生を慕っていた。順風満帆とは言えない学生生活で隆翔が恵まれているとしたら、接する大人たちが総じて寄り添ってくれる人物、という所だろう。

 

「父が貿易関係の仕事をしているので、少なからず経済学に興味がありまして。なので、ここの大学で経済分野を学びたいと思い志望しました」

「確か、ドイツにいらっしゃるとか」

「はい。年に数回しか帰ってこないので、今は母と二人で暮らしてます」」

「そうか。お母様をしっかり支えるんだぞ」

「もちろんです」

「……なるほどな。今からそれだけ明確に筋道を立てられている生徒は少ない。準備期間は多ければ多い方が良いしな。ただ、他の大学は視野に入れていないのか? 樟葉の成績ならもう少し上の偏差値でも良い判定を貰えると思うが。他にも理由がありそうだな」

 

 うぐっと隆翔は言葉が詰まった。松本は確実に隆翔が希美目当てに志望したという本当の理由に行き着いている。誤魔化しは一切効かないだろう。

 

「しかし、経済学を学ぶ姿勢があるのは良いことだ。それだけ思いが強ければ、少々の脇目があっても問題はないだろう」

「そう言っていただけると、ははは……」

「……まったく。それと、部活はどうだ? 一年生も入ってきて、環境が大きく変わったと思うが」

「はい。フルートの一年生は二人とも熱心で教え甲斐があります。専ら指導は二年生に一任していますし、僕ら三年生は行き詰まった時のサポートをしようとリーダーの高橋と決めましたから」

「そうか。黒江も頼りにしていると言っていた。お前の献身性は顧問の耳にも入ってきているし、それが出来る高校生はあまりいない。間違いなく、樟葉の長所だ」

「ありがとうございます」

「三月に色々あってから気にはなっていたんだが、精力的に活動していて何よりだ。だが、お前たちは高校生だ。間違うこともある。自分たちだけでどうにもならないと思ったら大人を頼る。その為に滝先生や私がいるのだからな」

「はい。肝に銘じます」

 

 隆翔の返事に満足したのか、松本の表情は幾分か柔らかくなった。

 

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 

 宇治川に架かる隠元橋のたもとは、隆翔と希美の待ち合わせスポットとなっている。あがた祭り当日も二人は橋の袂で落ち合い、上流方向へ歩き出せば宇治市街が見えてくる。今の時刻は午後五時五十分。希美との約束まであと十分だ。

 いつだかに買ってから一度も着ていなかった甚兵衛は、今日ようやく日の目を見る。薄い生地を通り抜ける生暖かい風が、宇治に夏の訪れを告げているようだった。

 

「待った?」

「ううん、今来たとこ……」

「……どう、かな?」

 

 お約束の返答をしようと顔を上げた途端、目の前に佇む恋人の姿に呼吸を忘れてしまった。艶やかとか、色っぽいとか、陳腐な誉め言葉で形容するにはあまりに言葉足らず。そんな楚々とした姿の希美に思考が停止した。

 

「……凄く、綺麗」

「うわっ、ちょっと、恥ずかしいからやめて!」

 

 隆翔はいま、希美の妖艶さに飲み込まれている。いつもと違う浴衣姿、メイクもいつも以上に気合が入っているようだ。それもすべて、隆翔のために希美が望んでしたことだ。そんな健気さに愛おしさが爆発した。唐突に抱き着かれたことに驚いた希美は、周囲を気にして隆翔を振り払った。

 

「もう! ちょっと落ち着いて」

「あ、ごめん。ちょっとやばくって」

「やばいって何よ。ちゃんと褒めて」

「えーっと……大変綺麗です」

「ん、よろしい。ふふ、でもよかった。準備した甲斐があった」

 

 面白おかしく笑いながら、希美の下駄がカランコロンと鳴った。白を基調とした浴衣には、いくつもの朝顔の模様が描かれている。紅桔梗色の帯がより一層艶めかしさを醸し出している。夕闇に浮かぶ白の浴衣がスタイルの良い希美によく似合っている。

 天にも昇るような気持ちとはこのことだろうか。宇治川を上流へ向かう道中も、ずっと浮世離れした感覚だった。

 

「ね、何食べたい?」

「そうだなぁ。焼きそばとフランクフルトはマストかな」

「いいね。あと、たこ焼きとトルネードポテトとかき氷もいいな」

「そんな食べれんの?」

「無理だったら、隆翔食べて」

「はいはい」

 

 浴衣の女性は帯でお腹を締め付けるため沢山食べられないと何かで聞いていた。しかし、そんな悩みなど感じていない希美に、照らされているような温かみを感じ取った。

 屋台からはソースの良い香りが漂ってくる。お祭り特有の賑わいと浮かれた空気が、二人を包み込んだ。

 分かってはいたが、参道に入ると人通りがかなり多い。はぐれないように繋がれた右手の握力が自然と強くなる。結局食べるものを厳選して、ポテトと焼きそば、かき氷を買い込んで宇治川の畔にあるベンチに座った。

 

 

「ふう、お腹いっぱい。隆翔はどう?」

「俺ももう十分。ちょっとゆっくりしよう」

 

 上流にある天ケ瀬ダムの放水の関係で水嵩が増した宇治川の水が、どうどうと大阪湾へ流れ進んでいる。川の流れのように身を任せて生きられたらどんなに楽なことだろう。最近の吹奏楽部を見て、ふと思ってしまった。色々な考えに鬱陶しくなって、隣に座る希美の肩に、こてんと頭を乗せた。それを拒まずに、希美は手を隆翔の頭に添えた。

