或る、フルート吹きの青春   作:ハヤブサ320

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立華編、梓視点のお話です。

重たいエピソードが続きますが、ご容赦ください。


EP.39 Unforgettable ─佐々木梓─

 早朝、けたたましい電子音が私を叩き起こす。

 鬱陶しい目覚まし時計に一撃を加えると、スンと鳴りやんだ。

 ぼやける視界の先に手を伸ばしてメガネを探し当て、時計に目を向けると午前五時半を三十秒ほど過ぎていた。

 足元で寝息を立てながら丸まっている愛犬を起こさないようにゆっくりとベッドから下りる。我が家に来てから三年。親戚から預かっているマルチーズのうなぎはすっかり老犬になってしまい、目覚まし時計の音が聞こえないほど耳も遠くなってしまった。

 洗面所で顔を洗い、髪を梳かして後頭部で結わう。少しきつめが好きだ。

 初めてポニーテールにした日を、昨日のように思い出す。樟葉家に預けられていたある日、隆翔に結わってもらった髪型だった。

「母さんと違ってこれしかできないから」なんて言い訳をしていたけれど、三つ編みよりも邪魔にならないポニーテールが好きだった。

 何より、隆翔が似合ってると言ってくれたことが嬉しかった。

 

「行ってきます!」

 

 立華高校吹奏楽部の朝は早い。七時半には全員が揃ってジャージに着替えて校庭に集合する。入学してから毎日続くルーティンみたいなものだ。

 朝から燦々と降り注ぐ陽光に負けじと、百名を超える部員は気持ちを昂らせている。

 

 

 まだブレザーを纏っていた四月。期待に胸を躍らす新入部員の前で、私はこう宣言した。

 

「一昨年、去年と私たちはマーコンで全国金は獲っても、吹コンでは関西止まり、しかも銀賞でした。その度に流れた『まあマーコンで金獲ればいいや』っていう厭戦気分が私は嫌でした。獲れるなら、吹コンでだって全国に行きたい……ううん、私たちならできるはず。そう信じてるから……!」

 

 言葉を切ってみんなの顔を見渡した。百人をゆうに超える部員たちの瞳は光って、やる気に満ち溢れている。だから私は確信をもって言えるんだ。

 

「だから決めました。今年は吹コンとマーコンで二冠を獲りに行きます!」

『はい!!』

 

 大言壮語ではない。

 立華(ウチら)ならできる。

 心を一つに、私のプライドを懸けて高校最後の年を駆け抜けると誓った。

 

 

 

 今年の自由曲はレインゴリト・グリエール作曲『バレエ音楽〈青銅の騎士〉』だ。

 溌剌とした起爆力と甘やかな木管の融合したバレエ音楽。物語調ではないが、序盤のアップテンポは立華の強みである金管楽器がモノを言う。

 同期は皆、自身の強みを理解している。

 トロンボーンもそうだし、木管を束ねるフルートの花音とオーボエの美音、リズム隊。どれを取っても今年の三年は強い。

 後輩たちも、音楽がやりたい一心で立華に来た。

 私たちのコンセプトは音楽を愛すること。それはマーチングでも座奏でも変わらない。

 京都府大会はもちろん、関西大会が行われる和歌山でも、笑うのは私たちだ。

 

 先週の半ばから、放課後練習は座奏メインになった。

 楽観的にはならないようつとめながらも、各部員の意識の高さには舌を巻いた。ドラムメジャーも良い手応えを得ているようだし、私も同意見だった。

 

 

 府大会が五日後に迫ったこの日、私は異様な雰囲気を掴みかけていた。

 気持ちが悪いほどに、調子がいい。

 音は演奏するたびに完成度を更新し、突き抜けていく解放感にあてられていた。

 今思えば、足元を掬われる違和感の正体だったのかもしれない。

 

