発狂してしまいそうな煉獄が京都市街地を襲う。
梅雨も明けて七月に入った。盆地の京都はよく地獄の釜に例えられる。祇園のはずれにある寺社には地獄の入口と噂された井戸があるほどなので、あながち間違いではないのかもしれない。
その祇園からさらに北上した三条京阪を隆翔は歩いている。
花街の祇園が大人の街ならば、三条や木屋町、寺町や新京極なんかは若者文化の集積地だ。ビンテージのアパレルショップや中古楽器屋、小洒落た喫茶店なんかが軒を連ねるこの辺りは、希美とのデートで何度か訪れたことがあった。
「樟葉せんぱーい」
三条大橋の欄干に施された擬宝珠に背を預けていると、川向こうから小走りで渡ってくる二人組が見えた。いずれも北宇治高校吹奏楽部の二年生。一人はオーボエの剣崎梨々花だ。その後ろをもう一人、黒のキャップを被った女子が追随している。隆翔と合わせても異色極まる三人組だが、この二人に関しては隆翔が誘っていた。
今日、優子と夏紀が大学で組んでいるバンドのライブが行われる。隆翔たちはその会場に向かっていた。
◇◆◇
オープンキャンパスの翌日、個人練習をしていた梨々花を捕まえてライブの一件を伝えた。希美の思惑通り、みぞれが来ると知った梨々花は食い気味で頷いた。そして、あと一枚のチケットの行方は……。
「奏だったら行くんじゃないですかね」
「久石さん? 申し訳ないけど、ライブハウスとか行くの?」
「あはは、確かにそんなタイプじゃないですよ〜。でも、中川先輩のライブなら話は別だと思います。あの二人、ああ見えて仲が良いので」
梨々花はカーディガンの袖で口許を隠しながら含みのある笑みを浮かべている。
「じゃあさ、剣崎さんから久石さんに伝えてもらっていい? 返事もらったらチケット渡すから」
「わかりました〜。やった、みぞ先輩に会える」
上機嫌な梨々花は、独特なリズムを刻みながら教室へ帰って行った。そして、その日のうちに後輩二人の参加が決定した。
ユーフォニアム担当、久石奏。
昨年入部した唯一のユーフォニアム奏者だ。二年生の間では出身中学の枠を超えて関係性を持っており、相応の存在感を放っている。
肩でそろえられた黒髪は艶を帯び、陽の光を受けると糸のように細い光が流れる。小さな赤いリボンの形をしたクリップがチャームポイントなのだろうか。自分の魅力を理解してる計算高さを感じる。そして柔らかな前髪の隙間から、意志の強そうな赤茶の瞳が見据えていた。
隆翔は久石と一度も会話をしたことがない。元々関係性の希薄なフルートと低音なので当然といえばそうなのかもしれない。
久石は特に黄前によく懐いている。それも腰巾着と呼べるほどに。向こうが隆翔のことをどう思っているかは知らないが、少なくとも隆翔は久石のことをそう解釈していた。
「かなぴーですか?」
後日、パート練習で後輩たちに久石の人物像をそれとなく聞いてみた。
「か、かなぴー……?」
「あ、奏ちゃんって最近そう呼ばれてるんですよ」
「呼んでるのはさっちゃんだけでしょ」
「そうだっけ?」
平石は久石のことを奇怪なニックネームで呼んでいた。命名はチューバの鈴木さつきで、二人は去年B編成で一緒に活動していたことで交流があるらしい。
「本人はどう思ってるの、そのあだ名」
「最初はちょっと嫌そうな顔してましたけど、さっちゃんがゴリ押ししたので諦めたそうです」
「そういえば、奏ちゃんってどこ中だっけ?」
「西中ですよ」
それまで譜面とにらめっこしていた一年生の吉田が顔を上げた。
「巧美ちゃんも西中だったよね」
「はい。なので久石先輩のことも知ってました」
西中から北宇治高校に通う生徒は、南中ほどではないがそれなりの人数がいる。学区も近いので当然ではあるが、吹奏楽が強いかといえばそうではない。隆翔の記憶では、府大会より先に進んだという記憶はなかった。
中学の頃の久石を知る吉田に視線が注がれる。隆翔もそこには興味があった。
「中学の久石さんって、どんな人だった?」
