優子と夏紀のライブから、二週間が経過した。
北宇治高校は七月後半から夏休みに入り、府大会に向けた合奏練習がいよいよ佳境に入っていた。
朝は七時から、夜は八時まで。
これも全て、コンクールで演奏する十二分間のため。
特に、ソリストに決まったコンクールメンバーは、練習に懸ける一分一秒が惜しかった。
隆翔にとって、高校における最初で最後のコンクールが始まろうとしている。
昨年はマネージャーとして部を支えていた為、出場が叶わなかった。
しかし今年は違う。
府大会、関西大会、そして全国。すべての大会でA編成となりソロを勝ち取ることが至上命題である。
昼ごはんにと買ってきたコンビニのおにぎりを頬張りながら、合奏練習で指摘された表現の精度を上げるべく音楽の解釈に頭を捻らせる。
隆翔はもう一度、最後のページを開いた。
第四楽章、二十九小節目。
──ここ。
と、ソルフェージュしながら隆翔は音を噛み砕いた。
白地に黒く印刷された五線譜。その最下段に、ぽつんと置かれた音符を見下ろしている。
『一年の詩 〜吹奏楽のための』、この曲の最後の一節を、隆翔は滝から託された。
一から百まで、この曲を理解できたわけではない。
作曲家の戸川ヒデアキはなぜ、最後の一節をフルートにしたのか。いかに演奏を研ぎ澄ましても、納得できる解釈ができずにいた。
「はあー……」
楽譜片手に、大きなため息が出た。
それを、同じ場所で練習するパートリーダーの高橋沙里が見逃すはずがなかった。
「どうしたの?」
椅子に仰け反った顔の上に、沙里はパサりと自分の譜面を被せた。あまりに辛気臭かっただろうか。
「あ、悪い。ため息ばっかりで」
「何かあった?」
「いや、ね。ただ、ソロのところ、どう吹いたらいいものか……ってね」
沙里の細長い指が隆翔の譜面をめくった。
「いたってシンプルで、メッセージ性も強いと思うけどね」
沙里の言葉は核心に近いものだった。しかし、今の隆翔が望んでいる答えではない。
「音程も抑揚も完璧に吹ける自信はあるよ。ただ、吹き切った後にくる違和感だけはどうしても残ってる状態かな」
この曲の最後に控えるフルートの独奏。
ここまで積み上げてきたすべての音が、すっと引いていく。
作曲した戸川ヒデアキがこの曲に込めたのは、父と過ごした一年。春、夏、秋、冬。
そしてまた巡る新たな一年。人生の循環。時間の流れ。喪失と再生。
そうした大きな主題は、理解しているつもりだった。
けれど、この最後の数小節だけは、どうしても腑に落ちない。
感情を乗せればいい、という話ではない。
かといって、客観的に淡々と吹くのも違う。
隆翔の役割は、演奏を名残惜しく締め、観客に余韻を与え、そして次の舞台への橋渡しをすることである。ソリストだけを集めた練習で、滝は隆翔にそんな注文をつけた。
「時間がない」というのは、吹奏楽部員が抱く共通の想いだ。
その焦燥感の正体は「全国大会金賞」という統一感ある目標故に起こるもの。
獲れるだけの実力はある。それこそ、関西でも指折りの学校に入っている自覚はあった。部員一同、その自覚と自意識があるからこそ日々意識の高い練習ができている。
隆翔の内心に渦巻く、コンクールへの想い。彼も漏れることなく、全国大会へ駒を進めることが目標だ。
しかし、それは自分のためではない。
──これは、弔い合戦なのだ。
希美が成し遂げられなかった全国の地へ行く。
そのためなら、草木も生えない道を往くのも辞さない覚悟だった。
「えいっ」
「痛っ、何?︎」
「何でもないよ」
沙里は、思いつめたような表情をする隆翔のつむじを押した。
そのお陰か、隆翔は音符の海から戻ってこれた。
「このソロのところさ、隆翔くんの解釈を聞かせてよ」
「何、いきなり」
