或る、フルート吹きの青春   作:ハヤブサ320

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新章突入。
立華高校編、西条美音視点のお話です。


九章 立夏
EP.38 正義の抜け殻 ─西条美音─


 立華高校三年、西条美音(さいじょうみおん)。吹奏楽部オーボエ担当。それが私の肩書きだ。

 双子の姉、花音(かのん)と共にマーチングの強豪・立華高校で一年生の頃から第一線で活動してきた。その自負と仲間への信頼は時間を経て強固な絆になっていた。

 

 

 他人の恋路に首を突っ込みたくはない。

 女子の交友関係なんて、恋愛が絡めば一瞬で崩壊する。

 中学で暗黙のうちに作られたグループは、同じ男子を好きになってしまった二人の女子によって内部崩壊した。それまでは結構仲が良かったし、休日を一緒に過ごす程度には親睦も深まっていた。険悪なムードのままクラス替えをきっかけにして、呆気なく疎遠になった。

 花音に相談したら「あるあるだね」と笑われてしまった。

 そうやって、笑って片付けられる花音が羨ましかった。

 

 京都に引っ越して、憧れの立華高校に入学した。

 一気に部活中心の学校生活となった。友達はできても、恋愛に現を抜かす時間は霧消した。吹奏楽部には女子のかっこいい先輩がいたからそもそも恋愛欲が湧かなかった。それ以上に、オーボエとカラーガードが上達していくことが率直に嬉しかった。

 

 姉の花音とは見た目がそっくりの一卵性双生児で、先輩や同級生の目を引いた。

 幼いころから間違われることなんて日常茶飯事だったけど、花音と間違われることが不快だと思ったことはない。

 しかし入学して早々、私たち以上の存在感で周囲を圧倒する同級生が現れた。

 

 名前は佐々木梓。

 背も低く、決して体格に恵まれたわけではないが、圧倒的なポテンシャルと長時間の練習に裏打ちされた技術で、一年生の筆頭格(エース)へ躍り出た。

 性格も良く、先輩の覚えも良い。できない人を放置したりせず、練習も最後まで居残ってステップを踏む姿を見れば、私たちの代の部長は彼女であると誰も疑わなかった。

 

 

 

 そんな彼女も、いまどきの女子らしく恋をしていた。

 二年生の夏、府大会の会場でとある男子と話している姿を何人もの部員が目撃した。「練習の鬼」に恋の気配あり、との情報に部内は色めき立った。

 演奏後に梓を尋問したところ、あの場で近所の幼馴染みと数年ぶりに再会したそうだ。

 詳細ははぐらかしていたが、あれは完全に恋する乙女の顔をしていた。

 

 

 

「北宇治高校二年、樟葉隆翔です。フルートやってます」

 

 ──ああ、なるほど。この人か。

 

 梓が惚れたという男子は簡単に見つかった。花音も彼がその人だと理解したようで、これからどう揶揄ってやろうかと値踏みする瞳をしている。

 ダウナー系のパッとしない風体で、梓とは正反対だ。惚れる要素があったのか、いくら考えても答えは出なかった。

 音楽教室での彼は良い意味で真面目だった。様々な高校から通ってくる生徒がいる中、年上年下に関係なくイーブンに接し、女子への気配りもその辺の男子より出来ていた気がする。

 しかし、肝心のフルートはあくまで平均的で、特筆して上手いわけではなかった。比べてみても、沙里ちゃんや花音の方がよっぽど上手かった。

 

 

 彼の様子が変わったのは今年三月。

 一度もレッスンを欠席していなかった彼が体調不良で休んだ。季節の変わり目だし、それ自体はよくあることだと思っていた。

 まあ、私もあみかや志保が休んだらちゃんと心配するし、風邪が治れば安心もする。

 復帰した彼の異変に気付いたのは、私ではなく花音だった。

 

「樟葉くん、今日は来てたね」

「うん。風邪引いてたんだって」

「そりゃ治ってよかった」

 

 私がレッスン仲間の快癒を喜んでいる時、花音は訝しげな様子だった。

 

「でも、なーんかいつもの樟葉くんとは違うっていうか……なぜか楽器も借り物っぽかったし、演奏の調子もいつもと違う気がした。ただの気のせいかもしれないけどさ。ただ、サリサリの喜びようはガチだったね」

 

