或る、フルート吹きの青春   作:ハヤブサ320

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EP.36 チーズケーキ・ファクトリー

「それでは、府大会のオーディションを始めます。このあとは先生の指示に従って動いてください」

 

 北宇治高校吹奏楽部のオーディションは、音楽室で顧問と副顧問に指定された箇所を聴かせる形式で行われる。今年は九十名以上の部員がいるため、土曜日と日曜日の二日間に渡って行われる。隆翔たちフルートパートは木管楽器に属するためパーカッションと同じ一日目に割り当てられた。

 オーディション箇所は課題曲と自由曲それぞれ一か所ずつ。ソロのある楽器は、全員がソロパートを吹くことになっていた。

 

 教室では各々がオーディションに向けて最終チェックに勤しんでいる。二曲の譜面は最初に配られた頃よりも書き込みでびっしりと埋まっている。空白を見つける方が大変な状態だ。かつて、中学二年のオーディションも同じように顧問からの指示がびっしりと書き込まれた譜面を引っ提げていた。結局紛失して、まっさらな楽譜で本番に挑んだ。そんな記憶が呼び覚まされる。それを嚙み潰しながら、隆翔は『一年の詩』のソロパートに集中する。

 

 一番のライバルとなる沙里は、一年生二人の練習を見ている。芯の強さ、正義感、マネジメント力、そして優しさ。パートリーダーとしてこれ以上ない素質を持った沙里を支持する声は大きい。人気度でいえば隆翔は沙里に勝ることはできない。しかし、オーディションは完全実力主義だ。滝の判断によって最もコンクールの演奏に適した奏者が選ばれる。それが全国へ勝ち上がるための至上命題だ。

 沙里と同様、三年目の小田は冷静に自分のペースで最終確認をしている。そんな中、三年フルート女子三人衆のひとり、中野蕾実はどこか浮かない様子だった。緊張か、それとも重圧か。練習では特に気になる仕草もなかったが、ここに来て彼女の音だけどこか硬さを感じていた。吹いてはやめ、吹いてはやめ、一見すると自信のない箇所を重点的にケアしているように見受けられるが、それでも違和感は拭えない。何か声を掛けようにも、言葉が見つからないまま喉の奥にこびりついたまま離れなかった。

 

「ねえ、今日ちょっと緊張してるでしょ?」

 

 様子に気付いた小田が、冗談っぽく笑いながら言った。中野は、はっとして顔を上げると、いつものように笑おうとして───うまくいかなかった。

 

「そう、かな。流石に緊張してるのかも」

「大丈夫よ。いつも通り吹いていれば、きっと大丈夫」

「……うん、ありが──」

 

 小田へ向けた感謝の言葉は、今絶好調をキープしている一年生のエースである吉田巧美の音にかき消された。完璧なアタックとタンギングに裏打ちされたセンスと練習量が中野の焦燥感を更に煽った。

 

「巧美ちゃん凄い。絶好調だね」

「ええー、そんなんじゃないよ。緊張で今にも押し潰されそうで……」

「陽向ちゃんの言う通りだよ。この調子なら合格も夢じゃないね」

「……沙里先輩が言うなら、頑張ってみます!」

 

 吉田を鼓舞する二人と、最後のオーディションかもしれない現実に押し潰されそうな中野の残酷なまでのコントラストがこの教室に展開していた。吉田の音を聴いた中野の横顔に走った感情は羨望と焦りだった。そして、何よりも置いていかれるという恐怖が今の中野を支配している。エース格の一年生と、三年間切磋琢磨してきた同期二人に。

 

「次、フルートの出番です」

 

 クラリネットの一年生がフルートの出番を伝えにきた。呼び出しの声に、中野はわずかに肩を跳ねさせると、音もなく立ち上がった。

 手にした楽譜を抱きながら顔を上げる。今度こそ、笑顔は完璧に整っていた。

 