「優しかったと思います。ユーフォも上手くて、練習熱心な先輩だなって印象です」
「今とあまり変わらないね」
平石の言う通り、練習熱心で優しいという印象は今と変わらない。剣崎という親友がいるように、交友関係も健全なようだ。
「あ、でも……」
「どうしたの?」
「中学一年の頃なんですけど、久石先輩がすっごく落ち込んでいたことがあって。当時、三年生よりも上手かった久石先輩がコンクールに出たんですけど、その年は府大会銀賞で……ひどい陰口を叩かれてました。こんなことなら三年生が出れば良かったのにって」
「……ひどいね」
吉田の告白はあまりにも重く、それまでの和気藹々とした空気は一変した。重苦しい雰囲気の中で、隆翔は諦観にも似た思いを口にした。
「……どこにでもあるもんだな」
「どういうことですか?」
「先輩よりも上手い後輩を疎んだり貶したり、そういう空気になったり。俺も直接見たわけじゃないけど、希美先輩が一年の頃の北宇治も大概やばかったらしいから」
「今じゃ信じられないですね」
「……そうだね」
吉田の安堵に、隆翔は百パーセント同意はできなかった。
隆翔は自分語りが好きではない。だから敢えて北中での事件を引き合いに出さなかった。それに北中よりも、北宇治が過去そうであったという事実の方が受け入れ易いと思ったからだった。
「実力ある人が吹くべき」という北宇治の不文律は「全員の同意が得られる空気」が絶対条件だ。正直、あまりに脆いと言わざるを得ない。
数少ない一年生でA編成に選ばれた吉田は久石の一件を知っていたからこそ、心の底では怯えていたのかもしれない。当然ながらこのパートの二年生に、吉田を糾弾する者は一人としていない。自身が落ちてもなお、関西大会に向けて研鑽を積む優秀な奏者が多い。そういう空気を醸成したのは、希美の功績と言える。
「そういえば、もなかのリーダーはつぼ先輩になりましたよ」
「そうなんだ。まあ、中野としてもこのままじゃ終われないよね」
後輩から「つぼ先輩」と慕われている中野蕾実は、B編成のリーダーに就任した。
オーディション結果発表の日は、しばらく落ち込んでいた中野だが、次の日からはいつも通りケロッとしていた。沙里と小田は空元気なのではと心配していたが、唯一の三年生である立場が彼女を突き動かした。故に自らチームもなかのリーダーになることに特別驚きはなかった。
「で、つぼ先輩から樟葉先輩に伝言です。『次は絶対に四人で吹くから』ですって」
靭く、前向きな言葉だった。
A編成のコンクールから数日後に、副顧問の松本が指揮を担当する少人数規模のコンクールがある。中野は今、その打ち合わせに出向いている。
隆翔が中野に伝えた言葉の返答に際しては、これ以上ない覚悟が伝わった。であれば、府大会などでは終われないだろう。
「承った、って伝えといて」
「わかりました」
江藤も言葉の意味を理解したのか、満足そうに笑った。
どこのパートも、フルートのようにはなれない。むしろここが特別なのだと思わなければいけない。
ソリに黄前が受かろうが黒江が勝ち取ろうが、オーディションに遺恨を残す低音パートが、今後の火種にならないことを祈るしかなかった。
◇◆◇
「今日はお誘いいただき、ありがとうございます」
橋の上で鉢合った三人は、会場のライブハウスまで同行することとなった。
久石はしゃなりと頭を下げ、綺麗なお辞儀を隆翔に披露した。
「でも意外でした。樟葉先輩からお話をいただけるなんて。これまであまり接点がなかったものですから」
「礼なら夏紀先輩に言ってよ。でも、チケットノルマに貢献したから逆にお礼言われるかもね」
「チケットノルマ?」
事情が事情なだけに、冗談めかして言ったが久石には伝わらなかったようだ。その様子に、梨々花が助け舟を出す。
「チケットノルマっていうのはね、ライブするのに最低限バンドの人に売ってほしいチケット枚数のことを言うんだよ。だから、うちらは余ってたうちのチケットを貰ったってこと。ですよね、先輩?」
「そうだよ」
「梨々花、詳しいね」