「いいから。私も参考にしたいしさ。自分で探すより、誰かと組み解いた方が解決に近づくかもよ」
一理あると思った。
隆翔は椅子を沙里の方へ向けた。
「……多分、俺はこのソロをただでは終わらせたくないって思ってる」
沙里はすぐに返事をしなかった。
その大きな瞳で彼の横顔をじっと見た。
「去年の関西大会の光景が、脳裏にこびり付いたままなんだ。それに、『リズと青い鳥』の弔い合戦じゃないけど、せめてこの音を次の大会へって想いが強い。先輩たちが行けなかった全国まで連れていきたいっていうか。俺だけの音楽じゃないっていうのは重々承知してるけど、最後の音を任されたっていう責任感がそうさせてるのかも」
言葉にした瞬間、胸の奥がぴりりと痛んだ。
それが正しい動機なのかどうか、分からない。
ただ、そう思っている自分がいることだけは、否定できなかった。
「……隆翔くん、自分から迷宮入りしてる自覚ある?」
「え……?」
「だって今、すごい顔してるよ」
無意識に眉間に力が入っていたことに気づき、慌てて表情筋を緩めた。
「去年の雪辱を果たそうっていうのは、悪いことじゃないと思う」
沙里は続ける。
「でも、それをこの
彼女は自分のフルートを手に取り、ソロの部分を吹き切る。
隆翔と違って、沙里の音はまろみのある旋律が特徴だ。音の芯で言えば隆翔に軍配が上がるが、抱擁感のある音は沙里の専売特許である。ずっと第一線で吹いてきた彼女ならではの音が、隆翔を包み込んだ。
まるで、私ならこう吹くと隆翔に見せつけているようだった。
「……やっぱ難しい。短いからこそ、難しいよね」
「確かに」
「だから、隆翔くんは答えを探すために感情を足そうとしているんだね。それも、去年の雪辱を果たすくらいに強い気持ちを」
おおよそ正解に近かったが、隆翔は沈黙した。
それを肯定と受け取った沙里は続ける。
「ねえ、隆翔くんは音楽、好き?」
ドキリとした。
沙里の言葉の意味を思考の海に投げる。
音楽は、隆翔の人生とも言っていい。たかだか十七年の人生だけど、その大半は音楽に費やしてきた。まだ何色にも染まっていなかった隆翔が、ピアノに出会い、フルートに出会い、そして今がある。
様々な出会いがあった。別れもあった。
その全てを糧にしている。音楽で繋がった縁を糧にして、隆翔は人生最大の船出を経験しようとしている。
梓の顔が浮かんだ。中学進学を期にフルートに転向したきっかけには、間違いなく彼女の存在があった。
「うん……好きだよ」
「じゃあ、きっとここは無理に感情を足すところじゃないよ。次へ次へ、これまでの音を残していく場所なんじゃないかな」
霞んでいた視界が晴れ渡る。
そんな気がした。
希美の言葉には力がある。それこそ、隆翔の軌道そのものを修正してしまうほどの強い力だ。
弔い合戦だと思い込んでいた。隆翔はそれを疑うことはなかった。
しかし、たった一小節にその想いを込めるには重すぎた。
「……じゃあ」
隆翔はおそるおそる言った。
沙里は隆翔の言葉を待つことなく、その答えを述べた。
「ここまでの積み重ねだけで、きっと十分だよ」
風が吹き抜け、踊り場の空気が一段と軽くなった。
最後の小節。この音を託された意味。
ここまで来た証明をする。その視界は良好だった。
◇◆◇
そんなこんなで、府大会まであと三日となった。
夜も深まった午後九時の黄檗駅では、自動音声のアナウンスだけが湿った夏の空気に浮かんでいる。
電車が到着するたび、改札口から多数の客が吐き出される。その流れを目で追う。
何本目か電車を待っていると、スクールバックとフルートケースを持った彼が降りてきた。
「希美、待った?」
「ううん、今来たところ。おかえり隆翔」
「ただいま」
フルート教室の帰り、希美と隆翔は待ち合わせをしていた。