 まるで、何も見せなかったかのように。

 まるで、何も感じていないかのように。

 

 けれど、その仮面の下にあった揺らぎを、二人は確かに目撃した。

 

 

 

 

 

 

「ありがとうございました」

 

 

 オーディションは一年生から行われた。水井陽向に続いて二番手の吉田巧美は、滝の指定した箇所を完璧に吹き切った。感情表現や楽曲の解釈などはまだ荒削りだが、楽譜に書かれた情報は絶対に見逃さない。

 

 サンライズフェスティバル直前、吉田はスランプだった。小さな負の感情を大きく捉えすぎる性格から自信を喪失していた。吉田から相談を受けた隆翔は簡単なアドバイスを施し、それが彼女の調子を取り戻すトリガーとなった。結果として、皮肉にも中野を追い詰める所以となっていた。

 

 

 

 

「……やっぱり、音が少し硬い気がする」

「うん」

 

 

 しばらくして、中野の出番が回ってきた。隆翔の隣にはこのあと出番を迎える小田が座っている。既に演奏を終えた一、二年生と沙里は教室に戻っている。

 

「中野って、去年はコンクールメンバーだったよな」

「うん。一年の頃はもなかだったから、去年は初めて三人一緒にAになって凄い喜んでた。私も嬉しかったし、きっと沙里も……。今年は最後の年だからまた一緒に吹きたいねって言ってくれたけど、吉田さんは誤算だったよ」

「……だな」

 

 その吉田を焚き付けてしまった手前、小田の言葉には目を逸らすしかなかった。

 コンクールメンバーであるA編成に選ばれなかったB編成を、北宇治では「チームもなか」と呼ぶ。この名称は、二年前に現体制が初めてオーディションを開催した時、B編成となった上級生の頭文字からとっていた。

 

「樟葉は、蕾実が受かると思う?」

「俺じゃなくて滝先生に聞けよ」

「聞ける訳ないでしょ。いいから答えて」

 

 試験中にこんなことを聞いてくるのはあまり褒められたものではない。

 隆翔は溜息を吐きながら答えを考えた。そもそも、この曲がフルートを何人必要とするのかも分からない。四人なのか五人なのかで答えは変わってくる。ピッコロの山根つみきを除くと、フルートパートの序列は沙里と隆翔、そして小田だ。その後ろに吉田か中野、二年生の二人のうちどちらか、といった構図になるだろう。

 演奏会でファーストを経験しているかどうかも選考基準に関わってくるかもしれない。そうなると、滝がコンクールメンバーに選びそうなのは───。

 

 

「人数にもよるけど、技術の差で吉田かな」

 

 

 ぐっと息を飲む音がした。小田の心情を考えれば、ここで吉田を推すのは反感を買うかもしれない。感情では模範解答でなくとも、あくまで理性を貫く。それが小田芽衣子にはできると踏んで、敢えて本音を語った。基本的に、全国へ行くという目標は一緒だが、プロセスまで同じというわけではない。しかし、小田も相容れないことを覚悟の上で聞いてくれていた。

「正直にありがとう」と言って、小田は音楽室の方向を見つめたまま黙った。それ以降、二人の間に会話は生まれなかった。

 

 

 

 

 

「三年、フルート、樟葉隆翔です」

 

 

 小田の出番を経て、隆翔の順番が訪れた。オーディション初日、最後の楽器の最終奏者が隆翔だった。窓の外は既に夕日で染まっていた。

 隆翔の前に机が二つ。それぞれ顧問の滝と副顧問の松本が審査用紙を広げている。

 滝は笑顔を浮かべている。彼の柔和な表情と毅然とした表情で隆翔を見据える松本とのコントラストがおかしくて笑いそうになった。

 

「はい、よろしくお願いします。樟葉くんは……北宇治では初めてのオーディションですね。緊張していますか?」

「少しだけ……でも、準備は万端です」

「そうですか。では、課題曲から───」

 