 練習後、音楽室の鍵を返した私は、いつもの如く校舎一階の科学実験室で何冊ものノートと向き合っていた。

 校内はしんと静まり返っている。既に他の部活も終わっていて、みんな帰った頃だろう。そんな時分から、部長の仕事が始まる。

 顧問の熊田先生からは、目の届く場所にいてほしいということで職員室の下層にあるこの場所が、私の居残りスペースとなっていた。

 総部員数が百人を超えるウチの部では、部長一人で全員の成長曲線を管理するのは無理難題だ。なので、代替わりしてからは、各パートリーダーに一冊ずつノートを渡して練習メニュー、成長を五段階で数値化していた。

 立華のパートリーダーは優秀だ。私から言わなくても、各々がどうしたらいいかしっかり理解している。一筆アドバイスを書く程度で、私が手を出すようなことは基本的に少なかった。

 

 ノートを読み進めていくと、吹コンへの意気込みが散見される。

 三年生は最後の年に全国まで進もうと気合十分なコメント。

 二年生には初のメンバー入りを果たした部員による楽しみ半分、不安半分な様子。

 一年生からは怖いもの知らずの勢いみたいなものがあった。

 立華の新時代が、幕を開けようとしている。

 嬉しくないはずがない。自然と笑みが浮かんでくる。

 

 

 コメントを流し読みしていたその時、実験室にノックの音が転がった。

 

「……梓、ちょっといい?」

 

 美音の声だ。とっくに下校したと思っていた。

 こうして活動後に相談事にくる部員は珍しくない。門戸は開けていたし、いつでもウェルカムだった。

 

「美音、帰ったんじゃなかったの?」

 

 振り向くと、美音がミルクティーを二つ持って立っている。

 その顔に、いつもの茶目っ気はなかった。

 でも私はその違和感に気付けなかった。

 

「……少しだけ、話せる?」

「いいよ。どうしたの?」

 

 私はノートを閉じて、美音の隣に立つ。

 窓の外はすっかり夜だ。

 校庭は黒く沈み、窓の外は何も見えない。

 美音がミルクティーを差し出してくれる。

 

「部活おつかれ」

「あ、うん。お疲れ様……って、こんな暑いのにホットなの?」

 

「あちち」といいながら、しっかりと温かいミルクティーを受け取った。

 私の冗談を、美音は笑わなかった。

 胸の奥に小さなざらつきが生まれた。

 ふたを開けて、軽く一口すする。温かさが喉を落ちるように広がって、不思議と呼吸に安心感が生まれた。

 一拍の逡巡ののち、美音が口を開いた。

 

「樟葉くんのことなんだけどね……」

 

 ……え?

 

 私の胸が一度だけ、ドクンと強く脈打った。

 

「この前見たんだ。彼がね、女の人と一緒に歩いてて。少し年上っぽい人だったと思う。二人で歩いてて、改札で少し話して、笑って、別れた」

 

 その瞬間、頭の中が真っ白になった。

 思考が止まる。

 美音の言葉が、遠くから聞こえるみたいにぼやける。

 何かが崩れ落ちる音が、胸の奥で静かに響く。

 理解が追いつかない。

 いや、理解したくなかった。美音が口にした「女の人」が誰を指しているのかなんて、認めることができなかった。

 しばらくして、私の口が勝手に動いた。

 

「……そっか。ありがとう、美音」

 

 なぜお礼なんて言ったんだろう。

 言ったそばから自分の声じゃないみたいだった。

 美音の表情が痛いほど曇る。その表情すらもまともに見られなかった。

 頭上にある換気扇の低い音だけが、私の心の乱れを嘲笑うかのように響く。

 知らないうちに指先が震えていて、それが伝播するように体の中心まで揺れていた。

 

「ねえ、美音。恋って、どういうもの?」

「……わかんない、わかんないよ」

 

 知りたかった。本心から。

 知らないまま、高校三年生になってしまったから。

「彼の隣に立つのは私だ」なんて、今の今まで心のどこかで想っていて、それが冗談でも何でもなく本気だった。

 当然、隆翔だって同じ時間を過ごしている。でも、心のどこかで隆翔は恋愛に興味がないだろうと高を括っていた。だって、私の知ってる彼は人に興味がなさそうだったから。

 ──アホだなぁ、本当に。

 