 

 

「ちょっとだけ甘えていい?」

「いいよ」

「最近、ちょっとパンクしそうで……」

「マネージャー辞めたのに忙しそうだね」

「まあそれもあるし。それに、黄前と高坂とは仲良くなれそうにないな。マネージャー辞めてから一度も話してないし、わだかまりしか感じてない」

「そういうのって時間が解決してくれる場合もあるから、いま焦る必要はないと思うよ」

「あとさ、結構楽しかったんだよね、マネージャー。自分が認められて、相応しい仕事があって、頼られることの喜びを知って……もう後の祭りだけどね」

「でも、その代わりに一年生を見る時間ができたんでしょ。今年の後輩たちはどう?」

「みんな練習熱心で上達も早いし、本当にいい子たちだよ。一人は確実に今年の戦力になってくれそう」

「よかったじゃん。隆翔も、うかうかしてられないね」

「本当にね」

 

 月明かりに照らされた希美は、和装も相まって平安時代からタイムスリップしてきたような優美さがあった。ヘアスタイルもかなりこだわっているのに、隆翔には綺麗や可愛い以外で形容する言葉が見当たらなかった。

 簪が提灯の灯りを反射させていた。それだけのことなのに特別だった。この瞬間がいつまでも続かないと分かっているからこそ、隆翔は尊さを噛み締めることができると知った。

 

 

 

「……ね、隆翔。ちょっとだけ目を瞑って?」

 

 

 言われるがままに、暗闇の中で吸い寄せられるように口付けが落とされた。朝顔のつるのように隆翔の身も心もすべて希美に絡み取られている。深い愛情故の依存を克服した今、隆翔は希美が北宇治に置いてきた遺志を受け継ぐ者として存在している。誰が何と言おうと、そこに未練は存在しなかった。

 深い、時間を掛けたキスが隆翔を蝕んでいく。口伝に隆翔のすべてが吸い取られ、残されたのは抜け殻となった身体だけになるのかと思うほど、希美は隆翔を離さなかった。やがて、ぷはっと苦しそうに希美が口を離した。顔が紅潮して湿った口元が月明かりに照らされている。浴衣姿も相まって妖艶な希美に、隆翔は必死に理性を保った。

 

 

「このあと、どうする?」

 

 

 不意に希美が呟いた言葉を脳内で反芻する。つまり、これはそういう誘いなのだろうか。いや、単純に屋台をめぐりたいだけかもしれない。もし後者だった場合、助平な妄想で気を昂らせたことを揶揄われる可能性が高い。蒼く深い瞳は、隆翔の答えを待っている。でも、もし前者だったら……。

 

 

「……まだ何か食べたいの?」

「……ううん。屋台を見たいだけ」

 

 あえてムードをぶち壊した隆翔を恨むような、冷めた視線が突き刺さる。いや、これでいいのだ。希美とは既に色々と通じ合った間柄だが、こういうことは一時の気の迷いで致すものではない。もっと大事な時に取っておくべきだ。淡々と自分に言い聞かせながら、不貞腐れる希美の手を取って再び屋台の立ち並ぶ通りへと繰り出した。

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

「「あ」」

「なんでこんなとこにいるのよ」

「それはこっちのセリフなんだが……」

 

 夜風吹く宇治川に架かる喜撰橋の上、対向から歩いてくる二人組を視認すると、隆翔と希美は素っ頓狂な声を上げた。二人の前に、どう考えても他所行きの格好をした黄前と高坂が現れたからだ。

 

「久美子ちゃんに高坂さん、久しぶりだね」

「希美先輩、お久しぶりです。浴衣似合ってますね」

「本当? えへへ、この日のために買ったんだ〜」

「久美子、行こう。邪魔しちゃ悪いよ」

「あ、うん。そうだね。じゃあ、私たちは失礼します」

「うん。じゃあね〜」

「樟葉、また学校で」

「おう、またな」

 

 短い挨拶を終えて、二人は屋台のある対岸へ消えていった。

 

「そんなに仲が悪そうには見えなかったけど」

「色々あるんだよ。色々と」

「マネージャーのこと以外にも?」

「まあ、ね」

「ふーん。ま、いいや。ねえ、今度隆翔の家に連れて行ってよ」

「な、なんで?」

「なんでって、そりゃ、彼氏の家は気になるでしょ」

「うち、母さんいるけど」

「あー、じゃあ、ご挨拶になっちゃうね」

「ウチに来るのは決定事項なんだ」

「だって、隆翔だってウチに来たじゃん」

「あれはノーカンなのでは……」

「それはそれ。楽しみにしてるからね」

 

 隆翔の口から漏れたマジか、という一言は宇治川の奔流に流れていった。浮かれている希美の様子から、彼女の中では既に決定事項のようだ。父がドイツにいる今、一緒に暮らす母に紹介することになるだろう。希美と付き合って一年、家族に希美を紹介するには遅くはないタイミングだ。

 互いの家族に認められる関係になって、いつか二人で暮らす時が来るかもしれない。そして同じ名前になって、死が二人を別つまで、みたいなことも有り得る話になってくるのだ。

 

 未来に何があるか分からないが、少なくとも隆翔と希美が離れ離れになる未来は想像つかなかった。

 

 

 

【つづく】

 

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