 この時は、彼にもそんなことはある、花音の思い違いだろうと思っていた。

 北宇治に通っている高橋沙里ちゃんは、なんとなく彼のことが好きなんだと思っていた。だけど、告白するタイミングはいくらでもあるのに、恋愛関係に発展している様子はなかった。

 

 

 そんなこんなで四月を迎え、私たちは三年生となった。吹奏楽部部長に就任した梓は、新入部員が加わった大勢を前にして、こう宣言した。

 

「今年は吹コンとマーコン、両方で全国金を獲りにいきます!」

 

 二兎を追うものはなんとやら、という諺が脳裏を過った。けれど、彼女と同じ時間を過ごしてきたからこそ、無謀なものには聞こえなかった。

 今まで、吹コンには一種の諦めムードがあった。

 ──吹コンがダメでも、マーコンで金獲れたらいい。

 去年も、一昨年も結果は関西大会銀賞。

『立華は座奏のレベルが低い』という風潮は否定できないものになりつつあったし、年始の大阪東照での合同演奏会でも似たような空気があった。

 梓はそれが許せなかったのだろう。

 

 

 彼女は部長としても完璧だった。

 就任してから今までの練習はもとより、週末の演奏会、五月のサンフェスを難なく統率した。初心者の子たちは梓が作り上げた練習メニューに必死に喰らいついていた。

 練習メニューが配られた当初は、年末のようにスパルタを地で行くと思っていた。しかし蓋を開けてみれば、課せられたノルマはあるものの基本的な練習はパートリーダーに一任されている。事実、初心者の子たちの上達速度はみるみる上がっていた。

 聞いた話では、顧問の熊田先生と毎晩のように何時間も話し合い、前年までのメニューをブラッシュアップしているらしい。

 

 振り返ってみれば私たちが一年生の頃もそうだった。

 ドラムメジャーの神田南先輩が演奏の底上げ、マーチングや座奏の指揮を担当し、私や花音、あみかが徹底的にしごかれた副部長の小山桃花先輩は、ガードチーフとしてカラーガードの指導に注力した。

 そう考えてみると、スパルタ練習の思い出には常にこの二人の顔が思い浮かぶが、部長の出る幕は少ないように見える。

 そんな筈はないと分かったのは、実際に私たちが主導する代になってからだった。

 

 まず、梓と一緒に帰る機会はなくなった。

 彼女は部活が終わっても、忙しそうに「先帰ってて」と言って校舎のどこかに消えていった。

 特に役職等にも携わっていない私は、自然と居た堪れなさを覚えていた。そのことを花音に相談したら同じように思っていたらしく、私より先に梓へ打ち明けた。そしたら「本番で返してくれたらいいよ」と満面の笑みで袖にされたらしい。

 なんとも梓らしい、立華イズムを立派に受け継いだ姿がそこにあった。

 人間関係に隙がなく、かといって一年生の頃みたいな危うさもない。チームの大黒柱として、同級生として、そして友達として、梓の行く末を期待しながら下支えする気概で最後の一年を邁進していた。

 難しいことは何もない。なんなら、ガタガタだった去年と比べたら雲泥の差だ。

 

 

 

 

 ──七月末。吹コン、マーコン共に府大会の足音が着々と聞こえてくる中で、その事件は起こった。

 その日も、花音と一緒に音楽教室へ向かうため、いつものように中書島駅で降りた。

 ホームに漂う鉄の匂いと、油の焦げたような夏の熱気。

 私の傍らでは「暑い、暑い」とはしたなくシャツの襟元を煽っている。京都の猛暑は毎年経験していても慣れるものではない。

 いつもと変わらぬ光景の中で──私は、見てはいけないものを見た。

 

 人混みの向こう、改札へ向かう二人。

 背の高い男子が、スクールバッグと紺色のハードケースを持って改札を出ようとしているところだった。

 隣には、少し年上に見える女性。髪を下ろし、ワンピースが風に揺れている。下校時間の真っ只中、私服で歩く人は嫌でも目立つ。きっと彼女は高校生ではない。

 そして、あの後ろ姿は間違いなく彼だ。

 一瞬、嫌な想像が脳裏に浮かんだ。

 

「ねえ、あれって樟葉くんじゃない?」

 

 花音も気が付いたようだ。と同時に、やはり隣の女の人に注目した。

 

「あれ、誰かな」

「……さあ、お姉さんとかじゃない?」

「え、でも一人っ子って言ってたよ」

 