「全部樟葉先輩の受け売り〜」
はにかみながらピースする梨々花に、久石は「なんだ」と呆れる。隆翔の説明を一言一句相違なく言えるだけあって、彼女は記憶力が高いと見える。
「それで、久石さんは夏紀先輩目当てなんだっけ?」
「……ばっ、何言ってるんですか⁉︎」
「え、違うの?」
「ちがっ……わないこともないですけど……」
「いやどっちよ」
「……梨々花、先輩に余計なこと言ったでしょ?」
「あら、バレるの早かったな〜」
「今まで話したことない樟葉先輩が誘ってくるからおかしいと思ったんですよ。梨々花の余計な入れ知恵に惑わされないでくださいね」
久石は顔を真っ赤にしながら真っ向から否定する。むしろ必死すぎて色々と筒抜けなのだが、隆翔は素直に頷くだけにした。
すっかり忘れていたが、昨年のオーディションで濡れ鼠になったユーフォニアムパートの元凶はこの久石奏だ。だから、夏紀との関係は沽券に関わる程度には地雷原だったのかもしれない。そんな久石を尻目に、梨々花は飄々と久石の後ろで含みのある笑みを浮かべていた。
「樟葉先輩、大丈夫ですよ。ああ見えて奏はそんなに怒っていないので」
「照れ隠しってこと?」
「そんな感じです」
「なるほどね……」
本人には聞こえない声で梨々花が囁く。所謂ツンデレというやつか、と隆翔は勝手に解釈した。
蛸薬師堂の脇を通り抜けた先の寺町商店街に、味のある古本屋が鎮座している。ライブハウスはその地下一階にあった。
古本屋の脇にある階段を下ると、煌々と輝かせたネオンライトの電飾が三人を出迎えた。
灯りは黄色と緑色が交互に光るネオンライトしかない。物々しい雰囲気から入るのを戸惑っていると、物陰からにゅっと長髪の男が顔を出した。顔を合わせた久石が「ひゃあ!」と素っ頓狂な声をあげた。
「いらっしゃい。チケット見せて」
「はい」
「……ドリンクチケット、一人五百円ね」
おおよそ接客とは呼べないぶっきら棒な態度であったが、三人は五百円玉をそれぞれ渡す。店員は硬貨をレジスターに放り込み、引き換えに銀色のメダルを渡してきた。
「これでそこのカウンターで好きなドリンク一杯と引き換えて。未成年?」
「はい」
「じゃあ、酒は頼まないでね」
「分かりました。あと、クロークはありますか?」
「入って右」
「ありがとうございます」
ライブハウスは基本的にスタンディングだ。なので、手ぶらで鑑賞することが推奨されている。スリや置き引きの被害もあるとのことなので、コインロッカーへ預けておくのが懸命だろう。隆翔は貴重品類とサイドバック、差し入れをクロークに突っ込んだ。
ライブハウスの中は真っ黒の壁で塗られ、微かにスモークが焚かれていた。フロアは限られたスポットライトしかなく薄暗い。しかし、観客が立つエリアよりも一段高いステージにはいくつものアンプが聳え立ち、無数のステージライトが照らしている。
太陽公園の野外ライブには何度か足を運んだことはあっても、ライブハウスに来るのは初めてだった。初めての光景に、自分がステージに立つわけでもないのに不思議な高揚感が隆翔を包み込んだ。
「みぞ先輩!」
フロア後方に構えるドリンクカウンターのそばで、梨々花が感激の声を上げている。梨々花は無事、みぞれと合流できたようだ。みぞれ自身も、ポーカーフェイスが僅かに綻んでいる。
二人の再会に目を奪われていると、不意に視界を塞がれた。
「だーれだ」
ドクンと心臓が跳ねる。瞳を塞ぐ細い指、耳をくすぐる快活明朗な声色、背中に感じる愛しき気配。
紛れもなく、希美本人のものだった。
「……ちゃんと抱きつきたいんだけど?」
「うーん、ダメ」
「正直、後ろから抱きつかれてちょっと興奮した」
「変態」
手を離して隆翔の前に回り込んだ希美は、チェックの長袖シャツにデニムショートパンツというラフな出立ちだった。長袖を肘まで捲り、真っ白な細い腕が隆翔の視線を奪っていた。
「オープンキャンパス以来だね。ちょっと焼けた?」
「そうかな? 相変わらずインドアな生活なんだけど」