「頑張っても報われない人がいるのに、何もしてなくても愛される人がいるなんて、こんなに虚しいんだね……」

 

 違う。立場に甘んじて、自分に正直になれなかったのは私のせいだ。

 塚本と久美子の別れ話が脳裏に浮かんだ。

 打ち明けてくれた久美子は、告白した塚本の勇気を踏みにじったと自嘲した。私は久美子に「そんなことはない」とは言えなかった。

 対して私はどうだっただろう。

 隆翔のことを低く見積もりすぎ、距離感を見誤った。

 

 喉が熱くなった。

 泣きたくなった。

 でも泣かなかった。

 なぜか、泣いたら負けな気がした。

 

「……そっか。ありがとう。言ってくれて」

「ううん。ごめん、言っちゃって」

「いいの。知らないままでいるより、ずっとよかった」

 

 本当は違う。

 本当は知りたくなかった。

 聞いた瞬間に心が軋んだ。

 さっきまで普通だった世界が、色を失っていくみたいに。

 でも、美音にそれを言うわけにはいかない。

 美音が悪いわけじゃない。

 誰も悪いわけがない。

 ただ、ただ──

 私はひどく、ひどく臆病だったんだ。

 

「紅茶、冷めちゃったね」

「……うん」

 

 机に置いたミルクティーは、すっかりぬるくなっていた。それが自分の心の変化と重なった気がして、余計につらい。

 目の前に展開したノートを閉じて、鞄にしまう。今日はもう、仕事になる気がしなかった。

 立ち上がる。

 足元が一瞬ふらついた。

 扉に手をかける。

 開けた瞬間、やけに冷えた微風が頬を撫でた。

 その冷たさでやっと、涙を堪えていたことに気づいた。

 

「じゃあ、また明日ね」

 

 声が震えていないことを祈りながら、私はそっと扉を締めた。

 静かな廊下に一人残され、心の奥で、何かが音を立てて崩れた。

 

 

     ◇◆◇ 

 

 

 ──府大会三日前。

 今は止まっていられない。

 部長としての責務が私の足を動かしていた。いつも以上に、いつも通りでなければならない。

 練習中は公私混同しないよう努めていた。隆翔のことだって、これまでは考えずにこれていたのに、昨日からずっと彼のことが思い浮かんでは消えることが続いている。

 河川敷で見てもらった動きをすれば、土手の上から見ている彼の姿がフラッシュバックする。

 こんなのは危険だ。

 もし、隊列が崩れてぶつかったら──。

 

 あの日、アクシデントで骨折をした瀬崎未来先輩の姿を自分に重ねて、背筋が凍った。

 

「……明々後日はいよいよ、吹コン府大会です! 明日からは座奏の練習となりますので、制服のまま音楽室集合でお願いします」

『はい!』

「では、しっかり体を休めて明日に備えてください。以上!」

『お疲れ様でした!』

 

 ふぅ、と一息吐く。

 いま、私は必死に部長としての仮面を取り繕っている。集中なんて出来なかった。

 美音の情報が本当なら、私はいま、木っ端微塵に失恋している。隆翔に勝手に縋って、彼なら待ってくれると勝手に期待した、ただの痛い女だ。

 ふしだらで情けないことこの上ない。

 内面は崩れかけたゼリーのようにぐしゃぐしゃなのに、外ヅラは粘土で固めただけの張りぼてだ。

 考え事をしていたら、職員室が目の前にあった。

 

「失礼します」

 

 ガラリと扉を開けると、熊田先生がこちらに気付いて手招きしていた。

 

「練習、お疲れ様」

「はい、お疲れ様でした。鍵をお返しします」

 

 カチャリ、と音楽室の小さな鍵が掌に収まった。

 

「……なにかあった?」

「えっ」

 

 先生は突然、私の顔を見つめてそう言った。

 ドキリとした。

 

「そう、見えますか?」

「気のせいだったらごめんなさいね。せっかく張り艶あるお顔なのに、勿体無いわ」

「あはは、先生だってまだお若いですよ……。心配おかけしてすみません。私は大丈夫です」

 