 僅かな可能性に縋ってみたけど、簡単に消え去ってしまった。

 

 ふとした瞬間、彼女が笑う。

 それに合わせて彼も笑った。

 互いに目線を合わせるたび、自然と肩が寄り添っていた。

 

「あれって、そういうことかなぁ」

「たぶん、ね……」

 

 花音は既に察しがついている。もちろん、それは私もだった。

 言葉にしなくても、気持ちが理解できる瞬間はいくらでもあった。今こんなところで働かなくていいのに。

 

 彼とその女性(ひと)は改札口で言葉を交わし、軽く笑って別れていった。

 私は花音とともに、そこに立ち尽くしていた。

 

 梓の姿が脳裏に浮かんだ。

 彼女だって人間だ。調子を崩す時だってある。

 だけど、いつだって彼と会うことで自分らしさを取り戻していた。

 いまだって毎日見えないところで努力している。それを知っているから、目の前で起きている出来事から目を背けた。

 

 ──神様、いくらなんでも、それはあんまりだよ。

 どこに縋るでもなく浮かんだ悪態は、喉元で引っかかったまま胃の中に溶け落ちていった。

 

 レッスンは普段通り始まった。

 譜面を眺めつつ、教室の前にいる彼に視線を向ける。

 幸せな時間などまるで無かったかのように、飄々とフルートを組み立てる姿があった。

 

「言うの?」

 

 花音がフルートを組み立てながら声を掛けた。

 そんなに分かりやすかっただろうか。

 

「どうしたらいいのか分からない」

「言わないのも優しさだと思うけどね」

 

 当然、その考えも浮かんだ。

 でも結局、それはただ時間を引き延ばしているだけだ。

 

「もしかしたら、ちょうどカノジョに嫌気が差してて、梓に逆転の芽があるかもしれない」

「はぁ? どう考えてもそんな雰囲気じゃなかったでしょ」

「ごめん、言ってみただけ。美音の言う通り、その可能性は低いと思う」

 

 普段の花音なら、面白い冗談の一つや二つはお手の物だ。

 でも、こればっかりは認められない。

 

 部外者である自分が、誰かの恋愛を裁く権利なんてない。

 でも、梓のことを思うと胸が詰まる。

 梓の恋心は、きっと彼に相応しい人でありたいと思ったから生まれたんだ。

 樟葉くんが頑張ってるから、梓も走っていられる。

 二人はお似合いなのに、現実は残酷だ。

 

 

「はぁ……」

 

 熱気を帯びた霞が浴室を覆い尽くす。

 風呂の縁に額を当てて、モヤモヤを溜息にして吐き出した。

 

「美音、まだ悩んでるの?」

「だって……可哀想じゃん」

「そりゃそうだけど、タイミングが悪かっただけだって。吹コン前だよ? ここで波立てたら、梓も、うちらも困るでしょ」

 

 花音は湯面を手ですくい上げて、ぱしゃ、と私の肩に落とした。湯気が白く立ちのぼる。浴室の小さな換気扇がウウウと鳴いて、曇った鏡に私たちの輪郭だけを残している。

 

「困るのは分かるよ。でもさ、知らないままは、もっと可哀想じゃない? 」

「その言い方はちょっと違うかな。梓は自分で走ってるよ。部長だから」

「……うん。でもっ、だからこそ足元に穴があるなら先に言ってあげたい」

「友達として?」

「……花音のいじわる」

 

 風呂の縁に額を預ける。ひんやりとして気持ちいい。

 花音が隣で湯船に沈み直し、肩が私の肩にコツンと当たった。幼いころから変わらない、同じ骨格のぶつかり方。けれど今は、胸元でわずかに水の流れ方が違う。私より花音のほうが、少しだけ起伏がある。どうでもいい差なのに、こういう時ほど気になる。

 

「美音が言いたいってのは分かる。でも、今は言わないほうがいいと思う」

「正論だね」

「褒め言葉として受け取っとく」

 

 軽口の温度は少しだけ低い。花音は目を細めて、湯気の向こうの天井を見た。

 

「恋愛ってさ、タイミングゲーだよ。うちら、いちばん忙しい世界にいるじゃん。学校、練習、たまに遠征。会えるかどうかも運次第。好きかどうかより、お互いに価値観が合うかの方が強いと思う」

「身も蓋もない……」

「でも本当のことでしょ。で、今回は『真実』がふたつある。梓が彼を好きって真実と、彼には恋人がいるって真実。どっちも本物。どっちも誰も悪くない」

 