人目も憚らずぺたぺたと隆翔の腕を触る希美。節操がないように見えるが、二人にとってこれくらいのスキンシップは最早当たり前であった。
そんな二人の様子を、所在なさげにしていた久石が咎めた。
「……あの、私もいるんですけど」
「あ、ごめん」
「久石さんも卒業以来だね。今日は来てくれてありがとう」
「いえいえ。先輩もお元気なようで何よりです」
その言葉の裏に、この場における二人への棘のようなものを感じる。人目も憚らずにイチャつくのは自重せねばと思っていても、なかなかこれが難しい。
「……それで、夏紀先輩たちはどちらですか?」
「今二人は楽屋にいるよ。バンドメンバーと音チェックだって」
「なら、お邪魔はできませんね」
「終わったら楽屋に挨拶しに行こうね」
はい、と頷いて久石は梨々花の元へ戻っていった。
ライブハウスはそこまで広いものでもなく、百人入れば満員だ。ほとんどが大学生なのか、一部ではアルコールの入ったカクテルを片手に雑談に興じている。騒然としていたが、穏やかなフリーダム感が漂っていて隆翔は好きだった。
夏紀たちのバンドは、四人で組まれている。高校卒業時に一度きりのツインギターバンド「さよならアントワープブルー」を結成したのも束の間、大学の軽音サークルで二人を追加して、現在は「セレスト」というバンド名で活動している。
あとで調べたことだが、セレストとは澄んだ天空の色、空色を指すそうだ。
ステージ最後部には「セレスト」のバックドロップが吊るされている。真っ青な絵の具でペイントされた幕。ただ青いだけでなく、何種類もの青系色でグラデーションとなっていた。
「あの幕って前に希美たちが作ったやつ?」
「そうだよ。卒業ライブの時にね」
「アントワープブルーってあんな色だったっけ?」
「あれはね、今のバンドを結成した時に少しアレンジしたんだって。元は本当に真っ青だったんだよ」
ほら、と言って見せてきたのは卒業ライブの写真だ。ギターを持つ夏紀と優子の横に希美とみぞれが並んでいる。笑顔の花咲く記念写真の背景には、淡い青一色のバックドロップが映っている。
高校卒業からまだ四か月しか経っていないが、希美は少しずつ垢抜けている。本人もメイクやヘアスタイルなど、日々試行錯誤していると言っていた。あの頃も可愛いが、段々と可憐さを更新する恋人が愛おしくない筈がなかった。
やがてフロアの照明が落ち、膨らんだ期待感が破裂したような拍手の喝采がセレストの四人を出迎えた。
バンドメンバーは夏紀と優子の他に二人。いずれも女性で、前髪で片目を隠しているドラムスと、オレンジと金色のグラデーションに髪を染め上げたベース。希美曰く、国際商学部と経済学部の同級生でめちゃくちゃ頭がいい、とのことだった。
ライブハウスはいつの間にか人で埋め尽くされていた。隆翔は希美に連れられるがままに最前列で観ることになってしまった。はぐれないか心配だった久石は器用に人波に乗って、隆翔の隣に陣取った。みぞれと梨々花はフロアの後方で一緒にいるらしい。
「楽しみだね」
久石に尋ねると、手櫛で乱れた髪を整えながら「そうですね」と答えた。
◇◆◇
「今日は来てくれてありがとう!」
マイクの前に立った優子がオーディエンスに一礼する。高校のころから変わらず、頭の上に付けている大きなリボンが彼女のトレードマークだ。これから始まるという期待感を、歓声と拍手に乗せて応える。
「今年の五月に、私たち四人で『セレスト』っていうバンドを組みました。全員同じ大学で、気が合ったり合わなかったりだけど、こうしてライブを迎えられて嬉しく思います!」
ライブのMCとしてはどこか行儀の良い感じで始まった。根は真面目な彼女らしさが全面に出ている。その爽やかさがバンドのテーマカラーによく合っていた。
「じゃあ早速一曲目行きます! 手拍子とかでじゃんじゃんノっちゃって!」
『イエーイ!』
夏紀がリードギターをかき鳴らして、四人の「音楽」が始まった。