 嘘をついた。

 本当に「大丈夫」なのか自分でもわからない。

 

「悩んでる時って、色々考えちゃうものよね」

 

 ふと、熊田先生が呟いた。

 机の上には、いよいよ一か月後に迫ったマーコンのコンテが積み重ねられている。

 府大会の曲目は既に決まっている。しかし、大会ごとにブラッシュアップしなければ、全国は厳しい。

 

「先生も、そうなんですか?」

「そうよ。考えて、考えて。悩んで、悩んで。毎年その連続ね」

 

 いつでも迷いなく、生徒の行く末を考えている先生だからこそ、苦悩を表に出した瞬間を初めて見た。少し新鮮で、でも不思議と共感できる節もあった。

 私自身、今すぐこの閉塞感を失くしたい。その一心で、藁にも縋る思いが出た。

 

「……そういう時って、どうしたらいいんですか?」

「そうね。どうしてもやばいってなったら、思い切って違うことをしてみたり、マーチングから離れてみたり。でも、結局戻って来ちゃうんだけどね」

 

 カラカラと冗談めかしく笑って、私の背中をポンと叩いた。

 先生とは三年の付き合いだ。これが先生の本音だと、私は分かっていた。

 

「正解は誰にも分からないわ。だからみんな、悩む時は回り道をしながら踠くの。正しいことを正しいって思えるまでね」

 

 分からなくはなかった。

 でも、私はきっと、悩むくらいなら最後まで自分を信じてしまう。それしか知らなかったから。

 

「その正しさが、自分じゃどうにも出来なかったらどうすれば良いですか?」

「あら、やっぱり何かあったのね」

「……あっ、いえ。全然そういうのじゃないんですけど」

「いいのよ。高校生は悩んで当然よ。──そうね、その質問に答えるとしたら、当たってみなさい。そうすれば、進めないことはないはずよ」

「前進する、とは言ってくれないんですね」

「そうよ。それはあなたの受け取り方次第だから」

 

 突き放さず、かといって背中を押さない言葉は、今の私が一番欲していた言葉だった。

 先生は「最後に」と言って、私の肩を強めに叩いた。

 

「断言するわ。どんなことになっても、立華(ここ)があなたの居場所よ。あなたを見捨てるような人はいない。だから安心して、背中を任せて頂戴」

 

 痛覚がじんわりと全身に広がっていく。でも、悪くはない痛みだった。

 

「はいっ」

「良い返事ね。恋に部活に、青春よ!」

「こ、恋だなんて言ってませんよっ……!」

「あら、そうだったかしら」

 

 不意打ちの図星に柄にもなく焦った。

 ニヤリと笑みを浮かべた先生は、椅子をくるっと回して机に向かい、再びコンテと向き合った。

 

 

 

 部長の仕事を終えて家路につく。

 自転車で家に向かう夜道はいつもより長く感じた。

 湿気を帯びた夏の風が足首を撫でるたび、身体の奥で先生の一言が反芻される。

 信じていないわけじゃない。

 ただ、信じたくなかった。

 でも、自分で見たわけでも、聞いたわけでもない。

 たまたま仲が良い人がいて、偶然帰り道が一緒になったとか、そういうことかもしれない。美音の話を聞いてから、自分にそう言い聞かせていた。

 

 ぬるい夜風が肌にまとわりつく。

 気分転換がしたくて、車通りを避けて線路沿いの道を走った。

 黄檗駅前の踏切が閉まり、警報が夜の住宅街に響き渡る。

 ブレーキをかけ、列車が通り過ぎるのを待った。

 遮断機の赤い点滅が、脈打つように私の頬を照らす。

 

 