最近、希美はトレードマークだったポニーテールをしなくなった。大学入学を機に髪を染めたり、かと思えば濡羽色の髪に戻したり。色々試してる、と言っていた彼女はいま、背中まで伸びた髪を下ろしている。
その方がより大学生らしく見えた。
「レッスンお疲れ様」
「ありがとう。希美もね」
「私はホラ、ほとんど自由みたいなものだから。来月コンサートもあるけど、コンクールとかじゃないから切羽詰まってないしね」
希美の大学のオーケストラサークル。活動は週に二、三回と聞いていた。
希美は予定のない日がほとんどない。それは彼女の性格もあるが、本人は忙しい方が良いらしい。だから今日のように練習がない日は、個人指導塾のアルバイトに精を出している。バイト代でも貯めて、何かしたいのだろうか。
外灯の光が髪先を照らし、小さな波のように揺れている。彼女の艶やかな黒髪に、踏切の赤いランプが反射する。
反対の電車を待つ間、希美の手が隆翔の手に絡み合った。
「えへへ」
肩を寄せて、照れたように笑う。愛おしさが心を満たす。バイト帰りに顔を見せてくれた健気さにこたえるように、隆翔は少しだけ握力を強めた。
日々忙殺される中で、一時の清涼剤となっていた。
「最近、なんか良いことあった?」
「えっ?」
「ふふ、顔に書いてあるよ」
自覚がなかった隆翔は、頬をさする。表情筋は緩んでいないし、雰囲気がそうさせたのかもしれない。ただ、確かに良いことはあった。
「ソロのところ、ようやく自分なりの解釈で吹けるようになったんだ。で、それが滝先生のお眼鏡にかなったって感じかな。本番三日前なのにね」
隆翔は弔うことをやめた。視点を変えて、自分の生き様みたいなものを音に乗せることを考えながら譜面に向き合った。
そのメンタリズムは驚くほどすんなりと隆翔に浸透した。
合奏練習で、滝は隆翔に向けてその仕上がりに手応えを感じ、期待の眼差しで彼を見つめた。
希美は嬉しそうに語る隆翔に対して「すごいじゃん」と称賛を贈った。
「隆翔、無理してない?」
「無理? してないしてない。心配してくれてありがとう。最近は体力もついてきたし、調子もすこぶるいいよ」
僅かに眉を寄せる希美に、朗らかな顔を向ける。
その心配を少しでも解消したかった。
「それならいいんだ」
「希美の方こそ、塾帰りに大変でしょ。無理してない?」
「む……隆翔は会うの、嫌だった……?」
「あっ。いやいや、そういうつもりじゃ……」
「……なんてね。ウソウソ、隆翔こそ心配してくれてありがとう」
踏切を越えて、住宅地へと抜ける。狭い道路を通り抜ける車はなく、二人を照らすのはコンビニから漏れた灯りと淡い電灯だけ。横に広がる自衛隊の駐屯地は、帳が下りたように静かで真っ暗だった。
コンビニの自動ドアの垂れ幕には、夏休みの旅行キャンペーンを宣伝していた。
「旅行か……」
「行きたいの?」
「まあ、滅多に京都から出ないから違う空気を吸ってみたくはなるよなぁ、って」
「なにそれ、ちょっとじじくさい」
「ひどくない?」
「あはは、でも、ちょっとわかる気がする。ウチの両親はどっちも関西だから、帰省しても神戸のおばあちゃんの家に行くくらいだよ」
希美の両親はいずれも関西出身だ。同じ会社に勤める同士の社内結婚だったと、以前彼女が言っていた。
「隆翔のご両親は?」
「母さんは大津。父さんは広島だよ」
「いいなぁ、広島! 瀬戸内レモン!」
「なんでレモン?」
「え? だって名産でしょ?」
「それはそうだけど、もっとあるでしょ。牡蠣とかもみじ饅頭とかお好み焼きとか」
「広島はモダン焼きでしょ? お好み焼きは基本混ぜ焼きだよ」
「……これは、一度考えを改めてもらう必要があるな」