夏紀はあの頃と変わらないポニーテールではあったが、ライブ用に整えられたメイクが施されていた。黒いアイラインが普段は見せない妖艶さを引き出している。
オープニングナンバーに選ばれたのは、アントワープブルーがインディーズ時代に最も売れたシングル『Agony Anthem』。アントワープブルーらしい退廃的で攻めた歌詞をシャウトする優子。普段、行儀の良い彼女の口からは絶対に出ないような激しい言葉がマイクを通して降り注ぐ。しかし、本人は満更でもなさそうに楽しそうに歌っていた。
このナンバーを一曲目に提案したのは、おそらく夏紀だろう。一見王道を往くメロディラインかと思えば、Cメロに見せ場がある。ベースとドラムスが支える中、ボーカルを活かすコーラスのミックスダウンがある。アントワープブルーは男性ボーカルだが、優子のボーカルにもよく合っていた。そして夏紀の中性的なコーラスが、このバンドらしさを出していた。
掴みは完璧だった。フロアは大盛り上がり。オーディエンスは拳を挙げ、汗だくになりながら四人の演奏に応えている。盛り上がりすぎて一階の古書堂が抜け落ちるのではないかなどと、有り得ない心配をした。
一瞬暗転したと思えば、夏紀のリードギターと共に優子のしっとりとした歌声が響き渡る。
二曲目はthe peggiesの『ボーイミーツガール』。オープニングとは打って変わって、こちらは王道ラブソングだ。これは希美も知っているのか、体を揺らしてリズムを取っている。反対側では久石が二人を見守るかのようにじっとステージを見ていた。
二曲目が終わり、MCに入る。専ら話すのは優子であり、たまに夏紀や他のメンバーにも話を振っている。バンド紹介のあと、優子と場所を入れ替わる形で夏紀がセンターマイクに立った。
「元々私と優子は高校の吹奏楽部で一緒に音楽をやってたんだけど、まさか大学生になってバンド組むとは思わなかった。ぶっちゃけいつもキャンキャン煩いし、コイツの好きなジャンルとは相容れないしで喧嘩ばかりだけど、いつだったかギターを教わりたいって言ってくれて今があると思ってる。そんなこんなで今があって、今日だけじゃなくこれからもこのバンドでライブしたいって今は思う。聴いて下さい。ASIAN KUNG-FU GENERATIONで、『ソラニン』」
静寂の中、ジャンと夏紀のアルペジオが響く。ドラムのリムショットに続いて優子のギターとベースが合流する。ASIAN KUNG-FU GENERATION、略してアジカンと呼ばれるバンドは、ハードロック調の曲が多く見られる。しかしこの『ソラニン』は珍しくバラード形式の楽曲となっている。同名の漫画や映画とのタイアップによって生まれた曲なのだ。
ソラニンとはじゃがいもの芽に含まれる毒素だが、この曲ではそうした日常の鬱屈した停滞感をそれに例えて、別れを告げる歌詞になっている。
──あの時こうしてれば あの日に戻れれば
あの頃の僕にはもう 戻れないよ──
皆、夏紀の声に耳を傾けている。あの頃に想いを馳せながら、戻れないと知りながら、見てきた景色を懐かしむ。喜びも後悔もそこに置いてきて。
原曲よりもよりポップにアレンジされているが、夏紀の声質に合っていた。無表情の優子がCメロのリフを刻んでいる。優子のギターはヤマハのPACIFICA112V。ベージュのボディがステージライトに反射して輝いている。
夏紀のギターはリッケンバッカーのFireglo330。燃えるような赤いボディが身体の揺れに共鳴している。夏紀の見た目はクールでダウナー。しかし、ステージ上でマイクを掴みながらギターを掻き鳴らす姿は、往年のロッカーにも引けを取らない凄みがあった。
「すごい……」
演奏中、久石の喉から漏れ出た感嘆の声。ステージを見つめながら自由に音楽を追い求めるかつての先輩の姿に目を奪われていた。
「いい後輩であろうとする」ことが、彼女の処世術ならば、普段の飄々とした姿よりも今みたいに本気で、本音が漏れ出るほどに感無量の思いを口にする方がよっぽど人間らしい。もっと感情を出せばいいと思ってみたが、隆翔が言えた事ではないと心の中で吹き消した。