 その時だった。

 踏切の向こう──暗がりの街灯の下に、見慣れた背中が目に入った。

 あれは、間違いなく隆翔だ。

 北宇治の制服を着ているから、きっとフルート教室の帰りなんだろう。

 驚きより先に、胸の奥が強く締め付けられる。

 見るに、隆翔一人だ。真相を聞くには、絶好の機会が訪れた。

 電車が通り過ぎる時間がもどかしい。たった数メートルの距離なのに、私と隆翔を隔てる壁はあまりに大きく感じた。

 四両編成の電車が通り過ぎて、踏切が空いた時。彼の前に、ふわりと人影が現れた。

 白いシャツにホットパンツ。髪を下ろし、柔らかく揺れる女の人。

 脳裏に、美音が言っていた女性(ひと)が過った。

 ふたりの距離は一瞬で埋まり、自然に隣同士になった。

 私の鼓動だけが、自分の中でやけに大きく響いた。

 

(嫌だ……嫌だ……嫌だ……)

 

 否定したいのに、否定できない。

 再び鳴り出した踏切の赤い光が、ふたりの影を照らし出す。

 

 彼女が軽く微笑む。

 隆翔も、優しい表情で返す。

 そんな顔──

 私、見たことない。

 

 踏切が上がり、遮断機がゆっくりと上がった。

 ペダルを漕ぐ足に力が入らなかった。

 

 ふたりが並んで歩き出す。

 距離は近い。

 きっと、声を掛ければ振り返ってくれる。

 一歩、また一歩。

 角を曲がるまで、その背中を見送ってしまった。

 私の中で、なんとか支えられていた柱は、音を立てて崩れ落ちた。

 自転車のハンドルを握る手が震えた。

 視界が滲む。

 涙なのか、夜風なのか分からない。

 

(……本当だったんだ)

 心のどこかで、美音の話を否定していた。

 踏切の横に立ち尽くしたまま、私は呼吸の仕方を忘れた。

 

「帰らなきゃ……」

 

 ペダルを漕ぐ足は重く、何度も何度も止まりそうになった。

 家に着いた頃には、胸の奥が痛くて苦しくて、吐き気すらした。

 

 部屋に入って、制服のまま布団に倒れ込んだ。

 茫然自失。涙は流れなかった。その代わり、喉の奥から嗚咽が漏れた。

 呼吸が浅く、正常な腹式呼吸に戻そうと体を捩ろうとする。自分の身体なのに、思い通りに動いてくれなかった。

 体は悲しみとは別の熱を帯びてしまい、自分でも制御できない感情に押し潰されそうになった。

 手が布団の上で震える。

 昨夜は堪えられた衝動が、今日は堪えられなかった。

 これじゃ、ただ自分を傷つけているだけだ。こんなのはダメに決まってる。

 想いの濁流を必死に抑えつける。理性と欲望の狭間で揺れながら、布団に顔を埋めた。

 汗で張り付いたシャツを剥ぎ取り、スカートも脱ぎ捨てる。

 シャワーに向かいたいのに、体が鈍く動かない。

 物理的じゃない、精神的な痛みが私を蝕んだ。

 

 瞼を閉じると、踏切の向こうで見た二人の姿が浮かんでくる。

 ふたりの距離、柔らかな笑顔、自然に寄り添う影──

 考えるだけで胸の奥が熱くなって、苦しくて、呼吸が乱れた。

 

 隆翔には恋人がいる。

 美音の言葉を否定する理由が、もうどこにもなかった。

 

 

 

     ◇◆◇

 

 

 次の日の部活で、私は普段通りに振る舞った。

 部長として、誰よりも真っ直ぐ立ち、声を出し、皆を導く。

 そうやっていないと、私自身が崩れ落ちてしまう気がした。

 心の奥底から噴出する憤りにも似た気持ちは、私が整理するには余りあるものだった。

 

 そうしているうちに、府大会前日を迎えた。

 みんなの表情は明るい。前途洋々に見える。

 私が必死に取り繕ってきた甲斐があった。そんな、自惚れにも似た感情が浮かんでくるほど、私は追い詰められていたのかもしれない。

 

 部長として、みんなに言うべきことは伝えた。

 自立した部員に対して、私が出来ることは少ない。それが立華の伝統であるのは百も承知だったし、少しばかり救われた部分もあった。

 