巷を揺るがすお好み焼き論争。希美は純度百パーセントの関西人だから当然ではあるが、かく言う隆翔の両親も、出会った頃はお好み焼きが話題に上がるたび、ゴールのない舌戦を繰り広げていたそうだ。
「お母さんとは気が合いそうだね」
「父さんとも仲良くしてくれると助かるんだけど」
「それはもちろん──でも、それって……」
希美が言いかけたこと。そう、隆翔は自分の親に希美を紹介しようと思っていた。
あがた祭りでそれとなく希美がつぶやいた言葉を、隆翔は覚えていた。
「うちの父さん、いま家にいないんだ。ドイツに単身赴任してて」
「そうだったんだ」
「うん。でも、十月に帰国するんだって」
「良かったね。楽しみじゃん」
「うん。それでお願いなんだけど──そのタイミングで両親に会ってほしんだ」
躊躇うことなく自然と言い切った自分に驚きもあった。心臓は煩いくらいに鳴っているのに、不思議と逃げたい気持ちはなかった。
まもなく迎える、交際一周年。
ぎこちなく、遠回りもして紡いできた時間をまた一歩進めようとしている。
希美は、すぐには返事をしなかった。
代わりに、絡めていた指先にぎゅっと力を込められる。
「あがた祭りの約束、覚えててくれたんだ」
「当然だよ」
「あのあと、ちょっと後悔してたんだ。まだ付き合って一年程度で、二十歳にもなってない子供なのに彼氏の親に挨拶するって、ちょっと急ぎすぎかなって。でも、隆翔が本気に想ってくれてるって分かったから凄く嬉しい……」
「忘れるわけないだろ」
「うん。分かってる。そういう真面目なところに惹かれたんだもん」
その笑顔には、すべてを明るく照らす力があった。
握られたてから伝わってくる希美の心音。その速度は速くて、掌は熱い。
言葉にせずとも、二人の恋の進展に花が咲いていた。隆翔はそれが無性に嬉しかった。
「やっぱり顔に出てる。嬉しいって」
「そりゃ、まあ。ほっぺたが緩んでる自覚はあるよ」
「素直だね」
「希美の前ですから」
嬉しいなら、素直に嬉しいと言えばいい。言葉にせずともすべて伝わるなんて幻想だ。それに、希美には隠し事はできないだろうと思っている。幾重にも重なる彼女の心の奥では、すべてみすかさ、希美には隠し事はできないだろうと思っている。幾重にも重なる彼女の心の奥では、すべて見透かされているような気がした。
「ま、隆翔は何をおいても演奏に集中してね。受験勉強もあるだろうけど、それは私も全力でサポートするからさ。これでも一応、塾講師だからさ」
「それはマジで頼りにしてます」
「任せなさい」
塾講師をする傍ら、希美は隆翔へ受験勉強のバックアップを行っていた。
隆翔の志望する大学は希美の通っている向日美大学だ。学部は違えど、希美が一年前にこなしてきた大学受験をトレースしながら、隆翔は必要な課題に取り組んでいる。先日の模試の結果は上々で、B判定以上は固かった。
「期末テストの結果、そろそろでしょ?」
「うん。また添削をお願いしてもいい?」
「いいよ。と言っても、隆翔なら心配ないと思うけどね」
「受験終わるまで、まだ油断できないよ」
「その緊張感を忘れないでねって、先生っぽいこと言ってみる」
「先生でしょ?」
「そうなんだけどね」
カラカラ笑う希美の姿を追えば、彼女の家に到着していた。
「送ってくれてありがとう」
「うん。じゃ、また」
「あっ、そうだ」
家のドアを開けようとした希美は、何かを思い出したかのように踵を返してこちらへ向かってきた。
「お盆休み、あるでしょ?」
「うん。三日くらいあるよ」
「予定入ってる?」
「一日だけ墓参りで入ってるけど、それだけだよ」
「じゃあさ……」
腕を後ろに回して、視線を逸らしながらこう言った。
「海、行きたいな……」
「海?」
「うん、海」
海、という単語に隆翔は反応できなかった。