やがて曲が終わり、割れんばかりの拍手が沸き起こった。演奏技術はさほど高くないかもしれない。それでも確実に誰かの心に刺さる演奏だった。
「もう最後の曲になっちゃった」
方々からえー、という名残惜しい悲鳴が聞こえる。MCの優子はその反応に驚きつつ、笑って応えた。
「ありがとう。後ろまでいっぱい入ってくれて、忙しい中で来てくれてめっちゃ嬉しいです。さっきも夏紀が触れてくれたけど、私は去年まで吹奏楽部でトランペットを吹いていました。中学高校と、正直良い思い出よりも嫌なこと、悔しかったことの方が多かった。心残りも多かったから、もしかしたら今も音楽をやっているのかもしれない。だからその気持ちを歌にしました。最後の曲です」
いつの間にかツインボーカル体制になったバンド。MCの最中に夏紀はリッケンバッカーからソニックのエレキベースに持ち替えている。てっきりギター専門かと思っていた隆翔は目を見開いた。オープンキャンパスの時に金欠だと言っていたのは、ベースの購入代金に充てていたからだった。
優子はマイクの前で一度深呼吸して気合を入れた。
「聴いてください。『マイ・オンリー・ブルー』」
二人のユニゾンがフロアを震撼させた。拙くも直接的で強いメッセージが二人の背景を知る隆翔に届く。まるで悲鳴のように。
先代部長の吉川優子は恵まれていたとは思えない。その前の小笠原という部長から部を引き継いで、少数ながら精鋭の二年生と中規模の一年生で半年余り支えてきた。故に、年が明けて四十人もの新入生が入部したのは僥倖であっただろう。
順風満帆ではなかったとしても、望んだ色に届かなかったとしても、理想と現実の乖離に跪こうとも、それを一色の青で表現してしまう精神力はあまりに強い。優子のギターが、夏紀のベースが紡ぎ出す音楽に乗せて、淡い群青だった二人の青は透き通った
希美は涙こそ見せていないが、ステージの二人を感慨深そうに見つめている。瞳の奥には並々ならぬ感情が渦巻いていたことだろう。
そこには「自由」な音楽があった。
毎日毎日、窮屈な吹奏楽を続けている隆翔は、目の前にある眩い「自由」に手を伸ばしかけた。
このままで良いのかという自問自答を繰り返しながら。
「規律」や「正確性」を追い求める日常の末にある結果が金や銀、関西や全国ならば、今だけでも重圧と悩みから解放されたかった。
◇◆◇
四人がステージから降りた後も、フロアには熱気が充満していた。空調が効いているとはいえ、真夏のライブハウスは湿気が篭りやすい。余韻に浸る久石の前髪が額に張り付いている。
「あ、いた。みぞれー!」
「希美……!」
「ライブどうだった?」
「凄かった」
「私も感激しました。お二人のギターも歌も、とっても上手でした〜」
「あはは、それは後で言ってあげてよ」
フロア後方で眺めていたみぞれと梨々花も合流し、これから楽屋に向かう。二人ともこの熱気で頬が上気していた。みぞれは普段のように表情を変えていないが、僅かに微笑んでいる。そうした心情の起伏と表情変化が分かるようになってきていた。
「セレストのみなさん、お客さんですよ」
ライブハウスの関係者に連れられて入った楽屋には、タオルを首から下げてクールダウンしている四人の姿があった。
「おー! 来てくれてありがとう」
「みぞれ久しぶり!」
思い思いの寛ぎ方をしていた優子と夏紀は、楽屋に登場した隆翔たちを見るや否や飛び起きて出迎えた。汗もかなりかいている。優子は前髪をあげて、リボンはテーブルの上でしんなりしていた。
「二人とも最高だったよ。盛り上がってたね〜!」
「でしょ。作詞作曲頑張った甲斐があったってもんよ。樟葉もサンキュー。お陰でチケットも完売したし、言うことなし!」
「ノルマに貢献できて良かったですよ。はいこれ。この前のケーキのお礼も兼ねて、みなさんでどうぞ」