 ──その夜のこと。

 府大会を翌日に控えていることもあって、居残り練習は全面的に禁止となった。

 練習が終わっても、太陽はしぶとく残って、その威力を遺憾なく発揮している。

 

「あついねぇ……」

「明日は三十七度だって」

「うわっ、まだ気温上がるの?」

 

 駐輪場に差し込む夕陽が、僅かに日に焼けた肌をちりちりと刺す。どれだけUVカットの日焼け止めを塗っても、所詮は焼け石に水だ。

 自転車の鍵を回して乗り込もうとしたその時だった。

 

「梓」

「美音、どうしたの?」

 

 私と美音の間にある問題。隆翔の恋人の是非を巡って、彼女は罪悪感に苛まれている。そんな表情をしていた。

 

「その……ごめん」

「どうして謝るの?」

 

 突然の謝罪に、正直面食らった。だけど私は、努めて冷静に返答した。

 

「言うにもタイミングとかあった。それに、梓が哀しむと分かってて伝えたから……」

「別に気にしてないよ」

 

 ──嘘だ。

 

「それに、美音の言う通りだったよ──隆翔には、多分彼女がいる。私見ちゃったんだよね。隆翔が仲良く手を繋いで帰ってるところ」

「────ッ!」

 

 目を見開いて驚く美音。私は言葉を続けた。

 

「気遣ってくれてありがとね。正直、木っ端微塵に失恋したけどさ、部長はちゃんとやるから──」

「伝えなくて、いいの?」

 

 私の言葉に被せるように、美音は目を背けたくなる程に真っ直ぐな瞳を向けていた。

 そんなの、伝えたいに決まってる。でも、それで何が得られるのか。私の失恋はもう決定事項だ。逆転の芽は万に一つもない。

 

「うん、もういいの。それに、これ以上はお節介だって、分かってる?」

 

 声色に怒気が混じった。

 美音の追及から逃れたい感情を優先して邪険にしてしまった。

 萎縮した美音に謝ろうとしたその時、スマホが鳴った。

 

「ちょっとごめん」

「……うん」

 

 美音に断りを入れて、入ったメッセージを確認する。

 

「………隆翔」

 

 差出人を見て、私は思わず呟いた。

 美音もかなり驚いている。なんというタイミングだろうか。

 

「樟葉くんなの?」

「あっ、うん。そう……」

「……要件はなんだったか、聞いてもいい?」

 

 私は無言で画面を見せる。

 そこには能天気な文面で、こう書いてあった。

 

『やっほー。明日いよいよ府大会だな。お互い頑張ろうぜ』

 

「……なんというか、能天気すぎない?」

「同じこと思った」

「……でもさ、お節介だとは思うけど、梓が彼をどれだけ好きなのか知ってるから。だから、そのままにするのはもっと良くないと思う」

 

 美音の意志は堅そうに見えた。

 その瞳の力は、私には眩しすぎる。

 

「あとね、余計なお世話かもしれないけど、私が知って欲しいんだよね。梓が樟葉くんのこと、ちゃんと好きだってこと」

 

 言い終えてから美音はようやくはにかんだ。

 

「樟葉くんに会いたくない?」

「……会いたい」

「その気持ちは嘘じゃない?」

「……うん」

 

 ついさっきまで思い詰めた顔をしていた美音は、もうそこにはいなかった。残酷な運命を受け入れても、その背中を支える意志がそこにはあった。

 だから、前だけを向けるんだ。

 

「行ってきなよ、梓」

「……うん!」

 

 

 自転車に飛び乗って学校を飛び出した私は、無我夢中で走り続けた。

 夏の夜。シャツが汗で張り付くのも厭わず、全力で自転車を漕いだ。

 

 美音はきっと責任を感じていた。

 私は卑怯だ。彼女の思いにつけあがって、支えてもらおうとしている。

 さっき、隆翔に一方的なメッセージを送りつけた。返信は読んでいない。既読が付いたかどうかもわからない。

 きっと隆翔は来てくれる。それを信じて、私は自転車を漕ぎ続けた。

 錆びついたサスペンションが悲鳴を上げる。

 その叫びが私と似ていて、どこか親近感が湧いた。

 