 目を背けたくなるような正論。私は指先で湯面を弾きながら、夕方の光景を思い出す。寄り添う肩、距離感、笑顔。あれは、嘘じゃなかった。

 

「じゃあ、黙って見てるだけ?」

「だけって言わない。見守るのが仕事。部外者だからね」

「部外者……」

 

 確かにそうだ。私は同級生で、梓の友達。でも、梓の心の真正面に立っていい権利は、私にはない。正面に立てるのは梓自身と、梓が選んだ誰かだけ。

 

「ねえ、花音。言わない優しさって、ほんとに優しいのかな」

「場合による。言って楽になるのは誰? 言われて楽になるのって、いつ?」

「……」

 

 湯気がふわりと鼻先をかすめる。私は小さく息を吐いた。さっきから溜息ばかりで、肺がしわしわになりそうだ。

 

「わたしはね、怖いの。梓が——気づかないまま『期待』を握りしめて走るのが」

「期待は、時々必要だよ」

「でも、あれは偽物の期待だよ」

 

 花音は目を伏せた。たぶん、私の声の震えに気づいている。

 

「……じゃあさ、妥協案。明日言うのはやめよ」

「引き延ばしだ」

「違う、準備だよ。本当に言うなら、言い方も場所も時間も選びな。廊下でもパート練のあとでもダメ。ましてや人前で打ち明けるのは最悪。二人きりで、座って、逃げ道のある場所でね」

「逃げ道?」

「うん。話が終わったらすぐ帰れるとか、すぐ泣けるとか、すぐ部屋にこもれるとか。温かい飲み物が手に入るとか。そういう逃げ道」

 

 花音の現実的な提案に、思わず笑ってしまう。昔からそうだ。私が感情で押し出すと、花音はいつもどこで、どうやってを並べてくる。

 

「二日。二日だけ置こう。うちらは練習をみっちりして、梓の様子も見る。で、二日後に二人きりで話せる時間を作る。言うならそこで。言わないなら言わないでおく」

「……二日」

 

 私の中で、梓の笑顔と吹コンのステージが重なる。二日という猶予は酷であり、救いでもある。飲み込むための咀嚼だ。喉に引っかかった棘を、少し丸くする時間。

 

「うん。二日。それと、言うときは事実だけね。推測とか評価とかは絶対に混ぜない」

「『見た』と『そう見えた』の線引きってこと?」

「そう。『見た。手を繋いでた。笑ってた。改札で別れた』だけ。『付き合ってると思う』は言っても、『だから諦めなよ』は言っちゃダメ。分かる?」

 

 私は一度頷いて、膝を抱え直して顎をのせる。湯が静かに揺れて、タイルの影がたわむ。鏡の中で、私と花音が同じポーズになった。胸の水位の違いが、また少しだけ気になって、でもそれもすぐにどうでもよくなる。

 

「ねえ、花音。恋愛って、いつ始まるんだろ」

「気づいた時には始まってるものでしょ」

「いつ終わるの?」

「終わったって、本人が思えたら」

「むずかしい……」

「だから、音楽のほうがちょっと優しいよね。練習すれば上手くなるし、心さえひとつになれば合奏は成立する」

 

 花音は笑って、私の髪に湯をかけた。前髪がおでこに張りつく。私はむうっと顔をしかめて、指で払いのける。

 

「美音の恋愛観は?」

「……まだよく分かんない。オーボエのアンブシュア直す方が、たぶん簡単」

「それは相当むずいね」

 

 二人でふっと笑った。笑いながらも、笑いの底に沈殿するものは消えない。消えないけれど、形は少しだけ輪郭を失って、鋭さをなくしていく。

 

「梓は強いよ。きっと泣く場所も弁えてるから」

「泣く場所?」

「うん。人の前で泣かない代わりに、一人で泣ける場所をちゃんと持ってるから。そういう人の心は、簡単に折れない」

 

 花音の言葉に私は目を閉じた。マーチングで何度も倒れそうになり、座奏で何度も指がもつれ、ステージの裏で何度も喉がからからになった。でも、梓だけはいつも泣かないでいた。

 見えていないだけでどこかに泣ける場所があるのだとしたら、私はそれを守りたいと思った。

 

「……分かった。二日後に言う。事実だけ。場所も時間も選ぶ。逃げ道も用意する」

「それでよし」

 