おお、と四人から歓声が上がる。隆翔が持参した差し入れは京都駅の伊勢丹で売っている老舗の果物屋。そこの看板商品であるフルーツゼリーの詰め合わせだった。ライブ後の消耗した体力でも喉に通しやすいだろうというチョイスだったが、想像以上に喜ばれた。
「気を使わなくても良かったのに」
「いえ、最高のライブでしたから気にしないでください。それよりも今日のソロ曲、いつか音源で聴きたいですよ」
「えー、嫌だよ恥ずかしい。まあせっかく作ったし、またライブやることがあったら歌うかもね」
「あと『ソラニン』も最高でした。夏紀先輩とアジカンって意外な親和性があるなって思いながら聴いてました」
「本当? 昔からよくカラオケでアジカンは歌ってたからこそ、樟葉のお眼鏡に叶ったようで」
「なんですか、それ」
夏紀と隆翔は吹き出して笑った。
二人の音楽趣味の系統は所謂邦ロック、日本のロックバンドが放つポップス、メタル、メロコア路線には、夏紀が好きなアントワープブルーも含まれるであろう。希美ではこうはいかない。以前、彼女の前でマキシマムザホルモンを歌ったら、その前衛的な歌詞と激しい曲調にドン引きしていた。ダンスが趣味の希美は、J-POPやアイドル、ダンスミュージックが好きなので、隆翔や夏紀が普段聴いているような音楽は刺激が強いようだ。
「奏も、今日は来てくれてありがとね」
「……そうですよ。可愛い後輩がおめかしして来てあげたんですから、何か言うことありますよね?」
「はいはい。可愛い可愛い」
「あ、ちょっと。髪型崩れるし汗かいてるんだからやめてください!」
夏紀は呆れつつ、久石の髪をわしゃわしゃと乱暴に撫でている。彼女には見えていないだろうが、夏紀の表情は穏やかそのものだ。正反対な性格や外見をしていても、素直じゃないところがそっくりだった。
地下のライブハウスから地上に出て、隆翔は小さく深呼吸をした。みるみるうちに新鮮な酸素が肺を満たした。
「楽しかった」
本心で思っていた言葉が自然と口から出た。隆翔の言葉を、背後を付いてきた久石が拾った。
「ライブ、良かったですね」
「ね、来てよかったでしょ?」
「そうですね。事実、気分転換になりましたし」
「素直じゃないなぁ」
誤魔化しながら目を合わせずに語る久石に隆翔は苦笑した。
「先輩たちみたいに、もう少し自由に演奏したいとは思ったかな。今はコンクールで手一杯だからさ」
「私は今のままでも良いですけど」
「あとは黄前のマネジメント次第なんだけど、今は期待薄だから」
「……樟葉先輩が部長とあまり仲がよろしくないというのは本当だったんですね」
「そう見える?」
「ええ、先輩が休部なさってからは特に」
久石は笑顔を崩さない。貼りついた仮面の奥では、隆翔の本音を探ろうと虎視眈々と隙を狙っていた。
三月の休部事件は部内に小さくない影響をもたらした。当然、久石も騒動のあらましを知っている。
「久美子先輩を信じきれてないのは、どうしてです?」
「久石には関係ないよ。俺と黄前の問題だから」
「ああ、黒江先輩ですか」
当然、そこに行き着くだろうと隆翔は思っていた。
オーディションの実施が宣言されてから、部長の黄前と強豪校からの転校生である黒江真由の対立構造は実体化していた。久石はもっぱら、その渦中にいる下級生だ。
真由の名前に明らかな反応を示した隆翔を確信した彼女は、恐れることなく矢継ぎ早に挑発を続けた。
「やっぱり先輩だったんですね」
「……何が?」
「黒江先輩がオーディションを辞退しなかった本当の理由です。私や久美子先輩が、辞退を仄めかす黒江先輩をあんなに説得して耳を貸そうとしなかったのに、オーディションではちゃんと受けてたのでおかしいと思ったんです。なるほど、そういうことですか」
隆翔の反論を聞かずに納得する久石。彼女にしてみれば真由と黄前、天秤に掛けるなら当然、後者である。実力伯仲のユーフォニアムでは、自分が納得するための判断材料は私情によるものとなっても仕方がない。
信頼度では真由は黄前に勝てない。北宇治で費やした時間の差がそうさせていた。