 車を搔い潜り、住宅街を抜け、気付けば隆翔のマンションが見えていた。

 今まで積み上げたものすべてが崩れ落ちる予感がしていた。

 いや、きっとそうなる。

 想いを告げれば、今までのような関係でいることはできない。

 

 隆翔のマンションに辿り着いた。前に住んでいた家でもあるから、慣れた手つきで駐輪場に止める。

 ロビーのソファでスマホを触る隆翔が目に入った。

 もう、涙がこぼれそうだ。

 この感情は本物で、ずっと支えにしてきた。

 今、それをかなぐり捨てようとしている自分がいる。

 

「やっぱり、好きだなぁ……」

 

 叶うことのない希望に蓋をして、意を決してロビーの扉を開けた。

 

「隆翔」

「梓、急に突然どうしたんだ?」

 

 隆翔には、私がいま何に悩んでいるかなんて分かるはずがないよね。

 失うものがないから、そんなに能天気でいられるんだよね。

 口を開ければ、脳裏に浮かんだそんな悪態が飛び出してきそうだった。

 

「飲むか?」

 

 ペットボトルが差し出された。

 キャップは開けられて、中が少し減っている。隆翔の飲みかけだった。

 以前ならあまり気にせず飲んでいたと思う。でも今は、そんな事すらも抵抗があった。

 

「いい、持ってるから」

「そっか」

「あのさ、場所、変えてもいい?」

「あ、うん、わかった」

 

 私たちは自転車にまたがって住宅地を目指した。

 ハンドルを強く握って、恐怖に耐えた。

 べダルを漕ぐたび、心臓の鼓動が速くなる。

 いつだったか、隆翔から背中を押してもらった公園。ここでいいか、と彼に目配せをして、ベンチの前に自転車を止めた。

 何か一言でも言葉を発すれば涙が零れそうだった。

 だから、本当に言いたいことを伏せて気丈に振舞った。

 

「いよいよ明日だね」

「あ、ああ。そうだな」

「今年はウチも本気だよ。絶対二冠獲るんだ」

「梓ならやれるよ」

 

 隆翔はこういうところでお世辞を言ったりしない。それが私たちの関係性だった。

 私に向ける厳しい言葉もやさしい言葉も、きっと本心で言ってる。

 以前はそれが嬉しかった。でも今は、あまりにも痛かった。

 

「うん、そうだよ。私ならきっとやれる──だから隆翔、もう、お互い会わないようにしよう」

「あ、梓……何言って──」

「私知ってるんだ。隆翔さ──付き合ってる人、いるでしょ」

 

 何一つ誤魔化すことなく、私は正面から訊いた。

 隆翔は困惑しながら、私から視線を逸らす。彼にも事情があって、きっと彼女の存在を言わなかった。

 当然だよね。

 私には関係ない事だから。

 

 ポニーテールが風に揺れる。

 初めてこの髪型にしたのは小学生の頃だ。

 当時は背中まで伸びていた髪を、三つ編みにしたりおさげにしたり、髪型にこだわっておらず、統一していなかった。

 樟葉家に預けられることが多かった私は、女の子としての手解きのほとんどを隆翔のお母さんに教わった。髪の結び方のバリエーションを知ったのもその時だ。

 ある日、何気ない調子で言ってくれた「似合ってる」の言葉が、ずっと心に残っていた。

 

 後頭部の結び目に手を掛ける。

 力を込めると、結び目は簡単に解けてしまった。

 夜風に靡く後ろ髪が、頸を撫でる。悲しくなるほど、簡単に解けてしまった。

 涙が頬を伝った。

 視界がぼやけて、もう何も見えない。

 胸の奥から、絞り出すような声が出た。

 

「悔しいなぁ……私の方が、先に好きになったのに……」

 

 叫びにもならない。ただの、負け犬の嗚咽だった。

 今まで枯れたと思っていた涙が、ただただ、縷縷と頬を濡らし続けた。

 

 

 

【つづく】

 

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