海、イコール水着になるということ。いや、今更恥ずかしがるような関係ではないが、熱い日差し、白い砂浜、青い海。開放的にもなるだろう。
「いいね、海。行きたい」
「良かった。水着、新しいの買っていこうかな」
「持ってないの?」
「持ってるよ。でもサイズがさ……」
「ああ、なるほど」
健やかな白い腕の先にある、希美の双丘。その見事さは当然知っているし、いまだ成長途上にある。
隆翔は咄嗟に視線を逸らした。
潮の匂いと、笑い声と、陽に透ける希美の髪が脳裏をよぎる。
想像だけで胸が騒めくのに、本人は玄関先で小さく身を縮めていた。
「……なに想像してんの?」
「してないしてない」
邪な想像を察知した希美は、耳を赤くしながらそっと笑った。
「じゃあ、決まりね」
そう言って希美は一歩引き、玄関灯の下で手を振った。 夜風に揺れる髪が、約束をどこまでもまだ運んでいるみたいだった。
一人になった隆翔の独り言は、夏の夜に溶けていった。
「……俺も水着、買わないとな」
◇◆◇
「──サックス、ここは見せ所です。もっと前に」
『はい!』
「全体的に臆病にならないように。張り詰めた緊張が台無しです。いいですか?」
『はい!』
「では、第二楽章からもう一度」
滝の指揮によって、再び音が紡がれる。
吹奏楽コンクール京都府大会を前日に控えた吹奏楽部は、本番直前の緊張感の中にいた。
とはいえ、ここまで来ればあとは奏者自身のメンタリティである。本番前のコンディショニングはいつまでも慣れるものではない。むしろ慣れないことで、いつも以上に自分に気を遣えるのかもしれない。
数日前、北宇治の演奏順が午前の部の一番だと決まった。つまりはトップバッターである。悲鳴が上がったのは想像に容易い。
トップバッターはあまり歓迎されない。判定の評価基準にされがちであるし、早朝の集合となるので当日の練習時間が取れない。
早朝ともなれば体調に支障をきたす生徒も出てくる可能性がある。その対策として、先週半ばから練習開始時刻を早め、当日と同じ時間に本番さながらの合奏練習が出来るよう対策を講じている。
朝に弱い一年生コンビは最初こそ体調管理に戸惑ってはいたものの、四日目には普段と同じように演奏できていた。環境の変化への順応は早そうで、パートリーダーの沙里ともども安堵した。
「明日のことで何か気になることある?」
個人練習の時間、隆翔は校舎端の教室にいた。
そこでユーフォニアムを吹いていた黒江真由を訪ね、明日のことで気掛かりなことはないか尋ねていた。
「うん。大体は清良と同じだから大丈夫」
「そっか。朝早いのも大丈夫そう?」
「うん。目覚まし時計二つ用意するから」
「そりゃ心強いね」
真由はいつも通り、朗らかな笑みを浮かべた。
隆翔は壁に寄りかかって、虚空を見上げた。
「いよいよ明日かぁ」
「あっという間だったね」
「ああ。時間がいくらあっても足りない気がする」
「でも、期待通りだったよ。
「違うって、何が?」
「推進力っていうのかな。上へ上へ、前へ前へっていう力がどこよりも強い気がするな」
真由の言わんとすることは理解できる。
どこよりも輝かしい功績を欲する貪欲さ、獰猛さがこの学校にはある。考えてみれば、昨年の代も同様の姿勢だった。それをトレースした黄前政権も、当然似たようなスタイルに落ち着く。
「全国金賞って狂ったようにミーティングでも言葉にするもんな。分かってるっちゅうのに」
「それだけ想いが強いんだよ」
「そんなもんかな」
全国大会金賞が北宇治の悲願であることは十分理解できる。
その目標を一貫して部員に刷り込むことは、四月に満場一致でこの目標に決まってからずっとされてきたことだ。
真由はオーディションでソリストの座を黄前に明け渡した。今は、一介のコンクールメンバーとして五十五人に名を連ねている。