 隆翔の返答に満足した表情をした滝は、早速演奏箇所を指示してくる。前の生徒が吹いていた箇所と同じ小節を指定され、練習してきた通りに演奏する。そう、ここはオーディションだ。余計なアレンジも、気持ちの昂りで感情を出す必要もない。ただ顧問の、特に滝の求める音を出せばいい。

 

 

 

「はい、そこまで」

 

 指定個所の小節を吹き切ったところで滝の静止がかかった。そして、間髪入れずに次の指示が下った。

 

「続いて自由曲、第一楽章の最初からお願いします」

 

 いきなり来た、と隆翔は思った。フルートを持つ手が強張るのが分かる。滝が指定してきた譜面はソロパートのところだった。譜面に書かれた「solo」の文字を捉える。

 ドア越しに聴いただけであったが、沙里の演奏は非の打ち所がなかった。吉田は表現面で沙里に遅れをとりながらも、演奏は形になっている。

 この二人を超えるのは至難の業だ。

 だが、隆翔が沙里に唯一勝るとすれば、挫折から立ち直った強さ。そして、同じ轍を踏まないよう歩いてきた経験則だ。これは演奏に直結する。

 

 自由曲『一年の詩 〜吹奏楽のための』の第一楽章には『春、新たなる息吹』という章題が付けられている。清々しいまでに不破などなかったようなスタートを感じさせる。「美しい世界」が大前提にあるような始まり方には、些か抵抗を覚えた。

 クラリネットに連なるようにして吹くこのパッセージは、それこそ沙里が吹くに相応しいだろう。

 すべては希美の想いを形にするため。そのためなら親友を踏み台にすることも厭わない。躊躇ったら隆翔は沙里に飲み込まれ、上がり目はなくなるだろう。

 

 

 フルートを構え、管に息を吹き込む。

 脳裏に映ったのは誰でもなく、最愛の恋人の姿だった。

 

 

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 

 

「では、メンバー発表を行う。呼ばれた者は速やかに返事をするように」

『はい!』

 

 水曜日。いよいよコンクールメンバーの発表がされる。祈るような気持ちなのは皆一緒だ。音楽室は張り詰めた緊張が最高潮に達していた。

 視界の端に一年生の二人が映る。会心の演奏をした吉田は顔の前で手を握り一生懸命祈り、対照的に水井は落ち着き払っている。見事なまでのコントラストだった。

 

「───まずはトランペットから。三年、高坂麗奈!」

「はい!」

 

 凛とした声が聞こえる。さも自分は受かって当然と宣うかのような高坂の返事に少なくない人数の体が強張った。

 

「三年、吉沢秋子」

「はい!」

「二年、小日向夢」

「はいっ」

 

 一緒に東京を巡った仲の吉沢は安定感のある演奏で見事二年連続でコンクールメンバーに食い込んだ。

 そして、友恵の愛弟子で心配の種だった小日向は、顔を赤らめながらも真っ直ぐ前を見据えている。高坂卒業後のトランペット奏者をどうするかという課題はあったが、その心配はいらない。彼女の大きな成長を見れば友恵も喜ぶだろう。

 

「……トランペットは以上六名。次にホルン──」

 

 

 発表は楽器ごとに行われた。ホルン、トロンボーンと順番に呼ばれ、副部長の秀一はトロンボーンの先鋒として名前が呼ばれた。恐らく、彼がファースト奏者として引っ張っていくことになるのだろう。

 

 

 

「続いてユーフォニアム。三年、黄前久美子」

「はい!」

「三年、黒江真由」

「はい」

「二年、久石奏」

「はい」

「以上、三名」

 

 この人選にサプライズ要素はない。黄前と久石に関しては昨年も選ばれていた。久石は経験年数的に黄前や強豪出身の黒江には及ばぬも、紛れもなくこの編成を支えるピースだ。

 それから、チューバから加藤葉月が初選出され、釜屋つばめの妹すずめが、初心者ながら選出されるというサプライズがあった。滝はこの人選に、何を求めたのだろうか。その理由は、最初の合奏練習で明らかになるだろう。