 花音が親指を立てる。お湯の中で揺れる親指が、どこか頼もしい。

 

「で、言ったあとはどうするの?」

「梓を見守る。部活は部活。私たちは私たちの役目を果たす。梓がどう転んでも、支える準備をしとく」

「支えるって、具体的には?」

「練習メニューを回す。代わりに仕事拾う。後輩の面倒もみんなで見る。梓が『部長』でいられるように、周りが『部員』をやり切る」

「うん」

 

 言葉にすると、体が少しだけ軽くなった。やることが見えると息が通りやすくなる。恋愛のことはコントロールできない。でも動けるところは、まだいくつも残っている。

 

「……ありがと、花音」

「どういたしまして。にしても、ため息多すぎ。お湯が酸欠になる」

「そんな物理ある?」

「ある。うちのお風呂限定で」

 

 またふっと笑う。笑いの回数がさっきより増えた。

 

「最後にもうひとつだけ。言うときさ——『わたし』を主語にして」

「『わたしは見た』『わたしはそう感じた』ってやつ?」

「そう。『誰それが言ってた』ってのを盾にしない。美音が選んで、美音が言ったことにしよう。梓の前で誠実でいるって、そういうことだと思う」

「……言葉に責任を持つってこと?」

「そう」

 

 湯気の向こうで、花音が目を細めた。双子なのに、時々全然違う顔をする。私にはできない顔を花音はする。花音にはできない顔を私はする。その違いが今夜は心強い。

 

「じゃ、上がろっか。のぼせる」

「うん」

 

 湯船から立ち上がる。水滴が肩から落ちて、タイルに小さな輪をいくつも作った。バスタオルを肩にかけると、肌に残った熱がふっと逃げていく。

 鏡はまだ曇っている。指で丸を描くと、ぼやけた自分の目が現れた。真っ直ぐではないけれど、下を向いてもいない。二日、と小さく口の中で唱える。

 

「美音」

「ん?」

「大丈夫だよ。うちらなら、ちゃんとやれる」

 

 花音の声は、湯上がりの空気みたいに柔らかかった。

 その夜、私は布団に入ってからも何度か目を開けた。

 彼の実態を知らないまま走らせない。言葉を選ぶ。場所を選ぶ。逃げ道を用意する。

 そして、言ったあとは彼女を支える。

 

 

 

 二日なんて、あっという間だった。

 練習と授業と、花音と話した夜の余韻の間で、時間は勝手に流れていった。

 梓はいつも通りだった。いや、いつも以上に「いつも通り」を演じていた気がする。

 朝のホームルームでは明るく笑い、昼休みは一年生の相談を受け、放課後は全体練習の進行表を確認していた。

 その笑顔の奥に、何も知らない安定が見えて——かえって胸に刺さった。

 

 

 言わなきゃ。

 でも、言いたくない。

 言ってしまったら、何かが壊れる気がして。

 でも、言わなかったら、もっと壊れる気がして。

 

 

 その狭間で一日が終わり、次の日が来て。

 ──そして次の日の放課後を迎えた。

 

 

 

 部活も終わり、他の部員も下校したこの時間しかなかった。

 私は外のコンビニで買ったミルクティーを二つ持って、梓がいる科学実験室の扉を軽くノックした。

 

「梓、ちょっといい?」

 

 返事がすぐに返ってくる。

 

「美音、帰ったんじゃなかったの?」

 

 譜面を手にしたまま、いつもの笑顔で振り向く梓。

 その笑顔を、私は直視できなかった。

 

「……少しだけ、話せる?」

「いいよ。どうしたの?」

 

 彼女は私の隣に立った。

 すでに太陽は沈み、窓の外には暗闇がへばりついている。

 まるで、時間が止まったみたいだった。

 私は梓にミルクティーを差し出した。

 

「部活おつかれ」

「あ、うん。お疲れ様……って、こんな暑いのにホットなの?」

 

 紅茶を一口飲む。言葉を探す。

 でも、どれも余計な装飾をまとって出てこようとする。

 

「事実だけでいい」と言った花音の言葉を思い出す。それがトリガーだった。

「樟葉くんのことなんだけどね……」

 

 梓の手が止まる。

 温かい紅茶が掌を伝い、打ち明けるエネルギーに変換される。

 言い淀んでしまうくらいなら、一気に伝えたほうが楽だ。

 