「黒江先輩でないと勝てないと思ってる。そういうことで良いですか?」
「そうだよ」
「随分とはっきり仰るんですね。部長も一年生の時は全国で吹いてますけど」
「……それだけじゃないよ」
「教えてもらっても?」
「…………」
「樟葉先輩のお立場は理解できました。そういうことにしておきます」
隆翔は沈黙を貫いた。
久石の主張に矛盾点はない。全国経験なら両者ともアドバンテージがある。真由の方が相応しいという確たる証明にはならない。
真由の演奏を聴いた時に、誤魔化しきれない自信と芯の強さを感じていた。だから清良女子という環境で咲いた花に期待するのは間違っていない。ただ、かなりあやふやな理由なだけに、今は勘違いさせておいたほうが都合が良さそうに思えた。
「二人ともお待たせ」
「ああ、うん。二人はもういいの?」
「うん。夏紀と優子は片付けとかあるから。打ち上げは別日にしようって」
ライブハウスから上がってきた希美と他の二人と合流した。歩き始めた途端、さりげなく希美が右手を握ってきた。驚いて傍を振り返るが、隆翔とは目を合わせてはくれなかった。
夜も更けてきて、暑さも夕方よりは和らいでいる。
みぞれと梨々花、久石の三人とは三条京阪で別れた。去り際に久石から含み笑いと共に「また明日」と言われ、隆翔は苦笑するしかなかった。希美も同じように三人を送ったが、握った手の握力は今日一番で強かった。
「で、何か言うことがあるんじゃない?」
「……な、何が?」
「とぼけるなら、今日はもう帰ろうかな」
鋭い希美の眼光が隆翔を捉えた。嫉妬であれなんであれ、希美は怒るときに表情には出さない。ただ、いつも以上に素っ気ない態度と言葉の節々に棘を見せる。
希美の爪が掌に食い込んで、ピリッとした痛みが隆翔を襲う。
かなりご立腹の様子だ。
「部活のこととかライブの感想とか、別に大したことを話していた訳じゃないんだけど。ごめん、配慮が足りなかった」
「別に良いんだけどね。梨々花ちゃんと一緒に久石さんが来るのは想定出来ていたし、何より隆翔と久石さんって、なんか合わなそうというか。だから全然心配してないよ。でもね」
繋がれていた手をパッと離して、隆翔の頬を両手で挟む。
「君は、誰の彼氏かな?」
「……希美さんです」
「ん、よろしい」
漸く、希美はにっこりと笑った。隆翔が誰のもので、希美が誰のものかじっくりと理解させるように、隆翔の瞳を覗き込んだ。
「不安にさせるようなことしてごめん」
「……知ってるよ。隆翔がそんなことしないってことは。沙里ちゃんともしっかり一線引いて関係を続けてるのも知ってる。だけど、やっぱり恋人として一緒の時間を共有するには、一年は短かったな」
ここまで明確な不安を吐露したのは初めてのことで、隆翔は焦燥感に駆られた。普段寂しさを見せない希美に、こんな時、隆翔はなんて声を掛けたらいいか分からない。
あの時の希美は三年生で、隆翔は二年生。今は大学生と高校生。立場上どうしようもないのは互いに百も承知だが、止むを得ないことほど人は悶々と悩んだりするのだ。
二人はこれまで『ソラニン』の歌詞とは真逆の恋人期間を続けている。だから、だらっと続く幸せを追い求めても誰も文句は言わないだろう。
希美は足を止めると、爪先立ちになり、隆翔の肩に顎を乗せるようにして身を寄せた。
頬と頬が触れ合い、彼女の温もりと吐息がダイレクトに伝わる。
絡んでいた指が隆翔の腰に据えられ、唇の柔らかな感触と僅かな水音が鼓膜を震わせた。
街頭に照らされた二人の影がゆっくりと夜の街に溶け込んでいく。
言葉はいらない。この時間を逃すまいと、蜘蛛の糸を巻き付けるように希美は隆翔を絡めていった。
【つづく】
中川夏紀役の藤村鼓乃美さんによる『ソラニン』のカバーが好きすぎて毎週聴いてます。
鼓乃美さんは沼。
ユーフォの声優さんは特にソロデビューアーティストの宝庫ですよね。
キャラソンで一番好きなのはりりかなの『ラブリー I know』です。やっぱり藤村鼓乃美さん(作詞担当)じゃねーか。