 状況を黙って見守っていると、木管楽器の順番が回ってきた。まずクラリネット、オーボエ、そしてサックスから発表があり、最後の年になる三年生は漏れ無く全員がコンクールメンバーに選ばれていった。そしていよいよ、フルートパートだ。自然と手に力が入る。ごくりと唾を飲み込んで、隆翔は松本の発表を待った。

 

 

 

「フルート。三年、樟葉隆翔」

「……はい!」

 

 

 まさに、隆翔にとってオーディションに合格するのは五年ぶりのことだ。選ばれることへの喜び、安堵感。そして血が湧き上がる感覚は悪いものではなかった。

 

「三年、高橋沙里」

「はい」

「三年、小田芽衣子」

「はい」

 

 実力者の沙里と小田も順当に選ばれた。しかし、波乱はこの後に待ち受けていた。

 

「一年、吉田巧美」

「…………」

 

 

 松本の声が耳の奥でこだまする。名前を呼ばれた吉田も、現実を受け入れられないのか完全に上の空だ。

 

「どうした、吉田! 返事をしろ!」

「……あ、は、はいっ!」

 

 松本の鋭い言葉で、吉田はようやく我に帰った。

 

 

「───以上、四名」

 

 

 信じられないと言わんばかりに吉田は口に手を当てている。背の高い彼女の動きはやたらと目立つが、フルートという群雄割拠のパートに一年生が割り込んだ。これは褒められて然るべきだ。

 松本は淡々と名前を読み上げる。この、一人に何秒も割かれない発表に、春から費やした時間の価値が下される。無慈悲で無常な、これが吹奏楽の本質かと問われればノーを突きつけたくなるような残酷な時間だった。

 

「以上、五十五名が京都府大会A編成として出場する。呼ばれなかったメンバーは私と共にBの部で舞台に立ってもらう。今日、この場で悔しい思いをした者もいるだろう。だが、悔しがる暇はない。オーディションはゴールではなく通過点だ。これまで以上に、その思いを練習にぶつけろ。いいな」

『はい!』

 

 嗚咽混じりの声が響く。一昨年、昨年と北宇治高校は栄誉ある評価を得た。ここでなら自分の演奏を高められると入部した経験者の一年生はかなり多かった。しかし、それでもA編成の枠を勝ち取れたのは僅かな人数だった。

 昨年よりも明らかにAメンバー入りの難度は上がっている。そして、このあと発表されるソロメンバーは、精鋭集う北宇治の中でも選りすぐりの実力者しか勝ち取ることはできない。

 

「続いて、自由曲のソロメンバーを発表する」

 

 松本の言葉に、Aメンバーに選ばれた生徒たちは姿勢を正した。他の楽器はどうか知らないが、フルートパートに下馬票は存在しない。A編成に選ばれた四人、誰がソロメンバーになっても不思議なことではないからだ。

 

「まずクラリネット。三年、高久ちえり」

「はい!」

「マリンバ、三年、釜屋つばめ」

「は、はい」

「コントラバス、三年、川島緑輝」

「はい!」

「トランペット、三年、高坂麗奈」

「はい!」

 

 間髪入れずに呼ばれる名前を聞き漏らさないようにするのに精一杯だった。きっと、ソロパートのある楽器のメンバーは皆同じ思いなはずだ。そんな心中など知らぬと言わんばかりに、矢継ぎ早に名前が呼ばれていった。

 

「ユーフォニアム、三年、黄前久美子」

「はい!」

 

 名前を呼ばれた黄前は頬を紅潮させている。部長としての矜持、いや、面目を保てたことへの安堵感か。キュッと引き締まっていた口元が僅かに緩んでいた。

 真由に目を遣ると、柔らかな笑顔で黄前を素直に祝福していた。もし関西へ進んだら、真由がソロを吹くこともあるかもしれない。その光景も見てみたいと思うのは、些か強欲だろうか。