隆翔は、黒江真由がただの奏者で終わるとは到底思っていなかった。彼女の心変わり一つで、この部の演奏はもっと良くなる。そう信じてやまなかった。
この日の練習は、太陽が沈む前に終わった。翌朝への影響を考慮して、個人的な自主練習も禁止となった。
三年生は隆翔を含めて、コンクール前最後の練習が終わった。
もし府大会で終わってしまったらなどと考える部員は一人として存在しないが、有り得なくはない未来だ。そんな考えに至ったのは、学校の正門をくぐった後だった。
緊張はしているが、良い緊張感だった。
ふと、隆翔の頭に浮かんだ人の顔。
明日の府大会で、北宇治のあとに演奏する梓のことだ。
最近、彼女とはまともに話せていない。隆翔と違って、彼女は部長として立華高校吹奏楽部を束ねる存在だ。そう易々と時間が取れないだろうと思っている。
それでも同じ舞台に立つ者として、幼馴染みの間柄である彼女に一言健闘を称え合うくらいはしてもいい筈だ。
立華もそろそろ練習が終わるころだろうか。
そんな想像をしながら、隆翔は画面を叩いた。
送信した文章はあくまで軽く、気持ちに過不足がない程度に簡潔だった。
いつも通りといえばいつも通り。梓と隆翔の関係とは、そういうものだった。
その時だった。
──ピロン。
画面に表示された名前を見て、心臓が一瞬だけ跳ねた。
梓からの返信。その文面は短く、隆翔と同様に簡潔だった。
『この後、少し会いたい』
「会えない?」ではなく「会いたい」という彼女の直球な想いが心に響いた。
明るさや強さは文面から伝わってこない。切羽詰まったような雰囲気が包んでいた。
『わかった。エントランスにいるから』
既読は付かなかった。
◇◆◇
「梓……」
「はあ、はあ、隆翔っ……」
しばらくして、梓がエントランスに姿を見せた。
息も絶え絶えに、汗で前髪は額に張り付き、シャツの襟は色が変わっている。
「梓、急に突然どうしたんだ?」
「隆翔……」
その顔はどこか思い詰めたように暗く、目を伏せていた。
いつもの彼女ではないのは、すぐに察しがついた。
急な呼び出し。しかも本番前日というタイミング。昨年の関西大会前がフラッシュバックした。
「飲むか?」
隆翔は鞄から、自動販売機で買ったお茶を差し出した。飲みかけであることには抵抗があったが、目の前で息を切らす梓を放っておくことはできなかった。
「……いい、持ってるから」
「そっか」
「あのさ、場所、変えてもいい?」
「あ、うん。分かった」
薄暗い住宅地に、二台の自転車のペダルを漕ぐ音が響き渡る。移動中、二人の間に会話は生まれなかった。落ち込むことがあっても気丈に見せるきらいがある梓が、それをする程に余裕がないのは隆翔でも理解できた。&
佐々木家に向かう道すがら、彼女の家に程近い公園が目に入る。梓はタイヤを滑らせ公園のベンチの前に自転車を止めた。
「いよいよ明日だね」
「あ、ああ……そうだな」
「今年は
立華の目標である、コンクールとマーチングコンテストの二冠という目標。この二年間、吹奏楽コンクールでは関西大会で終わってしまったからこその、彼女なりに強い想いがある。不思議とそれが、不可能な目標には聞こえなかった。
「梓なら、きっとやれるよ」
「うん、そうだよ。私なら、きっとやれる……」
自分に言い聞かせるように、梓は胸の前で拳をぎゅっと握った。
隆翔は本心からそう伝えた。コンクールでは全国を争うライバル校同士だけど、互いに健闘を称え合うのは当たり前のことだった。
だからこそ、このあと梓の口から出た言葉には、思考が止まってしまうほどの衝撃を受けた。
「だから隆翔、もう、お互い会わないようにしようよ」
「────は?」
突然、隆翔に決別を言い下した。
「あ、梓……何言って──」
「私知ってるんだ。隆翔ってさ──付き合ってる人、いるでしょ」