「この前見たんだ。彼がね、女の人と一緒に歩いてて。少し年上っぽい人だったと思う。二人で歩いてて、改札で少し話して、笑って、別れた」

 ──それだけ。

 

 ほんとうに、それだけを言った。

 推測も、理由も、慰めも、何も足さなかった。

 梓は何も言わなかった。

 ただ、瞳の奥がわずかに揺れた。

 その微かな揺れが、静かな湖面に落ちた一滴のようで、痛かった。

 数秒後、彼女は小さく笑った。

 とても穏やかで、壊れたガラスみたいに透き通った笑みだった。

 

「……そっか。ありがとう、美音」

 

 ありがとう、だって。

 その言葉が、いちばん聞きたくなかった。

 私はただ、喉の奥で息を殺した。

 

 

 沈黙が流れる。

 他に誰もいない実験室に、換気扇の低い音だけが鳴っている。

 ミルクティーは熱を奪われ、すっかり冷めていた。

 梓が小さく呟いた。

 

「ねえ、美音。恋って、どういうもの?」

「……わかんない、わかんないよ」

「頑張っても報われない人がいるのに、何もしてなくても愛される人がいるなんて、こんなに虚しいんだね……」

 

 その声は、怒りでも悲しみでもなく、ただ乾いていた。

 私は何も言えなかった。

 言葉をかけることすら、彼女の強さを侮辱するように思えたから。

 

「……そっか。ありがとう。言ってくれて」

「ううん。ごめん、言っちゃって」

「いいの。知らないままでいるより、ずっとよかった」

 

 梓は微笑み、紅茶を持ち上げた。

 口をつけずに、そのまま机の上に置く。

 

「紅茶、冷めちゃったね」

「……うん」

 

 立ち上がる音。

 その背中は、今まで見てきたどんな梓よりも小さく見えた。

 でも、背筋だけはまっすぐだった。

 

「じゃあ、また明日ね」

 

 梓が扉を開けて出ていく。

 残された私は、ようやく呼吸を取り戻した。

 教室に沈んだ静寂が、遅れて心に刺さってくる。

 

 言わないことが思いやりになるなんて、ただの時間稼ぎでしかない。

 そんなことは梓のためにもならない。梓はきっと、いずれ彼に告白して玉砕する。

 その時間が早まるだけ。今を生きる彼女のためにならない。

 

 その結果、くだらない正義感で親友を傷つけた。

 何が「誠実さ」だ。聞いて呆れる。

 

 少なくとも今、梓の世界は止まった。

 彼女はそのまま、また歩き出す。

 その道がどんなに険しくても、私にはもう、背中を押すことしかできない。

 

 やはり、他人の恋路に首を突っ込んでも碌なことがない。

 花音だって、梓を慕う一人だ。でも、私は姉とは違う。

 何も考えられていないのは私の方だ。

 

 心が痛かった。でも、今の梓は私によって、これ以上の痛みを負ったんだ。

 死にたくなった。今すぐ京阪電車に飛び込んでしまいたかった。

 そんな勇気もない自分が、本当に嫌だった。

 

 

 帰宅して、すぐに風呂に入る。花音は先に上がっていて、下着姿でドライヤーをかけていた。

 何も言わずに、服を脱いで浴室の扉を開けた。

 鏡に映っていたのは、今にも泣きそうな自分の顔だった。

 花音がドライヤーの音を止めて、少しだけ顔を覗かせた。

 

「言ったの?」

「うん。全部」

「どうだった?」

「……笑ってたよ」

 

 そう言うと、花音は静かに頷いた。

 その顔に「だろうね」という表情が浮かんでいた。

 

「梓は強いから」

「うん。でも、梓が気落ちしたら私のせいだ……」

 

 そう言って、私は水栓を思いっきりひねってシャワーを出した。

 花音が何か言った気がした。その言葉はシャワーの水音と一緒に排水溝へ洗い流されていった。

 

 

 

 

 ──次の日から、梓は少し変わった。

 笑い方も、声のトーンも、全てが以前と同じなのに、どこか遠くなった。

 

 「いつも通り」を守りながら、「どこか別の場所」に立っているようだった。

 その姿を見て、私は確信した。

 あの日の告白は、彼女の中で確かに何かを壊した。

 けれど同時に、彼女はその破片を拾い集めて、新しい鎧に変えている。

 そして私は、その背中をもう一度見送る。

 

 

 ──部長としての、佐々木梓を。

 

 

【つづく】




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