 

 

 

「最後にフルート……三年、樟葉隆翔」

「はい!」

 

 

 無意識の緊張で強張っていた足が弛緩した。血行が促進されたのか、体がじんわりと熱くなっていく。

 受かった。そうだ、ソロパートを吹くのは俺だ。名前を呼ばれた時に反動で返事をしたが、今になってやっと実感が湧いてきた。希美の姿が脳裏に浮かんで目頭が熱くなる。それをぐっと堪えて、松本の話が終わるのを待った。

 

「葉月ちゃん、やりましたね!」

「ありがとう緑輝! やっとだよ。いまめっちゃ嬉しい」

「うん、うん……!」

 

 これまで一度もAメンバーに選ばれたことがなかったチューバの加藤が親友の川島と喜びを分かち合っている。周囲にはこれまでチームもなかで切磋琢磨してきた仲間たちが輪を作っていた。

 

 

「ソロ、おめでとう。隆翔くん」

 

 悲喜こもごもの雰囲気の中、隆翔のソロ抜擢を沙里は祝福した。彼女とてソロを取れる実績があった。人並みに悔しいはずなのに、その思いをおくびにも出さない姿勢は手本にすべきだろう。

 

「ありがとう。とはいえ、俺と沙里にそこまでの差はないと思うし、うかうかしてられないよ」

「うん……関西では、取らせてもらうから。ソロ」

 

 府大会では隆翔の後塵を拝した沙里の目はまだ燃えている。今まで以上に。

 

「それよりも、今は中野のことだ」

「うん。わかってる」

「……フォローは頼んだ。まだ関西も全国も残ってんだから。それに、もなかの大会だって立派なコンクールだ。蔑ろにするのは許さない。まあ、中野に限ってそれは無いと思うけど」

「うん、ちゃんと伝えとく」

 

 逃げることは許されない。数ヶ月前に中野が隆翔に向けて放った言葉だ。まさかこのタイミングで、まったく逆転した立場で伝えることになろうとは、運命の悪戯を呪った。

 

 中野蕾実は三年生で唯一、Aメンバーから外れた。それはフルートパートに少なくない影響を与えることとなる。B編成に振り分けられた中野は唯一の三年生としての振る舞いを求められる。

 本来の彼女ならば、後輩思いな人柄と優しさから心配に及ぶことではないかもしれない。しかし念には念を入れて、隆翔は沙里に中野のフォローを要請した。

 吹奏楽部は組織だ。B編成がまとまらなければ、その影響はA編成にも降り掛かってくるだろう。そもそも苛烈極まる練習の最中で、B編成への指導計画はどうなっているのだろう。副顧問の松本がメインで見ることになってはいるが、学年主任であると共に受験生を担任に持っているのではどうしても限界がある。まさか篩にかけられた部員は自己判断で練習、なんてことにはならない筈だが、正直確証が持てない。

 現状は幹部を期待するよりも、身の回りのことは自分たちでケアをすることが現実的だった。

 

 

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 

 

 

「───これが府大会のメンバーです」

「そっか……蕾実ちゃん落ちちゃったか」

 

 オーディションの結果が発表された次の週末、隆翔は志望校であり、希美たちが通う向日美大学のオープンキャンパスに来ていた。

 

 午前いっぱい使って開催された学校説明会を一通り聴き、学内を散策しているとオープンデッキのバルコニーが現れた。学生たちがひしめくホワイエから続くこの場所は喧騒から隔絶された空間となっており、近代的な建築デザインによって自然光が採り込まれた設計となっている。

 この日、希美はサークルの練習があるため学校に来ていた。同じ大学に通う優子と夏紀も顔を出していた。

 