身体中が冷水を被ったように冷たくなった。
別に秘密にしていた訳ではない。確かに知らせてはいなかったが、薄情ではあったかもしれない。それにしたって、だからもう会わないというのは、どこか解せない思いがあった。
梓のポニーテールが風に揺れる。
後頭部に持ってくると、その結び目を持ってするりと解いた。
「悔しいなぁ……私の方が、先に好きになったのに……」
風に靡く髪の奥で、梓は泣いていた。
どうすることもできない、遣る瀬無い思いを抱いて。
零れる涙を拭いながら、梓は「悔しい、悔しい」と嗚咽を漏らした。
隆翔は、ただ見守ることしかできなかった。
「この前、見ちゃったんだ……隆翔が駅で女の人と手繋いで歩いてるとこをね。あれは、隆翔の彼女さんなんだよね……?」
恐らく、三日前に海へ行く約束をした日のことを言っているのだろう。あの光景を見られていたなんて、隆翔は露ほども想像できなかった。
梓の問いに、隆翔は首を縦に振った。
「……いつから付き合ってたの?」
「去年の八月だよ」
「去年……そんなに前から。じゃあ、マーコンを観に来てくれた時も、私の祝勝会の時も、その時にはもういたってことだよね……」
隆翔が言葉を発するたびに、梓は絶望の色を濃くしていった。しかし、隆翔は隆翔で梓から寄せられていた好意に気付けなかったことに後悔の念を抱いていた。
二人での自主練習。その最中にも、好意を寄せられていたこと。今思えば心当たりがあることも含めて、隆翔は自分の至らなさに唇を噛み締めた。
「ごめん……俺、梓の想いに気付けなくて」
「謝らないで……お願いだから、これ以上私を惨めにしないでっ!」
「……っ!」
再びごめん、と漏れそうになった口を強く締める。
両手で顔を覆う梓の瞳からは、今も止めどなく涙が溢れている。
「なんで教えてくれなかったの?」
「言うタイミングがなかった。梓はずっと幼馴染みで、部長やってる梓には余計な情報かなって思ったから……でも、今にして思えば一言くらいあっても良かったって思ってる……だから、ごめん」
目を逸らすしかなかった。誰も悪くない。この場にいるのは振られた女と、振った男だけ。
次の瞬間、隆翔はシャツを掴まれた。
演奏で鍛えた梓の握力は想像以上に強く、ワイシャツのボタンが悲鳴を上げている。
「……っ! 嫌だ、嫌だよぉ……!」
何かを言おうとして、言葉にならなかったのか空虚な慟哭が隆翔の胸を揺らした。
薄い布地に涙が滲む。熱を持った梓の想いが堰を切って押し寄せている。
半袖からすらりと伸びる腕。僅かに小麦色に日焼けした跡が見える。日々、グラウンドで陽光を燦々と浴びながら己と闘ったその証拠だ。
いつの間にか、背の低かった幼馴染みはこんなに成長していたのだと思い知らされていた。
「私……っ」
声が震え、喉が詰まったようになりながら、梓は言葉を絞り出す。
「私の方がね……ずっと前から好きだったんだよ……」
「梓……」
「全国で金獲って、全部終わったら、隆翔に言おうと思ってたのに……全部無駄になっちゃった……」
嗚咽で言葉が途切れる。呼吸もまともにできないほど泣いて、声が震え、手や脚までも震えている。
縋る彼女の背中を摩ってやりたかった。
彼女の傷に手を当ててやりたかった。
梓の言う通り、もう、二人は会わない方がいいのかもしれない。
そうだ、きっとそうなのだ。
梓が隆翔を忘れることが、彼女自身の傷を癒すことに繋がる。
家族同士の交流は無くなるのは残念だけど、隆翔を目に入れる度に梓の傷が抉られるくらいならその方がいい。
梓のためなら、梓を捨てられる。
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥がすっと冷えた。
正しい判断だと、自分に言い聞かせようとした。
彼女は部長で、立華を率いる存在で、明日は本番だ。お互いに立場がある。ここで情に流れて何かを壊すくらいなら、距離を置いた方がいい。
それが彼女のためだと、そう思おうとした。
けれど──。
シャツを掴む梓の指先が、震えている。
力いっぱい縋りつくようでいて、どこか今にもほどけてしまいそうな弱さがあった。
「……隆翔」
名前を呼ばれる。
それだけで胸の奥が、きしりと音を立てた。
「私ね……ずっと、幼馴染みでいられればいいって思ってたわけじゃない」
梓は顔を上げなかった。
声は掠れて、夜気に溶けていく。
「一緒に練習して、笑って、他愛もない話をして……それが全部、前振りみたいだったなんて思わなかった」
隆翔は、何も言えなかった。
言葉を選ぶ余地すら与えられなかった。
「好きだったよ。ほんとに。……今も」
その一言が、決定打だった。
胸の奥に溜まっていた何かが、音もなく崩れ落ちる。
怒りでも、後悔でもない。
ただ、取り返しのつかないものが、確かにここで終わったという実感だけが残った。
「……ごめん」
それしか言えなかった。
梓を傷つけた事実も、知らなかった自分も、全部ひっくるめて。
「だから、もう会わないで」
梓は、ようやく顔を上げた。
泣き腫らした目で、でも真っ直ぐに隆翔を見た。
「これ以上、好きなままでいたら……いつか壊れちゃいそうだから」
その言葉は、拒絶であり、同時に懇願だった。
隆翔は、ゆっくりと梓の手を外した。
このままでは、彼女は前に進めない。
「……分かった」
声が、思った以上に低く響いた。
「梓がそうしたいなら……それでいい」
言った瞬間、胸の奥が鈍く痛んだ。
正しいはずの選択だが、正しいと思っているのは自分だけのような気がして、気持ち悪さが澱のように胸の奥に溜まっていった。
梓は一瞬だけ、驚いたような顔をした。
それから、小さく、ほんの一瞬だけ笑った。
「ありがとう……」
それが別れの言葉だと理解するのに、隆翔は骨を折った。
梓がいなくなった公園は、不気味なほどに静かな空間へと様変わりした。そして隆翔は、その場から動けずにいた。
さっきまで梓が掴んでいたシャツには皺が走り、第二ボタンが千切れかかっていた。
胸の奥に、ぽっかりと穴が空いたような感覚がある。
そのとき、ふと脳裏に譜面が浮かんだ。
──最終楽章、隆翔が任せられた、二十九小節目。
ずっと分からなかった。
どうして全ての音が揃って止んだあとに、あのソロがあったのか。
なぜ、納得できなかったのか。
なぜ、どう吹いてもしっくりこなかったのか。
「……ああ、こういうことか」
声にならない声が漏れた。
あれは、次の季節への希望なんかじゃない。
前に進むための音でもない。
失ったものを、失ったまま置いていく音だ。
取り戻せない関係。
選ばなかった未来。
もう戻れない、幼馴染みという距離。
隆翔はこの時、初めて理解した。
──どうしようもない、圧倒的な喪失感。
それを抱えたまま、それでも音を鳴らすためのリフレイン。
きっと作曲した戸川ヒデアキも、どうしようもなく振り返ってしまうような出来事があったに違いない。
次の
真っ暗なスマートフォンの画面に虚ろな顔が映った。
目を瞑ると希美の顔が浮かんでくる。
それと同時に、泣き崩れる梓の姿が重なる。
二つを選ぶことはできない。隆翔の中にあった天秤は、梓の方を掲げた。
選んだのは自分だ。だから背負うのも自分しかいない。
不思議と肩が軽かった。すべてが無機質に見えた。
カーブミラーに映る自分が、ひどく醜いものに見えた。
天秤を掲げる資格なんて無いのに、一丁前に取捨選択をした。
それでも、隆翔は歩くしかなかった。
──自分で選び取った、荒れ果てた道行きを。
【つづく】