「あまりサプライズはないわね」

「お、カトちゃん受かってるじゃん。この釜屋すずめって、パーカスのつばめちゃんの妹?」

「そうですよ」

「へえ、一年生なのに。経験者かな」

「いえ、初心者らしいです。俺も最初は耳を疑ったんですけど」

 

 三人は「おお」と歓声を上げる。新生北宇治の体験者たる希美、優子、夏紀は、あの部活でA編成に選出されることがどれだけ大変か身を持って知っている。

 

「今年は例年に比べて、Aに入るにもかなり大変でしたよ」

「でも樟葉はソロになれたでしょ? さすがは希美の後継者」

「そんなんじゃないですよ」

「ま、オーディション合格祝いということで、こちらを進呈しよう」

 

 謙遜した隆翔に、夏紀が差し出したのは白い箱だった。側面には筆記体で書かれているのでよく分からなかった。

 その箱に真っ先に興味を示したのは希美だった。

 

「あ、これ! もしかして駅前の?」

「そうそう。チーズケーキがおすすめだって言われたから買ってきちゃった」

 

 箱を開けると、中から甘い香りとともにカットされたタルト生地のニューヨークチーズケーキが顔を出した。

 

「美味しそう! 私、ゼミで紅茶もらってくる」

「よろしく。私ミルクありで」

「はいはい」

 

 どこからともなくティーバックが沈んだ紅茶と紙皿が揃えられ、立派なアフタヌーンティーが始まった。

 夏紀が買ってきたチーズケーキは大学の最寄駅にある駅ビルの中にある地元じゃ有名な洋菓子店のものだった。口に運ぶと、甘味の中にクリームチーズの酸味がふわっと広がった。

 

「美味しい。私、結構好きかも」

「本当。上品な甘さって感じが良いわね」

 

 舌鼓を打つ希美と優子も軒並み好印象だ。二人の反応に、夏紀は満足そうに微笑んでいる。

 

「オーディションの話に戻るけどさ、フルートの一年生ってそんなに上手いの?」

「はい。西中からの経験者で、俺と同じ教室に通ってます」

「へえ、次期エース候補だね」

 

 得心した夏紀はケーキを口に運んだ。その様子を伺いながら、優子は「高坂みたいね」と一言呟いた。

 

「いやいや、流石に高坂みたいなタイプだったら、俺潰れてますって」

「……確かにそうかもしれないけど、一年生が受かって三年生が落ちる構図は、私が高二の時に似てるっていうか」

「香織先輩のこと?」

「……そうよ」

 

 珍しく歯切れの悪い優子に、隆翔は目を逸らせなかった。苦い思い出なのか、眉間に皺を寄せ、おおよそケーキを食べながらする表情ではなかった。

 

「なに余計な心配してんの。そんなこと、ウチらが心配してもしゃーないでしょ」

「わ、わかってるわよ! だから今年から部員が増えることも見越してドラムメジャーを置いて、しかも樟葉がマネージャーとして置いてんの」

 

 マネージャー、という言葉に隆翔はフォークを持つ手を止め首を傾げた。

 

「え?」

「ん?」

「……先輩、俺、マネージャー降りたんですよ。三月に」

「はあ⁉」

 

 大きな音を立てて優子は驚き、夏紀は肩を竦めている。

 

「聞いてないんですか、希美から」

「聞いてないわよ!」

「希美は知ってたの?」

「うん。ごめん、伝え忘れてた」

 

 突然の人事変更に二人は呆気に取られた。

 

「一体何があったのよ」

「まあ、その……拠無い事情がありまして」

「その事情が気になるんですけど」

 

 隆翔が休部した騒動の一因に希美の存在がある。しかし、二人にそう伝えてしまうのは、原因と責任を彼女に押し付けているような気がして嫌だった。

 肝心な部分を濁した隆翔の様子を察した優子と夏紀は、それ以上追及することはなかった。

 

「ま、黄前ちゃんが決めたことに私らは何も言う権利ないけどね」

「すみません、心配をおかけして」

「本当よ。アンタたちが全国行ったら絶対観に行ってやるんだから」

 

 そう言って、ケーキの最後のひとかけらを口に放り込んだ。舌鼓を打つたびに頬が綻ぶ姿は、一年前の凛々しさとは対極にある可愛らしさがある。もっとも、そのギャップに心打たれた者が多かったのだろう。

 

「で、樟葉に折り入って頼みたいことがあるんだけど」

「なんですか?」

 

 優子の完食を待っていた夏紀は、鞄から三枚の紙片を隆翔に差し出した。

 

「再来週の土曜日にさ、うちのバンドのライブがあるんだけど来る?」

 

 夏紀が渡してきたのは、ライブのチケットだった。

 優子と夏紀が互いにバンドを組んでいるという話は希美から聴かされていた。高校卒業を機に楽器をギターに持ち替えて「さよならアントワープブルー」というツインギターバンドを立ち上げていた。そして、大学へ進学した今もその関係は継続している。

 

 スケジュール表に目を通すと、幸運にも当日は耐震工事の関係で午前練習のみとなっていた。

 

「午前中で練習が終わるので、行けそうです。希美はどう?」

「もちろん私も行くし、みぞれも来るって」

「え、みぞれ先輩も?」

「うん、楽しみにしてたよ」

 

 この四人が集結すること自体にはなんら違和感はない。ただ、みぞれが重低音響くライブハウスという狭い箱に来ることが意外であった。あの長い髪を乱れさせて縦ノリでもするのだろうか。

 

「話を戻すけど、ここにチケットが三枚あります」

「はい」

「樟葉は来るとして、あと二人、誰か誘ってもらえないかな?」

 

 夏紀の頼みを聞いた隆翔は、自身の人脈の少なさを想起して首を横に振った。

 

「無理ですよ。俺、そこまで友達多くないですし。先輩のことを知っていて、かつそれなりの間柄なんて吹部くらいですし。それこそ希美に期待した方が……」

 

 交友関係はあるが限定的な隆翔に対して、明らかに広そうな希美の方が適任のはずだ。

 

「あ、希美にはもう頼んでるから私の手札はもう使い切ってるんだ。内輪で見つけづらいのは百も承知で、お願い!」

 

 パンっと手を合わせて懇願する夏紀。その視線はちらちらと食べかけのケーキに向いている。つまり、そういうことだ。隆翔の合格祝いというのはあくまでカモフラージュだった。

 

「……分かりました。探してみますけど、三年は日曜日に模試があるんで厳しいと思います。先輩たちに誰かアテはありますか?」

「うーん、目ぼしい人にはほとんど声かけたからなあ……」

「あ! 梨々花ちゃん良いんじゃない? 卒業してからみぞれと一度もあってないだろうし」

「いいわね。みぞれも喜ぶんじゃない?」

 

 剣崎梨々花はみぞれの直属の後輩だ。今年は二年生ながらダブルリードパートリーダーを務めている。

 正直、あのポーカーフェイスのみぞれを綻ばせたら梨々花は大物だ。実際に去年は一年生ながらみぞれの懐に入り込むことに成功している。卒業式で大粒の涙を流すほどにみぞれを慕っていたのだから、きっと誘えば来るだろう。

 

「とりあえず、明日にでも聞いておきます。ライブはカバーですか?」

「何曲かはね。でも今回はオリジナルも作ったんだ。楽しみにしててよ」

「おお、めっちゃ気合入ってますね」

「そう。気合入りすぎて、こいついま金欠極めてるのよ」

「バイトで稼いでるからいいの。余計なお世話」

 

 小突きあいながらも互いへの信頼感が垣間見える。バンドマンは何かと喧嘩しがちだが、今のところ二人の関係は良好のようだ。

 

「さ、話も終わったし私はゼミに顔出して帰るわね」

「私もバンドの練習にいかないと」

 

 優子と夏紀は、思い出したかのようにいそいそと荷物をまとめ始めた。

 

「あとはお若い二人で楽しんで」

 

 別れ際に夏紀が口角を上げて希美と隆翔を揶揄う。苦笑する隆翔と、僅かに赤面する希美の反応を見て楽しんでいる様子だった。

 

 

 

 

「……ねえ、さっき優子のこと見すぎじゃなかった?」

「ええ⁉」

「私だって隆翔のこと応援してるのに、隆翔、私の時よりも嬉しそうだった」

 

 唇を尖らせて、あからさまに拗ねている。隆翔としてはそんなつもりは無かったのだから素直に弁解するしかない。

 

「いや、全国行ったら観に行くなんて言われたら誰でも嬉しいでしょ」

「…………」

 

 じとーっと湿度が高そうな視線を送り続ける希美に正論は通用しない。いくら嫉妬の炎に燃えていても、希美のウィークポイントは熟知しているつもりだ。

 

「……じゃあ希美は、俺の演奏観に来てくれる?」

「えっ?」

「希美が約束してくれるなら、全国までソロを手放すつもりないんだけどな」

「それは当然……行くよ」

「じゃあ、良いところ見せないとな」

「はあ……年下に言い負かされるの、なんか納得いかない」

「俺は嬉しいけど。希美に演奏を見せられるの」

 

 紛れもなく本心から来る言葉だった。

 余程のことがない限り、隆翔はこの大学を受験するだろう。来年の今頃は再び希美と肩を並べて演奏しているかもしれない。そんな未来に心が躍った。

 

 

 

【つづく】

 

 

 

 

〈全日本吹奏楽コンクール京都府大会オーディション結果〉

 

トランペット     三年 高坂麗奈 ◎

           三年 吉沢秋子

           二年 小日向夢

           二年 貴水卓

           二年 浅倉玉里

           二年 滝野さやか

 

トロンボーン     三年 塚本秀一

           三年 赤松麻紀

           二年 葉加瀬みちる

バストロンボーン   三年 福井さやか

 

ホルン        三年 森本美千代

           三年 瞳ララ

           二年 屋敷さなえ

           一年 三木美乃

 

ユーフォニアム    三年 黄前久美子 ◎

           三年 黒江真由

           二年 久石奏

 

チューバ       三年 加藤葉月

           二年 鈴木美玲

           一年 釜屋すずめ

 

コントラバス     三年 川島緑輝 ◎

           二年 月永求

 

アルトサックス    三年 牧誓

           二年 松本きり

           二年 鈴木靖也

テナーサックス    三年 瀧川ちかお

           二年 内田ベイブ

バリトンサックス   二年 遠藤正

 

オーボエ       二年 剣崎梨々花

           一年 加千須みく

 

ファゴット      二年 兜谷える

           二年 籠手山駿河

 

フルート       三年 樟葉隆翔 ◎

           三年 高橋沙里

           三年 小田芽衣子

           一年 吉田巧美

ピッコロ       二年 山根つみき

 

クラリネット     三年 高久ちえり ◎

           三年 高野久恵

           三年 植田日和子

           二年 加藤樹

           二年 平沼詩織

           二年 芦田聖子

           一年 義井沙里

アルトクラリネット  二年 北山タイル

バスクラリネット   三年 松崎洋子

           二年 坂崎彩子

Esクラリネット    二年 端田麻耶

 

パーカッション    三年 井上順菜

           三年 堺万紗子

           三年 釜屋つばめ ◎

           二年 前田蒼太

           二年 前田颯介

           二年 東浦心子

           二年 北田畝

 

              (学年順五十五名)

※ ◎は自由曲ソリスト




府大会オーディションでのフルートパートは殆ど創作ですが、唯一三年生が落選したパートの空気は想像に難くありません。

次回はライブハウス回です。
久しぶりに南中カルテットが揃って登場します。
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